プロローグ
医師の言葉と目の前に差し出された茶封筒に、ニコラスは心底困惑した。
ハウンドを救ってくれ?
一体――。
「どう、いうことでしょうか」
「3年前、つまりヘルハウンドがこの特区に来る直前、彼女はある物を合衆国安全保障局から盗み出した。それが原因で彼女はUSSAに命を狙われている。今回奴らが襲撃してきた目的は27番地の占拠でも五大マフィアの懐柔でもない。彼女を始末するためだ」
心臓が鷲掴みにされたように痛む。
だがそれ以上に腹の底から吹き上げる怒りを、ニコラスは深呼吸をして鎮火させる。
「アイツは一体何を盗んだんです?」
「詳しくは私も知らん。ただ、彼女はそれを《手帳》と呼んでいた。ここから先は彼女から聞いた話と私の推測を交えて話すが、君にとっても無関係の話ではないだろう。その《手帳》とやらはイラク戦争に関わるものなのでな。……そもそもイラク戦争は開戦当初から謎に包まれている。君にとってはあまり聞きたくない話だろうが」
「いえ。知っています。結局、イラクに大量破壊兵器なんてなかった。あれほど無意味で無価値な戦争はありませんよ」
素っ気なく吐き捨てたニコラスに、医師の青い瞳が痛みを堪えるように伏せられた。
アメリカ合衆国は、イラクが大量破壊兵器を保持していることへの制裁として侵攻を開始した。
だがそんなものはどこにもなく、のちに大量破壊兵器保持の情報が誤報であることが判明すると、アメリカは戦争の大義すら失った。
自分たち兵士の苦難と犠牲は何だったのか。
誰もが答えを知っていながら、誰もが口を閉ざす。口にすれば死者や遺族に鞭打つ行為と知るからこそ黙すのだ。
ニコラスだってそうだ。
親友も戦友も皆、彼らの大事な人を護るために死んだのだ。
そう思わなければやっていられるか。
圧し掛かる空気を消し飛ばそうとしたのか、医師は手に持っていた茶封筒でひと扇ぎして咳払いした。
「では軍曹、【石油食料交換プログラム】を知っているかね?」
ニコラスは頷く。知っている。
【石油食料交換プログラム】とは、クウェート侵攻で列強諸国より経済制裁を科せられ喘ぐイラク市民へ食料・医薬品などの物資を供給すべく、国際連合主導で行われた人道的支援プログラムだ。
文字通り、石油を対価に食料などの物資と交換することで、イラク正規軍の再構築を阻止しつつも国民を救済する、というのが当初の目的であった。
が――。
「たしか国連絡みの汚職があったんですよね?」
「そんな生易しいものではない。あれは国連が率先して汚職を行った大スキャンダルだ。なにせ国連トップの事務総長まで関与してたんだからな。連中はイラクから石油を安く買い叩いたあげく転売し、支援物資の食料を割高にして売っていたのさ。国連が調査協力を無視したせいでうやむやになってしまったがね」
ニコラスは渋面で閉口した。
自分たちが必死に戦っている間、国連や他の権力者どもがせっせと汚い金を溜め込んでいたということは知っていたが、ここまで腐っているとは思わなかった。
そんなこちらの心情を察してか、医師は忌々しさと諦観を孕んで苦笑した。
「とまあ実に胸糞の悪い話なわけだが、この事件はそれだけに留まらん。《失われたリスト》という言葉を聞いたことは?」
ニコラスが首を振ると、医師の青い瞳がきらりと煌めいた。
「《失われたリスト》とは【石油食料交換プログラム】の汚職に関与した者のブラックリストのことだ。最初にこのリストをすっぱ抜いたイラク日刊紙の『アル・マダ』社の名を取って『アルマダ・リスト』と呼ばれることもある。世界各国の要人が大勢関与した大スキャンダルさ。公表すれば世界各国に居座る権力者の首がすげ変わる。それほどの規模のものだ」
「では『失われた』というのは」
「揉み消されたのさ。なにせ規模がデカすぎる。被害総額は18億ドルを超える上、現職の大臣すら関与していた疑惑があったからな。『アル・マダ』社は1万5千件にも上る石油受取人リストを発表したが、リスト内で罪に問われた人間は一人もいなかった。プログラムに関する資料は全て削除され、監査は事務総長自らが指名した者により行われた。汚職を主導したものの一人が、自分に不利な監査を公明正大に行うと思うかね?」
ニコラスは黙りこくった。
するはずがない。
自身にとって不利な事実は虚偽と断じ、有利な虚偽を真実と公表する。人間とはそういう生き物だ。
医師の説明はまだ続く。
「こうして世界の権力者どもが関与した大陰謀は闇の中に葬り去られた……のだが、完全に消えたわけではなかった。抹消されたはずのリストはまだ残っていた。それこそが《失われたリスト》、そのリストが記されていたのが《手帳》だ。ヘルハウンドが盗み出したのはそういうものだ」
「じゃあハウンドは、国連絡みの汚職にまつわる証拠品を持ち出した?」
「だけなら良かったがね。先ほど《手帳》には世界各国の要人が大勢関与したと言っただろう?」
「まさか大統領が関与してたとか……」
「アメリカのだったらまだマシだったがね。民主国家における汚職であれば首をすげ変えるだけで済む」
ニコラスは息をのんだ。
「では、関与してたのは――」
「イラク共和国大統領、今は亡き独裁者、アブドゥラ・アワドだよ」
ニコラスは絶句した。
「つまり、国連は独裁者と手を組んで汚職をやっていたと? イラク戦争の真っ只中で?」
「そうとも。だからこそアワド大統領の死刑執行は異常なまでの早さで行われたのさ。死刑確定からたったの4日間で執行されたからな。完全な口封じだよ。各国要人の権力基盤の維持と、アメリカの石油利権、そしてイラク戦争における開戦の正当性、これらのために独裁者は生贄にされたのさ。言っただろう、実に胸糞の悪い話だと」
あまりに規模の大きな話に半ば呆然としつつも、頭脳の片隅では極めて冷静に事態を分析していた。
8年間中東で死線をくぐり抜けた末に得た判断力と分析力による賜物である。
「先生、確認と質問したいことがあります」
「何かね?」
「まず確認ですが、USSAの狙いはハウンドを始末し、その《手帳》とやらを抹消することですよね?」
「前者に関してはほぼ確実だが後者は違う。あくまで私の勘だが、《手帳》を最も欲しているのはUSSAだろう」
「というと?」
「世界を闇から統べる者にとって《失われたリスト》は世界最大級のブラックリストだ。USSAからしてみれば《手帳》はソロモン王の指輪に等しい価値を持つ。影の中から統治したがる人間にとってこれほど魅力的なものはない」
旧約聖書に登場する古代イスラエルの王、ソロモン。
彼の王は天上の神々より真鍮と鉄でできた黄金に輝く指輪を授かった。その指輪をもって、王は数多の悪魔を従え使役したという。
この世に蔓延り利権を貪る権力者どもを悪魔とするなら、彼らの名と悪事が記された《手帳》はまさにソロモン王の指輪だ。
そして《手帳》を手にした者は、悪魔らの弱みを握ったも同然。
活用次第で莫大な富と権力を得ることができる。
悪魔どもから返り討ちにされなければの話だが。
「……概ね理解しました。では質問です。ハウンドはなぜ《手帳》を世間に公表しないんです? それだけ危ない代物なら、さっさと公表するか手放した方がいいんじゃ」
「分からない」
「分からない?」
「彼女は『今はまだその時ではない』とだけしか言わなかった。あの子はいつもそうだ。何も語ってくれん。いつも胡散臭い笑顔で隠し誤魔化してしまう。連中を利用したいのか、それとも復讐したいのか、それすら定かではない。……《手帳》のことを知っているのは私だけだ。最も長い付き合いの店長ですら知らん。私が彼女の秘密に触れたのは、これが原因だ。見たまえ」
ようやく件の茶封筒を手に取ったニコラスは中身を取り出した。
数枚のカルテである。
それを見るなりニコラスは血の気が引いた。
カルテの記録は3年前、ちょうどハウンドが特区に来た直後に当たる。
内容は全身の52か所にわたる皮膚移植に関するものだ。
真っ先に目が留まったのはカルテ左端の人体図。移植前の身体状態を記録する部分が真っ赤に染まっている。
裂傷、火傷、銃痕の赤文字がおびただしいほど書き込まれ、過去の手術によるものとみられる縫合痕は10をゆうに超えている。
「…………精密検査をしてみないことには分からんが、縫合痕から見るに卵巣をいじくられている。凄まじく杜撰な避妊手術だよ。記録当時、ヘルハウンドは15歳だったんだがね。私は昔、NPOの医師団で紛争地帯の子供らの治療を担当したことがあるが、ここまで悲惨な身体を診たのは初めてだったよ」
あまりのことに二の句が継げず、半ば放心状態でカルテを見下ろした。
5年前にハウンドと再会した時、彼女は全身包帯で覆われていた。
あの時か、それとも自分と別れた後か、それとも前か。もし別れた後の負傷なら――。
俺が、独りで行かせたりなんかしたから。
考えても詮無いと理解していても、後悔と混乱で思考が堂々巡りしてしまう。
そんなこちらをじっと見つめていたらしい医師がおもむろに口を開く。
「軍曹。君、やはりあの子に会ったことがあるな?」
詰問に近い確認の問いに、ニコラスは迷い、頷いた。
「……6年前、会いました。初対面の時はスコープ越しに見ただけで。ですが過去は知りません。俺が知っているのは、あの子がイラクにいた少女兵だったってことぐらいで……」
「イラクの少女兵、か。ならやはり、ヘルハウンドの目的は復讐か。当然の帰結だな。大義すらない戦争を一方的に仕掛けられた挙句、仲裁役を担うはずの国連は独裁者と手を組んで市民への支援物資を強奪してたんだ。彼女にとってアメリカ、いや。この世すべてのものが憎悪の対象なのかもしれん」
手に持つカルテがひしゃげて震える。
何がやっと会えただ。
傷の手当すらせず突き放して、5年間も放置して。
しかも行き倒れていた自分を、ヘルハウンドは正体を明かすことなく保護し、ずっと守ってくれた。
自分は彼女から生きる希望を貰ったのに、自分は一体なにを返した?
自責と後悔で雁字搦めになっていると、カツンと机を叩く軽音がニコラスの思考を断ち切った。
顔を上げれば、医師が愚直なほど真っ直ぐに見つめていた。
「後悔する暇があるなら顔をあげたまえ、軍曹。頼む。ヘルハウンドを護ってやってくれ。恐らくそれができるのは君だけだ。彼女は君だけには心を許しているように思える。でなければあんな柔らかな笑みを見せまい」
ニコラスは戸惑いから躊躇った。
護れと言われても、何を護ればいいのだろうか。
命を護るなら、己の全てを賭して必ず護ってみせる。
だがもし、もしハウンドが本当に復讐を望んでいるのなら?
この国が憎くて憎くて仕方がないと言われた時、アメリカ人の自分はどうすればいいのだろうか。
こちらの苦悩を察したのか、医師は今までで一番穏やかな声を出した。
「なに。別に彼女の復讐の手伝いをしろとは言わんさ。ただ彼女の傍にいてやってくれ。あの子が道を踏み外さぬように、しっかりと手を繋ぎとめてやって欲しい」
「俺が……?」
「軍曹、私にはな。今のあの子が笑いながら崖っぷちで踊り狂っているようにしか見えんのだ。いずれは足を踏み外す。それすら良しとしている節がある。そんな馬鹿な話があってたまるか」
沈黙が降りた。外の宵闇より濃く重い沈黙だった。
両手に目を落とす。
人を撃ち殺し続けた手が、今あの子を繋ぎとめているのなら。
この血染めの手で救えるものがあるのなら。
「もう一度問うぞ、軍曹。――君にあの子が救えるか?」
凛とした医師の言葉が耳朶に響く。
返す言葉など、決まっている。
「はい」
ニコラスはゆっくりと息を吸い込んだ。
心臓にくべた炎に風を送り込むように。
ハウンドと再会の約束を交わした時、もう一つニコラスが勝手に一方的に掲げた誓いがある。
紛い物でも構わない。
あの子が俺を英雄と呼んでくれるなら、俺はあの子だけの英雄になろう。
この世全てがあの子を否定しようと、俺だけはあの子の味方であろう。
そう誓った。
「助けます。必ず。これでも俺は、あの子の英雄ですから」
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