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「いやはや、随分と狭苦しくなってしまったなぁ。以前のデトロイトとはまるで別物……むむ? こんなところに坂道が?」
鳩のようにきょろきょろ首を巡らしながら細い路地を進む顎髭がトレードマークの商人こと、テオドール・ファン・デーレンは記憶にない坂道の出現に首を捻った。
はて、こんな坂道あっただろうか?
デトロイトは昔から仕事の関係でよく出入りしていた。街並みはよく覚えている――はずだったが、どうにもこの入り組んだ路地や突如現れる坂に慣れずにいる。
棄民流入による人口急増で建造物が乱立。迷宮の如く入り組んだ路地はそのせいだというのはまだ分かる。
だが坂道ができるのは何故だろう。
テオドールはしゃがもうとしてガムや吸殻がこびり付いたアスファルトに気付き、一瞬躊躇したが、構わず膝をついた。どうせ商談は失敗に終わったのだ。今さら服装に気を配る必要もない。
四つん這いで顔を地面に近づけ、坂道の勾配を検分し始めたテオドールに、奇異の視線が突き刺さる。それを気まずく思いながら推察し、はたと気付いた。
なるほど。これは突貫工事の後だ。
以前あった建物を壊し、その瓦礫を平らにならすことなく直接コンクリートを流し込んで土台としている。だから勾配ができ、坂ができた。
何という杜撰さ。耐震工事にうるさい日本の建築家が見れば泡を吹いて卒倒するだろう。
だがテオドールは逆に感心した。
土地の限られた特区には瓦礫を撤去しようにも仮置き場もないし、非合法の存在である棄民にそんな財力も技術も機材もない。となれば、こうして瓦礫ごと土台にして新しい建物を建ててしまった方が、その場しのぎであってもひとまず問題は解決する。
貧しくも柔軟な街だ。
街並みにしても貧民街そのものだが、スラム特有の鬱屈した淀んだ感じはない。むしろ喧しいほど忙しなくて、立ち止まっているだけで飲み込まれそうな活気がある。
携帯電話などの電子機器販売店や若者が好みそうな中古品雑貨店がずらりと並ぶ一方、飲食店や商店街は90年代の昔のまま。通りは肉体労働者らしき多種多様な人種の人々が練り歩き、壁やシャッターには取るに足らない落書きから、思わず足を止めたくなるほど見事な絵が所狭しと描かれている。
以前訪れたロンドン南部のペッカム地区にどこか似ている。
個人的にも商人的にも非常にワクワクする街だ。
「陸の商売も悪くないな……。もう全部の船を売ってここでやり直そうか」
ブツブツとぼやく己の声は、街の雑音にかき消されてしまう。このまま自分の鬱憤も吹き飛ばしてくれればいいのに、と思う。
あの後、商人たちは口汚く罵りながらヴァレーリ領一等区へと戻っていったが、テオドールはそうしなかった。
自分たちはヴァレーリ一家から任された商談をないがしろにし、一家に泥を塗ったのだ。帰ったところで、ただで済むとは思えない。
とはいえ、どうしたものか。
テオドールは途方に暮れていた。
5年前の金融危機で傾いた海運業を立て直すべく、他の商人たちに便乗して特区市民の地位を勝ち取ったまでは良かった。だがその後、マフィア連中に密輸用の船を貸せと言われ、断ったのが運の尽きだ。
――いやいやいや! そもそも連中の注文は人身売買用の密輸船だ。見つかれば私は切り捨てられるだけ、トカゲの尻尾など死んでもごめんだぞ私はっ。
しかしあれ以来、特区ビジネスからは締め出されてしまった。
今や三等区との商談に参加するのが精いっぱいの身、しかも発言すら許されずに追い出される始末だ。情けないにもほどがある。
「祖父の代から海を股にかけてブイブイ言わせてたこの私が、今や湖の観光船業とは。落ちぶれたものだなぁ……」
そもそも犯罪都市が間近にある湖畔でクルージングしたい酔狂がどこにいるというのか。せいぜい月に数回、特区に訪れた金持ちがクルージングに利用するぐらいで、観光船業では到底やっていけない。
首をくくる気は毛頭ないが、経営破綻の文字は刻一刻と近づいている。
もういっそのこと、船を全部売ってしまおうか。
テオドールが頭の中で自身の船を競りにかけ始めた時。突然怒声に突き飛ばされた。
「おいお前。こんなところで何をしている?」
振り返るやいなや、テオドールは蒼白になった。
ヴァレーリ一家の武装構成員が立っていたのだ。
慌てて周囲を見回して見ると、先ほどまでいた27番地住民の姿はなく、7、8名の構成員が我が物顔で無人と化した大通りを占拠していた。そんなところに自分は迂闊にも足を踏み入れてしまったらしい。
テオドールを呼び止めた構成員は、路駐された構成員御用達の防弾仕様車両、マセラティ・レヴァンテにもたれていた背を離すと首を傾げた。
「ん? 誰かと思えば、例の商人どもの一味じゃねえか」
「いやその……」
「運のいい奴だな。帰った連中なら全員捕まったぞ。資産没収のうえアフリカ支部に強制出張だとさ」
テオドールは震えあがった。
ヴァレーリ一家のアフリカ支部といえば現在、地下資源の採掘権をめぐって地元住民と抗争の真っ最中だ。交渉人という名の、現地住民の鬱憤を晴らすためだけの供物でしかない。
予感が的中したと喜ぶ気にもなれない。次は確実に自分の番だ。
すると構成員はますます嗜虐に顔を歪めた。
「ちょうどいい。本部からお前を連行しろとのお達しだ。一緒に来てもらうぞ」
「へあ!? それだけはご勘弁を……! 私は没収されるほどの資産も持っておりませんぞっ」
「それは上が判断することだ。驚け、首領自らお前に会いたいとのことだ。どうだ、嬉しいだろう?」
嬉しくもなんともない。今すぐ逃げ出したいが、情けないことに膝が笑って走れない。
――ええいっ、私の脚は生まれたての小鹿か! 三十路の男がプルプル震えても可愛くも何ともないわ!
胸中で自身にツッコみを入れるが、身体は動いてくれない。ニヤついた構成員はこちらに手を伸ばしてくる。
ああ、もう駄目だと思った刹那。妙な音がした。
――何だ?
遠雷の轟きにも似た音が近づいてくる。何かが転がる音だ。テオドールが恐る恐る顔を上げると、構成員も他の構成員も動きを止めて周囲を見回し始めた。
そして気付いた。
「なっ!?」
火車だ。ギリシャ神話の太陽神ヘリオスが繰る戦車の如き無数の火炎車が、大通りに通じる坂道の上から転がってきている。
それが燃えるタイヤだと気付いた瞬間、タイヤは側溝にぶつかって大きく跳躍し、先ほど構成員がもたれかかっていたマセラティに衝突した。
火の粉が飛び散り、火車から分離した大小の炎が車体に張り付く。熱で液状化したタイヤのゴムが、粘性のある燃料と化して燃え盛っているのだ。
火車は2、3、4と続き、計6つの火車が大通りを縦横無尽に駆け回る。それに追われた構成員が逃げ惑って右往左往する様は実に滑稽で、テオドールは逃げるのも忘れて唖然と立ち尽くす。
そんなピエロを演じた構成員だったが、自分たちの移動手段が燃えていると気付くともっと慌て始めた。
「Minchia (畜生)! おい商人テメエ何しやがった!?」
「いやいやいや!? 私は何もしておりませんぞっ!」
「嘘つけっ、テメエが来た途端――」
突如、構成員の言葉を甲高い声が遮った。
「伏せて!」
言葉とともに膝裏を蹴られたテオドールはそのまま強制的に地面とキスする羽目になった。
「ぶぐっ」と無様な声を漏らし、涙を浮かべた横目で見上げると、少年が一人立っていた。
癖のある濃褐色の髪に、小麦色の肌。
歳に似合わぬ理知を双眸に宿す、勝ち気なプエルトリコ系の少年だった。
「投下!」
と同時に少年は手に持っていたものを投擲。それに呼応して頭上から降ってくる物がある。あれは――ペットボトル?
テオドールの疑問の答えはすぐに出た。炎先に舐められた瞬間、ペットボトルが爆ぜたのだ。
爆炎、爆炎、爆炎、爆炎。あちこちで爆ぜるペットボトルに構成員たちは大混乱に陥った。それを茫然と眺めていると急に腕を掴まれた。先ほどの少年だ。
「おじさん立って! 逃げるよ!」
「えっえっ!?」
腕を引かれるがままテオドールは走った。
逃げる二人の背を追う人間も、銃弾もないままに。
***
幾つもの細い路地を走り、人気が完全に無くなったところでようやく少年は手を離してくれた。
「ふう。危なかったね、おじさん……って大丈夫?」
テオドールは応えなかった。息を整えるのに必死だったのである。
なんとまあ情けない。数分ばかし全力疾走しただけでこの体たらくとは。
「す、すまない……。君、名前は……?」
「ルカだよ。苗字はなし。この27番地で少年団のリーダーやってる」
「そうか。ルカ君、助けてくれてありがとう。君は実に勇敢だな」
「別に。この街じゃこんなの普通」
そう言いつつも照れくさそうに鼻下をこする少年に目元を細め、ふと先ほどの出来事を尋ねてみた。
「ルカ君、さっきのタイヤとかペットボトルは君が? 随分と斬新な攻撃だったが」
「ああ、あれね。河川港の工場にあった廃棄物を再利用したんだ」
年相応の得意げな笑みを浮かべた少年は近くの路地からタイヤを一つごろりと転がしてきた。そのつんとした刺激臭にテオドールは度肝を抜く。
「これは……ガソリン?」
「そうそう。古雑誌とか紙にガソリン染み込ませて、それをタイヤの内側に詰めるんだ。あとは火つけて転がすだけ。さっき見たでしょ?」
テオドールは少年の無邪気ともいえる凶悪さに思わず天を仰いだ。
石油が原材料のタイヤは燃やすと軽油並みの熱量を発する。この少年はそんなものに火をつけて、しかもガソリンという追い燃料までつけて坂道に解き放ったのだ。
さらに少年はいそいそとジーンズのポケットから、ペットボトルを取り出した。一方は無色透明な液体が、もう一方は黒い粉末が入っている。
「これは……?」
「消毒液と炭だよ」
「炭?」
「そうそう。燃えカスのやつをすり潰して粉末にしたんだ。火に振りかけるとボウッてなる」
そりゃそうなるだろう。
木炭粉末は黒色火薬の材料に用いられるほどの燃焼剤だ。よく燃えるに決まってる。
「ルカ君、もしかしてそっちの消毒液ってアルコール?」
「そだよ。度数70%さ」
テオドールはまたもや天を仰いだ。
消毒液や酒に含まれることで有名なアルコールは、燃料にも使用される。つまり、よく燃える。しかも少年のペットボトルに入っているアルコール量は20分の1程度だ。アルコールのような揮発性のある燃料は気体になった時が最も燃焼性が高い。
さらに今は夏、ペットボトル内の少量のアルコールなぞあっという間に気化してパンパンに膨れ上がったことだろう。
それをこの少年は火のある所に投げ込んだのである。しかも木炭粉末と一緒に。
簡易小型サーモバリック爆薬とも言うべき恐ろしい兵器だ。
テオドールが頭痛と胃痛を堪える一方、ルカは逸らした胸を引っ込めて小生意気に肩をすくめる。
「ま、これ全部受け売りなんだけどね」
「何だって? 誰だいこんな凶悪な悪知恵を授けた奴は。おじさん怒らないからちょっと話してみなさい」
「そんなことよりさ」
「そんなことより!?」
「悪いけどあんま時間がないんだ。おじさんに伝言だよ。その僕に悪知恵を授けた人から。ニコラス・ウェッブって人おぼえてる?」
無論おぼえている。非常に凶悪な目つきに褐色肌の青年。愛想は欠片もなかったが、誠実そうな印象の若者だった。
テオドールが頷くと、ルカは含み笑いをした。
「ニコラスが僕らにおじさんをすぐ保護してくれって頼んだんだ。んでコレ見せてって」
差し出された携帯電話の画面を見れば、びっしりと文字が書いてあった。メールの文面だろうか。それを読み進めるなり、テオドールは大きく目を見開く。
それを見てとった少年は悪だくみに笑みを深めた。
「ファン・デーレンさん、新しい商談に興味はない?」
テオドールは喉までせり上がったイエスの言葉を辛うじて飲み込んだ。
いかん、いかん。美味い話には必ず裏があるものだ。だが。
――他に打つ手もないか。
ヴァレーリ一家の顔に泥を塗り、命令を無視した挙句、構成員が攻撃された現場に立ち会ってしまった。もう言い逃れはできまい。
いいだろう。毒を食らわば皿までだ。こうなったらとことんやってやろうではないか。
「勿論だとも。私は何をすればいい?」
「OK! ならこのまま僕についてきて、おじさん!」
再び走り始めた少年にテオドールはげんなり肩を落とす。
少年よ、三十路のデスクワーク専門の男にマラソンは中々きついんだぞ。これがおじさんと言われるゆえんか。
前を走る少年に羨望を込めて目を眇めつつ、テオドールは高揚する気分を抑えられなかった。マフィアを撃退して暗黒街を疾走するなんて、まるで映画の主人公になったようではないか。
すでに上がり始めた息を必死に整えつつ、テオドールは頭の中で商談の段取りを組み始めた。
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