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〈西暦2013年8月11日午前5時 アメリカ合衆国北部ミシガン州 元デトロイト市街〉
白い幾筋もの靄が視界を横切っている。
川岸の泥濘から漂うぬるりとした生臭い冷気が、雨曝しにされたシート特有の異臭と、その下に潜む小型船舶のディーゼル臭とに混合されて顔面に吹き付ける。
ニコラスは眉間のしわを深く刻んだ。
悪臭も酷いが、視界の利かない環境は嫌いだ。
霧の中であれば多少身を隠しながら進めるが、敵が出た場合の対処ができない。
そうでなくとも濃霧の中、放置された小型船舶の群れに両脇を挟まれ進むこの状況が、あたかもホラー映画の主人公になった気分で歩調が自然と早まる。
だからこそようやく迷路を抜け視界が開けた場所に出た時は内心ほっとした。
セントクレアショアーズ、リッジウェイ・ストリート付近。
かつては余暇を愉しむ米国民で賑わっていたはずの、犯罪都市の一部に組み込まれた今となっては大量の小型船舶が遺棄され寂れた河川港。どこを見ても遺棄された小型船舶しかないこの場所に、自分たちのアジトが隠されている。
ニコラスは船舶の竜骨に小さく刻まれた傷、一束だけ染色された舫綱、一部塗装の剥げた船舶名――どう見ても印には思えない印を辿って、先を急ぐ。
そしてようやく着いた。
河岸から十数歩の距離にある廃墟と化した水産工場。
合衆国安全保障局による襲撃で半壊したカフェ『BROWNIE』の修復が終わるまでは、このアジトが今の住所だ。
地面に飛散したガラスを踏まぬよう、天井から崩れ落ちた岩を足場に、素早くも慎重な脚運びで渡り移り進む。義足で細やかな所作は不可能なので、ほぼケンケンだ。
屋内最奥にはかつて加工した魚介類を保存していた冷凍倉庫があり、そこがアジトの居住区だ。
少々生臭いのが難点だが、防御性・隠密性ともに優れたなかなかの隠れ家である。
後付けで改造の施された扉の指紋認証システムを解除し、冷凍倉庫に入ったニコラスは電気をつけようとして顔をしかめた。
倉庫の四方の隅、地下倉庫へと続くハッチから光が漏れ出ている。
――あの馬鹿、まだ起きてんのか。
調達した食材を簡易キッチンに置いたニコラスはハッチを2回、1回、4回の順に素早くノックする。
下階から「どうぞ」と覇気のない声が聞こえたのを確認して、ハッチを開ける。
途端、充満していた煙が逃げ場を求めて一挙に噴出し、思わず咳き込んだ。
「お帰り~ニコ」
陽気なれど覇気のない相棒の声にニコラスは溜息をつきながら梯子階段を下りる。
「……寝てろっつったろ」
「ん~これだけやっておこうかと思ってね」
ベッドに胡坐をかくワイシャツにカーゴパンツ姿の美少女、ヘルハウンドことハウンドは、手元の書類から目もあげずに咥えていた煙草を吸殻がこんもり盛られた灰皿に突っ込んだ。
代行屋『ブラックドッグ』の店主であり、ここ特区27番地の実質的な支配者でもある『六番目の統治者』の彼女は、3週間前のUSSAによる強制捜査 (という名の襲撃)の後始末に追われていた。
破損した家屋の修復・整備、使用した武器弾薬の補充、五大マフィアと締結中の通商交渉の見直し、特区警察に後から突っ込まれないための報告書の作成、死傷した住民への補償と葬儀の手配、それら全てに関する予算案の作成と経費の整理、などなど。
「これで補償金配布はオッケーか。あ~……新しい電波妨害装置の発注忘れてた。監視カメラもそろそろ買い換えないと……ぬ~ん……」
ブツブツと呟いたハウンドは肺を空にせんばかりに大きく息を吐くと、ぺしょんとベットに横たわった。
疲労困憊である。
彼女がここまで憔悴しているのは、ひとえに特区の国境が全て封鎖されてしまったからだ。USSA襲撃により甚く警戒心を刺激された五大マフィアが一月前から関所を封鎖しているのである。
そのため27番地に流れていたはずの物資が滞り、事後処理が遅れているのだという。
――27番地のことなら俺でも手伝えるが……外部のことは本当に任せっきりだからな。
ニコラスは自分以上に濃い隈をこさえた少女のやつれ顔に唇を噛み締める。
歯痒い。それに尽きる。
せっかく会えたのに、何もしてやれてない。
元少女兵だったハウンドとは、5年前に再会を誓い合った仲であり、恩人だ。
そんな彼女がUSSAから最重要排除対象として命を狙われている存在であり、イラク戦争の陰謀に関する極秘情報である《手帳》を隠し持っていると聞いたのは、襲撃から3日後のことだった。
『いいか軍曹、くれぐれも自分が正体を知っているという事を、ヘルハウンドに覚られんようにな。あの子は自身の過去などを詮索されるのを酷く嫌う。もしバレれば君の前から姿を消してしまうやもしれん。悪いことは言わん。今の関係を崩したくないのなら、気付かないふりをしていなさい』
気遣わしげな医師の声が脳裏に反芻する。
――今の関係を崩したくないのなら、か。
ハウンドが《手帳》を何に使う気なのか、何を企んでいるのかは分からない。
だが正直、ニコラスにとっては国家の行く末や陰謀なんかより、目の前の大事な人の健康悪化の方がずっと深刻だった。
――煙草の本数めちゃくちゃ増えてるし、せめてコンタクトぐらいは外して欲しいが……言ったら確実に勘付かれるな。
ハウンドの漆黒のカラーコンタクトで覆い隠された双眸の、充血した白目と黒ずんだ目下に目を伏せる。
隠すことなんてないのに。
せっかく綺麗な夏木立の瞳をしているのに。
内心惜しみつつ、以前の住居から持ち出した調味料類を木箱から取り出して朝食の準備をしていると、ベッドから首だけ伸ばしたハウンドが肩越しに覗き込んできた。
「あれ? 今日は缶詰じゃないの?」
「毎回レーションじゃ飽きるだろ。気晴らしだ」
「へえ~ニコってば、意外とグルメなのね~。軍人ってみんな食に関心薄いもんだと思ってたよ」
否定はしない。むしろ365日三食レーションでも一向に構わないし、わざわざ店長の家庭菜園から野菜と卵を調達してまで料理を作るほど、ニコラスはマメな男ではない。
そんな男がここまで手間暇を裂いているのは、ひとえにこのアジトに移住してからぱたりと食が細くなってしまった背後の少女のためである。
「集中すると寝食を忘れてしまう」と店長からあらかじめ注意されてはいたが、まさかサプリメントと紅茶だけで三日三晩過ごされると流石に心配になる。
食うよう勧めても、動いてないから腹が減らないの一点張り。
そうでなくとも細っこいのに、これでは本当に骨と皮だけになってしまう。
幼い頃のハウンドの姿を思い出して、ニコラスは一人身震いする。彼女のカルテを見た後だとますます薄ら寒くなる。
少しでいいから、温かくて肉がつくものを食わしてやらねば。
そう思ってスパムの缶詰を手にメニューを思案した矢先、
「ん、ニコ寒いの? 震えてんじゃん」
と、背中に柔らかく温かな感触。
「おい、くっつくな。あと頭を撫でるな」
「ん~? でも振り払わないってことはまんざらでもないんでしょ~?」
毛布ごと背中にぴとっとまとわりつき、自分の髪を梳き始めた少女に頭が痛くなる。
人をおちょくるのが趣味な悪戯小僧の悪ガキのくせに、どうしていざとなると他人最優先になるのか。
しかもこの背中の感触。こいつ、ブラしてねえな?
頭痛を堪えて無遠慮・無神経・無節操の三無少女を引っぺがし、ベッド下から衣服が入った背嚢とタオルを引っ張り出して押し付ける。
「ほら。作るまで少し時間かかるからシャワー浴びてこい。加工室出入り口の靴洗浄場とこ使え。つい最近改造したばっかのとこ。そこならまだボイラー落としてないから」
「ん~」
ややふらつく足取りで準備を始めたハウンドにまたも顔をしかめ、溜息を飲み込んだニコラスは先に上階へ上がった。
――全く、《手帳》どころの話じゃないな。
項をガリガリ掻きつつ簡易キッチンの前に立ち、さてメニューをどうするかと検討し始めた時。
ガラス片の砕ける、微かな高音。
ニコラスが防犯対策に巻いておいた、廃工場出入り口の地面に飛散したガラス片を誰かが踏み割った。
倉庫の扉越し、ニコラスがあえて少し開けていた扉の隙間から確かに聞こえた。
侵入者だ。
***
両膝をついて耳をぺたりと地面につける。
足音からして3、いや4か。ガラス片を踏み抜いた以外は可能な限り足音を殺して近づいてくる。
確実に一般人ではない。
――面倒な。
山稜に昇る満月の如き金色の双眸を眇め、ニコラスは瞬時のうちに戦闘態勢に入った。
壁際に歩み寄り、かかっているM16自動小銃――ではなく、セミオート仕様のAR15を手に取る。
いくら無法地帯の特区といえど、国内産フルオート小銃の入手は困難を極める。特にM16 は軍の厳重な管理下にあるため、まず使えない。
それでもニコラスは、使い慣れたこの形が好きだった。
代わりに銃口には減音器も装着済みである。
次いで先ほど上がってきた地下倉庫の上り口に近づき、ハッチを3回靴底で叩く。敵襲の合図だ。数秒後、控えめなノックが3回返ってくる。
ハウンドも事態を把握した。これで動ける。
ニコラスは扉に忍び寄り、隙間からそっと外の様子を窺う。
敵影は4名、ひと固まりで周囲を警戒しながらにじり寄ってくる。よくよく見れば、奥の左右の窓にも人影が見える。
恐らく侵入してきたのが制圧班、窓にいるのが支援班と戸口粉砕班だろう。
統一された服装と装備に、無駄のない動き。間違いなく軍隊経験者だ。
確認したニコラスはそっと扉を押して完全施錠し、天井から垂れ下がる冷気給気用ダクトの真下に歩み寄った。ダクトは倉庫外部と通じており、うち一本は屋内、つまり先ほど敵影がいた地点の2階へと繋がっている。
ダクト真下に設置した脚立を使ってダクト内に入ったニコラスは、敵の頭を押さえるべく工場二階を目指そうとして――思いとどまる。
左脚の義足がダクトの金属壁に擦れてカチャカチャ音を立てている。
服越しだから大丈夫かと思ったが、認識が甘かったようだ。
ニコラスは数秒考え、ズボンの裾をまくった。
そしてポケットから取り出した六角レンチを膝継手上部の円柱状部品の横穴に突っ込んで、ロックを緩める。
途端、義足が膝下からぐるりと回った。通常の人体なら90度が限度のところを、それを無視してさらにありえない角度まで回転していく。
「ターンテーブル」と呼ばれる、義足を360度回転させることができるアダプターの一種だ。
ターンテーブルで膝下を180度回転させたニコラスは、義足を胴体にぴったりとつけると上着で結んで固定する。
そして右腹を下に、腕と右足の力だけで匍匐前進で二階へ急いだ。
途中何度も自分の靴底とキスしそうになったのはご愛敬だ。
吹き抜けの二階へ出たニコラスは、義足を元に戻しつつ、各所に放置された木箱や機材の陰からそっと一階の様子を窺った。内部の敵は勿論、外部の敵もこちらに気付いていない。
内部の敵は勿論、外部の敵もこちらに気付いていない。
敵、制圧班はすでに冷凍倉庫の扉の前にいた。
どうやら廃工場に似合わぬ頑丈なセキュリティの解除扉に手間取っているようだ。
あの扉では爆破するのが一番早い、と思っていると敵もそう考えたらしく、制圧班の一人が無線に口元を近づけた。
ニコラスは眼球をずらし、窓側にいた敵を目視で確認する。
敵は5名、左右の窓の外に2、3人ずつ分かれ、いつでも制圧班を支援できるよう待機している。ニコラスは彼らを注視した。
この手の部隊運用を行う敵の場合、指揮官は支援班と戸口粉砕班と共に待機していることが多い。であれば、外部で待機中の5人のうち、最初に無線に応答した奴が指揮官だ。
一人の兵が応答した。
予感的中。あれが指揮官だ。
指揮官は己の反対側にいた戸口粉砕班に手信号を送って扉の爆破を指示している。
ニコラスは敵指揮官に照準を合わせつつ、戸口粉砕班が制圧班に合流するのを待った。
まだだ。
戸口粉砕班が扉に爆破を仕掛け、指揮官に指示を仰ぐまで――。
ニコラスの階下で何やら作業する音が聞こえ、囁き声が聞こえる。
英語ではない。ラテン語系だろうか。
階下を一瞥すると、ちょうど爆薬の設置を終えた兵士が、再び無線を手にしたところだった。
今だ。
――撃て。
自身に射撃号令を出したニコラスは引金を引く。
命中。
左大腿部を撃たれた指揮官が悲鳴を上げて倒れる。
思わず屋内の敵が指揮官を振り返った瞬間、ニコラスは階上から身を乗り出した。
セミオート射撃の雨が階下の敵に降り注ぐ。
鋼鉄の雨に手足を穿たれた兵士から絶叫が上がるが、彼らが倒れるより早くニコラスは頭を引っ込めた。
着弾。
先ほど頭があった場所の機材上で火花が飛散する。
外部で待機中の支援班が放った弾丸だ。危機一髪である。
ニコラスは外部の2名と撃ち合いを開始した。
奇襲を食らった階下の敵も負傷兵を放置し、後退しつつもこちらに反撃してくる。
4対1。少々分が悪い。
そう思った刹那、階下の冷凍倉庫の扉が開いた。
「やあニコ。加勢にきたぞ」
ショーツの上にワイシャツを羽織り、手袋をはめてブーツを履いた、何ともアンバランスな格好の美少女が立っていた。
その手に握られているものを見るなり、ニコラスはぎょっとする。
M79擲弾発射器、40ミリ口径の高性能炸薬弾を発射する近接支援火器である。
が、戦闘時における最小安全距離は31メートル。そして現在、一番近くにいる敵とニコラスの距離は25メートルである。
さらに言うと、擲弾発射器は間違っても屋内で撃っていい武器ではない。
――ヤバイ……!
慌てて耳を塞ぎ口を開けて床に飛び込んだ直後、頭上の窓ガラスが消し飛んだ。爆炎が上がり、千切れ四散した木片や鉄片が飛翔する。
恐る恐る下を見れば、爆風で敵兵が2名伸びており、ハウンドはというと空薬莢を薬室から抜き取っているところだった。
天使の如き実に愛らしい笑顔をしているが、よくよく見るとこめかみに青筋が浮かんでいる。
マズい。これはガチ切れモードだ。
物騒な性格に似合わず意外と気の長いハウンドではあるが、風呂の邪魔をされると途端に機嫌が悪くなる。しかも今は寝不足だ。
ガチャンと尾栓を閉鎖したハウンドが撃鉄を起こす。
ニコラスはモグラ叩きよろしく、ひゅんと顔を引っ込めた。
炸裂。
今度は外部の支援班が吹っ飛んだ。
憐れな敵兵の一人が弧を描いて河川に落下していく様を、ニコラスは気の毒に見送る。
「こんなもんかな。さ、ニコ。ご飯にしよ! 私シャワー浴びてくるから」
にっこり微笑む残酷な天使を前に、ニコラスは盛大に顔を引きつらせた。
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次の投稿は7月1日です。




