5-3
「なあ、おたく大丈夫か?」
隣に座ったケータに突然問われ、ニコラスは顔をしかめた。
「何がだ」
「いや。さっきから滅茶苦茶けわしい顔してるからさ。ここに来る途中もずっとSNSとか動画見てたし。好きなのか?」
「いいや。どっちかつーと嫌いな方だ。調べ物がなきゃ見てない」
「そっか。あんまのめり込まない方がいいぞ。特にSNS。碌なことにならないから」
やけにしみじみとした口調のケータにひとまず頷いておく。
つい数時間前、セルゲイに取引を持ち掛けられたニコラスは、日頃めったに開くことのないネットで例の南瓜頭の情報収集を行っていた。
が、すぐさま断念したくなった。
特区潜入ジャーナリストを自称するこの南瓜頭は、記者というより野次馬に近い人物で、事あるごとに事件へ首を突っ込んでは騒ぎ立てることを繰り返している。
例の爆破事件の現場にもたびたび顔を出しており、事件直後の動画がユーチューブにアップされている。
投稿内容もかなり過激なもので、爆発的な視聴率と登録視聴者数を誇るも、炎上騒動に発展することも少なくない。
これなんかもそうだ。
『特区は魔の巣窟!? 麻薬密売人のアジトに潜入してみた!』
内容を見てみれば、麻薬購入のついでにカバンか何かに仕込んでおいたカメラでアジト撮影を試みたところ、案の定バレて這う這うの体で逃げかえったようだ。
――こいつよくもまあ今まで殺されずに済んだな……。
個人アカウント欄を開けば、ずらりと並ぶ動画のタイトルに心底げんなりする。
買ってみた、聞いてみた、潜入してみた、絡んでみた、こんなものばっかりだ。
ニューヨークの貧民街ブロンクス出身のニコラスは、密売人やその類の連中がどういう人間かよく知っている。
もしこの南瓜頭が自分の故郷で似たようなことをすれば、次の日には死体となって発見されるだろう。
しかもこれが登録者数60万人の人気ユーチューバーなのだ。
あほくさくて溜息も出ない。
正直、放置したい。が、ハウンドのことを嗅ぎまわっているとなれば話は別だ。
セルゲイに話に乗るのは癪だが、このまま炎上が続いてまた27番地に強制捜査が入っては堪らない。
個人的にもハウンドを馬鹿にする奴は気に食わない。
何も知らないくせに、上っ面の正義でよくもまあここまで他人を叩けるものだ。
「ニコラス、行こう。手続き済んだってさ」
ケータが立ちあがるのに合わせてニコラスもベンチから立ち上がった。
彼の左後方にぴったり張り付き、周囲を警戒しながら歩を進める。
ミチピシ一家本拠地――PNCセンターが真正面に立ちふさがっていた。
***
さっきの人、どこかで……。
弁当屋のイヤドは、ミチピシ本部のビルへ入っていった男の姿に首を捻った。
アメリカ人にしてはやや小柄な黒髪の男だ。
視力には自信がある。顔覚えも悪い方じゃない。
うん。やっぱりあの人、どこかで見たことがある。
「……ん、修理終わったぞ。…………どうした?」
店内奥からやってきたタイ料理店の店主に何でもないと首を振る。
そしてバイク修理の礼に弁当を二つ分カウンターに置く。
店主と奥方の分だ。一食分ではなく、夕飯の分も含めての特盛である。
「……いつも悪いな。うちのも食ってくか? 昼まだだろ」
イヤドは感謝しつつも丁寧に断る。
無理を聞いてもらっているのはこちらの方だ。
機械に疎い自分のためにバイクや車の修理を買って出てくれる。
特区入国の際に知り合っただけの間柄だが、親切な店主の好意を無下にしたくはなかった。
グラスが割れる音がした。
振り返れば、店のど真ん中の大テーブルを囲んで騒ぐ一団がいる。
イヤドは一団が着けている腕章の『剣と天秤』に顔をしかめた。
「また?」
「……ここ最近は毎日だ。おかげで他の客が入ってこない。売り上げが下がる一方だ」
そうぼやいた店主は傍観の構えを取った。イヤドは賢明な判断だと思った。
奴らに正論は効かない。
しかも一団は真っ昼間から酒を飲んでいる。
宗教上、酒が飲めないイヤドはその時点で印象最悪だが、一団のテーブル上に無造作に置かれた散弾銃や拳銃がさらに悪化させる。
これは大人しく帰るのを待つのが一番だろう。
一団はよほど酔っているのか、今度は店主の奥方に絡み始めた。奥方の腕を掴んで抱き寄せる客に、店主が額に青筋を浮かべて立ち上がる。
無口で大人しい彼は、身体の大きいアメリカ人に舐められがちだが、ムエタイのベルト保持者だ。10秒もあれば全員軽くのしてしまうだろう。
「――あ」
思い出した。彼だ。
狙撃手でありながら、イラク人を救ったアメリカ人。
民間人暴行の冤罪をかけられ、『偽善者』と誹られた青年。
無口で愛想が無くて、自分たちと同じ褐色の肌をしていた。
鷹のような金色の目をしていて、いつも暗い顔で俯いていた。
――なんてことだ。
イヤドは嘆いた。
この街に来ているということは、彼は祖国からも見放されたのだ。
7年前、人買いに誘拐されたイヤドの姪っ子は、彼のお陰で帰ってきた。
だがイヤドの兄とその妻は、娘が汚されたと嘆くばかりで、イヤドが懸命に説明しようと、国連が公式に冤罪であったと謝罪しようと、聞き入れはしなかった。
去年、姪は死んだ。
自宅の納屋で首を吊った。16歳だった。
――神よ。
イヤドは祈った。
どうしようもないやるせなさに、祈らずにはいられなかった。
「……戻った。……? どうした。泣きそうな顔をしているぞ」
イヤドはいいやと答え、見事馬鹿どもを叩きのめした店主の立ち回りっぷりにチップを渡して店を出た。
バイクにまたがり、自分の店に戻ろうとして思い留まる。
そしてタイ人店主の店から少し離れた、エンパナーダ (メキシコ料理、肉野菜の揚げ餃子のようなもの)を売る屋台の脇に停める。
ここからなら本部正面がよく見える。待つにはうってつけだ。
――これも神のお導きだ。
せっかくだ。彼に会っていこう。
きっと姪も、そのくらいは許してくれる。
***
ミチピシ本部、PNCセンター。
かつては金融株式会社が所有していたトロイ市 (デトロイト近郊の都市)最高峰の建築物であり、それは特区19番地となった現在も変わらない。
今やオフィスにはミチピシ一家所属の先住民系構成員がひしめき、各自任務を遂行している。
廊下を歩くこちらに、視線が一斉に突き刺さる。
警戒と嫌悪混じりの視線を受け流し、ニコラスもさりげなく観察し返す。
ネイティブ・ギャングから設立された犯罪組織なだけあって、マフィアやカルテルのような物々しさはさほど感じない。
しかし、空気は一触即発だった。
ニコラスは構成員の視線に、苦くも懐かしく思い返す。
イラク市民の目に似ている。
弾けんばかりの憎悪と殺意を、「刃向かえば殺される」という理性で覆い隠したような。見たくも無いが、今後のため確認だけはしておくかといわんばかりの。
そんな冷ややかな視線。
弁えた敵意の眼差し。
嫌な過去を思い出したニコラスは前を歩く案内役に視線を移した。そして奇妙に思った。
――武器が少ねえな。
ニコラスは前方を歩く案内役に目を眇めた。
案内役は腿の自動拳銃となぜか腰に手投げ斧という軽装備で、服装はジーンズに赤チェックのワイシャツと登山用スニーカー。
ヴァレーリやロバーチ構成員がスーツや戦闘服に重武装をしているのを見た後だと随分ラフに思える。
しかも見たところ拳銃はトカレフT-33。
俗にいう中国製トカレフで粗悪品と名高いコピー拳銃だ。恐らく中国人民解放軍の払い下げだろう。
その他の構成員が持つ小銃や短機関銃も、旧ユーゴスラビア製や中国製が多い。装備に割く予算がないか、はたまた今回の内戦で仕入れに問題が発生したか。
いずれにせよ酷い装備だ。
これなら27番地の住民の方がまだ良いものを持っている。
「止まれ!」
静止の声に目を上げれば、小銃を構えた構成員2名が門番よろしく会議室扉の前に立ちふさがっている。
案内役の男が両手を上げた。
「?」
素早く手を動かす案内役にケータが首を捻った。
ニコラスは一瞬怪訝に思ったもののすぐに気付いた。
これは手話だ。
アメリカ先住民は古代より、言語の違う部族間のコミュニケーションに手話を用いたという記録がある。
生で見るのは初めてだ。
ニコラスが感心しながら眺めているうちにやり取りは終わり、こくりと頷いた門番は人差し指と中指を立てた右手を頭の位置に掲げた。
これは知っている。『友』を意味するジェスチャーだ。
門番がロックを解除し、扉が開かれた。
顎で指した案内役に促され会議室内に入ると、すでに役者は揃っていた。
羽冠を始めとする伝統的な装束に身を包んだ者、西欧式のスーツをきっちり着込んだ者、Tシャツにジーンズという軽装の者。
多様な服装の14人の壮年男性による敵意と猜疑の視線が突き刺さる中、立ち尽くしたニコラスは会議室最奥の、Cの字に組まれた机の中央に座る人物に目を留めた。
年数を経たなめし革のような赤銅色の肌に、濡羽色の髪と瞳。刻まれたしわは深く険しく、その者の性格と人生を語っているような峻厳さだ。
長い髪は前髪のひと房を除いて左右で三つ編みにし、ターコイズと革紐の髪留めでくくられている。
スー族 (これはフランス語の通称で正確にはラコタ族だ)のハンクパパ族出身、スー族・シャイアン族・アラパホ族連合の長にして、ミチピシ一家現当主。
生粋のアメリカ先住民の古老、カレタカ・オーハンゼーである。
彼はこちらを見ることなく、伏し目がちに虚空を俯瞰していた。
「この度はお招きいただきありがとうございます。自分は特区警察所属の――」
「些事な挨拶など不要。さっさと本題に入るがよい」
思い切り出鼻をくじかれたケータはたじろいだが、オーハンゼーは気にすることなく刮目し、漆黒の双眸に初めてこちらを映す。
ニコラスは狙撃手選抜課程で出会った教官を思い出した。
千ヤード先の訓練兵すら見逃さぬ、あの猛禽類のような目だ。
ニコラスは自然と姿勢を正した。
「して。なぜお主がここにいる、尖兵よ。彼の子狼はどうした?」
「ヘルハウンドのことでしょうか?」
「いかにも」
「彼女であれば27番地に残留しております。あなたよりミチピシ領への出入りを禁じられたと聞いておりますので」
「結構なことですな、オーハンゼー族長。唯一の解決方法を自ら封じなさったわけだ」
右端に座ったスーツの男が苦々しげに吐き捨てる。
維持派代表のビリー・ルタだ。
オーハンゼーはひと睨みで男を黙らせると静かに嘆息した。それは落胆というより安堵に近いもので、またもニコラスは違和感を覚えた。
「儂は警告を発したまでだ。惑う者が民を導けば民もまた惑う。『茨を身に纏ったまま我が家を出歩くな』と言ったまで。出入りを禁じたわけではない」
それは出禁と言っているようなものではないのか。
抽象的か言葉を重ねるオーハンゼーに困惑していると、今度は左側のアメリカ・インディアン運動のロゴが入ったTシャツを着た男が立ち上がった。
こちらは改革派筆頭のアラン・サンプソンだ。
「当主! やはり捜査は我々ですべきです。他一家の者は信用ならない。しかもよりによって、ヴァレーリ三等区に巣食うごろつきに捜査協力を依頼するなど何を考えておいでですか! こんな者に捜査を頼むぐらいなら、我々が行います」
ごろつきときたか。ニコラスは胸中で鼻を鳴らした。
『六番目の統治者』であるハウンドはこうして他一家から軽んじられることが多い。
だが、たかが18の少女が、五大マフィアと渡り合いながら特区唯一の中立地帯を維持し続けていることは、こいつらの頭にはないらしい。
領内の内紛すら納められぬ一家がよく言ったものだ。
一方、改革派代表の物言いに維持派代表が噛みつき始めた。
「貴様らはまだそんな世迷言を抜かすか!? 自分たちの力量も弁えず、悪戯に抗争を繰り返して無意味な血を流したのは誰のせいか!? 現在の我が領の混迷も、元はと言えば貴様らの独断専行が招いたことではないか!」
「では我らに死ねとおっしゃるか!? 我々はただ自由に生きたいだけだ!」
「規律なき自由などただの無法に過ぎん! 白人どもすら理解していることがなぜ分からん!」
会議室は内紛状態となった。
左右で怒声が飛び交う中、ケータはアワアワと狼狽え、ニコラスは呆れかえった。
なんと統率力のない一家か。これは直接当主と話し合った方が――。
「鎮まれぃ!!」
怒声が轟き、ニコラスは辛うじて肩を跳ね上げるのを堪えた。オーハンゼーの叱責は落雷の如き凄烈さで、幹部14人を黙らせるには十分だった。
オーハンゼーは幹部を睥睨すると再び深く嘆息した。
「尖兵、警官。此度はもう帰るがよい。お主らがいてもただ悪戯に時が過ぎるだけだ」
「えっ……!?」
「それはできません」
仰天するケータを横目にニコラスは反論した。
「マクナイト刑事はともかく、自分は『六番目の統治者』ヘルハウンドの代行としてここに参っております。もしここで引き下がればヘルハウンドの、ひいては27番地の処理能力の低さを問われかねません。後々の外交問題にも関わってきます」
「何を勝手な! 貴様らの問題など我々の――」
「サンプソン」
オーハンゼーに言われ、改革派代表は渋々引き下がった。
そしてその漆黒の双眸で真っ直ぐと、こちらの心を見透かさんばかりに見据えた。
「ならば問おう。お主は彼の茨を除けるのか?」
「――は?」
「お主に何ができるかと問うておる。逃げ続けた臆病者のお主に、一体なにが変えられる?」
心臓をトラバサミで鷲掴まれた気がした。
『ほらな。とうとう言われたぞ』
脳内に反響した嘲笑に、はたと気付く。
ああ、これは俺の声だ。
「お主の経歴はそれなりに聞いておる。いささか同情の余地を残す過去ではあるが、お主が一家の命運を託すに値するとは到底思えん」
淡々としたオーハンゼーの声が、空っぽの身体を酷薄にすり抜けていく。
反論は一切浮かばない。
母親から、親友の遺族から、過去から。何もかもから逃げてここに来た。
返す言葉がなかった。
答えられず凍り付くこちらを見たオーハンゼーは小さく嘆息した。
それが終了の合図だった。
「帰れ、尖兵よ。お主には何もできぬ」
***
「………………なあ、本当に大丈夫か?」
大いに躊躇いがちに尋ねてきたケータに、ニコラスは辛うじて頷く。
これ以上ないほど打ちのめされていた。
パトカーに向かう途中の公園のベンチにへたり込んでしまうぐらいには。
「あの爺さんのことなら気にするな。年寄りってんのは意味深なことを言うわりに何も考えてないこと多いから」
「…………いや」
ニコラスは俯いたまま視線を彷徨わせ、靴先に目を留めた。
未だに捨てられないコンバットブーツの擦り切れた爪先を。
「あながち間違いでもない。実際逃げてきたから」
違法薬物に溺れる母親を見限って軍へ逃げた。
戦地で馬鹿な上官が保護した民間人を切り捨てられず、部隊を全滅に追い込んだ。
炎上報道で親友の遺族の家が放火され、有り金すべて押し付けて戦地へ戻った。
そして今、足を失い、軍にもいられなくなって特区にいる。
そうだ。何もかもから逃げてきた。
向き合う度胸もなければ開き直る勇気もない。
これを臆病者と言わずして何というのか。
一方、項垂れるニコラスと対称にケータは珍しく憤慨していた。
「そうかもしれないけど。でも、なにもあんな言い方しなくたっていいだろ」
やさぐれた非行少年よろしく煙草を咥えるケータにほんの少し救われる。
解決に繋がらずとも今は、泣き言を言う資格すらない自分の代わりに怒ってくれるケータの存在がありがたかった。
「で、これからどうする? 俺は仕事だからやるけど……」
「もちろん俺もやるさ。爆弾魔探しが今回の任務だからな。それに個人的にも、あの南瓜頭を逃がしたくない」
ニコラスの脳裏には、いつだって一人の少女の姿がしかと刻み込まれている。
これから先、どんな困難が待ち受けていようと、あの子を嗤う者は許さない。
問題は、ミチピシ一家の助力を全く期待できない点にある。
そしてその落ち度は恐らく自分だ。
「ごめんだなんて聞かないぞ。訳もなく謝罪するのは日本人の専売特許だからな」
「……まだ何も言ってないぞ」
「そりゃ失敬」と笑うケータに勇気づけられ、ニコラスは立ち上がった。
刹那。引き裂くような盛大なクラクションが鳴り響いた。
ぎょっとして周囲を見回せば、大通りを何十台からなる車列がかなりのスピードでこちらに突進してくる。
ニコラスは車両に乗っている人々と、掲げられた『剣と天秤』の旗に険相を構えた。
「おいケータ、あれ」
「ああ。お出ましだ」
ニコラスは舌打ちした。
自称正義の味方、合衆国救済連合のご登場である。
荒々しいブレーキ音と共に車列は止まり、プラカードやら横断幕を持った人々がぞろぞろと降りてくる。
閑静だった公園は一気に騒然となった。
「どうする?」
「ひとまずパトカーに戻ろう。いくら何でもおたくと俺の二人じゃ……」
と言いかけて、ケータが口をつぐんだ。
パトカーが停めてあった駐車場にも新たな車列が乗り込んできたのだ。
ミチピシ本部はあっという間に救済連合に囲まれてしまった。
『警告する! 今すぐこの場から立ち去れ! 3分だけ待ってやる! 繰り返す――』
ミチピシ本部の屋外マイクから物々しい放送が流れてくる。
本部前には銃火器を持った構成員が集結し、すでに引金に指をかけている。
対する救済連合は興奮するばかりで、一向に立ち去る気配がない。
むしろ撃たない構成員をハンドマイクで罵倒し始めた。
まさに一触即発。これではいつ銃撃戦が始まってもおかしくない。
ニコラスはケータをせっついた。
「急ごう。このままじゃパトカーも出せなくなる」
「だな」
ケータは一瞬迷う素振りを見せたが、車両の荷台から小銃を取り出し始めた救済連合メンバーを見るなり神妙に頷いた。
ニコラスたちは人ごみの流れに逆らってパトカーを目指した。
それにしても呆れるほどの大群衆である。
オープン直後の野球スタジアム前の通りを横切る通行人の気分だ。もっとも、今から始まろうとしているのは野球よりずっと物騒なものだが。
と、その時。興奮した連合メンバーの一人が中折れ式散弾銃を振り回しながら近づいてきた。
酒が入っているのか周りが全く見えていない。
ニコラスは目の前に飛んできた銃身をすれすれで避けたが、すぐ真横にいたひげ面の青年にぶつかってしまった。
「悪い」
「前見て歩けよボンクラ」
思い切り舌打ちした青年はこちらの顔を一瞥し、あんぐり口を開けた。
苛立ちの表情は侮蔑と憤怒に一変していた。
「誰かと思えばてめえっ、あの『偽善者』か……!?」
ニコラスは青年の着ているTシャツを見るなりしまったと思った。
極右の陰謀論支持者。
過去ニコラスらが冤罪をかけられたティクリート撤退戦で、最も劇的に攻撃していた団体の一つだ。
「おい皆止まれ! 売国奴がここにいるぞ!!」
周囲が一斉に振り返った。
嫌悪、敵愾、憎悪、嘲弄。悪意に満ちた視線が雨あられと向けられ、全身が総毛だつ。
「ニコラスこっちだ!」
ケータの叫び声に我に返る。そこに、すでに運転席に辿り着いたケータがアクセルを吹かす。
それをスタート合図に、ニコラスは一目散に駆け出した。
時おり服を掴まれたが振り払った。服が千切れても構わなかった。この数の群衆から私刑など洒落にならない。
本気で殺される。
ニコラスがすでにパトカーに辿り着いたケータ目がけて足を速めた時、背後からぶつかった青年の怒号が響いた。
「逃げるのか臆病者!」
後頭部を鈍器で殴られたような気がした。
『また逃げるのか』
脳内に響く己の声に、両足を掴まれた気がした。
全身に増していく重圧に、動きがどんどん鈍くなっていく。
ニコラスは必死に否定した。
違う。けど今は逃げないと、逃げないと殺されるじゃないか。あの時だって。
『逃げたら過去が変わるのか。罪が消えたか』
変わらなかった。消えなかった。
逃げれば逃げるほど、罪は大きく膨れ上がって追い駆けてきた。
ケータが叫び声で我に返る。
再び走り出そうとしたその時、誰かに襟首を掴まれた。
こめかみに重い衝撃が走り、視界が大きく揺れる。
思わず地面に倒れ込むと、先ほどの髭面の青年が、敵意と嗜虐で顔を歪めながら、頭上高くに鉄バットを振り上げていた。
ああ、殴られる。
青年が振り下ろしたのを皮切りに、一斉に蹴りやら鈍器やらが振り下ろされる。ニコラスは本能的に身を丸め、両腕で頭を守った。
激痛は五発目あたりから徐々に鈍化していった。なので身体の痛みは平気だった。
ただ、どうしようもない虚無とやるせなさが痛かった。
『なんで』
脳裏に響く己の声は、いつの間にか幼い頃の自分に変わっていた。
唯一の肉親である母親に殴られて育った、いつも顔色を窺っては怯えていた、あのクソッタレな街のどこにでも転がってそうなガキの自分に。
どうしようもない理不尽にいつも怒り狂っていた。通りを母親と笑いながら歩く子供を見ては、「なぜ自分はあの子ではないのか」と泣いていた。
『どうして』
どうしてだろうな。
痛みでぼうっとする頭でぼんやりと考える。ふと腕の隙間から見上げてみた。
手を振り下ろす母親の姿は、群衆に変わっていた。
みんな嗤っていた。
ああ、俺は。こんな国民を守るために戦ったのか。
目の前が暗くなりかけた刹那。
破裂音。
群衆は身をすくめて硬直した。直後、連続した破裂音が追い打ちをかける。
盛大な悲鳴が上がった。
その場に伏せる者、車に駆け込む者、悲鳴を上げて隣の誰かにしがみつく者。瞬時にして辺りは恐慌状態に陥った。
よろめきながら立ち上がったニコラスは茫然と辺りを見回す。
ミチピシ本部を振り返るも、構成員はパニックに陥る救済連合を見て唖然としている。
――発砲音じゃない……?
ニコラスが困惑して立ち尽くしていると、不意に背後から肘を掴まれた。
「お兄サン、コッチ!」
振り返れば、パーカーを目深にかぶった男らしき人物が立っていた。
戸惑うこちらを無視してぐいぐいと引っ張ってくる。
思わずニコラスは叫んだ。
「ちょっと待て! あんたは一体――」
「いいからコッチ! 花火、もうすぐ終わル!」
かなり訛りの強いパーカー男の発言に合点がいった。
こいつが爆竹を鳴らしたのだ。道理で救済連合もミチピシも戸惑っているはずだ。
と思った刹那、目の前にパトカーが白煙を上げながら停車した。
運転席のケータが怒鳴る。
「ニコラス乗れ!」
返事するより早くドアを開けたパーカー男にニコラスは押し込まれた。次いでパーカー男も乗り込んでくる。
「そこの通り右に行っテ! ワタシ、道知ってル!」
「お、おう!」
戸惑いながらもケータがアクセルを踏み込む。ぐん、とシートに押し付けられる感触と共にパトカーは急発進した。
ドリフトしながら角を曲がり、混沌に満ちた現場が見えなくなってようやくパーカー男はフードを取った。
ニコラスの喉がひゅっと鳴った。
褐色の肌に、彫りの深い顔立ち。口元から顎にかけては髭で覆われ、ぱっちりとした二重の長い睫毛の下から、漆黒の双眸が覗いている。
男はこちらの視線に気づくなり苦笑した。
「やっぱり顔で分かるカ。初めまして、お兄サン。ワタシ、イラク人のイヤド。故郷ではお世話になったネ」
にこやかに差し出された青年の手を、ニコラスはただ茫然と見返していた。
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