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2-8

挿絵(By みてみん)




 この土地は、灼熱と極寒が目まぐるしく循環する。


 地上が漆黒の闇に沈む中、頭上で煌々と瞬く星光が無限に広がっている。押しつぶさんばかりの壮麗さは圧巻の一言で、こういうのを見ていると自分や地上の下らぬ戦争のちっぽけさがやけに身に沁みる。


 やはり、自然は人の手から逃れたものが最も美しく、恐ろしい。

 イラク市街地付近だと煙霧(スモッグ)や巻き上がった砂で霞み荒れてこうはいかない。


 皮膚を切らんばかりの寒さの中、ニコラスは腕の中の熱い生命を抱え直す。

 子供はまだ、泣き止まない。


 あの後、泣きじゃくって離れようとしない子供に、ニコラスもクルド人民防衛部隊(YPG)も困り果てた。


 仕方なくYPGリーダーの男は「明朝までに説得しろ」とだけ告げ、仲間を引き連れ自陣へ戻っていった。何人か女性隊員がちらちら気づかわしげに振り返っていたが、結局なにも言うことなく去っていった。


 取り残されたニコラスは説得をしようとしたが、何か喋ろうとするたび子供がしゃくり声で懇願するので失敗に終わっている。どうしたものか。


 足音がした。


 はっと気づいたニコラスが子供の口を塞いだが、無用の心配だった。


「撃たないで、味方!」


 現れたのはYPG隊員の青年だった。褐色の肌に髭を剃っていてこざっぱりとしている。青年は抱えていた毛布と紅茶の入ったマグカップを手渡してくれた。


「寒いの、ダメ。身も心も冷える」


 言葉はたどたどしくも、邪気のない笑顔は死んだ親友フレッドにどこか似ていて、ニコラスは警戒心を解かざるを得なかった。早速ニコラスが毛布を子供に巻き付けたのを待って、青年はハイロだと名乗った。


 けれど、ハイロは子供を見るなり表情を曇らせた。


「気の毒に。この子、俺たちと一緒。嫌われ者」


「この子もクルド人か?」


「違う。この子、たぶんアフガニスタンから来た。この地で生まれた、なのに顔が東洋人(オリエンタル)。言葉、違う。宗教、違う。だからいつも虐められる」


 帰る場所がない、とハイロは嘆いた。


 アフガニスタン。パキスタン北西部に位置する多民族国家にして、誇り高き山の民。そしてアメリカを含む多国籍軍が、同時多発テロ直後まっさきに攻め込んだ国でもある。


 ――因果だな。


 ニコラスは子供を抱く腕にそっと力をこめた。


 聞いたことがある。ペルシャ系民族の多い中東だが、アフガニスタンには極少数の北方モンゴロイド系民族が住んでいるという。東洋系の外見的特徴を持つ彼らは憤懣(ふんまん)の捌け口にされやすく、長年迫害されてきた歴史を持つ。そしてそれは多分まだ続いている。


 ハイロは遠慮がちに、けれど優しく語り掛けた。


「さっき、リーダーはああ言ったけど、本当は子供好き。その子、大事にする。安心していい」


「……ありがとう」


 そう返すとハイロはにっこり笑い、また迎えに来るといって去っていった。


 それからもニコラスは、子供の背を撫でながら辛抱強く泣き止むのを待った。が、時というのは残酷なもので、ふと目を上げればすでに彼方の稜線が白み始めている。


 時間がない。

 だからニコラスは、奥の手に出ることにした。


「なあ、俺の頼みを聞いてくれないか?」


 己の狡さに自嘲を堪え、ニコラスはできる限り優しく、小さな背をさすりながら言った。案の定、子供はゆっくりとだが顔をあげた。目元が真っ赤に腫れているのが暗闇でも分かった。


 ニコラスはいったん子供から手を離し、首元を寛げてそこにかかっていた二本の紐輪を引っ張り出す。

 うち鎖ではなくパラコードを指に引っかけ、首から抜いて子供の前にぶら下げてみせると、子供はきょとんと見開いた。


 深緑の双眸は、金色の7.62×51ミリNATO弾から火薬を抜き、穴をあけて紐を通しただけの武骨な首飾り――『HOG’s Tooth』とこちらを交互に見つめている。


「こいつはホッグズ・トゥースっつってな。直訳すると『豚の歯』なんだが、由来は『Hunter Of Gunmen』――『銃使いを狩る者』って意味だ。俺にとっての勲章、いや、魂に近い代物だ。こいつを預かってくれないか?」


「…………どうして?」


「俺を連れていってほしい」


 子供は困惑した様だった。


「どういうこと?」


「こいつは俺の魂だ。俺の身体はここから離れられない。だから魂だけでもどこかに連れていってくれ。こいつを首から下げて、行きたい場所に行ってくれるだけでいい」


 そう言うと、子供の目がこぼれ落ちそうなほど見開かれた。目尻にじわじわと雫が溜まっていく。


 ああ、賢い子だ。気付いてしまった。

 ニコラスの頼みが、自分を戦場から逃がすための言い訳に過ぎないことに。


 昔、嘘をつくのが下手とフレッドに揶揄われたことを思い出して、ニコラスは苦笑した。


「駄目か? どこでもいいんだ。お前の行きたい、好きな場所でいい。けどそうだな……できれば静かな場所がいい。景色が綺麗で、飯が美味くて、ときどき賑やかで。そんな場所がいい」


 子供は俯き唇を噛みしめた。断りたいが断れない、そう言わんばかりの面持ちで、ニコラスは自分の作戦が成功したことに目を細めた。


 嬉しくはない。だが、この子を連れてあの戦場に戻るわけにはいかない。

 ここでお別れだ。


 両手を伸ばして、子供の両頬に触れてみた。冷え切ったその頬に自分の体温を分け与えるように包み込んで、そっと額をつける。


「いいか。お前は置いていかれるんじゃない。お前が俺を置いていくんだ」


 そうだ。こんなクソッタレな大人も、世界も、全部ぜんぶ置いて往ってしまえ。


「…………いっしょにきてくれないの?」


「駄目だ。俺は兵士で大人だ。今さらほっぽりだすのは無しだ。けどお前は違う。まだやり直せる。何にでも成れる」


 どうか、この子に明日を。銃を持たずとも、人を殺めずとも生きられる、明日を。


「頼む。俺を連れてってくれ。お前が往った先の世界を俺も見てみたい」


 駄目かと問うと、子供は黙った。己の狡猾さを自覚してでの頼みだった。こう言えば、この子は断れないと踏んだうえでの。


 軍配は、ニコラスに上がった。


 明朝。子供の手を引いて山を登ると、YPG隊員らが待ち構えていた。リーダーはこちらを見るなり気難しくも頷き、ハイロは満面の笑みで手を振ってくれた。


 ニコラスは子供の背中を押した。これで本当にお別れだ。もう二度と会うこともない。


 子供は歩きかけ、振り返って袖の端を掴んだ。指先を引っかけただけのささやかな抵抗に、しかし強固な意志をもってしての往生際の悪さに苦笑する。


 子供は、深緑の双眸で真っ直ぐにこちらを見上げた。

 その清冽さに、眩さに、思わず目を眇める。


「名前」


「は?」


「名前、聞いてない」


 一瞬呆気にとらて、今の今まで名乗りすらしていなかったことに気付く。

 ちらとYPG隊員を見れば、みな素知らぬ顔で視線を逸らした。最低限の機密は守ってくれるらしい。それを確認して、再度子供に向き合う。


「ニコラスだ。ニコラス・ウェッブ」


「ニコ……? ニコラ?」


 この地で聞き慣れぬ名のせいか、子供は首を捻った。


「ニコラス、だ。言いにくかったらニコでもいい」


 途端、子供は子犬が耳を立てるようにピンと背筋を伸ばし、「ニコ、ニコ」と大事そうに呟いた。

 名残惜しくも掴まれた袖をそっと振り払おうとした時、思いきったように子供が面を上げた。


「あなたの国に行ってもいい?」


 完全に虚を突かれた。ニコラスは言い淀み、悩んだ末にお勧めしないと言った。


「……あんまり良いところじゃないぞ」


「いい。そこで待てば、また会えるでしょう?」


 待ってる。ずっと、ずっと待ってる。


 そう言った子供に、目を見開いて、ニコラスの表情筋が久方ぶりに動いた。今にも泣きそうなひび割れた歪な笑みだった。


「…………待っててくれるのか」


「うん」


「そうか。なら俺はお前の元に帰ろう」


「うん」


 約束だよ。


 迷子が二人、誓いが交わされた。互いの存在を、己が還る場所と定めた誓いが。


 子供の手が離れ、それを名残惜しくも見送って、ニコラスはその場を後にした。飢餓にも似たどうしようもない虚無感と寒さは、いつの間にか消えていた。


 かくして、ニコラスの心臓は再び拍動を始めた。

 何にも得難い尊き誓いを刻んで。




 ***




 重たい瞼をようやく開けると、見慣れぬ天井がそこにあった。


「起きたっ! 起きたぞ!!」


「先生どこだ!? 急いで連絡しろ!」


 周囲でもはや見慣れた27番地住民たちが慌てふためき騒いでいるが、今のニコラスには水の中から音を聴いているように聞こえる。さらに見回すと、ニコラスの知らない部屋だった。


 ――ここは……? 俺は、確か。


 己が身を囮にSOG指揮官を射殺し、砲撃の指示を出して、そのまま気を失った。

 一体どのくらい眠っていたのだろうか。全身の血管に鉛を詰められたようで酷く重い。


 呻きながら上体を起こそうと奮闘していると、背中に何本もの細く小さな手が差し込まれた。見ると、少年団メンバーと泣きべそをかいたジェーンがいた。


「ニコラス大丈夫? 俺たちのこと分かる?」


「まだ起きちゃダメ。お腹に穴あいてるんだから」


「三日もねてたんだよ……!? もうおきないかと、おもって……ふぇっ」


「ああ、泣かないでジェーン! ちょっと待ってて、いま店長よんでくるから!」


 ジェーンの頭を撫でた少年団のリーダー、ルカは身軽に身を翻すと寝室からすっ飛んでいった。


 なるほど。あれから気を失ってずっと寝たきりだったらしい。道理で身体が重いはずだ。唯一動かせる首を巡らしていると、ふと気づいた。


 ハウンドがいない。


「なあ、ハウンドどこだ?」


 状況確認したいんだがと言おうとして、ニコラスは言葉を飲み込んだ。住民全員が不意に黙りこくったからだ。蒼白に口を引き結んだ表情は恐ろしい亡霊を目撃したかのようで。


「クロード、何かあったのか?」


「いや、その……」


「彼女なら後始末に行ってるよ」


 凛と気品ある声に振り返ると、店長が立っていた。


「良かった。起きたんだね。ここは私の自宅だ。カフェはしばらくお休みだよ。酷い有様だったからね。修復にはかなり時間がかかるとのことだったから、安心してゆっくり休みなさい」


 朗らかにそういう店長は明らかにいつもより口数が多くて、何かから気を逸らそうとしている気がして。


「店長、あの。後始末って何の?」


 店長がピタリと動きを止めた。老紳士は静かに息を吐くと、テレビのリモコンを手に取り、それを見たクロードら住民が慌て始めた。


「店長、お嬢からは……!」


「駄目だよ。ニコラスには知る権利がある。それに隠し通せるものでもないしね。――ニコラス、本当にいいんだね?」


 店長の真剣な眼差しに戸惑いつつも、頷く。


 店長は溜息を吐いてテレビをつけた。

 そこには――。


「――え?」


 見覚えのある顔があった。冴えない中年カメラマン風情の、自分たちティクラートから生き延びた兵士を誹謗中傷する記事を書いた記者の、顔写真が。


 《繰り返し速報をお伝えします。今朝未明、ニューヨークの『ニュー・ウィーク』本社前にて、遺体の入ったトランクケースが発見されました。遺体は遺留品から『ニュー・ウィーク』元社員だったセドリック・サヴァール氏と見られ、警察は事件の詳細を調べています。また遺体は頭部と四肢が切断されており、胴体部が未だ行方不明――》


 ニコラスは必死に言葉を絞り出した。


「これ、ハウンドが……?」


「確証はないけどね。あの子は後始末に我々住民を決して同席させないから」


「アイツは? ハウンドは今どこに!? というか後始末って――」


「捕虜になったSOG隊員のところに行ったよ。ここから車で20分のところにある河川港の倉庫に」


 ニコラスは最後まで聞かず飛び起きた。左腹部から走る激痛に呻くがそんなことは言ってられない。


 止めなければ。




 ***




「ねえねえ君、返事ぐらいしてくれたってよくない? どうせ最後なんだしさぁ」


 ナンパ男にしか思えない台詞のSOG隊員は随分と口達者な男だった。元海兵隊員らしいが、始終無口な己の助手とは大違いである。


「で、俺らどこ行くの?」


「海の底」


「なかなか刺激的なジョークだね」


「どうとるかは勝手にしろ。USSAは確実にお前らを始末しにくる。なら、お前らみたいな爆弾はとっとと捨てるに限る」


「酷いねぇ」


 ケラケラと笑うカーチスと名乗った男に落胆した様子はなく、むしろこの状況を愉しんでいるようだった。が、彼は不意に真顔になった。


「で、部下の命は保証してくれるんだな?」


「そいつはお前次第だ。口利きだけはしておいた。後は勝手にしろ」


「口止め料とかくれないの?」


「喋れば喋っただけお前は絞首台の階段を上がることになる」


「なるほど。命に勝る価値はないってか。にしても無一文かぁ。まあこーいう冒険は嫌いじゃないけど、ねっ」


 カーチスは後ろ手に拘束されたまま器用に立ち上がると、目の前の搬入用コンテナに乗り込んだ。生き残り、手当てを受けたSOG隊員25名もすでにそこにいた。


 ハウンドがコンテナの戸を閉めようとした直前、お喋り男が待ったをかけた。


「ねえ君、『アルゴス』って呼称(コードネーム)の狙撃手しらない? 腕は滅茶苦茶たつけどターミネーターもびっくりな無愛想野郎でよ。俺と同期で――」


 ハウンドが戸を蹴り閉ざす金属音が盛大に響く。中から抗議の叫びが聞こえた気がしたが、当然のように無視して船員に合図する。


「……えらく舌の回る男だったな」


「全くだ。今度から口も縫合しといてくれよ先生」


「検討しておこう」


 隣で肩をすくめたアンドレイ医師は、しかして真摯な眼差しでこちらを見下ろす。


「しかし意外だったな。てっきり本気で海に沈めると思ってたぞ」


「先生、自分の患者殺されると怒るだろ」


「当然だろう。医師に敵も味方もない。いるのは目の前の患者だけだ」


 吊り上げられたコンテナが大型タンカーへ積まれていく様を見つめる医師の目は、学校へ向かう我が子を見送る親のそれだ。純粋に自分が診た患者の行く末を心配しているのだろう。


「で? 私のために殺さなかったわけでもあるまい」


「殺せばUSSAに攻め入る口実を与える」


「なるほど。行方不明にしてしまうのが一番か」


 医師が頷いた、その時だ。


「ハウンドッ!!」


 怒声にぎょっとして振り返れば、そこには憤怒の表情の助手がいた。その背後にはピックアップトラックと、その脇でオロオロするクロードの姿があった。


 ハウンドはあからさまに舌打ちした。店長め、喋ったな。


「そら見ろ。黙ってやるからこうなるんだ」


 諦めて説教されてくるといい。


 そう言って一人去っていく医師を苦々しく見送った直後、ニコラスが辿り着いた。


 左腹を押さえ、顔面蒼白で激痛に背を丸めていたが、それでも冷や汗を垂らして引きずるように歩み寄ってくる。歪んだ顔は痛みによるものか、それとも。


 ニコラスは息も荒くハウンドの襟首を掴んだ。


「捕虜は?」


「捨てた」


「殺したのか」


「殺してほしかったのか?」


「殺ったか殺ってないかを聞いてんだ! どっちだ!?」


 引き千切らんばかりに握りしめた拳に滴る冷や汗の量に、眉根を寄せる。


 観念したハウンドは嘆息した。


「あれ。あのタンカーにいる」


「タンカー?」


「そ。あのコンテナのどれか。セントローレンス海路を通って大西洋に出る。行き先はアフリカ」


 そう答えると、ニコラスは空気を飲み込みかけて失敗し、肺の全空気を吐いて脱力した。


「良かった。俺は、お前があいつらまで始末したのかと」


「へえ。あの記者の方はいいのか」


「…………やっぱりあれお前の仕業か」


 口が滑った。己の迂闊さに舌打ちすると、俯いた頭から息荒く苦笑と自嘲の気配がした。


「責めたりしねえよ。俺だって人殺しなんだから」


 襟首から手を離しだらりと下げると、ニコラスはハウンドの肩に頭を落とした。


 臓器こそ奇跡的に損傷していなかったが、弾丸は腹腔に穴が開くレベルで彼の肉を抉り取った。医療用メッシュと縫合で穴は塞いだが、本当なら立っているのもしんどいだろうに。


 全く、この男は。


 ハウンドはニコラスの背に腕を回して支えてやった。すると限界だったのか、ニコラスは身を預けてきた。


「……俺が昔あった馬鹿な子供の話したよな」


「ああ」


 馬鹿はお前だ。その子供は今、お前の腕の中にいる。それに気づきもしないんだから。


「あの子さ。別れ際、俺に何でもやるって言ったんだよ。カミカゼだってやるって、置いてかれるのが嫌だって。ただそれだけのために」


「……まあ少年兵あるあるだな。ガキの頃からイカれた場所に放り込まれて殺し合いさせられるんだ。倫理も常識もないさ」


「ああ。そうだな。けどあの時、俺はぞっとしたんだ。俺はずっと、こんなもんを他人に押し付けてたのかって」


 ニコラスの右手が腰に回った。指先で触れるだけの、ささやかな。


「俺は兵士だ。誰かのために命を懸けるのが仕事で、人を殺すのが任務で。けどさ、本当は誰かのために人殺しなんかしちゃ駄目なんだ。自分のためならまだしも、他人のために殺すのは駄目だ。――罪は犯した本人(おれ)が背負うもので、手を汚したこともない誰かに背負わせていいものじゃない。そんなことも分からず俺は殺してきた。だから罰が当たったんだ」


 綺麗事だ。誰もが納得できる正しい回答だ。


 だが。


――そうだよな。誰も守ってくれないんなら、こういう答えになるしかないよな。


 神のため、国のため、指導者のため、愛する人のため。


 そうやって兵士は、殺人という大罪の責任を誰かに背負ってもらうことで、自分の精神(こころ)を守る。

 でないと壊れてしまう。


 それが悪い事とは思わない。生きるためなら仕方のないことだ。


 けれどこの男は、それが許されなかった。

 いいや。本当は、どの国の、どの時代の兵士もそうなのかもしれない。


 どの世界の民も指導者も、兵士が犯す罪の責任を取りはしない。どれだけ命がけで戦おうと、誰も兵士を守らない。


 誰だって殺人の罪など背負いたくはない。

 国の主権が誰にあろうと、他人の罪を背負いたがる奴なんていない。


 ならば、こういう答えになるしかない。


 己が罪咎(ざいきゅう)は、己で背負わねば。誰も兵士(かれ)を許してくれない。


 罪とは本来そういうものだから。


 それでも。


――融通の利かない奴だなぁ。投げ出しちゃえばよかったのに。


 その不条理を突きつけられてなお、善性を捨てなかったこの男の不器用さを、ハウンドは好ましく思った。


 やはりこの男は、昔から変わらない。


「俺はこれからも殺す。俺が殺したいから殺すんだ。敵は殺す。邪魔者は殺す。あの子との約束を阻む奴は皆殺しにしてやる」


 武骨なれど綺麗な狙撃手の指が腰に食い込む。逃がさぬと言わんばかりに。


「お前はどっちだ、ヘルハウンド。セドリック・サヴァールを殺したのは誰のためだ。誰のために殺した?」


 一瞬の間を置いて、ハウンドは笑った。

 いつものように、陽気に、おどけて。


「もちろん私のためさ。なんたって私は悪人だからね」


「………………そうか。なら、いい」


 腰の指から力が抜けた。


 その素直さにハウンドは瞑目した。


 この正直者め、何が自分のためだ。本当の嘘つきは、自分のためなどと決して口にしない。ああいう台詞は、自分のせいで誰かが傷つくのを恐れる者が言うものだ。


 ――ただ守りたいだけなのになぁ。


 どうも上手くいかない。


 悪人が身の程知らずに英雄(ヒーロー)を救おうとするからだろうか。

 お前のような咎人は、ただ英雄(ヒーロー)に討たれて朽ち果てるのがお似合いだと。


 ハウンドは男の肩に顔をうずめた。


 陽光で乾燥し切った衣服の繊維と、猛々しい雄の汗と体臭。

 朝日の中、独り戦場へ舞い戻らんとする兵士の背中から漂ってきた、あの夜明けのにおいだ。


 そっと瞼を降ろす。

 我が身が白日の下に晒され、断罪される日が来るその日まで。どうか。


 ――この兵士に幸福を。


 墓場の番人は振り仰ぎ、いつもと変わらぬ鈍色の空を夜の瞳に映す。それは亡き同胞を想い、遠吠えで喪に服す狼の姿によく似ていた。

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