プロローグ
お待たせしました!
4節は一時間ごとに投稿していきます。
漆黒に塗りつぶされた世界に、純白の穴がぽっかり開いている。
己が唯一認識できる二色——頭上の見事な満月に目を眇め、少女は岩場に張り付くように四つ足で登った。
真夏といえど、標高3千メートルをゆうに超える峡谷の尾根沿いには、真冬と違わぬ極寒が満ち、暴風が行く手を阻む。けれど少女は平然と登っていた。
元よりこの地の、どこかの山で生まれ育った彼女には、急変する気候も日中で激しく変動する寒暖差も日常風景の一つだった。
大人最小サイズ戦闘服の裾を折り、カモフラージュに砂色の外套を羽織っただけの少女は、氷塊のように冷え切った岩を素手で鷲掴みながら目的地を目指す。
ふと立ち止まり、前方を仰ぎながら頭を巡らし、止めた。
風上から煙草のニオイがする。
夜の街でよく嗅ぐ、鼻腔にへばりつくような甘ったるい水煙草の香辛料や花果実のニオイではない。
煙草の葉だけを燃した、純粋な煙だ。
その煙に混じる、微かな男の体臭。
少女は鼻を上に向け、ニオイを辿って道なき山道を進んだ。
しばらくすると、弓なりにせり出した岩の麓、傍目には今にも転がりだしそうな大岩の根元に、一人の人影が座り込んでいるのが見えた。
膝に置かれた左手には、紙巻き煙草が挟まれていて、煙の出所はそこだった。
無防備に身を晒しているようにも見えるが、周囲の尾根から完全な死角となる位置に巧妙に陣取っている。
無論、上空からも見えない。
大人のいうエイセイやらプレデターとやらを駆使しても発見できまい。
人影は胡坐をかいたまま一心不乱に手元を動かしている。
少女は溜息をついた。
「たばこはすわないんじゃなかったんですか、班長。ニオイで足がつきますよ」
故意に音を立てながら近づき、風に負けぬよう叫ぶが上官からの返答はない。
「……班長?」
煙にまぎれがちだが、彼の体臭からは呼気と皮脂に混ざってごく僅かに警戒とからかいのニオイがする。
少女は再び溜息をついた。
「………………『ハスキー』」
途端、影法師がもぞりと動いた。
「どうした、ハウンド」
ようやく振り返った彼の白い顔にはいつもの人懐っこい笑顔があって、自分の呼びかけをわざと無視していた意地悪さは微塵もない。
「聞こえてるなら返事してください」
「だってハウンド、俺の呼称ちっとも呼んでくんないから」
「……前から言ってますが、自分はともかく班長やみなさんまで“いぬ”をなのる必要は――」
「黒妖犬」
どこか間の抜けた鷹揚とした声なのに、なぜか逆らえない異様な気迫を感じて少女は口を閉ざす。
彼はまだ半分残っていた煙草を揉み消すと、胸ポケットに放り込んだ。
「お前は俺たちの大事な仲間だ。お前が狗呼ばわりされるなら俺たちも狗を名乗る。でなきゃフェアじゃないだろ。それに俺はこの名前気に入ってるぜ? シベリアンハスキー、狼みたいでカッコイイじゃん」
「ですが」
「いいからおいで。流石に岩場で三時間も吹き曝しは寒いわ。悪いんだけど、ちょっと熱、分けてくんね?」
少女は無言で歩み寄った。
促すことなくあえて自分の要求として頼むのは、こう言うと少女が断れないと知ったうえでの彼なりの戦術である。
そんな彼の気遣いに勘付きつつも、どう反応すれば正解なのか分からず少女が戸惑って、結局大人しく従うのが常だった。
「よっと。んあ? 手袋してねーじゃん」
「このくらい平気です」
「こりゃ、そう言うの駄目っつったろ。山を舐めるんじゃない。そうでなくともこの辺の山は手厳しいからな。……ほら」
彼は胡坐の上に少女を乗せると、大きな手で小さな両手をすっぽり包んで息を吹きかけた。
少女は背中と手に感じる熱に目を細めた。
彼の匂いと体温に包まれる、この瞬間がいっとう好きだった。
心地よい温もりに身を委ね、ふと彼の左手にあるものに目を止める。
「また絵をかかれていたのですか」
「ん」
彼は己の掌サイズの手帳に絵を描いていた。
敵情偵察で敵勢力下の地形図を描くものではなく、ただ単に自分が気に入った景色を描き散らす類の。
そして、彼のそういった絵には必ずといっていいほど存在する〝もの〟がいる。
「今日のオオカミは二頭なんですね」
「おう。今夜は俺とお前の二人だからな」
荒れ地の岩山、切り立った崖の上から月を仰ぐ二頭の狼。
大きな狼が、小さい狼の遠吠えを見守っている。
たぶん大きい方が彼で、小さい方が自分。
少女は自分の頭ほど大きな手が驚くほど繊細に動く様を感心して眺めていた。
いつもは陽気でお喋りで、乱暴なほど大雑把な人なのに、こうした手先に関することは隊で右に出る者がいない。
ゆえに少女はこの時間が大好きだった。
日頃は何かと騒がしい彼がこうして黙々と絵を描く、その稀有な光景を彼の匂いと体温にくるまれながら見られる、この特別が。
「班――ハスキー。どうしてここに? サクテキならもう出ているでしょう」
「ん~? こうしてると小生意気で心配症のチビ狼がひょっこりやって来るからな」
「待ち伏せ成功だ」と笑う彼に少女はむっとした。が、すぐさま表情を曇らせた。
「ではおこっておられるのではないのですね?」
「俺が? 何に怒るのさ」
「…………さっきの、話し合い」
彼は一瞬黙し、ああと困ったように笑った。
「ありゃ仕方ないさ。最初からこっちの話聞く気ねえもん」
「……他のツウヤクであれば、ああはならなかったと思います」
少女は真昼に行った交渉を思い出し、俯いた。
現地住民との交渉だった。
アフガニスタン国境線沿い、パキスタンの連邦直轄部族地域――現地部族が治める自治区であり、パキスタン政府でも手が出せない無法地帯は、今や数多のテロ組織の温床と化した。自分たちはそこにいる。
班長とその仲間は平和構築支援活動を名目に、逃げ込んだテロ組織の本拠地を捜索すべく派遣された。
その通訳と道案内が己の任務だった。
少女にはその辺の小難しいことは分からない。
だが『飼い主』はそう言った。
ならそれが全てだ。
命令を実行する、ただそれだけ。質問も拒絶も端から選択肢にない。
しかし、少女は己の役目を果たせずにいた。
「自分は、”いぬ”ですから」
少女は膝を抱え込み、顔をうずめた。己の非力さが惨めで仕方なかった。
交渉を求めて村に近づくなり、現地住民は激発した。
会話はおろか、石を投げられ、あまつさえ銃まで持ち出される始末。今回の任務が表向き、現地住民への協力要請と平和構築支援でなければ、応戦していたほどの剣幕だった。
「ハウンド、そういう言い方はやめろ。俺たちは――」
「いいんです。あの〝テロリスト〟も、いつもそう言っていましたから」
少女はぽつりと言葉をこぼす。鼓膜に刻み込まれた声音は消えることがない。
――お前は狗としてしか生きられぬ。――
自分を拾った戦士は事あるごとにそう言った。否、言い聞かせて育てた。
気性が激しく頑固なパシュトゥン人で、厳粛かつ敬虔なイスラム教徒だったという。
両親は知らない。
過激派の虐殺で殺されたか、攫われたか、食うに困って売られたか。
いずれにせよ、人買いに売られていた自分を戦士は買い取り、あらゆる戦う術を教え込んだ。体のいい使い捨ての駒にしたかったのかもしれない。
顔立ちも違う、宗教も違う、言葉も違う身無し子。唯一できることは人殺しだけ。
好かれるはずがなかった。
昔いた村では有名な忌み子で、『狗』と呼ばれて育った。神に祈ることすら許されぬ、呪われた存在だと。
もちろん戦士も決して自分を愛そうとはしなかった。
「あの男が言っていました。この地方の人は顔おぼえがすごくいいって。ずっとずっと昔のことでも、どの人間がよそものかひと目でわかるって。おそらく住民は自分の顔を覚えてたんだと思います。あの〝人〟も……あのテロリストも、ぜったいにじぶんを外に出そうとはしませんでしたから」
訓練はいつも夜だった。来客がある時は奥に隠れるよう言いつけられ、言いつけを破るとしこたま殴られた。
お陰で常人離れした夜目や耳、鼻を手に入れたが、あの戦士が己を褒めることは一度もなかった。
最期まで。
「ふつうのアフガニスタン人であれば、こうはなりませんでした。もうしわけありません。すぐ本部に言ってかえのツウヤクを用意します。やはりテロリスト育ちの自分より――」
「ヘルハウンド」
きっぱりと遮った彼は大きな手で少女の顔を包むと、上を向けさせた。
「ヘルハウンド、それ誰に言われた?」
「え」
「テロリスト育ちだっていうの。誰に言い聞かされた?」
少女は返答に窮した。
その返答への回答は許可されていたない。何と答えたらいいだろう。
視線を彷徨わせるこちらに、彼は深々と溜息をつき。
「……あの野郎。また何か吹き込みやがったな」
と短く舌打ちした。
びくりと肩を跳ね上げた少女に「お前にじゃない」と頭を撫で、彼は膝から少女を降ろして向き合った。
「ハウンド。俺さ、両親知らねえんだわ」
「……へ?」
「両親。俺、捨て子だから。居留地っていう、合衆国の先住民の保護地なんだけど、そこんとこの入り口に捨てられてたんだって。だから名前もなかった。未だに両親がどこに居んのかも生きてんのかも知らない。居留地じゃ随分と嫌われたぞ~? なにせ俺は白人だからな。ガキの頃は結構辛かったな~。あ、でも婆ちゃんは好きだぞ? 俺のこと実の孫みたいに可愛がってくれたし」
少女は困惑した。
彼が突拍子もない話をするのはよくあることだったが、今回の話は本当に唐突だ。どう返せばいいのだろう。
そんな困惑をよそに、彼はいつも通りのんびりと言った。
「ま、そういうわけで。俺とお前はよく似てる。その似たもん同士として物凄いお節介を承知で言わせてもらうなら、お前の育て親をテロリストと決めつけるのは止めておけ」
「でもあの人は――」
「それはそう言われたからだろ? 周りの大人が好き勝手言ったことをお前は信じるのか?」
彼はこつんと少女に額を合わせた。
少女には石色にしか見えない、皆は真夏の空と表する〝アオ〟の瞳がこちらを覗き込んでいた。
「俺はお前の意見を聞きたい。お前は『彼』をどう思った? 俺たちにとってはテロリストでも、お前にとっては大事な人だったんじゃないのか」
少女は言葉を詰まらせた。
頭の中ではとうに言葉が浮かんでいるのに、上手く話せなかった。
「………………でもあの人、一度もほめてくれませんでした」
「うん」
「いつもどなってばっかりで。こわい人でした」
「うん」
「本当の名前も……さいごのときしか呼んでくれませんでした」
「……そっか」
少女は抱きつき、彼の肩に顔をうずめた。
本当は一人前の戦士はこんなことをしてはいけないのに。
あの戦士が本当に自分を愛していたのなら、なぜ生きている間に愛してくれなかったのだろうか。
ただ頭を撫でて欲しかった。
抱きしめて欲しかった。
名前を呼んで欲しかった。
それだけで、よかったのに。
「…………班長、自分はだれを信じたらいいんですか?」
「ん~、それはハウンドが決めることだな~」
「でもそういうのよくわかんないです」
「それでも決めるの。それにほら、俺だって嘘つきかも知んねーぞ?」
「班長はちがいます」
きっぱり少女は言い切った。
だって彼からは、嫌なニオイがしないもの。
彼だけではない。
悪戯好きの双子からも、おっかない衛生兵からも、物静かな副班長からも。
5人のニオイは、いつだって温かくてほっとする。
ちょっと怖い時もあるけど。
でも、5人は嘘つきではない。それだけは断言できる。
そう返すと彼は少し困ったように頭を掻いた。
「ん~信じてくれるのは嬉しいんだけどねぇ…………あんま信じすぎちゃ駄目だぞ?」
少女は首を捻った。
普通は信じてもらえるのは嬉しいはず。何が駄目なのだろう。
暢気に考えていた少女の頭を、岩の隙間をこじ開けてなだれ込んだ山風がはつり飛ばす。
少女の頭は一気に冷えた。
先の見えない現実が寒気と闇をまとって、自分の存在ごと塗り潰さんばかりに迫ってくるようで、その冷酷さに少女は身震いする。
「……これからどうしましょう。アレもさがさないといけないのに」
少女は『彼ら』から必ず見つけ出すよう厳命された物を思い出す。
黒の革張りの、二冊の手帳を。
「安心しろ。『レトリバー』も『ラブラドール』も『ボクサー』も『コリー』も皆お前の味方だ。必ず見つけ出してやる。そうしたらお前も解放されるんだろ?」
少女は頷いた。それが『彼ら』との約束だ。
頷く少女に彼はニヤッと笑った。いつもの彼の笑みだった。
「大丈夫だって。皆で探せばすぐに見つかるさ。そしたら俺がお前を迎えに行く。約束したろ?」
「……はい」
「ならさっさとこんなお使い片付けちまおうぜ。それにまあ……任されちまったからな」
「? だれにですか?」
「誰だろうな~」
少女はむっとした。
彼は決して嘘をつかないが、肝心な部分をはぐらかす悪癖があるのだ。
そんな少女の頭を彼は撫でてくれた。新雪に触れるように、そっと。
「……ごめんな。逃がしてやれなくて」
「いいですよ」
少女は構わなかった。
彼は自分を人間の子供として扱ってくれる。
アフガニスタンのどこにでもいる普通の子供として接してくれる。
それだけで少女は十分だった。
「…………むかえ、まってます。ずっと」
「おう、待ってろ。必ず迎えに行く」
彼が笑い、少女は初めてはにかんだ笑みを浮かべた。
大好きな彼が迎えに来てくれるなら待とう。いつまでも。
***
目が覚めるなりハウンドは風呂場に飛び込んだ。
排水溝にしゃがみこんで嘔吐する。胃液交じりの唾液をぬぐって顔をあげると、ワイシャツの隙間から赤い傷痕が浮かび上がっていた。
皮膚移植で覆い隠しても、真皮まで損傷した傷痕は体温の上昇とともに現れてしまう。
早く、早く黒妖犬に戻らなければ。
蛇口を思い切り捻り、着衣のまま頭から水を浴びて冷却する。十分も経つと、傷痕は跡形もなく消えていた。
「嘘つき」
迎えになんて来なかったじゃないか。
顔を伝った水が口に入って、僅かに塩気を感じた。ハウンドはすぐさまシャワーの水を口に含んで、吐き出した。
***
服も着ず、身を震わせながら寝室へ戻る。
道中リビングのドアが開いていることに気づいて、ふと室内へ視線を向け、ぎょっとする。
ニコラスが床に倒れていた。ジャパニーズ・コミックでいうところの行き倒れのごとく、見事な大の字になっている。
慌てて駆け寄って、呼吸を確認する。
「なんだ。寝てるだけか」
ほっと肩を撫でおろす。周囲を見回し、痕跡のニオイを辿って理解した。
漂う汗のニオイ、テーブル上の睡眠薬とコップ、床に落ちたくしゃくしゃの毛布。
彼もまた悪夢を見たのだ。悪夢を見て飛び起きて、眠れなくて困って、疲れ果てるまで筋トレをしていたのだろう。
で、力尽きた。人騒がせな。
やれやれ。
ハウンドはニコラスを背負いあげた。彼の高い体温が心地よくて、すぐにソファーに横たえて離れた。
毛布をかけてやると、彼はぎゅっと眉間にしわを寄せ、毛布を掴んで身を縮めた。まるで子供のようだ。怯え、不安がっている。
「大丈夫だ、ニコ」
頭を撫でてやると、こわばりが徐々に解けていく。眉間のしわも緩み、やがて穏やかな寝息が聞こえ始めた。
それを確認して、寝室へ戻る。
隠していたカラーコンタクトを着け、鏡の前に立てば。ほら、元通り。
あの子はいない。六年前に死んだ。
漆黒に塗り潰された瞳と髪に、漂白された血の気のない肌。亡霊の如き様相は、まさに墓場の番人に相応しい。
――私は、ヘルハウンドだ。
鏡に手をつき、じっと自分を見つめる。身体の傷は、もうなかった。
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