エピローグ
我に返ると痛みがぶり返してきて、しかも先ほどのこっぱずかしい行為と台詞にニコラスは今すぐ逃げたくなった。
「……ハウンド」
「ん~」
「離してもらっても?」
「うん、やだ!」
どっちだよ。
そうツッコむも、今のニコラスにはハウンドを振り払うだけの余力がない。
「にしてもニコってば優しいね~。あんな生ゴミの底に溜まった汚水みたいな記者にも情けかけるんだ」
「俺なら殺さない。公に引っ張り出して、裁判にかけて最後の最期まで生き永らえさせてやる。楽に死なせるわけねえだろ」
「おっと私より物騒な答え」
「お前に言われる筋合いねえよ。てかお前――」
ぽん、と肩を叩かれたニコラスは振り返るなり硬直した。そこには。
「大事な話と思って見守っていたが、イチャコラするだけなら話は別だ。君、絶対安静と言われなかったかね? クロードや住民にはそう脅し――言い聞かせていたのだがね」
この医者、いま脅すっつったな?
アンドレイ医師は額に青筋を浮かべて完璧な笑顔を浮かべるという、何ともまあ器用な顔をしている。その背後には立ち込める暗雲を空見する異様な迫力をまとっていて、ニコラスは痛みとは別の意味で冷や汗を浮かべた。
ニコラスは知る由もなかったが、アンドレイ医師は27番地ではハウンド以上に恐れられている存在であり、上着代わりの白衣の中に簡易メスと投擲用注射器を仕込んでいる。生かすのと殺すの、どちらが仕事か分からぬとんだ武闘派医師なのだ。
ニコラスの遥か後方、クロードが「ヒイッ」とのけ反っているのはそのせいである。
医師は顔をひきつらせるニコラスの襟首を掴んだ。
「さて、治療の時間といこうか」
「いや先生俺は」
「言い訳は病院で聞くとしよう。全く、術後一週間は安静だというのに。傷が開いたらどうしてくれる」
屠畜業者に連れていかれる子牛の如き不憫さで、ニコラスは凶悪な医師に半ば引きずられていった。その様子をニヤニヤ見守っていたハウンドの口が「ご愁傷様~」と紡ぐ。
このクソガキ、他人事だと思いやがって。
「んじゃニコ。また病院でね~」
「………………おう」
――30分後。
アンドレイ医院に連行されたニコラスは、医師からのありがたくも耳の痛い小言と本当に痛い治療を受け、心身共に完全に脱力してベッドに沈没していた。
「そら見たことか。傷が開いている。縫合してから三日も経ってないのにウロチョロするからだ。ああ、あと。この義足は修理に出しておくぞ。以前壊れた部分にもうガタがきてるからな」
「……ちなみにお値段は如何ほどで?」
「安くて5000ドルだな」
マジか。思わず片手で顔を覆ったのは不可抗力だ。手痛い出費である。
あの子のためへの貯金を切り崩すしかない。それとも頭を下げてハウンドに借金をするか。どちらを取っても嫌な選択だ。
羽の生えた100ドル札が頭上を飛び交う様を想起したニコラスは、不意に思い立って医師に尋ねた。
「先生」
「なんだ。値下げ交渉ならせんぞ」
「いや、そっちじゃなくて……。先生ってずっと27番地で診てきたんですよね?」
「そうだが」
「ならハウンドの目のことも知ってます? あいつ今日、コンタクトしてたんです。俺、同居してるけど目悪いなんて知らなくて」
先ほど襟元を掴んだ際、瞳をうっすら覆う膜の存在にニコラスは気付いた。視力だけは抜群の精度を誇るニコラスだが、身長差に加え前髪が目にかかっていて、気付くのが遅れたのだ。
医師は一瞬手を止め、ああと納得したように頷いた。
「あれは視力矯正のためではなくただの変装だよ」
「変装?」
「彼女の顔立ちは東洋系だろう? 黒目の方が目立たないからと黒のカラーコンタクトをいつも着けているのさ」
――この地で生まれた、なのに顔が東洋人。――
クルド人青年の言葉が唐突に頭をよぎって、ニコラスは不意に息を詰まらせた。
先ほどハウンドに問い損ねた質問がある。
彼女にもたれかかった時に目にした、白い細首にかかるオリーブ色のパラコードだ。以前自分が肌身離さず着けていたHOG’s Toothに酷似していて、つい懐かしくて尋ねようとしたのだ。
まさか。
「先生、ハウンドの本当の瞳の色って……?」
「おや、君は見たことがないのか。ああいや、あの子が裸眼だったのは特区に来て間近の頃だけだったから仕方がないか。――深緑だよ。真夏の木立の葉のような美しい緑だ」
時が、止まった気がした。
実際に呼吸を止めてしまったらしく、医師の声がオブラート越しに反響していて、何を言っているのか分からない。
ただ、あの子との約束が刻まれた心臓だけが、喧しく鳴っていた。
***
「お~い、ニコ。大丈夫か? さっき先生からお前が真っ青な顔してぶっ倒れたって聞いたけど」
「……………………ああ」
「大丈夫じゃないな。全く。お前、大人しそうな顔して割と無茶するよな~」
剽軽にやってきたハウンドは、ベッド脇にあった金属製の簡易椅子に腰を下ろした。その横顔をニコラスは横たわったまま眺める。
絹糸が如き黒髪は柔らかく艶やかで、象牙色の肌によく映える。彫りの浅い顔立ちだが鼻は品良く高く、流麗な目元が実に涼やかだ。
ああ。本当に、綺麗になった。
ニコラスはぐっと奥歯を噛み締め、眉根をぎゅっと引き寄せた。でないと涙が零れ落ちてしまいそうだった。
「どうしたニコ。傷が痛むのか?」
「……少し」
「無理やり起きるからだ馬鹿。待ってろ。先生呼んできてやる」
立ち上がろうとした少女の手首をはしりと掴み、目を真ん丸に見開いた彼女が振り返る。
「ニコ?」
「ここにいてくれ」
やっと見つけたんだ。どこへも行かないでくれ。
ハウンドは一瞬きょとんとして、笑った。陽光に照らされたその笑顔は、この世でいっとう美しく、眩かった。
「おやおや~今日は随分と甘えたですな~?」
「たまには、な」
「こりゃまた珍しい。明日は雪が降るな」
ハウンドはよしよしとニコラスの頭を撫で繰り回す。いつもなら犬扱いするなと怒るところだが、今のニコラスには一向に構わなかった。ニコラスはゆっくりと瞼を降ろす。
幾度となく思い出してきたあの子の顔はいつも泣き顔で、それが苦しくて情けなくて堪らなかった。俺が見棄てた、救えなかったあの子が、今もどこかで泣いていると思うと居てもたってもいられなくて、疲労困憊の身体を引きずって彷徨い続けた。
もう、その必要はない。
瞼を開けると、嬉しげでどこか照れくさそうな少女が微笑んでいた。
もう、泣いてはいなかった。
ニコラスは掴んでいた手首を離し、小さな手をすっぽり包んだ。
傷つけないように緩く、でも放したくはなくて。
「…………繋いでていいか。眠るまででいいから」
「おや。人殺しの手でいいのかい?」
「俺も人殺しだ」
「……いいよ。こんな手でよけりゃいくらでも貸すさ」
お休み、ニコラス。
お休みと呟き、兵士は眠りについた。
人生で最も安らかで、幸福な眠りだった。
***
目が覚めると、夜の帳は完全に降りていた。
時間にして数時間しか経っていないのだろうが、数年ぶりにまともにとった睡眠は実に心地良く、まだ頭に靄がかかっている。
寝ぼけ眼で上体を起こすと、診察室の戸が開いて医師が入ってきた。
「目覚めたか。小娘なら私物を取りにカフェへ戻ったぞ。あの有様じゃ引っ越しせざるを得んだろう。『ニコとの愛の巣が~』なんてほざいていたが」
愛の巣って。
気恥ずかしさはあったが、再会を果たした幸福と久方ぶりな安眠の余韻に浸っていたニコラスは、医師がこちらを凝視していると気付くのに数秒を要した。
「……? 先生?」
「………………君、ヘルハウンドの過去を知っているのかね?」
思わず言葉を詰まらせそうになったが、ニコラスは平然を装った。
「いえ。ただ視力が悪いなら今後の依頼にも影響が出るかと思って尋ねただけです。それが?」
医師はじっとこちらを見つめ、不意に眼鏡を取って目元をもんだ。
「私は彼女がああも柔らかく笑うのを初めて見た。私は店長の次に付き合いが長いが……そうか。あの子はあんな風に笑うのか」
日頃、ハウンドを小娘としか呼ばない医師が、あの子と呼んだ。
医師の只ならぬ雰囲気に自然と身体が力む。先ほどの幸福な気分はとうに霧散し、いつもの警戒心がニコラスの身を固めていた。
しばらくすると医師は立ち上がり、ベッド脇の小さな診察机の引き出しの鍵を開け、中から大きめの茶封筒を取り出した。
「あの、先生?」
「ウェッブ、いやウェッブ軍曹。頼みがある」
医師は茶封筒を差し出した。
「あの子を、救ってはくれないか?」
これにて第2節は完結です。
明日からは第3節の投稿を開始していきますが、話数のストック上、3日に一回の更新となります。
(現時点、第5節途中まで執筆しており、第4節は推敲段階です)
毎日更新でなくて大変申し訳ありませんが、クオリティの低いものはお見せしたくないので、ご了承ください。
※※※アンケート※※※
(感想欄か、Twitterにてお答えいただければ幸いです)
単刀直入に申し上げますと、
『このまま「小説家になろう」で物語を投稿してもいいか、否か』
についてのアンケートです。
今後、物語は主人公「ニコラス」が、ヒロインこと「ヘルハウンド」の謎を探りつつ、彼女を救う方法を模索する方向へと進んでいきます。
そのため伏線や新たな登場人物もバンバン出てきます。
登場人物や専門用語に関しては、こちらでまとめたものを投稿しようと思っていますが……。
ぶっちゃけ、ネット小説でミステリー系サスペンスって読みにくくないですか?
目チカチカするし、書籍みたいに気になったところぺらっと読み返せませんし。
自分、小説は基本書籍派なもので、どうしてもこういう連続した物語で、しかも数日に一回の更新だとじれったく思ってしまうのですが……。
(こういうサスペンス系アクション小説は、読んだ時のスピード感を楽しむのも一興だと思っています。そのスピード感が、自分の投稿頻度の遅さゆえに失われてしまわないか危惧しております。)
もともとこの物語は同人誌用に執筆したものですし、なんならちゃんと書籍媒体の同人誌として皆さんに提供しようかと思っているのですが、いかがでしょうか?
このままなろうで投稿した方がいいですか?
それとも書籍媒体の同人誌で一気に読みたいですか?
(いずれにせよ、こちらのなろうには第3節まで載せようと思ってます。謎解き要素は第4節からなので)
今後の動向を左右しますので、ぜひお答えください。
よろしくお願いいたします。
また感想・誤字脱字報告ございましたらお気軽にご連絡ください。
どうやらすでに序盤の方でルビミスがあったようなので。(ご指摘くださった方ありがとうございます。)
ではまた3節かTwitterでお会いしましょう。




