エピローグ
3節、完結です。
「あ~やっと帰った……」
「お疲れさん」
ソファーの背もたれにグッタリともたれかかるハウンドを横目に、ニコラスはブランチの用意を始めた。
せっかくのスコーンが冷めてしまっている。温め直すとしよう。
「今度きたら問答無用で無反動砲ぶっ放してやる。あの変態め、人間花火にしてやるぞ。あ~クソ、香水の匂いが……ったくなんでこんなくっさいの身体につけたがるかな」
ブツブツぼやきながら煙草を口に咥えたハウンドの元に、ニコラスはマグカップを差し出した。
その匂いにハウンドの鼻がピクリと動く。
「何この匂い。燻製? すごいスモーキー」
「ラプサンスーチョンだ」
「ラスプーチン?」
「誰がロシアの怪僧だ。――正山小種、紅茶の茶葉の一種だ。店長がいうには『世界で初めてつくられた紅茶』なんだと」
正山小種は中国原産の茶葉で、福建省武夷山でのみ採れる希少な茶葉だ。別名を煙茶とも言い、名の通り、松の葉で燻して香りをつけるため、スモークチーズのような匂いがする独特な紅茶だ。
「で、なんで紅茶?」
「お前、煙草を鼻のリセットに使ってるだろ」
薬物だけでなく煙草にも依存していた母を見て育ったニコラスは、煙草が注意したぐらいでどうにかなるものでないことをよく知っている。
だからニコラスはハウンドが喫煙する際の様子を注意深く観察していたのだ。何が煙草の代替品になるのかを。
「お前にはお前の苦労があるだろうし、とやかく説教する気はねえ。ただお前まだ未成年だし、煙草は血行を悪くするからよ。そうでなくとも筋肉量少ないぶん女の身体は冷えやすいし。その……鼻リセットしたいだけならこっちにしてみないか? 紅茶は身体あっためる効果があるから」
予め考えておいた台詞を口にしているだけなのに、どうしてこうも歯切れ悪くなるのか。
ニコラスは自身の不器用さに苛立ちながらも、懸命に説得をしようとした。
すると、ハウンドは突然吹き出した。
「おい」
「ふはっ、ふふふ。ごめんって。だって怒られた犬みたいにオロオロしてんだもん」
「……お前は俺をよっぽど犬扱いしたいらしいな」
「だって可愛いじゃん。ニコだったらジャーマンシェパードかな。あ、マリノアでもいいかも。強面だし」
ニヤニヤと一人思案を始めたハウンドに胡乱気な目を向ける。
こいつの発想は突飛すぎてよく分からん。
ふと、ニコラスはカルロから渡された物のことを思い出した。
「ハウンド、これ。あの側近が渡してくれって」
「カルロが? ああ、これか。流石に仕事が早いな」
「それ何なんだ? それで最後だって言ってたが」
「強制連行された27番地住民の遺品。それの保管場所リスト」
ニコラスは一瞬息をのみ。
「……そうか。還ってきたのか」
「うん」
ハウンドは親指の腹でUSBをすりと撫でる。
それを見つめる双眸は愛おしげで、でもどこか寂しげで。
このUSBの中に、棄民の魂が詰まっている。
「これでようやく全員だ。やっとクロードたちに報告ができる」
「墓はどうするんだ?」
「アッパー半島 (ミシガン州北部の半島)に埋葬する。店長が持ってる土地の一画を借りてるんだ。季節の大半が雪に覆われてる場所なんだけど、人は少ないし自然も豊かだし。それに夏になると色んな花が咲く。綺麗な場所だよ。空っぽの棺桶で申し訳ないけどね」
「墓があるだけいいだろ」
ニコラスは墓が与えられなかった死者たちを数多く見てきた。
アメリカ兵は同胞の遺体は死に物狂いで取り返しに行くが、それ以外の人種は見てみぬふりをすることも少なくない。特にイラクでは死体にすら即席爆弾が仕掛けられていることもあり、迂闊に手が出せなかった。
安全のため致し方がない対処ではあったが、あまり気分の良いものではなかった。
「……うん。そうだね」
雨垂れに似た呟きが、ぽつりと耳朶を打つ。
何故だろう、目が離せない。
瞬きをしたら次の瞬間にはいなくなっているような、風になびく霧を見ているような。そんな儚くも危うい横顔に、ニコラスの心臓が一際大きく鳴り始める。
いつも軽口を叩く陽気さと無縁な、人の手が及んでいない原生林の木陰に似た静謐さと、野に佇む獣のような厳粛さを含んだ横顔だった。
「にしてもニコ、よく私が色盲だって気付いたね」
ぎくりと肩を跳ね上げそうになるのを寸でのところで堪えた。
「あー、こないだ医師に聞いた」
「ああ、あの毒舌外科医か」
「そのコンタクトは色覚を補助するやつなのか?」
「いんや。ただのカラコン。生まれつきだからもう慣れた」
「……なら家にいる時ぐらい外したらどうだ。目疲れるぞ」
「う~ん。でもこれで慣れちゃったからなぁ。――あ」
ハウンドは思い出したように「そうそう」と手を打った。
「お前が探してた例の子供な、見つかったぞ」
「――え」
思考が止まった。
その子なら、目の前にいるではないか。
「コロンビアのメデジンに住んでるんだってさ。つい最近まで山間部の農村に住んでたっぽいけど、現地住民のツテで今は海岸沿いの港町に住んでるんだと。近頃じゃ麻薬カルテル残党がゲリラ化してまた混乱してるみたいだから、潜り込むのもそう難しくないかもな」
「ハウンド」
「この情報掴むのに結構いい値段したんだぞ~? 今は出世払いにしておくから、気が向いたらちゃんと返してね。国内経済はだいぶ安定してきてるみたいだけど、念のため武器と食料は持っていっておけ。うちから持っていってもいい。ただ仕送りは勘弁な。うちもそんな余裕――」
「ハウンドッ!」
思わず肩を掴むも、ハウンドはにっこり笑って小首を傾げた。
目に一切の光がなかった。
「どうした。ずっと探してたんだろ? 逢いに行っておいで」
全身から血の気が引く音が聞こえた。
この子は俺を遠ざけようとしている。特区から逃がそうとしている。
――『ならやはり、ヘルハウンドの目的は復讐か。当然の帰結だな』――
――『彼女が合衆国に復讐するといったら君も加担するのかい?』――
医師と、フィオリーノの声が脳裏によぎる。
違う。この子は、本当は復讐なんか。
『それはお前の願望じゃないのか』
耳奥に響く己の囁き声に、内心で必死に頭を振る。
違う。この子の本当の願いは――いや。
それは、俺が決めることじゃない。
冷や水を浴びせられたように、頭が冷めた。
そしてともかく特区に残るべく、必死に頭を急回転させる。
救うと決めた。
ハウンドには悪いが、その頼みは聞けない。
「ハウンド、俺のために情報を集めてくれたことは感謝する。けどまだ駄目だ。お前にも店長にも27番地の皆にも何も返してない」
「何だ、そんなことか。それなら気にするな。特区じゃ人がふらっと出ていったり消えたりなんてよくあることだし」
「……………………ならお前、俺がいなくなってもちゃんと一人暮らしできるのか?」
「お前は私を何だと思ってんだ。そのぐらい――」
「本当に? ちゃんと毎日シャワー浴びて、脱いだ服ほっぽりだしたりしないで洗濯して、干したらしわになる前に畳んで、シーツは一週間に一度は洗って、部屋もきちんと掃除できるんだな? サプリメントと紅茶が飯なんてもう言わないんだな? ワイシャツの襟とカフスにしかアイロンかけてないって店長に怒られてももうフォローできないぞ?」
「ああー、うん。……うん、ちゃんとする」
「ハウンド、俺の目を見て言ってみろ」
「ダイジョウブダヨ。チャントスルカラ」
「……はあ」
ニコラスは溜息をついた。これならなんとか畳みかけられそうだ。
「俺はまだここにいるよ。お前にデカい借りがあるし、放っとけないし」
「いやだから――」
「お前が今すぐ出てけってんなら出てく」
一瞬、ハウンドが硬直した。卑怯な言い方だと自覚し、自嘲と心痛に耐える。
俺は昔から、狡い大人のままだ。
「俺はお前に拾われた。その時から俺の身柄はお前のもんだ。お前が出てけってんなら出てくし、居て欲しいってんならここに居る。今まで通り雑用もするさ。確かにあの子のことも大事だし、早く逢いに行きたいけどコロンビアってまだ治安不安定なんだろ? だったらアメリカに呼び戻した方がいいと思うんだ。あの子、まだ小さいし」
「それは――」
「ハウンド、お前が決めてくれ。お前は俺の飼い主なんだろ?」
賭けだった。だが彼女が出ていけといったら、本気で出ていく覚悟はできていた。
問題は、彼女が復讐を望んだ時だ。
――俺は、止められるだろうか。
できなかろうが向いてなかろうがやらねばならないと分かっている。それでも迷いが消えてくれない。
俺はこの子の祖国を踏みにじった人間の一人なのだ。
もし彼女がこの地で焦土と殺戮を渇望した時、俺はどう行動すればいいのか。
逃げ続けた偽善者の俺の言葉に、どれほどの説得力があるというのか。
どうすれば、俺はこの子を救えるのだろう。
弦が張り詰めるような沈黙の最中、おもむろにハウンドが口を開いた。
「…………――だよなぁ。普段は正反対のくせに」
「え?」
聞き取れなかった言葉に思わず聞き返すも、ハウンドは応えることなく立ち上がった。
ペタペタと軽い足音を響かせて寝室に向かうと、手に何かを持って帰ってくる。
それは一冊の絵本だった。
「はい、あげる」
「あげるって……これ手書きだぞ。大事なもんじゃないのか?」
突飛な言動に戸惑いつつも、ニコラスはスケッチブックに描かれた簡素な絵本の表紙に目を落とす。
暁の空の下。岩を踏みしめ、空を仰ぎ吠える一頭の小さな黒狼。
これが誰を指してるなんか明確で。
「大昔に貰ったんだけど捨てようと思ってたんだ。私が見ても白黒にしか見えないし」
不意にカルロの言葉を思い出した。よく自分を見上げていたという、彼の言葉を。
もしや、彼女は誰かと俺を重ねているのだろうか?
そしてその人物は、彼女にこの絵本を渡した人物なのか?
「もう必要ないし、燃やしちゃおっかな~て思ってたんだけどね。だからさ、これでご飯作ってよ」
「飯?」
「そ。絵本のご飯。ニコなら色、分かるでしょ?」
ハウンドは膝に両肘をつき、微笑んだ。
当てが外れて落胆したような、してやられたと諦めきったような。
泣きそうな笑顔だった。
「私、色わかんないからさ。そこに描いてある色知らないんだよ。だから教えて。それがここに残る条件。それでもいい?」
ニコラスは再び絵本に目を落とす。
薄明。稜線より明度が増していく紺青の空に、金色に染まった薄雲がたなびいている。それを振り仰ぐ黒狼が一頭、草原にぽつんと佇む大岩の上に立っていた。
今の彼女のようだと思った。
孤高ながらも凛としていて、それなのに、群れを求めて啼いている。
――今の俺に、できることは。
ニコラスは絵本を持つ指に力をこめた。しわを寄せないように、そっと。
「……青とかは食器で何とかしていいか?」
「青って空の色だっけ。食材にないの?」
「青はないな。いやスポーツドリンクとかアイスとかにはあるけど……着色すれば何とか」
「作ってくれんの?」
「……まあ、頑張る」
「やった! んじゃ今日は表紙のがいい」
「スコーン焼いちまったんだが……」
「スコーンはデザート、こっちがメインディッシュ!」
相変わらずの食い意地っぷりに苦笑し、ニコラスは心底ほっとした。
取りあえずはまだ、傍にいられそうだ。
そのことに安堵しつつ、キッチンに立つ。
さて、日の出は目玉焼きで何とかなるだろう。雲の白い部分は玉葱、赤い部分はトマト、残りはマスタードを混ぜたマヨネーズで表現する。草原はレタスでいいから――となればオープンサンドか。それぐらいなら自分にも作れる。
はて青い皿はあっただろうかと思った矢先、ふと背後にハウンドが立っていることに気付いた。
「ハウンド?」
「ん、見てるだけ」
「いや、まだできないぞ?」
「知ってるよ。邪魔しないから」
そう言いつつ、ハウンドは自分の後ろをトテトテついてくる。
冷蔵庫に向かう時も、フライパン (前回の反省を生かして店長から借りてきたテフロン製だ)を流しの下から出す時も、ちょろちょろウロウロ付きまとっては、自分の手元を覗き込んでくる。
正直、邪魔くさい。が。
――こういうとこは昔から変わんねえな。
5年前、自分の後ろを子犬のようについてきた少女を思い出し、ニコラスはそっと口元を緩めた。
「できるまで座ってろ」
「だから邪魔しないってば」
美しく成長しても根っこは彼の少女のままの彼女にこそばゆく思うも、ニコラスの心の片隅には僅かなしこりが残っていた。
――ハウンド、お前は何に囚われてる?
あどけない無邪気な横顔を前に、無音に問いかける。
それを声に出せない己の臆病さを疎ましく思いながら。
これにて3節は完結です。
今後の投稿についてですが、5節がまだ完了していないことと、1~3節で修正点が見つかったことを踏まえ、8・9月は投稿を休止します。
4節は8月3日に全話を一斉投稿いたします。(一時間ごとに各項を投稿)
一気読みしたい方は是非。
5節以降の投稿は10月1日から再開予定(早く終われば早く投稿します)ですので、申し訳ありませんがお待ちいただければ幸いです。




