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代行屋『ブラックドッグ』~偽善者は一人だけの英雄になりたい~  作者: 志摩ジュンヤ
第6節 我、彼を撃つべし。彼が我を撃つ前に
79/194

6-8

「店長さん、お皿あらいおわりました!」


「ありがとう。ジェーンは本当に丁寧だね。助かるよ」


 店長に褒められたメイド少女は、俯きがちにもじもじとエプロンを握った。


 以前は「このくらいふつうです」だのなんだの言って否定していたのが、随分素直に感謝を受けとめるようになった。

 いじらしくはにかむ様子は大変愛らしいが、今の自分にはその余裕がない。


――なんで今日に限って客が多いんだ。開店前なのに。


 ケータは人知れず静かに息を吐いた。


 理由は分かっている。

 今年初で降った雪に子供たちがはしゃいでいる。雪遊びには、戻るべき暖かい部屋と温かな食事を出してくれる場所が不可欠だ。

 そういう意味で、ここのカフェは子供らの集合場所としてうってつけだろう。


 だが何も、今日集まらなくったっていいじゃないか。


 ケータは半ば八つ当たり気味にカウンター端にある二つの背を見た。


 ケータが来た当初から、ニコラスとハウンドはずっとあそこで頭を寄せ合って話し合っている。


 店長曰く、なかなかに厄介な案件を引き受けているらしいが、問題はそこではない。


 ニコラスに、人質に取られた祖父のことを相談しようと思ったのだ。


 話したところでどうにかなるとは思えない。

 何かは分からないが、何かとんでもないことに巻き込まれているような気がするのだ。


 ともかく、今は自分に起こった出来事をニコラスに相談するしかない。


 ハウンドは駄目だ。彼女の裏切者への制裁の苛烈さはよく知っている。

 自分はともかく、祖父まで巻き添えで殺されるのは何としてでも避けたい。


 だからこそ、口が堅く義理堅いニコラスを選んだ、のだが。


「お? ジェーン、これから?」


「はい。ハウンド、ニコラス。いってきます!」


「このままでいくのか? これからルカたちと雪合戦じゃないのか。せめてズボンぐらい履いた方が」


「手袋とマフラーしてるんだから大丈夫、大丈夫。子供は風の子だもん。ニコは心配性だね~」


「……マフラー結び直すぞ。こっちの方が緩みにくい」


「あ、ありがとうございますっ」


 ほんわかしたやり取りに、ケータはキュッと唇を噛み締める。


 は、話しかけづらい。


 さっきからずっとこの調子だ。子供たちがひっきりなしに二人の元へやってくるため、話しかけるタイミングを失している。


 こんな状況でニコラスだけ呼びつけたら、ハウンドに「何の話?」と首を突っ込まれること間違いなしだ。


 そもそも裏切者の自分の都合で子供たちと二人の憩いに水を差すこと自体、躊躇われる。

 ほんとどうしよう。


「ジェーン、まだー? もう行くよー!」


「あ、はいっ。いま行きます!」


 手を振るルカたち少年団の元に、ジェーンが慌てて駆け寄っていく。


 今度こそ、と立ち上がりかけたケータは、直後になった玄関の鈴の音に思い切りずっこけた。


「ただいま!」


 頬と鼻先を真っ赤に染めて戻ってきたのは、件の生意気問題児のジャックだ。

 両手いっぱいにパンパンの紙袋を抱えている。


 次はお前かよ。


 ケータが内心頭を抱える一方、店長はジャックの荷物に目を丸くした。


「どうしたんだい、これ」


「あ、えっと、その。クリスマスも近いんで、お菓子をちょっと」


「こんなに買ってきたのかい?」


「うん、じゃない。はい。もらった給料、結構多かったんで」


 ジャックは「どうぞ!」とカウンターに紙袋を置いた。


 勢いよく置いたせいでクッキーやらチョコレートやらが零れ落ちてしまい、ジャックは「あ」としゃがんで拾い始めた。

 次いで支えを失った紙袋が倒れかけて、慌てて両手で押さえている。


 何をやっているのか。


「えっと、このお菓子は君一人で食べるのかい?」


「あ、いやこれは皆にと思って……ジェーンとか。その、今日、少年団の皆が雪遊びするって話してたから」


 それを聞いた店長はますます目を見開いた。ケータも驚いた。


 あの爆弾魔で愉快犯のジャックが、自分の給料で子供たちのためにお菓子を買ってくるとは。


 ネットで他人の揚げ足取りばかりやっていた悪童が、これは大きな進歩だ。

 やっと改心したらしい。


 良かった、良かったと頷いていたケータは、背後でまずいと険相を構えるニコラスにも、冷たい真顔で見つめるハウンドにも気付かなかった。


 少年団の子供たちにも。


「あ、あの……」


 籠にお菓子をざらざら入れていたジャックは、おずおずとやってきたジェーンに、待っていたとばかりに顔を輝かせた。


「おはよ、ジェーン。良かったらこれ、どうぞ。オレからちょっと早めのクリスマスプレゼントだよ」


「あの、そのおかし。もしかしてもらったお金、ぜんぶ使っちゃったんですか……?」


「? うん。特区ってスナック一つでもバカ高いからさぁ。けどオレ、いつもジェーンに手伝ってもらってばっかだし。いつものお礼ってことで。ほら、――ジェーン?」


 真っ青な顔でフルフル首を振るジェーンに、ジャックは首を捻った。

 そして「あ」と狼狽えた。


「ご、ごめん。お菓子嫌いだった? 別のが良かった?」


「あ、いえ、そうじゃなくてっ。ダメですよ、こんなに買ってきちゃ。ちゃんと自分のお金も残さないと……!」


「うん? いや、オレお金なくても平気だし」


「――そういうところがお坊ちゃんなんだよ、お前は」


 やや高い声音は震えて軋み、その少年とは思えぬ憤激と気迫に、ケータは息を呑む。


 ルカは濃褐色の双眸に隠し切れぬ瞋恚を滾らせてジャックに詰め寄った。


「金がなくても平気? そうだよなぁ、お前は困ったことないもんな。親は必ず飯食わせてくれるし、酒やドラッグ代のためにスリさせたりしないもんな。気に食わないことあっても殴ったり蹴ったりしないし、人のもん勝手に売っぱらったりしないもんな。いいよなぁ、恵まれた奴はさ。頭ん中、花畑でできてんの? なにそのお菓子、僕らへの施し? ふざけてんの?」


「なっ、」


 ジャックが瞬時に蒼褪めた。

 いけない、と思ってケータは立ち上がるが、ジャックが噛みつき返す方が早かった。


「違う! オレはそんなんじゃ」


「違う? 何が違うのさ。金の使い方も僕らの苦労もまったく知らないくせに。白々しいんだよ、お前。そうやってボランティアまがいのことやってれば、これまでやってきたことがチャラになるとか思ってるわけ? そんなに償いたいんならお得意のネットでやればいいじゃん。『迷惑かけてごめんなさい』の動画でも上げれば? なんでしないわけ? 身バレすんのが怖いからだろ。自分がこれまで散々やってきたことだもんなぁ」


「っ」


「僕ら確かに学もないし頭も悪いけどさぁ、利用されてるってぐらいわかるんだよ。償う自分に酔うのは結構だけどさぁ……! そんなに贖罪ごっこがやりたきゃ他所でやれよ!」


 ルカが籠を跳ね飛ばし、床に散った菓子を踏み砕いた。


 ジャックが後ずさった。顔面はすでに灰色で、頭が真っ白になっているようだった。


 ケータは止めようと足を踏み出そうとしたが、縫い留められたように一歩も動かない。

 動けなかった。


 ルカの背後で、冷ややかな敵意と軽蔑の目で睨む少年団が、諦念と悲嘆に満ちた面持ちで黙りこくるニコラスが、それらを無感情に傍観するハウンドが、そうさせた。


 二人と自分、ルカたちとジャックとの間に、どうしようもなく埋められぬ溝があると悟って、動けなかった。


「温室育ちの甘ちゃんなのは結構だけどさぁ、お前の偽善プレイに僕らを巻き込まないでくれる? 迷惑なんだよ」


 それはトドメに見えた。外気以上に凍てついた沈黙が店内を支配し、息苦しかった。


「……………………………………そっか」


 それは俯いたジャックから漏れた。ぽつりと零れた声は、明らかにひび割れていて。


「ならさ、どうすればよかった?」


 あげられた顔は、もっとひび割れていた。


「謝罪の動画投稿なら()()だって考えたさ。けどボクが投稿したら、速攻で特定されるだろ? そしたら父さんの会社もバレるじゃん」


「はあ? んなの、お前の自業自得だろ。責任取れば?」


「責任? 会社が潰れて、何百人って社員がリストラされて、それがボク一人の命でどうにかなるの?」


「知らないよ、んなもん。試しに首でも吊ってみれば?」


 明らかに言い過ぎな発言だった。


 ルカもそれを自覚したらしく、一瞬ばつが悪そうな顔をして、すぐさま挑発的な笑みにすり替えた。


「どうせそんな度胸もないだろう」と高をくくった、きっと蒼褪めて絶句して終わりだろうと、そんな。


 だから、相手の心を殺傷するのに極限まで特化したそんな言葉を、平気で投げた。

 投げてしまった。


「ああ、いい考えだね、それ! ボクが動画投稿した後に首つればいいんだ。『ボク一人で勘弁してくださいー』って、生中継で配信しようか。いいね、ありがとう!」


 今度はルカが凍りつく番だった。ケータは血の気が引いた。


 冗談で言っているのではない。

 友達にゲームの攻略法を聞いた子供のような、あどけない本心からの感謝だった。


「なんでこれまで考えなかったんだろ。ボクが首つったら父さんだけ道連れにできるじゃん。会社の人、巻き込まなくて済むじゃん。そうだ、そうだ。そうすればいいんだ。さっそく準備しよう!」


 ふふふ、と笑うジャックに、誰も近寄らない。

 あんなに敵意を煮え滾らせていた少年団すら、化け物を見るような顔で後ずさっている。


 ハウンドが小さくついた溜息が、やけに大きく聞こえた。


 ひとしきり笑って、ジャックはふと、だらりと脱力した。

 先ほどの笑いで、すべてのエネルギーを消費してしまった背は、酷く丸まって縮んでいた。


「…………あのさ。ボク自分が甘ったれなの分かってんだ。君らから見たら本当にゲロ甘なんだろうけど。けどさ、それがボクの世界のすべてだったんだよ」


「ジャクソン」


 静かに少年の名を呼んだ主に、ケータは弾かれたように顔をあげた。


 この状況で声をかけるその神経が分からなかった。

 声をかけたところで、一体なんと言えばいいというのか。


 だからケータは、一歩足を進めたニコラスを呆然と凝視した。


「これまでずっと、親とか先生とか社員さんとかが守ってくれてさ、自分の頭で考えたこともなくってさ。それなのに勝手にいじけて傷ついて絶望しちゃってさぁ。勝手にぶち切れて周りに迷惑かけまくって、ほんと笑っちゃうよね。ボクの絶望なんて、君らのに比べたら屁でもないはずなのに。けどさ、ボクにもあったよ、地獄。君らのと違ってすんげー下らないちっぽけなもんだったけど、ちゃん地獄だったよ」


「ジャクソン」


「だからちゃんと死ぬよ。ちゃんと消えてあげるよ。恵まれた世界で生きてきた甘ったれのガキなんて誰もいらないもんね。ボクの大したことない不幸なんて誰も見向きもしないもんね……! 皆みんな甘い甘いっていうけど、ボクにはこれが普通だったんだよっ! あの世界しか知らなかったんだよっ!!」


「ジャクソン!!」


 ニコラスの怒声で、ジャックは我に返った様だった。

 全身を竦めて恐々振り返る姿は、親に叱られた子供そのものだった。


「もう、いい」


 ニコラスの言葉に、ジャックはびくりと硬直した。

 眦から見る見るうちに雫がせり上がってきて、決壊した。


 声にならない嗚咽を手で塞いだジャックは、泣きながら店を飛び出していった。

 それをケータとルカたちは、唖然と見送った。


「……ニコ」


 ハウンドが腕を組んだまま、深く、長く嘆息した。


「迎えにいってやって。私じゃ、かける言葉が見つからない」

「分かった」


 短く快諾したニコラスは、ミリタリーコートを小脇に店を出ていった。


 店長が静かに床に落ちたお菓子を拾う。それを見たジェーンが慌ててならって拾い始める。

 止まった時が、再び動き始めた様だった。


 スツールから降り立ったハウンドは、煙草とライターを手に厨房へと足先を向けた。


 その途中、未だ凍りついたままのルカを振り返り。


「不幸自慢が通じなくて残念だったな、ルカ」


 それだけ告げて、厨房先の裏口へと立ち去っていった。

 完全に色を失したルカを置き去りにして。


 ケータはルカを前に狼狽えた。

 取りあえず「あの」と声をかけるが、何と言えばいいのか結局分からない。


「ごめん。その、なんて言えばいいか……」

「……んだよ」


 俯いた頭から漏れ出た声は、怒りと、それ以上の嘆きで震えていた。


「なんで僕が怒られんだ。これまでずっと一人で理不尽に耐えてきたのに。あいつには家族も家も金もあったじゃないか。あの程度の理不尽が何だって言うのさ。なんで、なんでっ、僕ばっかり……!」


 震えるルカを、ケータは黙って見下ろした。

 そしてその頭に、そっと手を乗せた。びくりと強張ったのが、掌越しに伝わった。


「ごめんな、駄目な大人ばっかの世界で。何もしてやれなくてごめんな」


 完全な自己満足の言葉だった。言ったところで自分以外の何も救われない。

 それでも、しないよりはマシだと思った。


 掌の下で震えが大きくなる。

 乾いた床にぼとぼと雫が落ちる様を、ケータは何も言えず見守るしかなかった。




 ***




――馬鹿だ。あんなこと言って、結局ただ泣き叫んだだけのガキじゃないか。


 ジャックは壁を背に、膝を抱え込んだ。

 尻と背の感覚が麻痺していくが、構わなかった。このまま雪みたいに溶けて消えてしまいたかった。


 他人の不幸に自分の不幸をぶつけて、一体自分は何がしたかったのか。


 ルカの指摘は正しい。なに一つ間違っていない。だから結局は自分が悪い。


 現実を真正面から突きつけられて、それに納得できず泣き喚く自分がお子様なのだ。


「――おい」


 かけられた声にびくりと肩を跳ね上げる。

 恐る恐る顔をあげれば、すぐそこにニコラスが立っていた。


 ニコラスが一歩踏み出した。

 ジャックは怒られる、と身体を硬直させたが、ニコラスは自分の隣に来ると、片膝を立てて地べたに腰を下ろした。


 無言。


「……何も言わないの?」


「言って欲しいのか」


 ジャックは慌てて首を振り、視線を彷徨わせた。


「その、オレ。ルカにもあなたにも酷いことしたから。どうして来てくれたんだろうって」


 途端、ニコラスがまじまじとこちらを見た。


「自覚あったのか」


「なっ!? そりゃオレだってそのぐらいの常識あるし……」


 言いかけた反論は尻すぼみになって、最後は口の中に消えていった。


 これが現実だ。


 自分は結局、ジャクソン・ラドクリフとしてではなく、ミチピシ領を混沌に貶めた爆弾魔なのだ。

 誹謗中傷を毒舌と勘違いしていた、ろくでなしユーチューバーの『ジャック・オー・ランタン』なのだ。


 そんな奴がその場しのぎに碌な謝罪もせず、不貞腐れて居直って、許されるはずがない。


 周囲がこれまで自分を責めなかったのは、許してくれたからではない。

 単純に、自分が手の施しようのないクソガキだと、さじを投げられただけだ。


 だから誰もボクを見なかった。見る価値もないと呆れられたからだ。


 ジャックは途端にこれまでの言動が恥ずかしくなってきた。


 自分のなんと浅はかで、どうしようもないことか。


 父親にぶつけられた言葉がショックで、自社の製品を犯罪の道具にして、なりふり構わず周囲に当たり散らして。


 現実の自分を見るのが嫌で逃げ回って、それを真っ向から図星を突いてきたルカに泣き喚いて逆切れして。


 こうして、また逃げて、今度は今すぐこの世から消えたいなんて思ってる。


 最初から最後まで、自分のことしか考えていない。


 そんな奴の価値を、一体誰が認めるというのか。


 ポン、と温かいものが頭を覆った。

 わしゃわしゃ乱暴に髪を掻き混ぜるニコラスに、ジャックはポカンとした。


 それを見たニコラスはすでに深い眉間のしわをさらに深くした。


「なんだ」


「いや……。ニコラスは、その、どうしてオレを追っかけてきたの?」


 オレ、悪い子なのに。


 ニコラスはこちらの頭から自分の頭に手を移すと、きまり悪げにぼりぼり掻いた。


「似てるからだな」


「似てる?」


「こないだ父親に『夢』を押しつけられたって言ってたろ。お前、夢が叶わなくてそれが悲しくて自暴自棄になってたんじゃないのか。だから父親に『夢』押しつけられたことにして、あんなこと言ったんじゃないか?」


 図星などというのも生温い、あまりに直球が過ぎる発言だった。

 胸に刺さった言葉は呼吸すら止め、すとんと腹に落ちておさまった。


 そうか。これまでずっと自分は、八つ当たりしていたのか。


 母と妹の死に耐えきれず、自分に八つ当たりした父親と同じように。

 やけっぱちに手当たり次第、手身近なものを傷つけ回っていたのか。


「……そうかも」


「そうか。俺も、夢を叶えられなくて自棄になったことがある」


 ジャックは思わず顔をあげた。

 そしてあげた先にあった直黒の銃口に「ひっ」とのけ反った。


「心配するな。弾は抜いてある。……持ってみろ」


 差し出された武骨で飾り気のない自動拳銃に、恐々と手を伸ばす。


 映画やアニメで散々見てきたそれは、片手では握れないほど大きく、両手で持ってなお重く冷たかった。


「意外と重いだろ。これが副装備(セカンダリー)だ。主武器(メイン)はもっと重い」


「………………うん」


「これが俺の『夢』だ」


 ジャックは不覚にもポカンと口を開けた。あまりに突拍子がなさ過ぎた。


 ニコラスの眦がやや下がり、口端がほんのわずかに上がった。

 この人ちゃんと笑うんだ、と失礼なことを思った。


「少し、長い話になる」


 『叶えてはならない夢』を夢見て、叶わなくて、自暴自棄になった。

 そんな馬鹿な男の話さ。


 そう前へ向き直ったニコラスの、寂しげな横顔をジャックはただただ見ていた。


「俺の生まれた街は本当にクソッタレなところでな。住民の大抵の大人はヤク中かアル中で、ガキは9歳で銃の扱い方とスリを覚えて、10で煙草を喫って、11でドラッグとセックスの味を知る。そんなところだ。堅気の仕事についてる奴の方が珍しい街だった。父親は知らない。顔も見たことなけりゃ、生きてるかどうかも知らない。母親はナイトクラブのストリップやりながら娼婦やって生計立ててた。職場は公共団地アパートの俺の家だ。だからともかく家に帰りたくなくてな」


 ジャックは言葉を失った。

 事実は小説より奇なり、なんて言葉を聞いたことはあるが、こんな形で知りたくはなかった。


 どう反応するのが正解かも分からなかった。


「俺は何も持ってなかった。親兄弟も友人も家もなにもかも、一般人がごく普通に持ってる人並みの幸せってやつを、俺は知らずに育った。生まれた時から俺は、空っぽのままだった。それが嫌でたまらなくてな。ともかく空っぽな自分が嫌で、この胸に空いちまったどデカい穴を何とか埋めようと必死だった。だがおかげで良い兵士にはなれた」


「兵士に?」


 思わず疑問を口にしたジャックに、ニコラスは「そうだ」と答えた。


「兵士に最も不要なものは人間性だ。『ともかく鈍感であれ』、それが戦場で生き残る最大の秘訣だ。現実を真正面から受け止めてはならない。盲目であれ、人道倫理は忘れろ、殺した奴のことは()()()()()()()()。考えるだけ無駄だからな。殺してでも手前の正義を押しつけるのが戦争だ。どれだけ取り繕おうが、殺した奴は生き返らない。そして、より効率よく、より多くの敵を殺戮するのが兵士の役目だ。ゆえにそれを邪魔する思考は必要ない」


 朗々と述べるニコラスの口調に淀みは一切なく、それゆえにジャックは恐ろしかった。

 いま言った言葉を、本気で信じているのだと悟って怖かった。


「そういう意味で俺はうってつけだった。最初から何もない、空っぽな人間だったからな。何もないから奪うことに躊躇がない。何も持ってないから、奪われる恐怖を知らない。それが俺の誇りだった」


「誇り?」


 ジャックは耳を疑った。

 空っぽなことの、どこが誇らしいというのか。ただただ寂しく虚しいだけではないか。


 そんなこちらの表情を察して、ニコラスは苦笑した。


「仕方ねえだろ。それ以外が俺にはねえんだから。なんでもいいから、誰かに必要とされる人間になりたかったんだよ。『良い兵士』になって、大勢の戦友助けて国の役に立つことが、俺の唯一の夢だった。実際、俺の教官もそう言ってたしな」


 『お前はもう兵士としてしか生きられない』ってな。


 そう言ったニコラスに、ジャックは絶句するしかなかった。


 そう語ったニコラスの顔が本当に誇らしげで、どこか嬉しげなのが、信じられなかった。


 そんなニコラスはふと、表情を無にした。夢から覚めたみたいに、さあっと。


「けど世の中そう上手くはいかねえもんでな。二回目の派兵の時に、幼馴染と再会しちまったんだ。それも最前線のイラクで」


 曰く、2003年の『イラクの自由作戦』の最中だったという。


「親友、だったと思う。俺と同郷の貧民街で育ったくせに、底抜けに陽気で人懐っこい奴でな。シングルマザーで兄弟も多かったからいつも大変そうだったが、本当に良い奴だったんだ。よく一人でほっつき歩いてる俺を夕飯に誘ったり、喧嘩してるといつも加勢してくれたりな。家族ぐるみで付き合ってくれた。けど、途中から辛くなってな。そいつに何も言わずに街を出た」


「……どうして?」


「自分が持ってないもん持ってる奴が目の前にいるとしんどいだろ?」


 ジャックは黙りこくった。


 分かる。ランシングのあの裏通りに行った日、路地の影から父親に肩車される幼子を見ている自分が、そうだった。


 羨ましい。妬ましい。腹立たしい。哀しい。

 どうしてあの子は持っていて、自分は持っていないのか。


 その「どうして」が分からなくて、分からないのが納得できなくて、ただただ胸が締め付けられて苦しかった。


「あいつは俺がどう足掻いても持てなくて、持つのも諦めたはずのもんを、全部持ってた。それがしんどくてさっぱり縁を切ることにした。どうせ俺は空っぽなんだ。俺には不相応なダチだったんだ。けどあいつは……あいつは俺を追っかけてついてきちまったんだよ。戦場にまで」


 握った両拳に額をつけるニコラスの顔は陰で見えない。


 ジャックは見えなくてよかったと思った。見たら、泣いてしまう気がした。


「嬉しくないと言えば嘘になる。なにせバスケ推薦で決まってた大学けってまで来てくれたんだ。奨学金までついてたのに。俺の街生まれの人間からしちゃ大出世のスターさ。皆の憧れの的だ。だから、とんでもねえことをしちまったと思ったんだ」


 自分のせいで、友人を巻き込んだ。


 何も持っていない空っぽの自分が、すべてを持っていた親友に、すべてを捨てさせてしまった。


「怖く、なったんだ。俺のせいでこいつが死んじまったらどうしようって。そしたら、これまで張りぼてだった敵が、急にちゃんとした人間に見えてきた。酔いから醒めたのさ。戦争っつー酔いからな。……おかしな話さ。俺は兵士が絶対に持っちゃいけねえ人間性を、戦場で初めて持ったんだ」


 皮肉だろ?


 そう嗤ったニコラスの拳に、爪が食い込んだ。

 今にも皮膚を食い破る勢いで震えていた。


 ジャックも知らず知らずのうちに、拳銃を力いっぱい握りしめていた。


「……それで、どうなったの」


「聞きたいか?」


 ジャックはしばし黙って、首を振った。結末を何となく察してしまった。


「……ごめんなさい」


 俯きがちに呟いた声に、返答はなかった。


 だからジャックはもう一度声を張り上げて、ちゃんと言った。目線は一瞬しか上げられなかったが。


「オレ、あなたのこと『偽善者』って言ったから。何も知らないのに勝手なこと言って、ごめんなさい」


 何も知らなかった。ニコラスの過去も、事情も。

 それなのに、世間が『偽善者』などと責め立てるから、それに便乗して自分も石を投げた。


 けれど、自分が石を投げた相手は、自分より遥かに過酷な境遇を必死に生き延びてきた人だった。


 ネットでは『偽善者』という悪役でしかなかった元兵士は、れっきとした一人の男性だった。

 それを今、ようやく理解した。


 遅すぎると自覚している。だが言わねばならないと思った。


「……いや、いい。俺も冤罪だと主張しなかったしな。そのせいで起訴が確定しちまったわけだが」


 後から教官に言われたよ、「お前は濡れ衣を着せられるために命懸けで戦ったのか」って。


 拳に食いこんでいた指を少し解いたニコラスに、ジャックはほっとした。


「どうして言わなかったの? やってなかったんでしょ」


「言ったろ。何もかもどうでもよくなったんだよ。俺のろくでもない夢は潰えた。あいつは遠くへいっちまった。残されたのはまた空っぽになった、兵士として役に立たなくなった自分だけさ」


 しんと静まり返るビルの谷間に、寒風が容赦なく吹き抜ける。


 目前で揺らめいていた雪が瞬時に吹き飛んで、刹那の合間、視界がクリアになった。

 視界いっぱいを覆うコンクリート壁をジャックはぼんやり眺めた。


 感覚のなくなった指で、なぜか拳銃を落とさぬよう必死に握り直して抱え込んだ。

 拳銃は氷の塊のように冷たかった。


「……オレにも夢、あったんだ。ニコラスと同じ、叶えちゃいけない夢」


 ジャックは自分の身の上を話した。


 父が褒めてくれるのが嬉しくてラジコン開発の真似事を始めたこと。

 母親のこと、妹のこと、二人が自分の我儘のせいで死んでしまったこと。


 ニコラスは黙っていた。

 無関心のようで、見放してはいないその距離感が、すこぶるありがたかった。


「なんでだろ。叶えちゃいけなかったって分かってるのに、どうしてこんなに哀しいのかな」


「……さあな」


 なんでだろうな。


 ニコラスの呟いた言葉が、ふわりと落ちて地面に消えた。


 ジャックは歪む視界の中で必死に瞬きした。

 悪い子の自分が、自業自得の代償をこうむって嘆くのは間違いだと思った。


「…………帰るか」


 そう呟いて、ニコラスは立たせてくれた。

 襟首を掴まれたのはちょっと不満だけど、帰ろうと言ってくれる人がいるのは、素直に嬉しかった。


「ねえ」


「なんだ」


 ジャックはニコラスの拳銃を両手で返しながら、一個だけ尋ねた。


「ニコラスはまだ、夢ある?」


 ニコラスの動きが一瞬だけぴたりと止まった。


「いや、俺はもういい」


「もう二度と夢もたないってこと? どうして」


「言ったろ。俺は空っぽなんだ。いつもいつも、胸に空いた大穴に何かを詰め込んで、何者かになった気になりたがる。なら、俺はこのままでいい。俺は、大事なもんを自分の空っぽを埋める道具にはしたくない」


 それは、大事なものがあると言っているような。


 なんだろう、とジャックは考えた。


 無口で無愛想で、何を考えているか分からない元軍人のおっかない男の人。

 そんな彼が大事にして止まない人とは、誰だろうか。


 ふとカフェの裏口に通じる道だと気付いて、今さらジャックは慌て始めた。


 店にはまだルカがいるかもしれない。どの面ひっ提げて会えばいいのだろう。


「何やってんだ。早く戻るぞ」


「え、いや。あのさ……ルカ、まだいる?」


 ニコラスはああと納得した顔をすると、


「ちょっとちょっとちょっと引っ張んないでっ、襟のびる!」


「いいから腹くくれ。どうせいつかは顔合わせるんだから」


「せめて心の準備させて!」


「却下だ」


 一ミリの遠慮もなくジャックを引きずるニコラスに必死の抵抗を見せるが、まるで効果がない。なんて馬鹿力。


「あーもうっ、オレは他人よりずっと臆病で繊細なんだよ! いつもは強がってるけど心はガラスなのっ! そんな人間にんなスパルタなこと求めないでよ!」


「はっ、そいつが分かってりゃ上出来だ。それに……まあそうだな。もし、」


 そう区切られた言葉に、ジャックは思わず顔をあげた。

 ニコラスの目は、真っ直ぐに遠くを、じっと見据えていた。


「もし、お前が許されたいのなら、そいつは行動で示すしかないだろうな」


「行動って……何すればいいの」


「それは自分で考えろ」


 なんだよそれ。


 こっちは店で待ち構えているであろうルカを、どうやって避ければいいか考えるだけで必死だというのに。けど、


――行動で示せ、かぁ……。


 何をすればルカは許してくれるのか、見当もつかない。気持ちも分からない。

 境遇も経験も価値観も、自分とは何もかもが違う。


 何より自分は悪い子だ。ミチピシであんなことをした爆弾魔ではた迷惑なユーチューバーだ。


 たぶんもう、分かり合えない。


 けれど、もし仮に、彼が自分を羨ましい妬ましいと思っていたのなら。


 その気持ちだけは分かる気がする。


 不意に、引きずられるのが止まった。

 手を放されて尻もちをつく前にジャックが自立すると、雪に混じって白煙が漂っているのに気付いた。


「お帰り~」


 煙草を指先に挟んだハウンドが、紫煙交じりの白い吐息をこぼした。

 その黒髪には、少なくはない雪が降り積もっていた。


 ジャックは泣きそうになった。


 帰ろうと言ってくれる人がいて、帰りを待っていてくれる人がいる。


 それは家族が壊れてしまったあの日から、ずっとジャックが欲しかったものだった。


次の投稿は4月29日です。

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