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代行屋『ブラックドッグ』~偽善者は一人だけの英雄になりたい~  作者: 志摩ジュンヤ
第6節 我、彼を撃つべし。彼が我を撃つ前に
83/194

6-12

「おや。お気に召しませんでしたか?」


 朗らかに尋ねるシュウに対し、ハウンドの表情は不快を通り越しての無だ。


「そもそも頼んだ覚えがないんだが」


「仕方ありませんね。では別のモノにしましょうか」


 そう言って、シュウは侍らせていた少年を下げさせた。


 ハウンドが不快になったのは、その少年の顔が涙と鼻水まみれだったことでも、着ていたものが革ベルトのジョックストラップだけだったことでもない。


 その少年の顔が腫れあがり過ぎて、原形を留めていなかったからだ。


 暴行などという言葉すら生温い。瘤と瘤の切れ目で目鼻の位置を確認するほど腫れている。

 しかも常人ですら顔をしかめるレベルで体液と排泄物のニオイがする。それも一人二人ではない。


 辛うじて嗅ぎ分けた体臭と、少年の真横に立つウィルがぐしゃぐしゃに顔を歪めていることから、ホテルに監禁されていた少年の一人だと気付いたが、そうでなければまず気付けまい。


「どれにしましょうか。やはり同じ東アジア系がよろしいですか? それともここはオーソドックスに金髪碧眼? 年上でも構いませんよ。美少年から美男子、10から25歳まで、性格に至るまで厳選して取り揃えております。半年前から予約が埋まってるぐらいなんですよ?」


「私の好みは安心して寄りかかれる男だ。それができれば多少、口下手で無愛想でも、目つきが最悪でも、着てる服のレパートリーが二種類しかなくても、『取りあえず飯やっときゃ機嫌よくなる』みたいな超絶残念な気の利かせ方しかできなくてもいいんだよ。一生懸命なの知ってるから」


「うちにも見目のよい戦闘員はいますが」


「こっちが命令出さなきゃ動けないお人形なんて要らない。つまらない男は嫌いだ」


「なるほど? であれば、もうじき会えますよ。先ほど降伏勧告を行いましたから。彼が浅慮な方でないことを祈りましょう。若い女性に首を差し出すのも無粋ですので」


「ニコはここには来ないよ。兵士だからな」


「来ますとも。兵士になりそこなったから、『偽善者』になったのですから」


 そう言って、シュウは護衛と少年、ウィルを下げさせた。残ったのは双子だけだ。


 油断しているわけでも、こちらを軽んじているわけでもない。

 護衛はこの双子二人だけで事足りる、そう確信しているがゆえの行為だった。


 対するこちらは銃火器から無線機に至るまで、すべて剥ぎ取られている。絞殺の恐れからか、フライトジャケットとベルトまで奪われた。


「んで、あの会場のはなんだ?」


「と、言いますと?」


「顧客名簿だ。わざと残してあったろ。どういうつもりだ」


 そう返すと、シュウの切れ長の目元がすうっと弧を描いた。常人が見れば美男子の笑顔に他ならないが、ハウンドの鼻は騙されなかった。

 出会った当初から、この男は()()のだ。


「つもりも何も。女性にはサプライズが一番かと思いまして。選りすぐりをご用意したまでです。気に入っていただけましたか?」


「好色な趣味の悪いおっさんどもの名簿なんぞいるか」


「若い女性もいますが。それに、27番地は情報提供を生業にしていると伺っておりましたが」


 ハウンドは不快感をあらわにした。


 やはりか。


「お前と手を組めって?」


「悪い話ではないでしょう? 現在、特区の玉座は一つ空きつつある。ミチピシが親米派に回りましたからね。いずれは五大の名から外れることでしょう。そうなれば、椅子が一つ空く。『六番目の統治者(シックスルーラー)』の貴方にとって、願ってもない話では?」


「椅子は座り心地が良ければ良いほど、奪おうとする輩が現れる。私はいつ奪われるか分からない玉座より、奪われる心配のない裏路地の木箱がいい」


「富にも権力にも興味はない、と。噂通りのお方ですね。けど私と手を組めば、貴方の目的も達成しやすくなるのではないですか、ミス・サハル」


 血が沸騰する音が聞こえた気がした。全身が総毛立ち、筋肉が膨張する。革張りの肘置きが食い込んだ指で悲鳴を上げる。


 ハウンドの殺気に当てられ、背後の双子が獲物を抜く気配がしたが、構わなかった。


 その名を呼んでいいのは一人だけだ。

 この男に許した覚えはない。


「まあまあ、そう怒らず。見せたいものがあるんですよ」


 ハウンドの全力の殺気を目の当たりにしてなお、飄々と嘯いたシュウは手元の端末をいじった。


 応接室横の壁真ん中に切れ目ができ、分断された壁が両脇に吸い込まれていく。社長室と繋がった応接室で、シュウはおもむろに立ち上がった。


「先日、列車の話をさせていただきましたね。暴走列車を止め、何百人もの乗客を救うという『正義』を成すため、一人と五人、どちらを救うかという問いです」


 ハウンドは答えなかった。答えを求めての問いではないし、その意図にも気付いていた。


 忘れたくても忘れられないその問いを、ハウンドはよく知っている。


「実はこれ、『双頭の雄鹿』の口頭試験の一つなんですよ。そして答えは『どちらでもない』。理由、分かります?」


 無言。


「国家により有益な国民を残すこと、それこそがスタグの目的だからです。一人の太った男が一般人なら橋から突き落とせばいい。しかし太った男が国家に有益かつ不可欠な男なら、五人の作業員を轢き殺す。それが模範解答となります。――ご存じでしたよね?」


 無言。


「貴方はDHS再始動直後の『トゥアハデ』、その第一期生だ。初期の工作員(オペレーター)であれば、この問いは必ず知っているはず。改めて、現『トゥアハデ』の“銘あり”『地を這う王(キッホル)』として、お会いできて嬉しく思います。この私ですら、司令部直属の工作員を目にするのは初めてです」


 口を閉ざし続けるこちらに、シュウは眦を落とし苦笑した。


「そう警戒なさらないでください。私は貴方の味方ですよ?」


「……」


「困った方ですね。ミス・ヘルハウンド、貴方はスタグというものが、どういうものかご存じです?」


「…………現在の合衆国安全保障局(USSA)を形作った根幹だ。根っこと言ってもいい」


「そこまで掴まれてますか。良い線をいっていますが、50点ですね。逆ですよ。USSAが『双頭の雄鹿』そのものなんです。USSAは『双頭の雄鹿』のためだけに設立された組織、『双頭の雄鹿』の表向きの顔といってもいい」


 そう言って、シュウは壁一面に設営された巨大モニターに、一枚のタペストリーを投影した。

 ハウンドはそれも知っていた。


 題目は『我、主の天命を見伏せけり』。


 呆れ果てた傲慢と厚顔さだ。

 先住民とて、よもや自分たちが助けた漂流者が『自分たちは大いなる主神の天命を見定めた』と勝手に目覚め、自分たちを駆逐する簒奪者と化すなど、夢にも思わなかっただろう。


 こんなものをわざわざ手元に置くミチピシ一家の爺さんは、つくづく物好きだと思う。


「『赤毛のエイリーク親子』による新大陸の発見、クリストファー・コロンブスによる新大陸への上陸を経て、新大陸は天文学者アメリゴ・ヴェスプッチにより『アメリゲ』と名称され、現在のアメリカ大陸が人類史上に誕生しました。『双頭の雄鹿』はこのアメリカ大陸に()()に根付いた新人類です。巡礼(ピルグリム・)父祖(ファーザーズ)ではない。この未開の大地に初めて文明を持ち込み、後の世界大国となる国家を建設したのは、『双頭の雄鹿』だ。彼らこそ、アメリカ合衆国の偉大なる父であり、今日に至るまで影より国家を支え続けた偉大な母なのです」


「便利な言葉だな、『新人類』ってのは。略奪者ですら美化して正当化できる。――文明と学問はすでに先住民が持っていた。欧州と違ったアプローチではあったが、先住民はとうの昔に、独自の文明を形成し、『国家を必要としない共同体』をこの地に形成していた。新人類というなら、彼ら先住民こそ新人類と称すべきだろう」


「言語すら持たない未開人は、旧人類と定義されても仕方ないのでは?」


()()()()()()()()()()だけだ。言語を持たなければ旧人類と決めつけるのは、浅学菲才な人間のすることだ」


「相変わらずの先住民贔屓ですねぇ。祖国を思い出されましたか?」


 ハウンドは閉口した。

 迂闊に相手のペースに乗ってしまったほんの数秒前の自分に、舌打ちをしたい気分だった。


「『双頭の雄鹿』が国家のため、再び()舞台に立ったのは、ソ連のアフガニスタン侵攻直後のことです。中央情報局(CIA)に国家育成の役目を奪われてから早30年、途上国にて傀儡政権を樹立させては壊され、介入・干渉のワンパターンを続ける彼らを見ていられなくなったのでしょう。それはウォーターゲート事件で決定的となりました。当時のカーター政権はCIAの内部粛清を行い、合衆国の諜報力は急激に低下した。ソ連によるアフガニスタン侵攻は、『双頭の雄鹿』にとってCIAより実権を奪う絶好の機会だった。そういう意味で、彼らは貴方がたの献身に心より感謝していますよ。必要な犠牲でしたから」


 ハウンドは口を開かぬよう口腔の肉を噛み押さえた。肉が少し切れたが構わない。安っぽい挑発に乗るよりマシだ。


「冷戦終結してからというものの、合衆国は弱体化の一途を辿っている。5年前のリーマンショックから続く国内経済の低迷、広がり続ける格差、一向に収まることを知らない人種差別、国外派兵による財政圧迫など等。『世界の警察』と称された大国は今や見る影もない。アメリカはすでに超大国の座から転落しつつある。だからこそ『双頭の雄鹿』は、再び陰の立役者として、倒壊しかけの国家再構築を担うようになったわけです。――ゆえに、貴方に声をかけたのですよ。ミス・ヘルハウンド」


「……………………なぜ」


「貴方と私の目的が一致しているからですよ、ミス。結果的にね」


 シュウは組んだ手の上に顎を乗せ、にっこりとこちらを覗き込んだ。


「私は“銘あり”ですが、純潔の合衆国民ではありません。国籍こそ取得したものの、生まれは中国です。私の『トゥアハデ』におけるキャリアはこれまで。身のならない果樹に水をやり続けても仕方がないでしょう?」


「……」


「そう悪い話じゃないでしょう? 貴方の協力のもと、私は『七番目の統治者』となり、五大マフィアの座に参列します。貴方が嫌がる玉座にね。ある程度特区を掌中に収めたら、USSAこと『双頭の雄鹿』に特区を明け渡します。彼らを特区に招き入れたところで、貴方は目的を果たせばよい。それを、あの『五人』の兵士も望んでいるのでは?」


 今度こそ耐えきれなかった。


 シュウの眼球まであと一センチのところで、ハウンドの指先は止まった。

 左右から双子の短刀の切っ先が、首元を押さえている。皮膚に切れ込みが入って、ハウンドの首に半端な紅い首輪ができた。


 瞋恚のあまり、痛みは感じなかった。


「やはり、貴方は慈悲深い。祖国を蹂躙した侵略者に、そこまで情をかけますか」


 笑顔を一掃し、瞬きの合間だけ真顔を晒したシュウは、静かにそう呟いた。


「例のDVDならこちらにありますよ。()()()()は変わった癖がありまして、ご自分の手を煩わせた外敵の遺品の一部を手元に保管して収集するんですよ。だからこそ、こうして貴方の撒き餌に使われたわけですが。たしか……ファンキーニ兄弟の遺品でしたね。そこのと同じ、双子の兵士」


 ハウンドは、ゆっくりと、手を下げた。


 やめだ、やめ。目潰し如きでは割に合わない。

 この”墓荒らし”には、あらん限りの苦痛を与えて殺さねば、気が済まない。


「私に協力していただけるのなら、私も貴方に協力いたしましょう。遺品もお返しいたします。お断りするというなら、それも結構。『トゥアハデ』の命に従い、貴方を抹殺するまでです。如何です? すべてを得るか、失うか。言っておきますが、失うのは貴方だけではありませんよ。彼らもです。そこのガキも含めてね」


 傷一つない長い指がパチリと鳴った。護衛に引きずられてきたウィルが床に投げ捨てられ、銃口が後頭部に突き付けられる。


 ウィルは耳を塞いで蹲りながら、「話が違う!」と泣き叫んだ。


「言うこと聞いたら、家に帰してくれるって言ったじゃないか……!」


「大枚をはたいて買い取った私の恩を忘れたガキの言い分など、聞く価値もないな。恨むなら自分を売り飛ばした両親を恨め」


 酷薄に吐き捨てたシュウは、慇懃な姿勢を崩さぬまま、冷え冷えとした声音で宣告する。


「どうか最善の選択を、ミス・サハル。それとも、またすべてを失いますか」


 すべて、と聞いて幾人のニオイが鼻腔をよぎった。


 いつも頭を撫でてくれた大きな掌、手の届かぬ高みにあった広い背。飛びついてもびくともしなかった強靭な脚。

 その体熱と、筋肉の硬さと、血潮のニオイ。


 ハウンドは沈黙した。


 緊張していた筋肉が徐々に弛緩し、再び椅子に戻った。


「賢明なご決断です。ミス・サハル」


 喜色満面に頷くシュウに、ハウンドは静かに口を開く。


「――先ほどの暴走列車の問いだが」


「はい」


「あれは模範解答ではない」


「……はい?」


 シュウの柳眉に歪みが生じた。だがハウンドは、それすら眼中になかった。


「お前が言ったのは、あくまで『双頭の雄鹿』に属する者の模範解答だ。私たちは違う。私たちはただの狗。猟犬だ。猟犬の回答は、そうではない」


「……では、どのように?」


「すべてだ」


「すべて?」


「そうだ」


 ハウンドはゆっくりと、わらった。


 なにに対するわらいかは分からない。だが目の前に喰い殺すべき獲物がいて、それに一切の躊躇も考慮も要らないのは、素直に嬉しかった。


 殺せばいいのだ。殺していいのだ。


 いいだろう。そこまで呼ぶなら、久々に『あの子』に戻ってやろうじゃないか。


「回答はこうだ。暴走列車を爆破し、太った男も五人の作業員も全員射殺する。目撃者は抹殺が原則だ。爆発の規模をデカくして、遺体ごとすべて吹き飛ばしてしまえばいい。こうすれば全員死ぬ。生き残った責を問われることもないし、罪悪感も抱かずに済む。むしろ、全員がテロリストの被害者として衆人は嘆き悲しんでくれることだろう。皆が平等に死に、平等に不幸になる。誰か一人が利を得ることも損をすることもない。最善の選択だとは思わないか?」


 今度はシュウが沈黙した。表情こそ無に保っているが、双眸が小刻みに揺れている。

 存外人間臭い男だと、ハウンドはおかしくなった。


 ハウンドは立ち上がった。

 突き付けられた双子の刃を無視したせいで、紅い首輪が繋がって滴った。


 やはり痛みは感じなかった。そういうふうに仕込まれた。


「…………驚きましたね。貴方ほどの破壊的な思考回路の人間は、14K (三合会派最大の犯罪組織)の掃除屋でもそうそういませんよ。貴方は未来のことを考えないので?」


「未来? 狗にあるのは『今』だけだ。未来も過去もあるものか。今この瞬間、喰い殺すべき相手がいれば喰い殺す。それだけが私らの仕事だ」


「狂犬ですね。話にならない」


「そうとも。お前らがそう育てた」


 ずいと一歩踏み出すと、短刀の切っ先がさらに首へと食い込み、微かに震えた。


 逡巡と狼狽の表れだった。命じられる前に殺してもよいのかという迷いと、刃に自ら突っ込んでいく者への脅威。

 体格・膂力ともに優る双子ですら、ハウンドの気迫に押されつつあった。


 だがハウンドは、そんなものは見ていなかった。


 目の前の獲物しか見ていなかった。


「今さら何を驚く。特区を掌中に収めるんだろう? 五大当主はこの程度で顔色一つ変えなかったぞ」


 シュウの顔に苛立ちと怒りが混じる。

 恐怖より競争心が勝るのはよいことだ。そうでなければ喰い甲斐がないというもの。


 またも一歩踏み出したハウンドに、とうとうシュウが立ち上がった。逃走の準備のためである。兇人の相手などしていられるかと、その目は語っていた。


 勝手なものだ。そう在れと望んだのは『トゥアハデ』だというのに。


「……馬鹿な真似は止めた方が身のためですよ。そこのガキを撃ち殺しても――」


「さっき、ニコが来るかどうかの話をしたな? どうもお前の勝ちらしいぞ」


 話を遮って言ってのけると、シュウは顔をしかめた。一体なんの話だと言いたげだった。


「察しの悪い男だな。賭けだよ、賭け。ニコがここへ来るか、来ないか。お前は来ると賭けた。だからほら、――来たぞ」


 ハウンドが指差すと、両脇に風が奔った。双子がシュウの元へ馳せ参じたのだ。と、同時に護衛が部屋になだれ込んでくる。


 一方のシュウは鋭く背後を振り返り、呆気にとられた。


 背後の壁一面に特殊強化ガラスがはられた窓には、何も映っていなかった。

 ただただ塗り潰されたような宵闇が広がっていた。


「はっ。ここにきてハッタリですか。悪足掻きも大概に――」


 瞬間。窓に白いものが映った。


 窓上部から舞い降りたそれは、四つ脚に四つの円形翼を持っていた。

 白いボディに室内灯を煌々と反射させた空陸両用ドローンは、その腹にいくつもの黒い房をつけていた。産卵直前のアメンボのように。


 ハウンドが言及したのはそれだった。卵の下部が、一瞬だけ窓に映ったのだ。

 人を殺傷するためだけに産み落とされた、殺人卵が。


 双子がシュウを抱えて右へ跳び、ハウンドはウィルを抱えて左へ跳んだ。

 ついでにデパドヴァの椅子を引き倒して盾にする。


 対して、窓前に立っていた護衛は間に合わなかった。


 卵が弾けた。


 瞬時にガラスに亀裂が奔り、転瞬。爆風で消し飛ぶ。


 粉々に砕けた破片が、散弾と化して四散する。


 爆炎が吹き荒れ、轟音が鎮まった頃には、室内は苦悶の呻きで満ちていた。


 ある者は両目に破片が刺さって絶叫し、ある者は震える血塗れの手で喉に刺さった破片に手を伸ばす。

 焼夷手榴弾も入っていたのだろう。護衛の一人が、焼け焦げたヘルメットを脱いだ拍子に、顔の皮膚がでろりと剥がれてしまった。


 対するハウンドたちは、護衛たちが肉盾となったおかげで命拾いした。夜風で流れて爆炎がすぐに霧散したのも幸いした。


 もっとも、それすら計算して、こうしたのだろう。


 こんな思い切ったことをやらかす奴は、一人しかいない。


「ほらな? やっぱり()()で来なかった」


 がらんどうになった窓から、人影が飛び込んだ。


 一回転して着地、起き上がり様に室内をフルオート射撃で薙ぎ払う。


 M16 小銃より銃声がやや高い。一見AK47かと思ったが、小口径の5.45x39mm弾を使用したAKS74か。

 しかも折り畳み式スケルトン銃床の空洞部に、応急セットが詰められ、止血帯で固定されている。


 その節操のなさにハウンドは苦笑した。

 スケルトン銃床を頬当て兼応急セットにするのは、アフガン侵攻時のソ連兵の専売特許だというのに。


 室内を一掃するその一瞬をついて、低姿勢の双子とシュウが部屋を飛び出した。


 代わってドアに銃口が数本現れる。

 その一瞬、わずかに覗いた身体の一部を、琥珀の双眸は見逃さなかった。


 削ぎ落すが如き狙撃が正鵠を穿つ。

 肩と腕を撃ち抜かれた護衛が体勢を崩した。うち半身を晒した護衛が顔を撃ち抜かれて転がる。


 それをフルオートの半秒でやってのけた。


「次から義足に無線仕込むのやめてね。耳割れるかと思った」


「すまん」


 耳奥に仕込んだ超小型骨伝導無線機を指差すと、ニコラスは素直に謝った。

 その素直さに免じて、遠隔操作でミスったことをからかうのは止めておこう。


 当然のようにこちらを社長デスク陰に隠して、ニコラスは「これ」と前方から寸毫も目を逸らさず差し出した。


「道中、警備員が運んでたのかっぱらった。これがないと始まらないだろ」


 差し出されたフライトジャケットと愛銃――MTs255回転式散弾銃に、自然と顔がほころぶ。まったく、この男は。


「さすが私の助手」


「いいから前向け、来るぞ」


 ぶっきらぼうな返答に混じる、照れと動揺のニオイに、ハウンドはますます上機嫌になった。




 ***




 無事、ではないな。


 ニコラスはハウンドの首にある切り傷に臍を噛む。


 遅かった。


 待機ルームから持てるだけ武器を持ちだし、ジャックのドローンに仕掛けをつくり、ビル壁面の樹々や蔦を使って機をみて強襲する。

 可能な限り迅速かつ入念に準備して行ったが、それでも間に合わなかった。


 仕方のないことだし、負傷させたことを悔いたところで、ハウンドは呆れるか鼻で笑うだろう。「傷の一つや二つでなに悔やんでんの」と。

 それでもニコラスは後悔せずにはいられない。


 せっかく綺麗なのに。


『ニコラスッ、ニコラスッ、次()()何すればいい!?』


 鹵獲した通信機ごしにジャックの悲鳴が聞こえる。聞くからに恐慌状態だが、無理もない。

 元ろくでなしの迷惑爆弾魔とはいえ、自身の仕掛けた爆弾で実際に傷つく人を見るのは慣れていまい。


 ひとまず待機を命じると、次いでハウンドがひょっこり脇から顔を出す。


「んで、どうやって逃げんの? まさかそっから飛び降りろとか言わないよね。ここ80階よ?」


「そのまさかだ」


 見ればわかると返答し、ニコラスは社長デスクを障壁に撃ち返す。

 窓の外を覗き込んだハウンドは「おお」と納得した。


「これならいけるわ。ウィル坊や」


「えっ」


「捕まれ。飛ぶぞ」


「えっ!?」


 と、言うが早いが、ハウンドは飛んだらしい。ドップラー効果で消えていくウィルの悲鳴を聞きながら、ニコラスは胸中で激励しておく。


 少年よ、逞しく生きろ。


「っと、やべえ……!」


 弾倉を交換していたニコラスは、デスク向こうの扉脇に突き出る筒状のものを見るなり、回れ右をした。


 RPG-7だ。


 RPGが発射されるのと、ニコラスが飛び降りたのはほぼ同時だった。

 ロケット弾頭が頭上を掠め、噴射ジェットが髪を数本焦がす。


 虚空へ飛んでいくロケットを見送る間もなく、ニコラスは重力と引力に逆らって、必死に両手を伸ばした。

 木々の枝が鞭となして全身を滅多打ちにする。うち垂れ下がっていたアイビーの蔦を掴んだ。


 摩擦で皮膚が擦り剝ける。ニコラスは足も絡め、何とか勢いを殺そうと踏ん張った。


 が、蔦が切れた。


 ニコラスは真っ逆さまに地面へ――落ちる前に噴水に着水した。


 屋上から流れ落ちる滝のいきつく先である。社長室は、この滝壺の数階真上に位置していたのだ。

 落差10階分ゆえそのまま落ちたらひとたまりもないが、蔦のお陰で助かった。


 淵を掴んで全身を水から引き上げ、何とか一息つく。


「お~いニコラス~、生きてる~?」


 ずぶ濡れのハウンドにツンツンと頬を突かれ、辛うじて「まあな」と虚勢を張る。


 取りあえず、二度とやらん。


 そう思っていた矢先、ニコラスの眼前を、水柱の弾痕が線路上に連立した。

 上階では下を指差し怒鳴る双子の姿が見える。下階にいた部隊を70階に回したのか、包囲網形成が異常に早い。


 ニコラスたちは息絶え絶えのウィルを抱え、閉じ切っていない包囲網の口方角へ逃げ込んだ。


「ヘイ、ポリスマン!」


「はいはい、警官(ポリスマン)が迎えに来ました、よっ!」


 ハウンドへ律義にそう返したケータは、超小型電動車を急旋回させた。警備員の移動・運送用のを拝借したものだ。


 ウィルを車内へ押し込んだニコラスたちは、車体横に掴まった。


 電動車が急発進――したのだが、遅い。2人乗りの超小型EV車に5人は流石に定員オーバーか。


 視界端の柱が抉れ、粉砕されたコンクリートが白煙と化す。モルタル壁に銃痕の鎖が何条も奔る。

 追手はすでに通路後方50メートル以内にまで迫っていた。


「ちょっと、もっとスピード出ないの!?」


「これで最大だよっ、無茶言うな!」


 ハウンドに返すのは泣き言だが、蛇行運転で敵の射線を躱すハンドル捌きで何とか健闘している。そんなケータの真横から、眼鏡をずり落としたウィルが「……見せて」とタッチパネルに手を伸ばした。


 認証画面を表示し、直接入力でパスコードを入力して自動運転から主導に切り換え、速度制限を解除する。


「……これならいける、はず」


「よし来た!」


 ケータがアクセルを踏み込み、電動車が一瞬沈み込んで、急加速する。


 はずみでルーフに登ろうとしていたハウンドが転がり落ちそうになり、ニコラスは慌てて支えた。


「……ハンドル握ると人格変わる人間っているよね、ほんと」


「ああ、全くだ」


 悪態をつくハウンドをルーフに押し上げ、ニコラスはフルオートで弾をばらまいた。なるべく壁や床に着弾させて、跳弾や四散する破片を散弾がわりに、敵を足止めする。


 対するハウンドはといえば、もっと直接的な方法に出た。


 スナップインでシリンダーをはめ、片膝姿勢で構えたハウンドは、やや下向きに発砲した。


 弾丸が床で弾け、四方八方に幾重の火花が開花する。


 落ちた流星が星屑を散らしているようで美しいが、星屑の正体はマグネシウム片だ。もちろん美しいだけの代物ではない。

 竜の息吹(ドラゴンブレス)と名付けられる弾だけに、その燃焼力は凄まじい。



 散った火花がタイル床で跳ね、敵目がけて滑走していく。

 燃え盛るマグネシウム片を脚に食らい、敵は即興のタップダンスを踊る羽目になった。そこにスプリンクラーの冷や水が浴びせられる。


「このまま振り切れ!」


「あいよっ」


「ハウンド、脱出経路は予定通りでいいか!?」


 ニコラスが怒鳴るとハウンドも「ああ」と叫んだ。


「そこのスロープに入れ! 行き先は65階中央ホール!」


「なんでそこ!?」


「メインシャフトだ! ホール裏の柱にケーブル配管が通ってる!」


 メインシャフトとは、このビルの弱電系主要シャフトのことだ。各フロアの各フロアの無線LANや電源、電話線などが配置される。


 そしてこのシャフトには、点検のため5階ごとにシャフト内蔵の柱に開口部が設置されている。


 ニコラスたちが脱出経路に指定したのはそのためである。

 ここを降下して地下へ潜り、洞道ケーブル配管を通って地上に出る。地上の指定座標では、すでに27番地小隊が待機済みだ。


 車両がスロープへ突入した。小洒落た銀灰色の絨毯に容赦のない轍が刻まれる。


 スロープはらせんを描いて下降しており、その両脇にオフィスルームが配置されていた。今どき流行りのユニバーサルデザインだ。


 ドリフトで三周回り、ケータは速度を落とした。


「もう大丈夫、だよな?」


「今のところはね」


 言葉と裏腹に、ハウンドはほうっと一息ついた。それを見たジャックとウィルが一気に脱力した。


 ニコラスもひとまず肩の力を抜く。人間気の張りっぱなしはできないものだ。時には緊張を解き、次に備えなければならない。


 いったんニコラスはハウンドとルーフに上がり、互いに前方と後方を監視防衛にあたった。へこまないかと心配したが、ハウンドが軽いせいか多少軋んだだけで済んだ。


「……これからどうするの?」


 蚊の鳴くような声音のウィルに、ハウンドは「逃げる」と即答した。


「今回の目的はお前らの奪還だ。そして目的は達成した。これ以上の長居は無用だ」


「じゃあシュウ・ハオ・シェンの悪事はどうするの?」


「お前、あそこに戻る気か?」


 じろりと睥睨されて、ジャックはふるふると首を振る。


 まだ蒼白なのは、先ほどの爆破映像が頭に焼き付いているからなのだろう。

 自分とて初陣の際、ストライカー装甲車の機銃で粉砕した民兵の顔を、いまだに忘れられない。


「…………なら、逃げた後、僕らどうしたらいいの?」


「知らん」


「えっ」


 それきり絶句して硬直するウィルに、ハウンドは至極面倒くさそうに胡坐に頬杖をついた。


「当たり前だろ。なんでお前らの行く末まで私が決めて導いてやんなきゃいけないんだ。んぐらい自分で考えろ。いつも周囲の大人が懇切丁寧に教えてくれると思うなよ。大体お前ら、責任を自分で取らなきゃいけない立場だろ」


 ぴしゃりと跳ね除けられて、少年らは困惑した様だった。気まずくも話しかけるのを躊躇われる沈黙が続いた。ケータが落ち着かない様子でハンドルを指で叩く音がする。


 ニコラスもまた、空弾倉に弾を詰めながら、無言に耳を傾けた。


 ジャックもウィルも、そして自分も、罪を犯した。

 大人であろうと、子供であろうと、罪は自ら背負い、自ら償わねばならない。


 そしてそれは、許されるとは限らない。

 許すかどうかの権利は被害者だけが持つものだ。罪人(じぶんたち)にはない。


 贖罪はしょせん、咎人の自己満足にすぎない。


「………………結局、『夢』ってなんだろ」


 そう零したのは、ジャックだった。サイドミラーに映る俯いた横顔は、途方に暮れる迷子の顔だった。


「オレが責任取るってなったら、やっぱり父さんと話しなきゃいけない、んだと思う。もう顔も見たくないけど。けどオレは父さんが応援してくれた夢に憧れて、けど父さんはそれを否定して。それがショックで悲しくてグレまくって。……けど結局、どっちが悪かったんだろ。やっぱあんな夢に憧れたオレが悪かったのかな」


「…………僕も」


 ウィルもまた項垂れた。こちらは捨てられた子犬のような顔をしていた。


「……僕は、パパとママが喜んでくれるいい子になるのが夢だった。二人の役に立ちたかった。シュウさんの手伝いをすれば報酬がもらえる。お金がいっぱいもらえたら、パパとママは喜んでくれる」


「だから他のガキ売っ払ったって? 碌でもない親だな」


 ハウンドのストレート過ぎる返答に、ケータが非難がましく睨むが、反論はしなかった。


 しばらくして、ウィルが「そうかも」と呟いた。嗚咽ともとれる震え声だった。


「……シュウさんが言った通り、パパとママは、僕を売ったんだ。けど、僕は……僕は、それでも、二人に笑ってほしくて。二人が誇ってくれるいい子になりたくて。それが夢だったのに」


 結局、僕は二人の夢になれなかったんだ。


 静かにすすり泣く声が聞こえた。声はやがて二つに増えて、ニコラスはどう声をかけたものかと悩んだ。


 すると、そこに。


「あのさ。夢って他人のためにあるもんなの?」


 あっけらかんと問うハウンドに、少年らは濡れた顔でポカンと口を開けた。


 しかしハウンドは、心底怪訝そうに小首を傾げて、遠慮なく踏みこんだ。


「夢ってのは、願望する本人自身が想い描く祈りそのものだろ。『こうありますように』とか『こうなれますように』とか。お前らのはそれは、親に喜んでほしいんじゃなくて、単に親に愛されたかっただけだろ、違うか?」


「それは……」


「そう……だけど」


 視線をあちこちに飛ばして決まる悪げに俯く少年らに、ハウンドは苛立たしげに腕を組む。


「ならそれはお前の夢だ。お前らがお前らだけに捧げた祈りだ。ほいほい他人に渡すな。大体さ、妻を救えなかった後悔を息子に八つ当たりする親とか、金欲しさに息子をマフィアもどきの元に出稼ぎにやる親とか、そんな奴らのためにお前ら祈るの? そこまでして尽くす甲斐のある親か? 世の中それなりにマシな大人は一応いるぞ。滅多に会えないけど」


「一応って」


「……けど」


 がっくり項垂れるジャックと裏腹に、ウィルはおずおずと意見を述べた。


「……僕みたいなのが、僕のためだけに祈ってもいいの? 取り返しのつかないことした悪い子でも……?」


「祈るだけなら自由さ。どんなに罪深い咎人だろうと、処刑前に祈ることだけは許される。古代より変わらぬ万人に許された特権だよ」


 手元が止まった。弾倉と弾を握りしめ、ニコラスは呼吸すら止めていた。

 何気なく放られた言葉が、何にも得難い尊き宣誓に聞こえた。


 ハウンドはさらに、


「そもそもさ、夢ってそんな重要なもんか?」


 と嘆息した。内奥に高まる激情の圧を、下げるように。


「夢なんてなくったって生きられるだろ。途上国のガキ見てみろ。日々の生活するだけで精一杯で、夢やら将来やら考える余裕なんてない。それを先進国の大人どもは勝手に不幸だと決めつけて憐れむが、夢のないガキはそんなに憐れか? それでもガキどもは一生懸命に生きてるじゃないか。夢がないガキは、夢のあるガキより価値がないとでも? 違うだろ」


 ニコラスは握りしめた5.45x39mm弾の弾頭を親指でなぞりながら、真摯に耳を傾けた。


 大人たちが勝手に引き起こした、幾重の罪業と惨禍にもまれ続けた、かつての子供が今、真後ろにいる。


 それは静かな憤怒の叫びであり、それでも失うことのなかった、誇り高き声明だった。


 この理不尽に満ちた不合理な世界に向けての、宣戦布告だった。


「夢なんて所詮、生きるための手段の一つだよ。なきゃならないなんてことはない。あれば多少、人生が充実するのかもしれないが、その程度だ。夢がないなら他に充実できるものを探せばいい。それだけのことだ。今日を一生懸命生きれば、それでいいんだよ。人間いつ死ぬか分からないんだから」


「青天から稲妻」ということわざが、これほどはまる表情もないだろうと思った。

 少年二人は、ハウンドの言葉に目を見開いて顔を見合わせた。


「いいの?」


「……夢、なくても」


「いいだろ別に。夢がなくったって、死にはしない。ってことで――」


 ハウンドはルーフから、ぴょんと飛び降りた。いつの間にか、目的の階に到着していたらしい。


「ひとまず、今をなんとか頑張って生き残ろうじゃないの、諸君」


 そう笑って振り返るハウンドに、ジャックとウィルは顔を見合わせ、泣き笑いに似た笑みを浮かべた。ケータがほっと一息をつく。


 ニコラスは無言で彼女の背を追った。心の内にある、微かな寂寥を隠して。


――祈るだけなら自由、か。


 自分のために捧げる祈りは許されている。なら他人のために捧げる祈りは、ただの利己主義なのだろうか。


 自分は自分のために祈ろうとは思わない。祈れない。

 そんな価値など、微塵も感じていない。


 自分のせいで、親友も部下も死んだのだから。


 偽善者に利己主義者か。我ながらつくづく度し難い。


 そう思って、シャフト内蔵柱の開口部前にしゃがみこむハウンドの傍に、膝をつく。

 と、突如面を上げたハウンドと、至近距離で目が合った。


「ま~た何か考えてるでしょ、願望機くん」


「……なんだそれ」


 動揺を押し殺して言うと、ハウンドは「ニコの新ニックネーム」と皮肉気に肩眉を跳ね上げた。


「だってニコ、いっつも他人のことばっかだもん」


 お前がそれを言うか、と思った。他人の代わりに願いを叶える『代行屋』を生業にしているお前が。


 不平が顔に出たのだろう。ハウンドは苦笑して手元に目線を戻した。


 開口部をこじ開けつつ、ふと。


「ニコ、今履いてるそのスラックス、店長のおさがりだよね?」


 唐突な発言にニコラスは戸惑った。いきなり何を言い出すのか。


 自身のスラックスに目を落とす。


 昔のを仕立て直したと語ってくれた店長のスラックスは、光沢のある漆黒の生地に、目を凝らすと紺の格子とストライプの変化織りが入っている。それがまるで新月の夜凪のようで、ニコラスは大いに気に入っていて、毎日のように履いていた。


「それさ、実はお下がりじゃなくて、店長が昔から持ってた生地で仕立てたやつでさ」


「はあ」


「んでその布がね、モクソンのやつなのよ。イギリスの老舗メーカーで、創業四百周年記念の時だけ特別製造された特注品でさ、当時の額で三万ドルだったかな。布だけでね」


「……はあ!?」


 目を剥いて振り向くと、ハウンドは「驚きでしょ~?」と悪戯っぽく笑った。


「丈夫で動きやすくて全然しわにならない。しかも綺麗。さすがコレクターがいるレベルの高級品は違うよね~。店長ヴィンテージものに目がないからさ。――んでさ、そんな大事なやつ、ぽっと出の奴にやると思う? しかも手ずから仕立ててまでさ」


 ニコラスは返答に窮した。するとハウンドは、ますます笑みを深めた。


「ニコはまるで自覚ないみたいだけど、私も住民もお前のこと、ちゃ~んと見てるのよ? 私は3年統治者やってるけど、面倒くさがりのクロードが片足でも使えるようバイク改造してんの見たの初めてだし、あのおませなルカたち少年団が新参者の大人に素直に従うなんて、思ってもみなかった。全部ぜんぶ、ニコが原因なんだよ?」


 そう語るハウンドの横顔を、ニコラスはただただ呆然と見入っていた。


 二度と許されないと思っていた。それでいいと思っていた。


 けれど。


「『過去の罪は、今日悪いことをしていい理由にならない』。これは受け売りだけどさ」


 こちらを見上げたハウンドは、ニッと笑った。いつもの胡散臭い笑みではない、あどけない無垢な笑顔だった。


「どんなぬ不格好で惨めでも、私たちは今日を善くあろうと藻掻くニコが好きだよ」


 心臓が跳ねるとはこのとこか。ニコラスは必死に真顔を保とうとして、失敗した。

 主語は「私たち」だと分かっているのに、「好き」という単語ばかりが頭の中をぐるぐる飛び回って、ニコラスはこのままシャフト内に頭から突っ込みたくなった。


「おやおや~? 顔がにやけておりますなぁ~」


「ロープとカラビナ取ってくる」


 そう言って、ニコラスはさっさと踵を返した。


 言っておくが、逃げたのではない。断じて。


「ロープならここにあるぞー」


「届けにいこうか?」


 電動車の窓からニヤニヤとこちらを見守るケータとジャックに、ニコラスはイラっときた。さっきの戦闘じゃ始終オロオロしてたくせに、こいつらめ。


 ニコラスは足音荒くロープを奪い取った。




***




 数分後。

 ハウンドが開口部をこじ開けるのに成功した。ようやくこのビルともおさらばだ。


「よし、んじゃ私が最初に降りるから――」


 激震。轟音。


 縦横双方の揺れに襲われ、ニコラスは思わず膝をついた。


「地震か!?」


「なに、なに、なに!? 何が起こってるの!?」


 ケータとジャックが叫んだ直後、ひゅおっ、と何かが吸い込む音がした。


 ニコラスは振り返り、その音の出所に目を止めて叫んだ。


「逃げろハウンド!!」


 弾かれたようにハウンドが横へ跳んだ。


 直後、開口部から爆炎が噴き出した。

 爆轟と共に、火炎がホールを蹂躙する。あたかも火龍が暴れ回っているかのような様に、ニコラスは伏せたまま、何度も相棒の名を呼んだ。


「ここだ! 生きてる!」


 真っ黒に煤けた柱の影から、細腕が上がる。まだ燻ぶるカーペットを突っ切って駆け寄り、すぐさま身体チェックをする。


 頭部、手足、胴体、どこも焼け焦げていない。ほぼ無傷だ。

 ニコラスは一気に脱力した。


「今の、バックドラフト現象?」


「ああ。たぶんシャフト内を爆破――」


「おい二人とも、今すぐ来てくれ!」


 叫んだケータの声は明らかに震えていて、ニコラスたちはすぐさま窓辺に駆け寄った。そして言葉を失った。


 地上が、火の海に包まれている。


 1階から3階にかけて窓という窓から炎が噴き出し、何条もの黒煙が上がっている。火焔の中でチカチカ瞬くのは、パトカーや消防車の赤色灯だろうか。

 辛うじて火から逃れた人々は地に倒れ伏したまま。その真横でトラックや報道車両が、幼児が散らかしたミニカーの如く横転している。


 唯一動くものがあるとすれば、デンロン社敷地外に集まっていた野次馬、それ以外は蠢く火焔と立ち上る黒煙だけだった。


「……こりゃ驚いたね~。自爆装置付きのビルとは」


「それどころじゃないぞ。これじゃ退路が――」


 刹那。


 窓が消えた。否、一瞬にして砕け、飛散した。


 突然支えを失い、ジャックが宙に投げ出される。悲鳴を上げる間もなかった。転落しかけたその足に、ケータとハウンドが飛びついた。


「――ひっ……!」


「下みるなジャック!」


「動くなよ、絶対に動くなよ!?」


 掛け声とともに、二人がジャックを引き上げる。その都度、散乱したガラス片が零れ落ち、ジャックのすぐ脇を嘲弄するように落下していく。


 何が。何が起こった――?


「……ぐっ……」


 ハッとして振り返る。ウィルが蹲っている。肩を押さえる指の隙間から、緋色の糸筋が何本も奔っていて。


「散れッ!」


 鬼気迫るニコラスの怒声に、ハウンドだけが反応した。


 ニコラスはウィルを、ハウンドはケータとジャックの襟首を引っ掴み、柱の陰に飛び込んだ。


 直後、着弾。


 カーペットが焼き千切れ、大理石の床が抉れる。


 嘘だろ。

 ニコラスの背に、冷や汗が伝った。


 12.7x99mm弾。大きさはコーヒー缶に匹敵し、その分類は重機関銃か対物ライフルに属する。

 元来、ヘリや軽装甲車両の撃破に使用され、「人道に悖る」ため対物ライフルによる人への狙撃は、ハーグ陸戦条約で禁じられている。


 だがここが、戦場ならば。

 人道に悖る事象が常態化され、道徳倫理が奇異と見なされる異常地帯であれば。


 使わぬ道理など、ない。


「っ、負傷者一名! ウィルがやられた!」


「狙撃か!?」


「違う!」


 向かいの柱のハウンドに怒鳴り返しながら、ニコラスはウィルの手を剥がして傷口を確認する。数本の裂傷から血が噴き出している。


 ということは、これはウィルを狙ったものではない。直撃していればこの程度では済まない。


 これは()()()衝撃波による傷だ。


 対物ライフルによる超長距離狙撃。有効射程はゆうに一キロを超える。音が反響しやすい都市部において、銃声からの発射位置特定はまず不可能。


 着弾というより、弾着に近い轟音が、内装を文字通り抉り取っていく。


 窓が次々に消し飛び、千切れ飛んだカーペット片が衝撃波でさらに散り散りになっていく。

 頼みの綱の電動車も、一発でエンジンブロックを穿たれ沈黙した。


「ハウンド、奥だ、奥へ行け! こうなったらもう上に逃げるしかない!」


「分かってる! けどその前に、」


 轟音がハウンドの声を掻き消す。ハウンドとニコラスとが隠れる柱の距離は20メートル。その20メートルが、あまりに遠い。


「先に行け! ウィルの応急処置はした! 後から追いつく!」


「何か手立てあんの!?」


「ない! ないが――」


 ニコラスは着弾痕を見た。


 狙撃は基本、やたら滅多ら撃ったりしない。準備し、予測し、待ちに待って待ち構えて、一撃必殺で標的を仕留める。


 ゆえにこの狙撃は邪道だ。

 想定される敵の逃走経路にあえて弾をばらまき、移動手段を破壊して、退路を一点に絞って誘導する。


 この狙撃を、狙撃手を、俺は知っている。俺自身が学んだのだから。


「…………行ってくれ、必ず追いつく!」


 ハウンドは黙ってこちらを見つめた。漆黒で覆い隠したその双眸を、ニコラスは見つめ返す。


「――約束だぞ」


 そう言って、ハウンドはケータらを先頭に踵を返した。

 走り去る一瞬、一瞥が向いた。


 ぞわりと産毛が総毛だった。


――ハウンド……?


 案ずる目ではなかった。心残りでも、悲壮でもない。


 強いていうなら、激昂を辛うじて押し殺したような――。


 目前の柱への着弾で、現実に引き戻される。ニコラスは頭を振った。


 今は彼女のことを考えている余裕はない。まずは、


「……お久しぶりです」


 バートン教官。




 ***




 やはり、女は逃げたか。


 バートンは一番の標的をみすみす逃す羽目になったことに、腸が煮えくり返る思いだった。


 これだからUSSAは好かない。


 あの少女を射殺すれば、少なくともウェッブは助かる。数年は収容所に入れられることになるが、命を奪われることはない。もっとも彼は、決してそれを了承しないだろうが。


 一方バートンは、久方ぶりに高揚していた。


 ニコラス・ウェッブには数多の教え子の中で、最も抜きんでた狙撃手だった。非道かつ邪道ともとれる己の狙撃手法を、最も熱心に学んだのも、ウェッブだった。


 お前はどう出る? どう戦う?

 私が監視するこの戦場を、どう切り抜ける――?


 チキチキと調整ダイヤルを回しながら、バートンは十字線(レティクル)の向こうの一本の柱を注視した。


 さあ、ウェッブ。実戦の時間だ。




 ***




「『千里眼(チィェン・リィー・イェン)』、『群狼(ラゥンシィン)』の分断に成功。2頭がその場に、3頭が後退した模様」


「『(チュオチャァ)』は?」


「3頭の方です。現在、上階を目指して移動中」


 男を見捨てたか。合理的かつ冷徹な判断だ。


 鼻を鳴らしたシュウは、首から社員証を下げた通信士の報告を途中で切って告げる。


「『千里眼(チィェン・リィー・イェン )』に通達。標的2頭を抹殺せよ。全隊に重ねて通達、女は殺してはならん。これは厳命である」


「はっ」


 姿勢を正した通信士兼社員が人民解放軍式の回れ右で足早に立ち去る。

 社ではシュウが直接指揮する経営戦略チームであり、プライベートでは直属親衛隊である。


 その全員が中国人民解放軍出身者であり、それこそがシュウ最大の切り札だ。


 中国人民共和国国家情報法、第七条。

【いかなる組織及び国民も、法に基づき国家情報活動に対する支持、援助及び協力を行い、知り得た国家情報活動についての秘密を守らなければならない。国は、国家情報活動に対し支持、援助及び協力を行う個人及び組織を保護する。】


 欧米諸国で「国民を合法的スパイに仕立てている」とたびたび糾弾されてきたこの法が、シュウを護る最強の盾となる。


 諜報経験のある軍人を社員として派遣してもらえるのも、ロシア同盟国にのみ製造・運用が許可されている88式自動歩銃(AKS74)を保有しているのも、中華人民共和国という強大な後ろ盾があってこそ。


「『一番目(ディーイー)』、『二番目(ディーアー)』、客人を出迎えろ。手足を捥ぐもよし、犯すもよし。ただし、絶対に殺すな。いいな?」


 双子の大男は、無言で一礼して去っていった。それを忌々しげに見送る。


『トゥアハデ』より直接推薦された護衛ということで傍に置いているが、シュウは端からこの双子を信用していない。


 監視役であるのは明白だったし、何より得体が知れない。人民解放軍の諜報力を駆使しても、出自すら特定できなかった。


 外見も気に食わない。多少、東洋系の血が入っているようだが、褐色肌といい、縮れ毛の短髪といい、自分ら華人には程遠い。


 だが武勇だけは一級品だ。

 現在の三合会主流派閥「和勝和(ウォシンウロ)」、「新義安(サン・イー・オン)」、「14K(サップセーケー)」の紅棍(ホングワン)(戦闘部門幹部)ですら双子の足元にも及ばない。少なくとも、今回の狗狩りにおいては、その能力を遺憾なく発揮できるだろう。


――雌犬風情が。この私をこけにした罰をくれてやる。


 『双頭の雄鹿』からの命は、黒妖犬を生かして捕らえること。つまり、生きてさえいれば問題ないということだ。

 シャブ漬けにして精神が崩壊するまで回してやる。ガキどものように。


 不意にシュウは親指の爪を噛んでいることに気付いて、ハンカチでぬぐった。


 余裕がない時の悪い癖だ。

 自分はもう、福建省の片田舎で農民相手に児童を買い漁っていた頃とは違う。今や世界最大級の犯罪都市を牛耳る支配者の一人となった。一家という枠に囚われぬ、新たな闇の支配者に。


 だというのに、この底知れぬ焦燥はなんだ――?


「たかが小娘一人、なんだというのだ」


 シュウは爪を噛みたい衝動を抑えながら、モニターの中を駆ける真顔の少女を睨んだ。

次の投稿は5月19日です。

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