3-9
「ここならいいかな」
廃工場を出て数分のところで足を止めたフィオリーノは踵を返して向き直る。ニコラスが今朝に通った、例の小型船舶が大量に遺棄された河川港である。
――50人はいるな。
足首に忍ばせていたタクティカルナイフすら取り上げられたせいか、江風がやけに身に沁みる。
そんなこちらの心情を知ってか知らずか、フィオリーノは実ににこやかに話しかけてくる。
「いやぁ、君とは一度話してみたくってね」
「御託はいい。要件を話せ」
「愛想がないねぇ。雑談も時には大事だよ、ウェッブ一等軍曹。それともその頑なな態度は君の母親が原因かな?」
ニコラスは両眼を鋭利に眇めるに留めた。やはりこちらの素性は調べていたか。
「ナイトクラブのダンサー兼娼婦だっけ? 育児放棄と虐待は日常茶飯事、父親すら不明。君が逃げるように家出して海兵隊に入隊した2年後に薬物過剰摂取で死亡してる。そのおかげで君は一度、偵察狙撃兵の認定課程で落とされてる。成績トップだったのにね。二親等以内に依存症及び精神疾患患者がいる隊員は難色を示される。わざわざ縁まで切って隠してたのに土壇場でバレたわけだ。さぞ悔しかったろうねぇ」
クスクス笑いがやけに似合うフィオリーノを前にして、ニコラスは顔色一つ変えなかった。
この程度の煽りで噛みつくほどやわな人生は送っていないし、この男の前で一言でも発すれば、そこから食い荒らされる気がしてならなかったのだ。
「……俺の経歴はいい。《手帳》の話をしにきたんじゃなかったのか」
「ああ、うん。それね。君、アレについてどれだけ知ってる?」
「【石油食料交換プログラム】関係者のブラックリスト。その証拠品」
ニコラスは初手から思い切って打って出た。機密情報の即答が功を成したのか、フィオリーノはやや目を見開くと上機嫌に話し始めた。
「おお、そこまで知ってたか。偉い、偉い。ご名答だよ。あのプログラムは随分と壮大でねぇ。ロシア、フランス、中国、イギリスの常任理事国。スイス、マレーシア、シリア、ヨルダン、エジプト、トルコ、ドイツ等など。世界各国の要人が大勢関与してた。現職の大臣といった政府高官から民間組織、果てはバチカンやロシア正教といった宗教団体までね。むろん俺たちマフィアにもお声がかかったよ。うちは乗らなかったけど」
「……合衆国も関与してたのか?」
「Certo (もちろん)。アメリカはアフガニスタン紛争初期の頃から中東への介入に熱心だったよ。なにせ大嫌いなソ連に嫌がらせをする絶好の機会だったからね。ていうか君、随分と詳しいねぇ。ヘルから聞いた?」
「……まあそんなとこだ」
「ふーん? なら彼女が《手帳》持ってるのも知ってるんだ?」
ニコラスは顔を上げ視線を合わせて口を引き結ぶ。腹の底まで空かし見ようとする黄緑色の双眸に寒気を感じつつも、目は逸らさない。
こちらの腹を裂いて腑分けするような異様な眼光を前にして、目が逸らせなかった。
「気に入らないなぁ」
湖風に掻き消される寸前のぼそりとした呟き。その意図が読めず鼻面にしわが寄った。
「何がだ」
「だってヘルは君に話したんだろ? この俺が3年間かけて、これまで培った全能力を駆使して。それでも手に入れられなかった情報だった。それを君はまだ出会って3か月で聞き出した。気に入らない。実に気に食わない」
「お前が胡散臭いから言いたくなかっただけだろ」
「それは否定しないけどね。けどさ――ここまで来たらもう分かったんじゃない、負け犬くん」
一拍。鼓動が大きく鳴った。
「何が言いたい」
「あの子の正体。気付いてない? それとも気付かないようにしてるだけかな?」
心臓がずくりと軋み、口の中が急速に干上がっていく。
答え合わせの時間だ。
「お。その顔は薄々気付いてるかな? 教えてあげよう。ヘルの正体はねぇ――」
「元テロリスト。正確にはイラク解放戦線に属してた過激派組織の少女兵、だろ」
「へ」
フィオリーノの口から実に間の抜けた声が出た。どうやら初めて意表を突くことに成功したらしい。
だがニコラスはそれを喜ぶ気にはなれなかった。
己が地獄にすら行けぬ業の深い存在だという、自覚があったから。
「アイツの正体ならとっくの昔に知ってる。知ったうえで傍にいる」
「…………へえ。こいつは傑作だな。かつて殺し合った敵と手を取り合って仲良しごっこかい?」
「ああ。相手がアイツだからな」
ニコラスはぐっと顎を引き、拳を握る。
誰も助けてくれなかった。
それが今までしてきたことへの報いだったとしても苦しかった。救われたいと思ってしまった。
そんな俺の前にあの子は現れた。
救われる価値のない咎人に、ボロボロの傷だらけの手を差し出した。
応えて、なにが悪い。
「俺にとっちゃアイツの過去も肩書もどうでもいい。俺が助けて欲しかった時、アイツだけが助けてくれた。アイツだけは俺を見棄てなかった。だから俺はアイツを守る。この先なにがあろうと俺はアイツの味方だ」
ニコラスはフィオリーノの手口を次第に把握しつつあった。
この男は議論で勝利を治めたいわけでも論破したいわけでもない。相手の心を折りたいのだ。
相手が取れる手段を一つずつ奪い、必死に抵抗して最後の希望を掴もうとした瞬間、その手に刃を振り下ろす。そうして相手を絶望させる。
二度と刃向かう気力すら湧かないように。
これまで見てきた人間の中で最高レベルの屑野郎だ。
その手に乗るものか。
睨みつける双眸に力を込めた、その時。
突如、フィオリーノは腹を抱えて笑い始めた。
呆気にとられるニコラスを前に、ようやく笑いを収めたフィオリーノが視線を合わせる。
どろりと濁ってた瞳で。
女性を魅了してやまない橄欖石の輝きは失せていた。
「ふはっ、いいねぇ、君。君みたいなの俺、大っ嫌いだよ。そういう無駄に熱い目した奴。善人になれず、悪人にもなれない半端者が随分と真っ直ぐな目をするんだね。最高に反吐が出る」
どこか壊れたラジオのようなひび割れた声に、煉獄を宿す異常な目に、ニコラスは生唾を飲み下す。
これがこの男の本性か。
「俺はヘルハウンドが好きだよ? いくら誘っても乗ってこない気高さも、目的のためなら手段を択ばない苛烈さも。それでいて己の罪に馬鹿正直に向き直ろうとする。悪人である己から決して目を逸らさない。実に愚かでいじらしい。その律義で不器用な彼女が俺には愛おしくて仕方がない。じゃあ、お前はどうだ『偽善者』。お前は何かと向き合ったことがあるか?」
言葉に心臓を穿たれ、立ち竦んだ。
返す言葉がなかった。母親から、親友の遺族から、軍から、現実から。何もかもから逃げてここへ辿り着いた。
さっきだってそうだ。ハウンドの正体には気付いていた。再会した時から薄々察していた。
こいつは敵だと。
それでも縋ってしまった。
差し伸べられた手を振り払えなかった。
それが死んでいった同胞への裏切り行為と知ってなお、掴んだ手を離せなかった。
黙するしかないこちらに、フィオリーノは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ほら。都合が悪くなるとすぐだんまりだ。そういうとこが気に食わないんだよ。向き合う度胸もないくせに逃げもしない。何もしないくせにただ突っ立って傍観に回る。君は俺らを蝙蝠と呼んだみたいだけど、一番の蝙蝠は君じゃないか。表社会と裏社会どちらの人間からも嫌われるはぐれ者だ」
フィオリーノはゆるりと両手を広げた。
指揮棒を振るう楽団長が如く、優雅に禍々しく。
「俺たちマフィアに救いがあるとすれば、それは自覚をもって悪を成すことに尽きる。無自覚に悪事を成しながら、己を正義と信じて疑わない人間の多いこと多いこと。自覚をもって悪事を成しながら、必死こいて揉み消そうとする。実に滑稽だよ。俺たち碌でなしをしてなお『ああはなりたくない』と思わせる醜態ぶりはいっそ見事だね。むろん君もだ。敵かどうかも判別できない民間人を散々殺しておきながら、翻って今度は女子供だからというだけで奴隷を保護しようとする。随分とご立派な精神じゃないか。それで? 君は何を得た」
得るものはなかった。
自分が全てを失っただけだ。
ニコラスの無言の返答に、マフィア頭目の顔にあからさまな侮蔑が浮かんだ。
「何もかも失ったよねぇ。民間人救出なんてとち狂ったことしなけりゃ味方は死なずに済んだ。それで批判されまくって、今度はかつての敵にしがみついたわけだ。助けてもらったから助ける? 違うね。君がヘルを助けるのはただの自己保身だ。自己の存在を認識し受け入れてくれた人間を失いたくないだけ。存在価値を認めてくれるなら、なりふり構わず尻尾を振るただの駄犬だ。自己犠牲というのもおこがましい。自分の不幸に酔って周囲を巻き込むだけの、はた迷惑な利己主義者じゃないか。どんなことがあろうと彼女の味方だって? なら彼女がアメリカに復讐するといったら君も加担するのかい?」
「……違う」
「違う? 何が違う? 君はヘルハウンドを守りたいんだろ? 守りたいって言っておきながら彼女の意志は尊重しないわけ? あ、分かった! 彼女が自分の理想から外れたら速攻で排除するんでしょ。だって君『偽善者』だもんねぇ。自分の恩人は裏切れないけど祖国が燃やされるのは耐えられない。だからせめて自分の手で彼女を始末しようって腹かい? いいねぇその傲慢さ、実に浅ましいよ」
「…………お前は何がしたいんだ。《手帳》の在り処が聞きたいのか?」
「んなもん聞かないよ。だって君、知らないだろ」
図星だった。言葉は完全に失した。
茫然自失に突っ立てるだけの自分に、フィオリーノは酷薄に嗤った。
「無言が好きだねえ。何も言わない案山子に交渉しても仕方ないね。今すぐ出ていったら? 足が動かないなら出してあげよう。君が顎で使ってた少年団の誰かを吊るそうか」
………………――ああ、なるほど。
ニコラスはようやくフィオリーノが自分を呼び出した理由を悟った。
この男は獲物をいたぶりたいだけだ。鼠にどのぐらい牙を立てれば息絶えるか弄ぶ猫と同じ。
目的などない。ただの遊びだ。
「だんまりのつまらない玩具に用はないや。君、今すぐ消えてよ」
最後の言葉が心臓に突き刺さった。
ニコラスの精神は、もはやズタズタだった。
だが。
「――で?」
瞬間。フィオリーノの表情が硬直し、ひび割れた。
ごく僅かなひびだったが、ニコラスの眼は見逃さなかった。
古びた鉄製手すりからペンキが剥がれ落ちるように。不遜なる強者の笑みが割れ、その隙間から余裕が零れ落ちていく。
剝がれ落ちた仮面の下には苛立ちと不可解に歪んだ男の顔があった。
ここに至り、フィオリーノは初めて動揺を見せた。
「……は?」
「それがどうした、と聞いたんだ。お前は『偽善者』の俺がハウンドの隣に相応しくないといった。それが何だ。不相応だろうが出来損ないだろうが関係ない。俺はここにいなきゃならないんだよ」
――自分にとっては、あなたこそが英雄なんです。――
脳裏に蘇る幼子の声は、いつも明快で凛としてニコラスの心臓を穿つ。
そうだ。俺は英雄なんだ。
あの子だけの英雄だ。
できない言い訳を探してんじゃねえ。
「できないとか資格がないとか、んなことはどうでもいい。『やる』んだよ。それ以外の選択肢なんざ端からねえんだ」
できないじゃない。やれ。
望まれたのなら、応えてみせろ。
「俺はこれからも特区にいる。アイツが俺を助手として選んだんだ。そうあれと望んだ。だったらなってやる。テメエの意見なんぞ知ったことか」
「……ふーん。あっそ。で、俺の質問に答えて欲しいんだけど、君はハウンドがアメリカに復讐したいといったらどうすんの?」
「誰だそいつは」
「はあ?」
これには流石のフィオリーノも不快感を顕わにした。
「ヘルはヘルでしょ。『六番目の統治者』、ヘルハウンドだよ。それ以外に誰がいるの」
「違うな」
「君なにが言いたいの? 俺、野郎相手に時間無駄にすんの嫌いなんだけど」
「お前の言うヘルハウンドってのはいつも胡散臭くへらへら笑ってる女のことだろ? 俺は知らない。俺の知ってるあの子は、あんな笑い方する子じゃなかった」
虚を突かれたようだった。
フィオリーノは表情だけでなく身体も硬直させた。それが蛇髪族の邪眼を見て石像と化した人のようで、車道に飛び出しヘッドライトを浴びた猫のようで、少し滑稽だった。
――ああ、でも。笑顔が歪なのは昔から変わらないか。
ニコラスは目を眇める。
昔に見たあの子の姿は脳裏にしかと刻み込まれている。
傷だらけの痩せこけた顔で「ありがとう」と笑った哀しい笑顔も。独りにしないでと縋りついた泣き顔も。
別に俺でなくともあの子は守れる。むしろ俺のような、自身の欲のために他者を利用する偽善者は守るに値しない。
誰か、俺よりずっと立派で強い人間が守ってくれるなら、俺は必要ない。
だがこの男には任せられない。少なくとも、この男だけは駄目だ。
「俺はあの子の全てを理解したわけじゃない。けどあの子は復讐なんかしない。あの子の望みはもっと純粋で素朴なもんだ」
「…………へえ。随分と分かったような口きくね」
「そっちこそ全てを悟ったみたいな口きくな。それに、復讐を望んでるのはお前だろ?」
「はあ? 君なに言ってんの?」
理解に苦しむとばかりに嘲弄する男に、ニコラスも低く鼻を鳴らす。
こんな詰まらぬ男にすら怯える自分に発破をかけるように。
「お前は所詮ただの見物人だ。飼い主気取りでまいた餌に群がる野良犬みて愉しむだけの部外者だ。ハウンドがお前を嫌う理由が分かるか? お前がアイツを同列に扱おうとしないからだよ。物珍しい雌犬を見つけたから飼い慣らしてみたいなんて奴にアイツがなびくかよ。お前はハウンドが復讐に踊り狂う様が見たいだけだ。それをハウンドは覚った。だからお前にずっと心を開かなかったんだよ。違うか?」
今度こそフィオリーノの顔がはっきりと歪んだ。
整った顔立ちゆえに醜くはないが、総毛だつ迫力があった。勿論ニコラスに退く気はなかった。
何もかもから逃げてきた。だからこそ俺はあの子と向き合わねばならない。
俺があの子を救うのだ。
一度は見棄てたあの子を、今度こそ。
もう逃げるのは終いだ。
「俺が半端者なのは否定しない。卑怯者なのもな。けど俺はあの子を守る。俺の存在意義はそれだけだ。テメエの意見なんざ知ったことか。上っ面だけ見て分かった気になってんじゃねえよ勘違い野郎。この程度で任務を投げだすほど腑抜けになった覚えはねえ」
そう吐き捨てたニコラスに、フィオリーノはしばし無言だった。
そしてすうっと目を細めた。
憎々しげに、けれど、どこか切なさを孕んで。
「……そうだね。俺は確かに彼女を知らない。今も昔も。何も話してくれなかったからね。けど、君にできることが何も無いのは変わりない」
徐々に熱を帯びる口調にニコラスは歯噛みする。
譲渡状がある以上、ニコラスたちの新事業は失敗だ。せっかく開拓した新たな搬入ルートも、今まで以上に高い税を徴収されることになる。
敗北だ。
ニコラスが項垂れ俯くと、視界の端でフィオリーノに笑みが戻ったのが見えた。
その顔を殴り付けたいのを必死に堪えていると、葉擦れに似た甲高い金属音が近づいてくる。ヴァレーリ武装兵の防弾チョッキと負い紐がかち合う音だった。
総勢30人あまり。自分は丸腰だった。
存外長生きしたな、などと天を仰いだ。
刹那。
雄々しい低音が高らかに轟いた。
それは獣の咆哮に似て、一匹狼の遠吠えのようで。
はっとしたニコラスは首を巡らした。
己の背後、ヴァレーリ武装兵集団が銃を構えて狼狽えている。引金に指はかけつつも、撃つのを躊躇っているといった仕草だ。
ニコラスは気付いた。
遠吠えなんかじゃない。これはバイクの排気音だ。
次の瞬間、武装兵を蹴散らして一台のバイクが現れた。
照り輝く黒鉄の車体に、中央前方に巨大なエンジンを搭載した姿は毛を逆立て唸る肉食獣を想起させる。
Ninja-1000SX。ニコラスは日本製の大型バイクという程度の知識しか持っていないが、その冠する名の意味は知っていた。
『暗殺者』に跨った人物は派手に白煙と騒音をあげてドリフト停止し、被っていたヘルメットを脱ぎ捨てる。
童顔ながらも整った容姿が剥き出しになり、乱れたうなじだけ長い黒髪が風にたなびいた。
ニコラスは目を剝いた。
「ハウンド!?」
代行屋はこちらの姿を見つけるなり、口の端をニッと吊り上げた。
「ただいま、ニコ」
次の投稿は7月23日です。
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