3-10
「いや~大型も存外悪くないね。加速時の安定性が抜群だ。これならまた借りよっかな」
重力をまるで感じさせない軽快さでバイクから降り立ったハウンドは、こちらを見るなり形の良い眉を跳ね上げた。
「ちょっとニコ、なんでそんなくたびれてんの。無理矢理ダンスクラブ連れてかれた陰キャ新入生みたいな顔してんじゃん」
「……ダンスクラブの方が100倍マシだったな」
少なくともマフィアのボスと腹の探り合いをするより遥かにマシだ。
それを聞いたハウンドはやれやれと小生意気に肩をすくめ歩み寄ろうとしたが、耳障りな声が割って入った。
「お帰りヘル。帰るなら言ってくれたらよかったのに。車ぐらい出すよ?」
何がお帰りだ。ここはハウンドの領土だぞ。
ニコラスがぎっと睨むも、フィオリーノはどこ吹く風で例の女好きしそうな笑みを浮かべている。先ほどの不機嫌面が嘘のようだ。
「というか君、いちおう俺の拘束下にあるはずなんだけどね。どうやってカルロの目をかいくぐ――」
「それよかニコ、交渉どうなった? 結構な騒ぎになってるらしいけど」
フィオリーノは勿論のこと、自身に向けられる無数の銃口も取り囲むヴァレーリ武装兵も豪然と無視し、ハウンドは真っ直ぐこちらに歩み寄ってきた。
フィオリーノの表情から再び笑みが消え、ニコラスはほんの少しだけすかっとした。しかし彼の部下は違った。
すかさず2挺のベレッタSCS70-90自動小銃の銃身がハウンドの上半身前で交錯され、歩みを阻む。現代に蘇った近衛兵2名が鋭いイタリア語で警告らしき言葉を発するも、ハウンドは一瞥もせず、電柱を避けるように身を捩らせてすり抜けようとした。
そんな彼女に業を煮やしたのだろう。今度はハウンドの背後、筋繊維の重装甲をまとった大男が足音も荒く近寄り、太い指が彼女の細肩を鷲掴んだ。
これには思わずニコラスも前に出ようとするも、両脇を銃口で小突かれ阻まれる。気付けば己の左右後方に2名が待機していた。
一瞬どうすべきか躊躇するニコラスの視界に、武装兵らの分厚い背の合間から垣間見えたハウンドの口元がゆるりと動いた。
――『動くな』――
無音の指示に従い制止した直後。
大男の頭が爆ぜた。
頭蓋と脳漿の半分が吹き飛び、ゼリー状になった薄桃色の大脳の残骸が近衛兵らの顔面に直撃した。呆気にとられた近衛兵らは、顔にかかったものを手で触って確認するなり絶叫した。
発射音は悲鳴の前に聞こえた。
ニコラスは戦慄した。
聞き違えるはずもない。
彼の砂塵舞うイラクの大地で、アメリカ兵の心胆を寒からしめてきた7.62×54ミリR弾の発射音。イラク民兵の狙撃手が愛用していたドラグノフ狙撃銃の使用弾薬。
200メートル内であれば巨岩すら砕く、元来は機関銃に使用される強力な弾丸だ。
嫌な記憶に刺激されてか、ニコラスの身体は反射で動いた。
左、武装兵の足の甲に義足を振り下ろす。
足の甲は筋肉が薄く、骨と神経が剥き出しになった急所だ。
怯んだところで小銃を脇に挟み、肘を固定して甲を踏みつけたまま反対側へと向けさせる。
人間は痛みを感じると力む。引金に指をかけていれば反射で引く。武装兵は人間として自然な反応を取った。
フルオート射撃音が響き、右から血飛沫と悲鳴が上がる。
ニコラスはそのまま上半身を捻って小銃を奪い取り、振り向きざまに引金を絞る。
両脇を固めていた兵は、3秒足らずで地面に転がった。
ニコラスはすかさずハウンドの前に立ちはだかるも、周囲を見回すなり硬直した。
囲まれている。
いつからそこにいたのか。黒を基調とする虎模様に似たフローラ迷彩服を見にまとい、AK-12小銃を主武器とした武装兵が、ヴァレーリ一家包囲網をさらに外側から囲い込んでいる。
ニコラスは冷や汗を流した。配置、姿勢、どれをとってもひと目で手練れと分かる。
加えて先ほどの弾丸に、AKを所持した猛虎の兵となれば、その正体は――。
小さな手がぽんと頭に乗った。
「こりゃ、動くなって言ったろ」
「…………ならなんで頭撫でてんだ」
「お留守番できたご褒美。いや~、ニコの髪っててっぺんはツンツンだけどうなじ辺りはモフッとしてて触り心地いいんだよね」
背後からもしゃもしゃ髪を掻き回すハウンドに閉口する。
というかアラサー男が10代の少女に頭なでなでされている絵面は非常にまずいだろう。
ニコラスはすっと前に出て頭を避けた。
「あ、こら逃げるな」
「断る。というかアレ、まさかと思うが」
「うん。ロバーチ一家だよん」
「……マジか」
これほど嫌な予感的中は、6年前の夢想主義上官のお守りをしろと命じられた時以来か。
〈針葉樹林を彷徨う猛虎〉、『殺戮』のロバーチ一家のご登場だ。
しかもニコラスたちは、ヴァレーリとロバーチから挟撃される位置にいる。
「安心しなって。あいつらは味方だよ。今回はね」
「今回は?」
「利害が一致したって感じかな。さて、――пошли」
ハウンドの号令に、猛虎の一群が動いた。
無駄のない動きに音はなく、一糸乱れぬ統率ぶりが空恐ろしい。
発砲がないのは相撃てば双方損害が馬鹿にならぬと自覚してのことか。だが銃口を向けられても一切動じない図太さと、一縷の隙も無い動きに威圧され、ヴァレーリ武装兵は銃を構えたまま後退していく。
それはあたかも同格の獣がにじり合う様に酷似して、今にも爆発せんばかりの緊迫が深々と満ちていく。
地上にはハウンドと自分を中心とするロバーチ武装兵と、フィオリーノを中心とするヴァレーリ武装兵の二つの円陣が形成され、《特区の双璧》両陣営による拮抗が勃発する。
そんな中、一人のロバーチ兵がハウンドの背後に進み出た。
先ほどの射殺されたヴァレーリ兵と同じく屈強だが、こちらの男は増強した筋肉を圧縮した、一見細身にすら見える無駄のない実用的な体躯をしている。
振る舞いからしてこの男が部隊長か。
覆面の隙間から冷え冷えとした蒼眼を覗かせた男はハウンドに一礼した。
「準備、すべて整いました。ヘルハウンド様」
「ん。ご苦労」
「次回からは番犬に決して動かぬよう言いつけておいていただけると助かります。危うく撃ちかけました」
「だってさニコ」
「次も味方でいるってんならそうしてやるよ」
即座にニコラスが言い返すと、覆面部隊長の蒼眼が見開かれ、興味深そうに細められる。だが何か言及することはなかった。
一方、突然部下を3人失ったフィオリーノはこれ以上ないほど眉間に深い渓谷を刻んでいた。
「ヘル。君の我儘にはかなーり大目に見てきたけど今回ばかりはいただけないな。いつからロシアの脳筋どもに尻尾振るようになったの? それともそういうムキムキが好みなわけ? ――貴様らもだロバーチ。ヘルハウンドの身柄はヴァレーリ一家が預かると予め明言したはずだ。なぜ勝手に解放した?」
飼い主に不平を言う愛らしい飼い猫から、不機嫌に唸る雄豹へ。カルロの時も思ったがこの男も随分な役者だ。
しかし怒りの矛先を向けられたロバーチ部隊長の男は、憎たらしいほど微動だにしない。
「我々はヘルハウンド様を解放したのではありません。ヘルハウンド様には我々の監視下の元、我々の保護対象の捜索案内と閣下の伝令役を担っていただいただけです」
閣下、というのはロバーチ一家当主のことだろうか。
ニコラスがそう思っていると、おもむろにハウンドが一点を指さした。
「おっ、いたいた。アイツだ。あそこのスーツ着た顎髭ののっぽ」
見ると小型船舶の影、こちらの様子を窺う27番地住民とテオドールがいた。
騒ぎを聞きつけて様子を見に来たのだろう。
すぐさまロバーチ武装兵がずんずんと歩み寄り、それを見た住民が慌てて回れ右をする。一人逃げ遅れたテオドールは襟首を掴まれ拘束されてしまい、「ひょええ」と何とも憐れな悲鳴を上げた。
これにはニコラスも慌てた。
「おいハウンド!」
「大丈夫だって。ロバーチは自分の財産を保護しにきただけだよ」
「「財産?」」
図らずもフィオリーノとタイミングがばっちり合ってしまったニコラスは顔をしかめた。
「そ。財産さ。マフィアにとっちゃ、金も物も人もぜんぶ所有物だからな」
意味深長に口の端を吊り上げたハウンドの真横で、覆面部隊長が進み出た。
「現刻をもって、テオドール・ファン・デーレンはロバーチ領所属予定の商人となりました。よって我が一家は彼を保護し、彼と27番地における通商行為に不正介入したヴァレーリ一家に対し最終通告を宣言いたします。なお従っていただけない場合は、この場にて即刻報復行為へ移行させていただきますので、そのつもりで」
「「……――は?」」
またもや言葉が被ってしまったが、ニコラスはそれどころではなかった。
「ちょっと待て! まさかお前――」
「落ち着けニコ。予定つったろ。そこで子羊よろしくプルプル震えてる髭商人の身柄をロシア人どもに売っ払ったわけじゃない。取引したんだよ。無論、全ての決定権は彼にある」
そう言ってハウンドはテオドールを振り返った。
「アンタ、祖父の代から海運業やってんだってな。それも第二次大戦後はヨーロッパで一、二を争う最大手だったそうじゃないか」
「へっ? え、ええ。まあ。といっても、もう私の代で我が社もお終いですが……」
「そうなるかはアンタ次第だ、テオドール・ファン・デーレン。ロバーチ一家が当主、ルスラン・ロバーチより伝言だ。『貴殿が三世帯かけて培ってきた西ヨーロッパ諸国とのノウハウと人脈を提供してくれるなら、我らは貴殿の身の安全と完全なる通商の自由を保障する』ってさ。どうする?」
唖然による沈黙のせいで、湖風がやけに寒々しく響く。これにはニコラスだけでなくテオドールもヴァレーリ武装兵もポカンと大口を開けた。だが。
――その手があったか。
ヴァレーリ一家がテオドールに関税をかけられるのは、彼が無所属の商人だからだ。ならば、テオドールをヴァレーリ以外の五大一家所属の商人にしてしまえばいい。
統治者たるハウンドにしか持てない切り札であり、最良の有効策だった。
突如投げ込まれた爆弾から真っ先に回復したフィオリーノが割って入ろうとするも、寸毫のところで覆面部隊長が立ちはだかった。
フィオリーノの眼光が牙を剥く。
「どきな三下。誰に銃を向けている」
「いいえ。いくら貴方様といえど退けません。此度の貴方様の独断行為については閣下だけでなく、他一家の当主様方も大変不快に思っておられます。勝手な行動をされては困ります」
「各当主はそれなりに独断が許可されているはずだけど?」
「ではご随意に。動けるのなら」
大した奴らだとニコラスは思った。
廃工場の屋上、放置された小型船舶の下、錆びついたコンテナの脇。自分たちを中心に3点、狙撃兵が互いの射線上からギリギリ外れる位置に、しかもヴァレーリ武装兵が持つ小銃の有効射程外にいる。
周囲に視線を走らせたこちらの一瞥で気付いたらしく、フィオリーノは忌々しげに舌打ちし、ニコラスはハウンドを庇うようそっと位置取りを変えた。
一方のハウンドはテオドールだけを見ていた。
これで本当に最後の交渉だ。
「アンタのことはもう住民から聞いてる。勝手な真似をしてすまないが、今すぐ決めてくれ」
「い、今すぐですか……!?」
「ああ。アンタがこの27番地のために尽くしてくれると言うなら、私からも最大限の敬意と恩義をもってアンタに報いる。衣食住の無償提供と身の安全の保障を、アンタとアンタの全社員に適用すると約束する。ただし、うち貧乏だからそんなに良い暮らしはさせてやれない。そこだけは勘弁してほしい。さあ、どうする?」
テオドールは忙しなく視線を彷徨わせた。
が、やがて深々と溜息をついた。
「貴方も中々にお人が悪いですね、ミス。どうもこうも、選択肢なんて初めからないじゃないですか」
「まあこれでも『六番目の統治者』だかんね」
その返答にやれやれと肩をすくめたテオドールは苦笑した。
「そのお誘い、お引き受けしましょう。私の全知識と経験をもって27番地に貢献させていただきます。ただし、くれぐれも先ほどの約束はお忘れなきよう」
「All right、交渉成立だ」
しっかりとした握手が交わされた。そしてハウンドはフィオリーノを振り返った。
「ってなわけで。テオドール・ファン・デーレンは現刻をもってロバーチ領商人だ。手出しするならロバーチ一家が黙ってないぞ~?」
「……ヘル、俺の記憶が正しければ君はなりふり構わず尻尾を振る雌犬じゃあないと思ってたんだけど。それともそっちが素かい?」
役者顔負けの豹変ぶりを見せるマフィア首魁を前に、ハウンドも仮面を脱ぎ捨てた。
陽気で自由気ままな少女から、毛を逆立て唸る黒妖犬へ。
剽軽な空気はとっくに霧散していた。
「お前こそ私がなぜ墓場の番犬を名乗るのか忘れたか? 下らん矜持に拘泥して全てを失う人間サマより、泥水啜ってでも護れる狗の方がいい。使えるなら何でも使うさ。統治者ってのはそういうもんだ」
フィオリーノは黙したまま。ただ橄欖石の双眸が流星の如く燃え盛っていた。そんな眼光を平然と見やって、ハウンドはにっこりと笑った。
ニコラスは知っている。これは悪戯を仕掛け終えた時に見せる笑顔だ。
「さて。フィオリーノ、そろそろ2番地に帰った方がいいと思うけど?」
「……なぜ」
「あれカルロから聞いてない? さっきロバーチの連中が2番地にあるお前名義の証券会社襲撃して機密情報かっぱらっていったんだけど」
それを聞くなり、フィオリーノは今まで見たことのない凄まじい表情で怒号を飛ばした。イタリア語で発せられたそれはニコラスには理解不能だったが、尻に火がついたが如く撤収準備に動く部下の反応を見るに、激怒しているのは確かだろう。
「…………ヘルハウンド様。煽るのは結構ですがあまり情報を漏らさないでください」
電光石火よろしく撤退していくヴァレーリ一家を見送って、覆面部隊長が溜息をついた。しかし当の本人は不遜に鼻を鳴らしただけだった。
「どうせもう撤収済みなんだろ。てかなんで強襲してまで顧客データ盗んだ? 普通にハッキングすればよくね?」
「相手はあのヴァレーリ一家ですからね。かなり堅牢なハッキング対策を講じておりましたので、メインコンピュータごと持ち帰らせていただきました。後は向こうが遠隔消去する前にデータを奪取すれば完了です」
「うわぁ物理」
ハウンドのコメントにこれといった反応を示すこともなく、覆面部隊長も手信号で部下に撤収の合図を送った。
《特区の双璧》同士の拮抗は解け、兵士という荒波が徐々に引いていく。
ニコラスはようやく肩の荷を下ろした。
長い一日だった。3日間は不眠不休で動いていた気がする。
と、そこにハウンドがひょこっと顔を出すと、にっと笑った。
「ありがとね、ニコ。おかげで助かったよ」
ニコラスはたじろいだ。確かに自分は時間を稼ぐという貢献を果たしたが、それ以上にフィオリーノに投げつけられた言葉が心臓に刺さって痛かった。
結局、自分はハウンドの好意を利用して、彼女を守るという自己陶酔に耽っていただけの碌でなしだった。
偽善者のまま、なに一つ変わっていなかった。
フィオリーノはどうしようもない屑だったが、指摘自体は正鵠を射ていたのだ。
受け取れない。
そう思って口を開こうとすると、ハウンドの手がまたもこちらに伸びていた。
小さな手が触れるか触れないかの瀬戸際で止まり、頬を緩やかに包む。触れていないのに、風にあたって冷えた頬にはやけに温かかった。
「そんな申し訳なさそうな顔をするな。お前が粘ってくれたから私も間に合ったんだ。素直に喜べ」
普段と異なる清閑かつ柔和な囁き声に、顔が急激に熱を帯びていく。
ニコラスは誤魔化すように咳払いをした。
「…………まあ、それなりの役目は果たしたぞ」
「ん。お疲れ様」
そう告げるとハウンドはあっさり離れ、見守っていた住民らの元へと向かった。その事にニコラスは胸を撫でおろしつつも、頬の熱の残滓を名残惜しく思った。
また救われてしまった。
昔も今も、俺はこいつに守られてばかりだ。
それが悔しくて、そのくせ舞い上がるほど嬉しいのが腹立たしい。
強くならねば。もっと、いま以上に強く。彼女を守れるように。
己より低い位置にある華奢な背に目を眇め、ニコラスは早足で後を追った。
次の投稿は7月28日です。
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