4-1
〈西暦2013年9月12日午前11時 アメリカ合衆国ミシガン州元デトロイト市街〉
27番地河川港付近、デトロイト美術館。
かつて合衆国屈指の規模を誇った公共美術館の姿はもはやない。
美術品はあらかた持ち出され、運び出せぬ壁画やステンドグラスのみが残された空虚な空間は、棄民がひしめき合う集合住宅と化した。
その光景を正門前のロダン作『考える人』が物憂げに見守っている。
その『考える人』の右隣30メートル先、落葉樹林の木陰で考える現実世界の人間が一人。
「……やっぱり何も書いてない、か」
胡坐に頬杖を突いたニコラスは、絵本をめくりながら深々と溜息をつく。
以前のヴァレーリ一家襲来後、ハウンドから託された手書きの絵本をニコラスは暇さえあれば調べていた。
かつての仇敵であり、恩人であるハウンドは、イラク戦争の陰謀にまつわる《手帳》――亡きイラク独裁者と闇取引を行い、利権を貪った人物の名が記された『失われたリスト』の証拠品――を合衆国安全保障局から盗み出した。
ゆえに、ハウンドは最重要危険人物として国家から命を狙われている。
そして己の任務は、ハウンドを護ること。
そんな彼女から手書きの絵本を託された。繊細だが勇壮な絵で何十ページにわたって丁寧に綴られた手書きの絵本は、実に見事な出来栄えだ。
――やっぱりこの子狼、ハウンドだよな?
ニコラスは、これから旅に出んと大草原に佇む小さな黒狼を指でなぞる。
漆黒の被毛に深緑の瞳、ハウンドの髪と瞳の色と一致する。
さらに言えば、物語自体もかなり暗示的だ。
物語は、人間に攫われて異国のサーカスへ連れていかれた子狼が、父狼のいる故郷の山を目指すところから始まり、子狼は仲間を得ながら世界中を旅する。
描かれた風景は実に見覚えのある風景だった。
子狼の故郷は、申し訳程度に草木が生えた剥き出しの岩肌に、うっすら残雪が被った急峻な山脈として描かれている。
派兵時代、うんざりするほど見てきた中東の山脈に酷似している。
一方、子狼が連れてこられた異国の風景は、ニコラスにとって非常に見慣れた風景、アメリカ合衆国だ。
仮にこの子狼がハウンドを表しているのなら、アフガニスタン人の彼女が何者かによってアメリカへ無理やり連れてこられたということになる。
気がかりはもう一つ。
――この5頭の犬は何者だ?
ニコラスは子狼に寄り添う5頭の大型犬を注視する。
道中、子狼の仲間として、彼女が故郷に帰る手助けをしてくれる絵本の主要犬 (?)だ。
シベリアンハスキー
ゴールデンレトリバー
ラブラドールレトリバー
ボクサー
ラフコリー
何かしらのメッセージが込められているのは間違いない。
だが、まるで手掛かりがない。
――絵本が英語で書かれてるところを見るに、作者は英語圏の人間だと思うが……。
ニコラスがハウンドと出会った当時、ハウンドは驚くほど流暢な英語を話した。
もし彼女が自分と出会う以前に誰かと出会い、英語を教わっていたのなら、つじつまが合う。もしかすると、この絵本は彼女への教材だったのかもしれない。
だが仮にその謎の人物がこの絵本を描いたとして、一体何のために彼女を模した絵本を描いたのだろうか。
そもそも、この絵本は《手帳》への手掛かりとなるのか。
「……あのハウンドが《手帳》の手掛かりをホイホイ他人に渡すわけもない、か」
「お~い、ニコラ~ス」
間延びしつつも愛嬌のある声に、ニコラスは絵本をさっとバックパックに隠して振り返る。
「なんだ」
「何だじゃないだろ。いつまで休憩してんの。そろそろ訓練再開するよ」
美術館入り口前で白の道着姿でぴょんぴょん跳ねる少女に、ニコラスは深々と溜息をつく。
まだ5分も経っていないのだが。
「…………加減はしてくれよ」
「善処しよう」
***
で、結局こうなるわけか。
畳に大の字になったニコラスに、格子状の天井窓から差し込む陽光が突き刺さる。
デトロイト美術館1階広間、ディエゴ・リベラ作『デトロントの産業』。
壁の中で大手自動車工場の労働者たちが汗を流す一方、現実の人間たちも汗を流す、27番地屈指の近接格闘訓練所である。
言っておくが、サボって寝そべってるわけでは断じてない。
「ほらほら、すぐに立つ! 蹲ったままだと蹴られるぞ~」
自分をみごと背負い投げしたハウンドの叱咤に呻きながら片膝をつく。
幸い、畳の上なことと反射的にとった『受身』のお陰で無傷だが、義足の下敷きになった右脚がかなり痛い。
十数キロの金属の塊が投げられた勢いのまま右脚に衝突し、そのまま畳とサンドされるのである。
おかげでこの数日間、全身青痣だらけだ。
「……お前もう少しこっちのハンデくんでくれよ」
「片足義足なんだから手加減してくれって? 私だったらまずお前から潰すぞ。狙撃手だし」
「近接戦に持ち込まれる時点で狙撃手としてアウトだろ」
「んじゃそこで諦めて死ぬの?」
ニコラスは閉口した。
チンピラ程度なら引けを取らないニコラスだが、ハウンドのようなちゃんと訓練を受けた人間相手に近接戦は非常に分が悪い。
しかもハウンドは敏捷なうえ技のキレがいい。懐に入られたらまず終いだ。しかも隙あらば関節技をかけてくる。
さっきだって、技を警戒して4メートルは距離を取っていたのに一気に詰めてきた。
ふと目の前に髪の毛が映ったと思ったら宙を舞っていて、地面に叩きつけられて今に至る。
というか。
「そろそろこの訓練始めた理由ぐらい説明してくれよ。なんでいきなり柔道場で組手稽古なんだ?」
「だからニコは近接戦むちゃくちゃ弱いから、もうちょっと強くなって欲しいな~って」
「んじゃもう少し技とかの練習もした方がいいんじゃないのか? 俺ずっとお前に投げられてばっかなんだが」
しかもこの1週間、わざわざカフェの仕事を休んで、朝から晩まで延々とハウンドに投げられ続けるという苦行である。
いい加減理由ぐらい知りたい。
だがニコラスの上司はどこまでも奔放だった。
「つべこべ言わずさっさと立つ! ともかく今のお前に必要なのはこれなんだよ」
意味が分からん。
ニコラスは辟易しつつもやや懐かしく思った。
こういう滅茶苦茶理不尽で訳の分からん訓練をひたすらやらされる感じ、パリス・アイランドの新兵訓練所以来だろうか。
アメリカ四軍の中で最も過酷と評される海兵隊の新兵訓練だが、あれはあれで不条理極まりない戦場で生き残る体力と精神力を鍛えるための第一関門なのだ。
訓練にすら耐えられない兵士が、殺人が常識と化した地獄で生き残れるわけがないのだから。
――あの教官どもに比べりゃ可愛いもんか。
ニコラスがハウンドの頭に練兵軍曹帽を空見していると、穏やかな男声が響いた。
「やあ、お二人さん。今日も熱心に励んでるねぇ」
目を向けると黒帯を締めた黒髪の青年が立っていた。
いかにも好青年といった感じの小柄な日系アメリカ人だ。
たしかこの道場の臨時師範だったはず。名前は何と言っていたか。
記憶たんすをまさぐっていたニコラスの目の前に、青年は手を差し出した。
「自己紹介してなかったな。ケータ・I・マクナイトだ。よろしく」
「どうも。……マクナイト?」
思わず聞き返すと青年は屈託なく笑った。
「ああ。いつも爺ちゃんが世話になってるね、ウェッブ軍曹。暇な時でいいから話し相手になってやってくれよ。爺ちゃんの同期、もうほとんどいないからさ」
ニコラスは目を瞬いた。
27番地でも血の気が多いことで有名なベトナム帰還兵の頑固ジジイ、マクナイト爺さんの孫とは思えないほど温和な青年だ。
これで着ている服が柔道着でなくワイシャツにカーディガンであれば文学部の院生と間違えられただろう。
「昼間からいるなんて珍しいじゃん、ケータ。とうとう特警クビになった?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。普通に非番だよ、非番」
「おやま珍し。仕事しないくせに休日の少ないあの超非効率的な職場でよく非番取れたな。助成金目あてで業務改善でもしたの?」
「するわけないだろ、うちが。あと助成金なんて永久に来ねえよ。しょせんはタダ飯食らいのお飾り組織さ」
皮肉めいた口調と裏腹に心底申し訳なさそうに両肩を縮めるケータに、ハウンドは肩をすくめ、ニコラスは同情した。
彼の職場である特区警察――通称『特警』とは、公式的には特区唯一の治安維持組織だが、その実情は五大マフィアと癒着しまくっている文字通りの〝お飾り組織〟である。
当然ながら特区住民こと棄民からの評判は最低ラインを振り切って地を這うレベルだ。
見るからに生真面目で汚職と無縁そうなこの青年にしてみれば、実に居心地の悪い職場なのだろう。
「それとハウンド、悪いんだが」
「またぁ?」
「またです。今度は護衛任務です。よろしく」
「冗談だろ。これで今月3回目だぞ。お前んとこの職場どうなってんの?」
「同僚に頼むよりおたくらに頼んだ方がまだマシなんだよ。頼むよ。この通りだ」
パンッとと両手を合わして頭を下げるケータに、ハウンドは不服顔で腕を組み。
「んじゃニコの受身みてやってよ。それなら考える」
「軍曹のか? うーん、ほとんど教えることなさそうなんだけどな……」
頭をぽりぽり掻いたケータはこちらを見上げ、頭のてっぺんから爪先まで順ぐりに見ると小首を傾げた。
「うん。やっぱりバランスは悪くないな。いい具合に筋肉ついてる。鍛え方次第じゃかなり化けそうだ。おたく、若い頃に路上喧嘩やってたろ?」
ニコラスは驚いた。
確かに自分はブロンクス (マンハッタンの貧民街)育ちで路上喧嘩は日常茶飯事だった。
「見ただけで分かるのか?」
「まあこの1週間見させてもらったからな。動きは海兵隊近接格闘術なんだが、ときどき直感ていうか、相手の意表を突くみたいな予想外の動きをぱっと入れてくる。フェイントって感じかな? 型にはまらない本能的な動きだ。かといって本能のままに動いてるわけでもない。よく考えよく見て動いてる。わりと手慣れてるな」
へえと他人事のように感心する。
てっきり近接格闘は苦手だと思い込んでいたが、存外素質があったらしい。
が、ケータは褒めるだけではなかった。
「だが直感的に動いてるぶんや力のかけ方や動作に無駄が多いし、身体も硬い。このままだと怪我するぞ」
「すでに満身創痍だな」
「ははは。おたく投げられる寸前に身体が強張ってるからな。そうだな……おたくなら『脱力』と『俯瞰』が必要かな。特に『脱力』の練習は怪我防止になるから早めにやっておいた方がいい」
「脱力と俯瞰?」
聞き慣れない言葉に首を捻っていると、ケータが呆れたようにハウンドを視線で咎めた。
「こらハウンド、なにも説明してないのか?」
「説明も何も、こういうのは実際にやって体感するのが一番だろ」
「そりゃそうだけども。けど説明ゼロのままでいいってもんじゃないからな?。軍曹、ちょっとこっちきてくれ」
道場出入り口に向かいながら手招きするケータに、これ幸いとニコラスはバックパックを手に取った。
ようやくまともな休憩が取れそうだ。
***
ニコラスは再び美術館脇の木陰に戻ってきた。
「さて、どこから話したもんかな」
地べたに胡坐をかいたケータは断りを入れつつ煙草を咥えた。
ニコラスは意外に思った。
副流煙すら毛嫌いしそうないでたちだが、使い古した携帯灰皿を見るになかなかのヘビースモーカーらしい。アジア系ゆえの童顔でアンバランス感が凄まじいが。
ニコラスも説明を聞く片手間、スポーツドリンクのキャップを捻る。
「そうだな……おたく、柔道の『受身』は知ってるよな?」
カフェテリアで後輩に勉強を教えるかのような気軽さで尋ねるケータに。ニコラスは頷いた。
受身とは攻撃を受けた際の一種の防御態勢で、柔道を始めとする格闘技に見られる姿勢の一つだ。
海兵隊近接格闘術には柔道、合気道、一心流空手といった日本武術がかなり組み込まれているため、ニコラスにとっても柔道は割と身近な武術だ。
「あれだろ? 投げられたら地面バンッって叩いて勢い殺すやつ」
「んーまあそうっちゃそうなんだけど。例えるならそうだな、コンクリートの壁に向かってパンチするとする。力いっぱい殴ったら?」
「痛い」
「だろ? 受身も同じだ。身体に力が入ってると、攻撃の衝撃が地面に流れる前に自分の体で停滞しちまう。ダメージをもろに食らっちまうのさ。さっきハウンドとの組手で、おたく堪えてたろ」
「そりゃ投げられたら痛いだろ」
「自分から投げ飛ばされにいった方が痛くないぞ。むしろ無理に堪えてると骨折れる」
「は……!?」
「骨折まではいかなくとも筋違いや腱切れる可能性はあるかな。まあハウンドもかなり手加減してくれてたから大丈夫だとは思うけど」
煙草を揉み消しながら平然と話すケータにニコラスは戦慄した。
あれで手加減してるのか、アイツ。
「じゃあわざと吹っ飛びにいった方がいいのか?」
「うん。『脱力』ってのは単に力を抜くんじゃなくて、相手の力を受け流すってことでもあるからな。あとは技受けた瞬間に息吐いて肺を減圧して衝撃を外に逃がしたり、地面に叩きつけられないよう身体丸めたり。ああそれから自分の重心を意識しておくのも大事だな。素早く態勢を立て直す感覚を早く掴めるようになる」
「お、おう?」
何を言われてるのかさっぱりなニコラスが頭にクエスチョンマークを飛ばしていると、ケータが苦笑した。
「とまあ詳しく解説するとこうなんだが、日本武術の基本は『力の流れを見極めて利用する』だ。『脱力』はそのための一歩、足掛かりだよ。んで、おたくの場合は『俯瞰』も必要だ。さっきハウンドに投げられた時、どこ見てた?」
「足だな」
人体の動きは基本、足から始まる。特に格闘技となれば最初の踏み込みから、仕掛けてくる攻撃をある程度予測できる。……さっきは見えなかったが。
「そうだな。おたくは相手をよく見てる。逆に言えば見すぎてる節がある。その辺りがハウンドの罠にはまり続けてる原因かな」
「というと?」
「さっきハウンドが距離を詰める前、ハウンドが左腕動かしたろ。こう、ひゅっと上に」
ニコラスは思い出し、頷いた。
言われてみればそうだ。
動く寸前、ハウンドは左腕をすっと上にあげた。もしや――。
「……要するに、相手を見すぎると視点を誘導される恐れがあるってことか?」
「その通り!」
ケータは嬉しげに頷いた。難解な問題を見事解いてみせた生徒を褒める教師のように。
「人間は外界から情報を得るのに九割がた視覚に頼ってる。ハウンドはそこを突いてくるのが上手くてな。相手の不意をつくるのが上手いんだ。しかも動きが早いし身軽だから、こちらもついつい見てしまう。けど、それこそ彼女の思う壺だ。こっちがハウンドを見れば見るほど――」
「視線を誘導されて、死角から攻撃される」
「そうそう。だからこそ『俯瞰』が必要なのさ。彼女の一挙一動に注目するんじゃなくて、相手の全体像を見るんだ。具体的には――」
続くケータの説明を聞いたニコラスは、しばし考え込んだ。
「ちょっと狙撃に似てるかもしれないな」
「え、武術がか?」
「ああ。通じるものがあるっていうか。昔、狙撃手選抜課程にいた教官が似たようなこと言ってた気がする。肉眼で千ヤード (914メートル)先の隠れてる生徒を見つけるとんでもない人でさ」
「その人ほんとに人間か……?」
自身のバックパックを漁りながら呆れるケータを横目に、ニコラスは考え込む。
確かにあの教官はすごい人だったが、問題はそこじゃない。
はて、何といっていたか。
「あ、すまん。これおたくのバックパック……ん? こりゃ絵本か?」
はっとしたニコラスはケータの手元にあるものを見て慌てた。
はっと顔を上げたニコラスは慌てた。
ケータはニコラスのバックパックから、件の手書き絵本を手に取っていた。
色と形状が似ていたせいで取り違えたのだろうが、今はそれどころではない。
「あー、それハウンドのだ。貰ったんだ」
「ハウンドから? なんでまた」
動揺を押し殺したニコラスは、事実をいくつか伏せて正直に話すことにした。
下手に隠せば逆に怪しまれると思ったのだ。
「……次のメニューを考えようと思って」
「メニュー?」
「ハウンドの頼みでな。この絵本の色を使った料理が食いたいんだと」
ケータは意外そうに両眉を吊り上げた。
「へえ! やっぱハウンドも女の子なんだなぁ。サバサバしてっけど割とメルヘンチックなものが好きなのか。なあ、これ見てもいいか? 俺も趣味でイラスト描くんだよ。タブレットにだけど」
ニコラスは一瞬迷い、断る方が不自然かと判断して承諾した。
興味津々に絵本を開いたケータは、煙草の灰を落とさぬよう手を遠ざけながらページをめくった。
「ほお、こりゃ水彩色鉛筆かな? かなり凝ってるなぁ」
「水彩色鉛筆?」
「色鉛筆で塗ったとこを水で濡らすと水彩画っぽくなるやつだよ。上級者向けの画材だな」
「へえ」
ニコラスはケータの博識さに感心した。
と、その時。
「あ」
絵本最後のページの空白部分に、煙草の灰がポトリと落ちた。
風で飛ばされたのだ。
「ご、ごめん!」
「いや。このくらい手で払えば――」
「馬鹿馬鹿! これ粗目水彩紙だから手で払ったら灰が残っちゃうだろ! ちょっと待ってろ、消しゴム借りてくる!」
慌ててすっ飛んでいったケータに驚いたニコラスだったが、絵に目を落とすなり納得した。
風で飛ばされた灰が紙にくっつき、繊維の間に入り込んでいる。
灰色鉛筆で色を塗ったかのようだ。
これは大人しくケータを待った方がよさそうだと思っていると、不意に灰が落ちた部分の端に目が留まった。
――…………?
何だろう。記号だろうか。
ニコラスは親指で灰を押し広げてみた。そして驚愕する。
――文字……!
溝だ。インクの出ない細いペン先で紙をなぞったような、細かい溝がある。
ニコラスはその溝の部分を灰の付いた指でこすってみた。
すると、数字の一群が出現した。
急いで書きなぐったような、かなり形の崩れた数字だ。
2,5 3,1,18,5,6,21,12 20,8,5 4,15,21,2,12,5 8,5,1,4 19,20,1,7
何だこりゃ。何かの暗号か?
一瞬ページ数かと思ったニコラスだったがすぐに気付いた。
これはアルファベットの順番だ。
1は「A」、2は「B」とすれば、秘密の文章が浮かび上がる。
子供でも分かる単純な暗号だ。
即座に脳内で数字とアルファベットの変換を行うと、次の一文が明らかになった。
BE CAREFUL THE DOUBLE HEAD STAG.
《双頭の牡鹿に気を付けろ》
また新たな謎が出てきた。
〝双頭の牡鹿〟とは、一体何のことだろうか。
他にも文字が隠されてないか目を凝らしてみると、絵本の端にも溝がある。
灰の付いた指先でこすってみると、もう一文が現れた。
《この物語を〝カーフィラ〟に捧ぐ》
ますます分からない。
次から次に明らかになる秘密の文に、ニコラスは困惑した。何だこの絵本は。
しかし「カーフィラ」という単語には聞き覚えがある。いつだったか。
記憶の箪笥をまさぐっていると、一つの事実に行きついた。
5年前、ハウンドと初めて出会った時、脱水症状で朦朧としていた彼女が最初に口にした言葉だ。
――カフィラ、そうだ。あの時だ。
あの時ハウンドが言ったのは、『カフィラ』ではなく、『カーフィラ』だったのだ。
そしてもう一つの事実に、ニコラスは総毛だった。
『カーフィラ』とは、アラビア語で『隊商』を意味する。
元来は、隊を組んで砂漠を移動する商人の一団を差す言葉だが、西アジアではイスラム教創始者ムハンマドが聖地巡礼に際し国営隊商の編成を命じ、その隊商の指揮は王室出身者かその代理人が代々担ってきたという歴史がある。
以来、西アジアでは――特に西アジアの軍人や民兵にとっては、隊商は『部隊』、もしくは『指揮官』を意味する隠語なのだ。
とすれば、5年前のあの時、ハウンドは自分のことを『指揮官』と勘違いして呼んだことになる。
「やっほいニコ。説明終わった?」
思わずニコラスは叫んだ。
がばっと振り返れば、不思議そうにこちらを覗き込むハウンドの姿があった。
「お前黙って後ろに立つの止めろ! びっくりすんだろうがっ」
「だってニコもケータもいつまでたっても帰ってこないんだもん。依頼の件も聞いてないし……ん? なんか最後のページ色ついてない?」
「ああ、いやこれは……」
「消しゴム持ってきたぞー!」
筆箱を手に全力疾走してきたケータがハウンドとの間に図らずも割り込み、ニコラスは心底安堵した。
何はともあれ、ハウンドにこの秘密のメッセージは見られるわけにいかない。
自分がハウンドの正体に気付いていることが、彼女に勘付かれてしまう。
ニコラスは急いでケータから消しゴムを受け取ると、証拠隠滅を図った。
「どうだ? 落ちそうか?」
「ああ。これなら何とか」
「ああよかった……。ごめんハウンド。俺が絵本に灰落としちゃってさ」
「あ~それで。そのぐらいいいのに」
いや、よくねえよ。こんな大事そうに描かれたやつに。
ニコラスがちょんちょんと紙をついばむように灰を取っていると、ハウンドはケータと話し始めた。
彼女の興味がそれたことにほっとしつつ、ニコラスも聞き耳を立てる。
「んで。随分と長い休憩だったけどニコへの説明は終わったの?」
「ごめんごめん。ちゃんと終わったよ」
「んじゃそろそろ依頼の説明してよ。いったい今度はどんな厄介事もってきたのさ」
日系人らしく軽いお辞儀を数回したケータは困ったように説明をした。
それを聞いたニコラスたちは眉をしかめ、顔を見合わせた。
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