エピローグ【我らこそ――この地に生きる守護者なり】
最終回です。
【登場人物】
●ニコラス・ウェッブ:主人公
●ハウンド:ヒロイン
【用語紹介】
●合衆国安全保障局(USSA)
12年前の同時多発テロ発生直後に急遽設立された大統領直属の情報機関で、年々発言力を増している。現長官はアーサー・フォレスター。
●『双頭の雄鹿』
USSAを牛耳る謎の組織。その正体はアメリカ建国黎明期の開拓者『ポパム植民地』住民の末裔。
マニフェストディスティニーを旗標に掲げ、国を正しい道に導くことを指標とする。政界、経済界、軍部、国内のあらゆる中枢に根を張り巡らしている。
名の由来は、ポパム植民地の最大後援者でもあったジョン・ポパムの紋章からもじったもの。
●失われたリスト
イラク戦争中、国連主導で行われた『石油食料交換プログラム』を隠れ蓑に世界各国の大物たち(国連のトップ、現職の大臣、資本家、宗教関係者など)がこぞって汚職を行った『バグダッドスキャンダル』に関与した人物らの名が記されたブラックリスト。
このリストを公表するだけで、世界各国代表の首がすげ変わるほど破壊力を持った代物。『双頭の雄鹿』の資金源と目される。
現時点、証拠はすべて抹消され、証人もハウンドとシンジ・ムラカミだけとなっている。
●絵本
ニコラスがハウンドから譲り受けた手書きの絵本。人間に連れ去られた黒い子狼が、5頭の犬たちの力を借りながら故郷を目指す物語が描かれている。作者はラルフ・コールマン。
炙り出しで謎の文がページの各所に仕込まれており、それらを解き明かすと『証人はブラックドッグ』、『リーダーはアーサー・フォレスター』となる。
●《トゥアハデ》
『双頭の雄鹿』の実働部隊。世界各国の特殊部隊から引き抜いた兵士で構成されており、長のフォレスターが自ら選んだ幹部“銘あり”が数人存在する。
現時点で確認されている“銘あり”は『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』、『モリガン』、『ディラン』、『スェウ』、オヴェドの七名。
現時点で『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』の三名は死亡。
また、なぜかオヴェドは名を与えられていない。
低くさざめく街路樹の葉擦れに耳を傾けながら、少女は襟巻を巻きなおした。
夏真っ盛りらしい葉の音だ。芽吹いたばかりの薄く柔らかな甘い香りの葉ではなく、分厚く逞しく育った葉がたてる葉擦れは、苦くも青い香りとともにどこか賑やかだ。
今まさに通り過ぎていった、アイスクリームやドリンクを片手に自撮りに勤しむ十代後半の若者たちのように。
同年代の少年少女らを見送ったハウンドは、再び前へ向き直り歩きはじめた。
八月初旬、首都ワシントンD.C.は珍しく冷夏の真っただ中にあった。例年より最高気温が四度も低く、風通しのよい木陰で涼むと少し肌寒く感じるほどだ。
――これならニコも熱中症にならずに済むかな。
ちょっと複雑そうな、けれど少しはしゃいだ様子で礼服を手に取って眺めていた相棒のことを思い出しながら、ハウンドは一人笑みを浮かべる。
街路樹の木陰を歩むハウンドにとっても、この襟巻が大活躍している。日陰ではショールの代わりに、日向では被って日除けに使える優れものだ。
しかし夏に襟巻となると、やはり目立つのだろう。周囲の視線をやや感じる。
悪いものではなく、単純にアメリカ人にとってエスニックなデザインなので物珍しいのだろう。ついに擦れ違った初老の夫婦から声をかけられた。
「綺麗なストールね。自分で作ったの?」
散歩途中、愛犬が電柱根元の犬専用掲示板の確認に夢中になっている間、暇を持て余していたのだろう。
犬とリードを握る夫そっちのけで、夫人は世間話に花を咲かせ始めた。
「ありがとうございます。養父が縫ってくれました」
「まあ素敵! いいわねぇ、うちの人なんて、芝生と車のことしか頭にないんだもの。ちょっとは見習ってほしいわ。こないだなんか、うちの子にボーイフレンドができたってのに、『そうか』の一言しかなかったのよ。あんまりだと思わない?」
こないだなんか、から後のくだりは声のトーンを落としたが丸聞こえで、背後の夫は気まずそうにそっぽを向いた。
これは長くなりそうだ。
ハウンドが足元に目を落とすと、愛犬のテリアが足元に寄ってきていた。中型犬より少し大きめで、もこもこした毛も相まってぬいぐるみのようで実に愛らしい。
彼はすでに確認も署名も済ませたらしく、見知らぬ客人と談笑する夫人、夫、こちらとを順繰りに見上げながら、しゃんと背筋を伸ばしてお座りした。
ハウンドはしゃがみこみ、犬に拳を出して匂いを嗅がせた。夫が慌てた口調で「ステイ」と呟きながらリードを引いたが、犬は粗相することもなく、鼻先をハウンドの拳に押し当てて嗅ぎ始めた。
彼のチェックを受けながら、ハウンドは夫人を見上げる。
「びっくりしすぎて言葉が出なかったのかもしれませんよ。ねえ?」
ハウンドが次いで夫を見上げる。夫は「えっ、まあ……」と返答に窮しながら、ひとまず退散することにしたらしい。
チェックを中断されて不満げに身をよじる犬を抱きかかえて、数メートル先の木陰へいそいそと向かっていった。賢明な判断だ。
そんな夫を夫人が胡乱げに見送る。
「そうかしら」
「きっとそうですよ。娘の身で言うのもなんですが、父親ってそういうもんじゃないですか」
「それもそうね……ああ、思い出した。あの人、バーベキューの時だけ口数が増えるのよね。唯一私が褒める家事だから。今度お酒でも飲まして聞き出そうかしら」
冗談めかした口調で夫人が笑った。言葉とは裏腹に、節々から夫への深い愛情を感じる。
「いいですね。ついでに娘さんもご一緒したらどうです」
「素晴らしいアイデアだわ。早速娘と作戦を練らなくちゃ。ありがとう、お嬢さん。良い一日を!」
良い一日を、とハウンドも返して、夫と犬の元へ小走りで向かう夫人を見送った。
ごく普通の、よきアメリカ人だった。
ハウンドが内に秘める心境など知る由もない、それでいいのだ。どうかこの先もずっと、よき日々を。
夫婦との出会いに本心から感謝しつつ、ハウンドは先を急ぐ。
ブロックを二つ超えたところで、ハウンドは右手のフレンチレストランに入った。
サンデーブランチには女性客で大いに賑わいそうな小洒落た店だ。軒先の薔薇も、ハウンド好みの香りではないがよく手入れされている。
ハウンドは店内の店員と目配せしながら、オープンテラス席に向かった。
先客はすでに席についており、チーズガレットを肴に白ワインを嗜みながら、経済紙を読んでいた。
その向かいに腰を下ろす。
「で、お前いつまでここにいんだよ」
先ほどの夫婦のとは打って変わって、無遠慮に尋ねる。
向かいの相手は経済紙から顔を上げ、きざったらしくサングラスをずらした。
「君からお別れのキスをもらうまで、かな」
「特区解体への全面協力以外のもので協定を結んだか」
「つれないなぁ。ま、そんなとこ。密約だけどね」
ヴァレーリ一家当主フィオリーノは、そう言ってワイングラスを手に取りつつ、もう片方の手でメニュー表をこちらに差し出した。
相変わらず一挙手一投足が絵になる男だ。むかつくほどに。こちらが注文を終えたところで話しかけてくる自然さも含めて、マフィアというのはつくづく擬態するのが上手いと思う。
「それで、君の番犬は?」
「式典に参加中だ。ラルフたちの葬儀のな」
「ああ、棺桶見つかったんだってね。けど中身ほぼ空っぽなんでしょ。意味あんの」
「遺族にとってはな。帰ってきた、それだけでいいんだ」
本心から言えば、間違いなくそうではないだろう。けれど還ってきたものが少しでも増えることで、彼女たちの慰めになればとハウンドは祈った。
「じゃあその間は俺の独り占めね」
「あと十分したら私も行く」
「ええー、米兵の葬儀に君が?」
「当然だろ。別れの挨拶ぐらいしておきたい。それに、私らの監視役も気が気じゃないはずだ。さっきも一人、滅茶苦茶慌ててたぞ。私がお前に接触しに来ると思わなかったんだろ」
先ほどの初老夫婦の、夫の方を思い出しながら、ハウンドは息を吐いた。
木陰に向かった際に背を向けていたが、彼は手首に仕込んだ無線機に話しかけていた。
あのテリアも警備犬か何かだろう。エアデール・テリア、ペットとしても人気のテリア最大種の犬種だが、もとは軍用犬だ。
恐らくあの夫は非番か、待機中の人員だったのだろう。でなければ何も知らない夫人を任務に連れ歩くことはしまい。
近所に住んでいるからと駆り出されたか。ともあれ、さぞ狼狽えたことだろう。
フィオリーノは唇を尖らせながら、グラスを回した。
「じゃあやっぱ行っちゃうんだ」
「当然だ。留まる方が不自然だろ。今日中にニコとここを発つ」
「ふぅん、そう。俺を置いていくんだ?」
「置いていく。もともとそういう関係だろ。お前は依頼主、私は請負人、それ以上でもそれ以下でもない」
「……はあ。そういうことにしといてあげるよ」
フィオリーノがわざとらしく溜息をついたところで、ハウンドが注文したトニックウォーターがきた。
ハウンドはボトルが未開封なのを確認し、グラスには注がず行儀悪くボトルのままあおった。
半分ほど飲み干して。
「いつ、気づいた」
と、唐突に問いただす。
フィオリーノはワインを舌で転がしてから、ゆっくり口を開いた。
「最初から」
「奴がはじめて27番地に来た時からか」
「そう。ヴァレーリの総力を挙げても、彼が『オヴェド』と呼ばれていること、合衆国安全保障局の局員であること、その二点以外まったく探れなかった。何も分からなかったから、逆に警戒した。案の定だったろ?」
ハウンドは無言でテーブルにボトルを戻した。
アメリカはまだ、アーサー・フォレスターを移送する輸送機が墜落したことを公表していない。フォレスターの生死は不明だが、ほぼ間違いなく死んでいるだろう。
無論、その報を極秘裏に知らされたハウンドとニコラスも、事故などとは毛頭思っていなかった。
「……ニオイが違ったんだ。最初はてっきり監禁明けで鼻が馬鹿になってるのかと思ったが」
「いつ変わった」
「監禁の後だ。フォレスターが直接面会した後、双子が私をタワー上階へ引きずり出したろ。その時にはもう変わってた」
「てことは、奴はとっくにフォレスターに見切りをつけてたわけね」
「国はなんて?」
ハウンドは少し踏み込んだ質問をした。フィオリーノは肩をすくめた。
「さあ。俺は『あんたらが知らないことも知ってるよ』ってターチィとこの婆さんと揺さぶりかけただけ。特にこれといったもんはないけど、こっちの言い分で司法取引に応じてくれた当たり、口止めみたいなもんかな。外野からも音沙汰なし」
なるほど。ターチィが真の黒幕の存在を本国に明かし、それを材料に中国がアメリカに取引を持ちかける……その寸前でフィオリーノがアメリカに情報提供した、といったところか。
それなら特区設立に暗躍したこの極悪人を逮捕もせず、財産も一切没収せず、監視だけで留めるというこの好待遇も頷ける。
「ルスランは」
「とっくに発ったよ。なんならあの戦いの翌々日には国外退去。色々と持ち込んでたからねぇ。国としても、奴の戦車密輸を手引きしたことはばらされたくないだろうし」
「そうか。遺品を届けてくれた礼がしたかったんだがな」
ラルフの遺品の木箱は、自分が目を覚ました病室のサイドボードに置かれていた。メモも何もなかったが、ただ小箱の下にロバーチ一家の象徴印が押された紙だけがあった。
木箱は今、ラルフたちが書いてくれたあの絵の寄せ書きを収める宝箱として、ハウンドの懐に大事にしまわれている。
フィオリーノが不満げに顔を膨らませた。
「俺も回収したんだけど?」
「そうか。感謝する」
「感謝の気持ちが見えないなぁ」
「どうせ交渉材料に使えないか確認するために回収しにいっただけだろ? それにお前、ずっと気色悪いぐらいご機嫌じゃないか。不機嫌装ってコントロールしようとすんのやめろ。ばれてんぞ」
「そりゃ今日は体臭に滅茶苦茶気を遣ったからね。君とこうして話すのも最後になるかもしんないし」
いやね、とフィオリーノはクスクス笑った。
「君の番犬がタワーでかましてくれた大スキャンダルショー。あのおかげで、いい時代になりそうだなぁって」
「なにが」
「君だって薄々気づいてるだろ。特区設立を後押ししたのはアメリカ国民だ。増大する一方の貧富の格差。勝ち組は自身が勝ち続けるためルールをハックし、負け犬は負け犬のまま終わる不条理に怒り狂ってる。そのクソゲーの盤をひっくり返す手段の一つとして誕生したのが、特区だ」
「その特区もすでに解体されてるが?」
「特区が解体されたところで、民衆の怒りが消えるわけないでしょ。挙句に今回のフォレスターの大やらかしだよ。あれを見たアメリカの負け犬連中はこう思ったはずさ。『ほら、やっぱりエリート連中の方が国を牛耳ってる極悪人じゃないか』ってね。実際間違ってないし」
フィオリーノはチェシャ猫のような底意地の悪い笑みを浮かべながら、乾杯するようにグラスを頭上に掲げた。
「ネットという文明の利器は人類には早すぎた。少なくとも、自分を内省することもできない頭の悪い連中にまで普及させるべきではなかった。SNSは今や公共の場と化し、記録として残るがゆえに、過去全ての発言が発信者の烙印として機能する世界が誕生しつつある。
他人の間違いが見つけやすくなったら、人はどうなると思う? 正義が娯楽になるんだよ。何者でもない無能ほど、そういう分かりやすいものに飛びつく。なにせ正義側について悪を糾弾するだけで道徳的になれるヌルゲーだからね」
「そこまでの事態になれば、流石に国が規制に動くだろ」
「動けないよ。だってこの国、民主国家だもん。事実この国のエリート連中はまるで気づいていない。馬鹿が陰謀論に踊らされてると冷笑するだけさ。だからフォレスターみたいな害悪の台頭を許す。
奴は自分を本気で救国の守護神だと思い込んでたみたいだけど、奴は正義という名の毒の種をこの国にまき散らしたのさ。そして奴自身も、自らの正義に倒れた。まさにSNS上で破滅する有名人たちとおんなじじゃないか」
君の番犬には本当に感謝するよ、とフィオリーノは口角を不気味なほど吊り上げた。
「ニコラス・ウェッブは正義を弾丸とすれば、どんな権力を持った人間(魔物)でも打ち倒せることを全国民に示した。この国の負け犬どもが求めてやまない“物語”を現実にしてみせたわけだ。となれば、そういう物語を人々が求めるのは自然な流れだろ?
この先『正しさ』はより加速し、先鋭化していく。そうなると、脱落者が必ず出てくる。純度百パーセントの水を人体が受け付けないように、正しすぎる世界は劇薬として機能する。そうなれば、人は悪を求める。俺たちのような本物の悪党をね」
「……マフィアが糾弾されなくなる時代が、本当にくるとでも?」
「くるさ。かの悪名高き第三帝国も、当時のドイツ人にとっては正義だった。
正義ってのは皮肉なもんでね、人の手から離れた方が正しいままでいられるんだ。だから人は法をつくった。法という人の手の及ばない規範を掲げることで、人は自らの本能を切り離し、『正しさ』を理性的に運用できる。そうなって初めて正義を正しく行使できる。
正義を棍棒に振り回すフォレスターみたいな原始人が出現した時点で、正義の価値が地に堕ちる未来は確定したのさ。人々は必ず悪を求める。“物語”の英雄の登場を待ち望むように、狂った正義を打ち倒すダークヒーローとして、必ずね。君自身、そうだったろ?」
否定はしない。27番地はブラックドッグを求めた。
棄民を虐げる五大マフィアや、彼らを捨てた国や国民への強烈な怒りと叛骨心から『六番目の統治者』は誕生した。
「これからのアメリカはさぞ荒れるだろうねぇ。あ、でも俺は表舞台に立たないよ? マフィアって表舞台に立つとなぜかすぐ滅ぶんだよね。宿命ってやつ? そういう意味で特区を早めに店じまいできたのは助かったよ。これ以上発展させると、俺が表舞台に立たざるを得なくなるからさぁ。番犬くんに伝えといてよ。『君のお陰でますます発展できそう、ありがとう』って」
ニオイも表情も喜色満面のフィオリーノに、ハウンドはしばし押し黙った。
そしてボトルの中身をすべて飲み干してから、席を立つ。
「物語は、必ず読者の目に晒されるもんだ」
空のボトルとドル札をフィオリーノの前に置き、ハウンドは垂れかけていた襟巻の裾を背に放った。
フィオリーノから笑みが消え、真顔になる。
「読者はお前が思ってるほど馬鹿でもないし、愚かでもないぞ、フィオリーノ。私はそれをよく知っている。27番地がなぜ最後まで戦い抜いたのか、お前たちも見たはずだ。これから先、悪に焦がれる人間は必ず出てくるだろうさ。悪漢小説が一世を風靡した時代があったように、な」
ニコラスはきっと信じているのだろう。この国に住むすべての人たちの心を、27番地住民を信じたように。
ハウンドには、彼がなぜ「偽善者」という汚名を捨てず受け入れたのか、今なら分かる気がする。
かつてラルフは、こう言った。目の前のことが善か悪か、自分で判断しなさいと。
あれは、己が過ちをいずれ裁かれることも覚悟の上で言ったのだろう。ならば私も、彼が遺した誠意に全身全霊でもって応えよう。
この国の人々がなにを選ぶのか。善と悪、あるいは両方か。どんな未来を選ぶのか、この生ある限り見届けよう。
この地に彼らが眠る限り、それを守るのは黒妖犬の役目だ。
「読者は私たちを視ているぞ、フィオリーノ。登場してきた人間が何者なのかをな。お前の望み通りにはならないさ」
そう言い放つと、フィオリーノはきょとんとした。珍しく人間らしい表情だった。
それから再び笑みをつくった。チェシャ猫のような不気味な笑顔ではなく、友人から突然週末に遊ぼうと約束された少年のような笑顔で。
「いいね、それ。そうでなくっちゃ愉しくない」
それを聞いてハウンドも笑って踵を返した。
待つのが得意な、でも待つのがあまり好きではない相棒が、待っている。
***
「死人になった気分はどうだ?」
背後から唐突に話しかけられて、ニコラスは振り返った。
「悪くないですね。おかげで堂々とこの場所を訪れられる」
「私は冗談のつもりで言ったのだがね」
紺のスーツに赤いネクタイを締めたバートンが、歩み寄りながら苦笑する。
「冗談が下手なもの同士がジョークを交わすとこうなるってことです。今度会うまでに腕を磨いておきますよ」
「それは暗に私にも腕を磨けといっているな?」
眉をくいっと持ち上げたバートンは、そのまま隣にくるとニコラスの目の前の墓を見下ろした。
「悪くない眺めだろう、友よ」
クルテクの墓だった。
名はおろか、生年月日も死亡した日も刻まれていない。
澄み渡った夏の青空の下、青い芝生に白い墓石が延々と立ち並ぶさまが眩しい風景で、大理石の塊だけがぽんと置かれた墓は酷く殺風景だった。
傍から見ると木下に転がる小岩に見える。
しかし、墓石には碑文が一筆刻まれている。「国を護った男」と。
「本人は墓も不要と言っていたんだがな、私の我儘でここにした。せいぜい君が生前遠ざけていた連中に絡まれてうんざりするといい。コールマンはしつこいぞ、酒が入ると特にな」
そう呟くバートンの横顔を、ニコラスは無言で見つめていた。
寂しさと悲しみは相変わらずだったが、今日は旅立つ友人の背を小突くような愉快さが混じっていた。
「戦友には会ってきたか」
「はい。そうでなくともこいつを借りてますからね」
海兵隊礼服のブルードレスをひと撫でする。
冤罪とはいえ自分の過去を鑑みれば袖を通すことも憚られるところだが、大統領と海兵隊総司令官両名による直々の熱望とあらば拒否権はない。しかも亡き親友の母エマがわざわざ親友の遺品を仕立て直してまであつらえたものである。
「クローゼットに眠らせとくのも勿体ないから」と微笑まれて、断れる人間がいるなら見てみたい。虫食いだらけだろうが袖なしだろうが着てやるとも。
なによりニコラス自身も、久々に海兵隊の軍服を着ることができて胸が躍った。となれば、フレッドに報告しないわけにはいくまい。
「部下の兄も来てくれましたよ」
「イードル・トゥルク伍長、第三歩兵連隊の元『無名戦士の墓』の衛兵だったな」
「はい。あのクリスマスの一件で軍法会議にかけられていましたが、今回のこともあって降格処分で済んだそうです。また一からやり直すと」
ニコラスは視線を上げた。墓標が整然と立ち並ぶ静謐なる丘を下った先、まだ墓石が立っていないひらけた芝生の一帯に、喪服と制服の集団がいた。
ラルフ・コールマン班の遺族とその関係者、大統領と軍の高官らである。あの葬儀を取り仕切る衛兵の中に、トゥルク伍長もいるのだろう。
マスコミの立ち入りは一切断った。遺族らの亡命を援助したイギリス政府も、遺族らの心情を考慮して外交官の参列を辞退、弔電を送るのみにとどめたという。
「お前たちも参列してよかったのだぞ。そのぐらいの工作はしてやる」
「新生中央情報局の作戦担当次官としてですか」
「長官からの許可は取り付けてある」
「遠慮します。葬儀は生者のためにあるべきです。死者が首を突っ込むべきじゃない。……受け売りですがね」
なによりハウンドが真っ先に断ったのだ。まずは遺族を優先すべきと。ならばニコラスもそれに合わせるのが道理というもの。
遺族らに目を向ける。
式典は埋葬前の別れの時間に入っていた。遺族らの表情は見えなかったが、背中がすべてを語っていた。
ぴんと背筋を伸ばして空を仰ぐ者、背を丸め肩を落としながら前を向く者、前を向けず家族と手を握りしめ合う者。棺の前に跪き額を押し当てる者。
コールマンの養母『盲目の狼』が、海水で傷みきった棺を蓋う星条旗を、そっと撫でていた。
それを見た瞬間、目頭の奥に熱を感じて、ニコラスは瞬きで誤魔化した。
「ウェッブ」
バートンに呼ばれて視線を戻す。こちらに近づくスーツを着た一団に、ひときわ背の高い細身の中年男性がいる。フルグ・キバキ大統領だ。
ニコラスは姿勢を正した。
公には、ニコラス・ウェッブは今回のUSSAが引き起こした大規模同時多発テロで戦死したことになっている。
名誉回復など今さら興味もないが、少なくともUSSAが撒いた「テロリストの協力者になった裏切者」という情報は訂正された。
発表当初は世論も荒れたが、軍トップが戦時中にニコラスとバートンの存在を明かし、公式に謝罪したことが結果的に功を奏した。
ニコラスとしてもこれ以上、海兵隊に汚点を残さずに済んだことは行幸だった。
バートンはこのテロを生き抜いた証人として、大統領直々の指名でCIA高官の座に就いた。その意図は、USSA解体後の国家情報機関の再構築だけではない。
USSAの暴挙により全国土にばらまかれた特区内の反社会組織の撲滅、これから始まるであろう新たな対テロ戦への備えだ。ニコラスがここにいる理由でもある。
今のニコラスは、ニコラス・ウェッブとしてではなく、CIA工作員としてバートンに抜擢された元海兵隊員としてここにいる。
少なくとも、バートンと大統領以外の人間はそう思っている。
「君の相棒はまだ来ていないのか」
大統領は周囲を見回しながら、残念そうに声を落とした。ニコラスは首を振る。
「いいえ。あそこにいますよ」
500メートルほど先を指さす。ニコラスの視力をもってしても人の形がかろうじて判る距離だが、長い尻尾のような黒髪と赤い襟巻で彼女と分かる。
大統領が小さく頷いた。
「『沈黙の鷹』の弟子なだけはあるな。目がいい」
「恐れ入ります」
そう返しつつ、ニコラスは直に見る大統領の姿に目を瞬いた。
ひょろっと背が高く細身で、物柔らかな顔立ちをしているのは知っている。報道で何度も見た。
だが実際に目の当たりにすると、穏やかな口調に含まれる静かな威厳、堂々とした振る舞いから溢れ出る風格に圧倒される。
一方で目つきは人懐っこい大型犬のようで、貫禄があるのに親しみやすいという、矛盾した性質を併せもつ不思議な雰囲気の人物だった。
そんな大統領は円やかな目元をさらに和らげて微笑んだが、不意に表情を引き締めた。
「C-32墜落箇所付近の海域で。妙な動きをしていた船があった」
ニコラスは鋭く目を眇めた。すでに知っていたのか、バートンに表情の変化はなかった。
C-32輸送機は、移送中のアーサー・フォレスターを乗せたまま大西洋に沈んだ。その首謀者と目される人物を、ニコラスはよく知っている。
「巧妙な連中だ。船は海上でさらに数隻の船に別れ、何食わぬ顔で元の航路に戻りLNG船として本国へ帰港していった。別れた船が向かった先もばらばらだ。バートンCIA作戦担当次官、輸送機に登場していた空軍兵士の身元は」
「四名が判明しております。しかし登場していた全員に身分を詐称した痕跡が見られました。現在、USSAに残されたデータの復元と解析を急いでいます」
大統領は頷き、こちらを見据える。
「君と君の相棒には、その追跡を頼みたい。オヴェドと名乗る男と面識があるのは、君たちだけだ」
「承知しております」
背後で軽い足音がして、隣に並んだ。ハウンドはこちらを見上げると、自分と同じように前へ向き直った。
それを見て、固く口を引き結んでいた大統領が、ふっと口元を緩める。
「正直に言うと、君たちには正式に我が国の工作員として働いてほしかったのだが」
「やめた方がいいでしょう」
ハウンドが即答する。
「彼はともかく、私はまごうことなきテロリストです。我々にとっても、あなたにとっても、我々はこの世に在らざる者として活動する方が都合がいい。フォレスターの二の舞になりたくはないでしょう」
「君にそう言われると立つ瀬がないな。忠告に感謝しよう」
大統領は困ったように眉尻を下げた。次いで、こちらを見る。
「君も、いつでも帰ってきてくれていいのだぞ。海兵隊総司令官が勲章を渡しそびれたと悔やんでいた」
「ありがとうございます。ですが自分はオヴェドを一度取り逃がしています。あれが本物だったのかは定かではありませんが、逃がした責任は果たさねばなりません。勲章は、戦友の墓に供えておいてください。自分よりよほど受け取る資格のある兵士たちです」
「両方に振られてしまったな」
大統領は笑いながら肩をすくめた。その笑顔には落胆の色はあれど、清々しさがあった。断られるだろうとはじめから予見していたのだろう。
「では第44代アメリカ合衆国大統領として、君たちに依頼する。代行屋『ブラックドッグ』、我が国を脅かすテロリストを追跡し、その正体を暴き、排除してほしい。やってくれるか」
「無論です」
「その依頼、謹んで承りましょう」
「うん。報酬の前払いとして要望通り、君らの関係者すべてを庇護するとこの場で誓おう。……まあ私が大統領でいられる残り三年の話だがね。だが権力を失った後も、同胞として、よき隣人としてできる限りのことをしよう。こう見えて私は極めて欲深い人間でね。棺に入るその瞬間までいい人でいたいんだ。政治家になったのもそれが理由さ」
おちゃらけながら大統領はウインクした。けれど目はどこまでも真摯だった。
ニコラスは踵を鳴らし、敬礼する。軍人として敬礼するのは、これが最後だろう。
それから踵を返した。ハウンドも同じく踵を返す。
一世一代の大仕事だ。やるべきことも山積み、早速準備に取りかからねば。
と、その時、大統領がニコラスを呼び止めた。
「軍曹、君のことはなんと呼んだらいい? 君にも呼称は必要だろう」
ニコラスは足を止め、振り返った。ハウンドがこちらを見上げていた。ニコラスは軍帽を脱ぎ、胸に当てて答えた。
「『ムナフィック』で、お願いします」
大統領が怪訝そうな表情を浮かべた。一方でハウンドはひとり満足げに微笑んでいた。ニコラスもまた微笑み返し、再び歩き始める。
もはや振り返ることはなく。
「色々とやることはあるが……まずは腹ごしらえからいくか」
「分かってるじゃん。なに食う?」
「やっぱバーガーだろ。しばらく本場の食えなくなるし」
「いいね~」
そんな取り留めもない言葉を交わしながら、ニコラスは高まる昂揚と喜びを隠しきれずにいた。過酷な戦いが待っていると知っていながら、それすらなぜか楽しみにしている自分がいた。
ハウンドと一緒に往けるのなら、どこへでも。もう置いていくことも、置いていかれることもない。
***
「納得がいかないようですな」
バートンが声をかけると、大統領は憮然とした表情で首を振った。
「君の教え子、ちょっと自信なさすぎじゃないか。自責も度が過ぎれば仇となるぞ」
「まあ自嘲癖があるのは否定しませんが。今回は前向きに受け取っていいかと」
談笑しながら去っていった二人の背を、バートンは見つめた。教え子の背はすでに丘の向こうへ消えようとしていた。
ちょっとぐらい振り返ってもいいじゃないかと、少し恨めしくも思ったが、仕方のないことだ。
若者はいつだって老人を置き去りにしていく。天上に戴く綺羅星を仰ぎ見るように、焦がれてやまないもののために、脇目も振らず進み続ける。
兵士の右腕にあるポイントフラッグのように。
「前向き? 自分の汚名を名乗り続けるのがか」
「ええ。大統領はたしか日本の文化にも親しんでおられますね」
「うん。あの国は実にユニークだ。特にゲームと食べ物がいい。少年時代、カマクラで食べたマッチャ・アイスが忘れられなくてな。君も食べてみるといい。あれはいいぞ、甘いのに健康的なんだ。だがワサビには気を付けろ。マッチャ・アイスに見た目が似ているが、あれは劇薬だ。目と鼻をやられる」
「恐ろしいものを日本人は食べますね。日本食の話はさておき。日本語には、英語と同じく同音異語の言葉があるそうです。英語ではスペルを変えますが、日本語は漢字という文字を変化させて表現するようです」
「ああ、一つの言葉に三つも文字を使う難解極まりない言語だったな、日本語は。それで?」
「偽善者とは日本語で『ギゼンシャ』と読むそうです。ですがそれには、同音異語の別の意味を持つ言葉があるのです」
大統領は黙って続きを待った。
その表情を見て、バートンは数日前のハウンドの愉しそうな表情を理解した。なるほど、謎かけの答えを自分だけが知っているというのは、たしかに気分がいい。
満を持して、バートンは口を開いた。
「《善を疑う者》、疑善者、とも言うのだそうです。ウェッブが先ほど名乗ったのは、偽善者ではなく、疑善者の方でしょう」
大統領は軽く目を見開き、振り返る。すでに消えてしまった、二人が去った方角を。
「特区という怪物を生みだしたのは、国民の意思だった。これから先、正義はどんどん暴走していくでしょう。フォレスターのように正義を御旗に非道を行う輩は必ず現れる。いつの日か、暴走する正義が国を焼き尽くし、滅ぼす日がくるのやもしれません。
しかし彼のように、己の善を疑い、己と向き合う勇気ある者がいる限り、この国が滅ぶことはないと思うのです」
大統領はしばし黙りこくり、「うん」と小さく相槌を打った。
「ならば我々は、我々の務めを果たさねばならないな。では仕事をするとしよう。国民に我らの善を疑われぬように」
「はい、大統領」
■終章 【その者の名は――】
黄土色の砂塵で霞む視界に、その深緑は、やけに目に焼き付いた。
ニコラスは、この地に生きる人々が、なぜ緑を神聖な色としたのか分かる気がした。
乾ききった大地で僅かな水を身に孕み、根を張り生きる草木は見ているだけで人の心に安らぎを与える。
そんな思いに浸りながら通りの向かいの、荒れて土がひび割れた畑の畦道に並ぶ、オレンジの木々を眺める。
葉先は茶色く変色し、実はしわだらけで萎んでいる。しかし、木はまだ生きている。微かに残った葉でつくった影に白い花をつけ、漂う香りは豊潤で強く鼻を刺激する。
旱魃が続いているというのに、実に逞しい樹だ。
風に乗ってくる爽やかな香りを楽しみながら、ニコラスは目の前の客が試着を終えるのを待った。
「できた!」
右足に義足を装着した少年が、鼻下に浮かんだ汗を袖で拭った。
「立ってみろ。ゆっくりだぞ」
「うん」
少年が左膝を立て、おっかなびっくり立ち上がる。真横にいた母親がハラハラした表情で少年に手を伸ばすが、少年は母の手を借りることなく自力で立ち上がった。
「すごい、一人で立てた……! 走れるんじゃない、これ」
目を輝かせて走り出そうとする少年を、母親が慌てて制止する。しかし少年は振り切り、数歩びっこを引くように小走りして、反転、またも走って母親の胸に飛びこんだ。
「母さん見た、見たよねっ。ぼく、走れるようになったんだ! こないだまで杖なしじゃ歩けもしなかったのに」
「もうちょっと調整が必要だな。坊主、こっちこい。今度はもっとスムーズに走れるようになるぞ」
「ほんと!?」
少年はいそいそと天蓋下に戻ってきた。ニコラスは義足の外し方を再度教え、受け取った義足の調整を始める。
少年はそわそわしながらも、こちらの手元をじっと見つめている。
そんな様子に母親は喜びながらも、どんな表情をすべきか迷った様子でこちらを見つめていた。警戒と敵意を隠しもしなかった初対面の時に比べれば、大きな変化だ。
「ほら。できたぞ」
「ありがとう、おじさん!」
「ああ。俺も、ありがとうな」
ニコラスに感謝し返されて、少年は小首をかしげた。しかし自らの足で自由に闊歩できる興奮が勝ったのだろう。母親が勘定を済ませるのも待たず、天蓋を飛び出していった。
対して、母親は支払いが足りない理由を述べようとしたが、ニコラスは手を広げて押し留めた。
「払える時に払ってくれればいい。早く息子のところへ行ってやれ。着けたばっかの頃は怪我もしやすい」
母親は言葉を詰まらせ、視線を彷徨わせながらも感謝の言葉を述べ、子の後を追っていった。
親子が去ったのを見送って、ニコラスは道具を片付け始めた。
本日の義肢装具屋はこれにて閉店、今日は特別な日なのだ。なにせこの村に、待望の水路が開通するのである。
工事には、かつてアフガニスタンで尽力したムラカミ氏の意思を継いだ日本の民間支援団体が中心となって活動している。もちろんハウンドもだ。
――今日も遅くなるかもな。
ニコラスは晩飯の献立を考えながら、生やした口と顎のひげを撫でた。
日本語をはじめ、この国の言語に精通するハウンドは時に通訳として、時に護衛として、国中を駆けずり回っていた。
ムラカミ氏の時のような同じ過ちは繰り返すまいと、日々張り切っている。最近はちょっと忙しすぎて「本来の任務忘れそう」とぼやいていたほどだ。
張り切っているのはハウンドだけではない。この村の人間はもちろんのこと、近隣の村々からも男たちが自ら志願して工事に取り組んでいる。
連日熱中症で倒れる人間が続出しているが、労働者はすぐ補填され、倒れた者も回復しきらないうちに現場へ戻っていく。
彼らがここまで情熱をかけて水路開通に取り組むのは、枯れ果てた故郷を復活させる唯一無二の手段だからだ。
実際、潤いを取り戻した土地では農業や牧畜が再開され、難民として他国へ逃れていた人々が国に戻り始めている。
今、ニコラスの両隣に店を構えている行商人らも、それを見越しているのだろう。
水路開通が成功すれば今宵の宴のために、失敗しても労働者相手に商売ができる。商魂たくましいとはこのことだ。
やおら、人々がざわめき始めた。通行人は足を止め、村人は通りの向こうを首を伸ばして様子見し、子供たちは駆け出し始める。
工事現場の方角だ。
ニコラスも立ち上がり、見物人で身動きが取れなくなる前に、現場へ向かうことにした。
水路は、田畑があった箇所の中央を突っ切る形で建設されている。
緑が一つもない、砂塵が舞うばかりの荒廃しきった大地。畦道とおぼしき場所に、枯れ草が揺れていなければ、農地とも気づかぬ有様だ。
そんな荒れ地の一か所に、人々が集まっている。
ニコラスは群衆の中から紅を探し――見つけた。
群衆の先頭、水路のすぐ脇で、ハウンドは村のすぐ横にある平野をじっと見つめている。
「水はもう流れてるんだよな?」
「勾配があまりないからな。ゆっくり来てるんだろう」
そう言いつつ、じれったそうに足踏みする労働者たちの横に、ニコラスも立った。
完成された水路は、塀に挟まれた低い道路のようにみえた。
「蛇篭」と呼ばれる、砕いた岩をボックス状の金網の中に詰め込んだブロックが両脇に積まれており、コンクリートによる舗装は一切ない。なんなら工事中も重機をほとんど使わず、手作業で行われていた。
いざ支援団体が国を離れた後も、物資に乏しい現地の人々が自力で再現できるようにと、人の手による旧来の手法を貫く。それがムラカミ氏のやり方だった。
労働者たちは、水路の先の地平線を固唾をのんで見守っていた。ニコラスも目を凝らす。
地平線は砂埃で霞んでよく見えない。水らしきものは見当たらず、あるのは蜃気楼がみせる幻想の水溜まりばかりだ。
労働者たちの間に、落胆の色が広がっていく。
その時、ニコラスは気づいた。
地平線の彼方、水路の先が茶色く変色している。茶色はどんどん領土を広げ、徐々にこちらに近づいてきた。
「水だ、水がきたぞ!」
誰かが叫ぶと同時に、歓喜の雄たけびが噴き出した。
労働者たちが駆け出す。やってきた水を迎えにいこうというのだ。
走っていく彼らを横目に、ニコラスも歩いて向かうことにした。
やってきた念願の水は、ニコラスの想像とはかけ離れていた。茶色く濁り、枯れ草や粉塵が浮かんで、とてもではないが恵みの水とは思えない。
だがそれも最初だけだった。水は流れれば流れるほど澄んでいき、水かさをぐんぐん増していく。
労働者たちが水路に飛びこんでいく。足で水を蹴飛ばし、互いに水をかけあって。日焼けした髭面のいかつい男たちが、少年のように大はしゃぎで水と戯れる。
「神は最も偉大なり!」
労働者の一人が涙を流し、両手を頭上に掲げた。その叫びに呼応して、あちこちで神への感謝の声が叫ばれ、やがて現場はあらん限りの拍手に包まれた。
ニコラスはその光景を、少し離れた場所から眺めていた。
以前のニコラスにとって、その叫びはテロリストの鳴き声だった。今はそうではない。
テロリストが奪った言葉は、日々を必死に生きる人々の歓喜であり、悲嘆であり、祈りだった。
今、この瞬間、祈りは人々に返されたのだ。
ニコラスはハウンドを見た。赤い襟巻を被った彼女は、少し日焼けした頬を紅潮させて、労働者や支援団体の人々と固く握手し合っていた。
その光景を見つめ、ニコラスは一人踵を返した。
三十分後。
持ち場に戻ったニコラスは、木の洞に隠していた水をあおった。
先ほどの村の隣、数年前に水路が開通した脇に植林された、砂防林の中だ。蛙や小鳥の鳴き声に耳を澄ませながら、ニコラスはペットボトルを空にした。
少し飲み足りない、と思っていた矢先、目の前に冷えた水が差しだされる。
「なんで先に帰っちゃうの。みんな探してたよ?」
頭を逆さにして顔を覗き込んだハウンドは襟巻を外し、色を赤から茶色に変えて被り直すと、隣に腰を下ろした。
「長老会も支援団体もニコに感謝してたよ。紛争と地雷で足を失った男たちが、ニコのお陰でまた働けるって。これでまた家族を養えるって」
「俺個人の問題だ。気持ちの整理がまだつかないんだ。前は、あの言葉を聞くと撃ってたから」
「そっか」
それきりハウンドは黙った。
彼女のこういうところがありがたかった。沈黙のままでいることを許してくれる。
しばし水路を流れる水のせせらぎと、微風が揺らす木々の葉擦れに耳を澄ます。
「今晩は宴だってさ。仕事終わったら二人で一緒に参加しなさいって」
「そうか」
「支援団体の人がね、本場のアメリカ料理食べたいって言ってた」
「アメリカ料理か。この国でも受け入れられそうなのだと、ジャンバラヤあたりか」
「別にニコが食いたいのでいいんじゃない? 私クバーノ食いたい」
「クバーノか。そういやしばらく食ってないな」
と、そこで口を噤む。ごろごろとくつろいでいたハウンドが、上半身を起こした。
「来たか」
「ああ」
ニコラスはM40A5狙撃銃のスコープを覗き込んだ。
水路を超えた先にある山の中腹、獣道を少し広げたような細い道路が、山沿いに這っている。
隣でハウンドが、観測手用のレーザー測距離計つき双眼鏡を掲げた。
「トヨタのピックアップが三台、ランクルが二台ね。あんなローカルな山道を走るにしちゃかなり豪勢だな」
「近隣の軍閥の可能性は」
「戦争する気満々ならやるだろうけど、今回はないかな。水路開通したばっかの村襲ったなんてなったら、配下の村が一斉にボイコットするよ」
であれば、よそ者である可能性が高い。
現在ニコラスたちが追跡中の、オヴェド一味が逃走に使っていた小型船の搭乗者かもしれない。
ニコラスは装着した無線機を通じて、手短に報告する。
「ナンバー控えた?」
「ああ。すでに無人攻撃機も捕捉した。あとの追跡は任せていいだろう」
「持つべきは金のある依頼主だね~。仕事めっちゃ楽」
ハウンドはそう言って再びごろ寝の体勢に入ったが、仕事が楽になったのは彼女のお陰だ。
日頃から地元住民とのコミュニケーションを密にとり、不審な人物を見かけたら住民から彼女の耳に届くような関係をこの数か月で築いてきたのである。
ニコラスがしたのは、彼女の情報をもとに不審者の侵攻ルートを推測したぐらいだ。
連中が向かった先は、ハウンドの情報網のテリトリーだ。仮に無人機が見失っても、行き先を見失うことはない。
なによりあの山の峠越えは現地の人間でも車で二日かかる。進行先の村に一報を入れて、今日の午後は非番でいいだろう。
「そういやニコさ」
「ん」
「なんで私のことハウンドって呼ぶの。本名でよくない? バレたとこで戸籍ないし、困ることないんだけど」
「………………そっちの方が慣れてるだろ」
「なんか妙な間があったな。な~に~? 今さら本名呼ぶの恥ずかしいんですか~?」
ニコラスは沈黙で乗り切ることにした。
恥ずかしいとかそういうわけではないが、その、本名で呼ぶのはなんか違うだろ。ロボコップはロボコップなのと同じだ。マーフィーと呼ぶのはなんか駄目な気がする。恋人とかならともかく。
うりうりと脇腹を突いてくる彼女の手をかわしながら、撤収すべく諸々の道具を片付けていると。
「ハウンド、悪いが残業確定だ」
雑木林の向こうから、歩いてくる人影を見つけた。四人。全員、男だ。
「顔、分かる?」
「例の小型船の所有者だ。武器商人の」
「ええ、あいつとの面会、一週間後って話だったでしょ。なんでここにいんのよ」
ハウンドが辟易した様子でのそのそ起き上がる。
資料によれば、武器商人はなかなかいい趣味をしているようで、ハウンドと電話している最中もよく脱線しては個人情報を聞き出そうと躍起になっていた。
個人的にあまり好きになれない人物ではあるが、予定を急遽変更して来たとなれば話は別だ。
ニコラスは警戒レベルを最上級まで跳ね上げた。
「やあやあ、お二人さん。こんなところでピクニックか? それとも逢引?」
武器商人はこの国にそぐわぬブランド物のポロシャツにサングラスを引っかけ、チノパンを履いていた。顔には日焼け止めを塗りたくった痕が微かに見える。
武器商人の右後ろに立っているのは護衛だろう。こちらも洋服で、防弾チョッキに小銃と完全武装だ。
残り二人のアフガニスタン人は通訳だろうか。
「やな国だ。パンツの中まで砂が入ってきやがる。ちょっと外に出ただけで、鼻の奥から金玉の裏まで砂だらけだ」
ここまでハウンドの地雷を踏み続ける男も珍しいな、とニコラスは思った。
真横で静かに怒気を強める彼女にも気づいた様子はない。この体たらくでよく今までビジネスをしてこれたものだ。
ニコラスが腰に手を当てる。するとハウンドが、苛立ったように組んだ腕の上で人差し指を叩いた。
やれやれ。
ニコラスはさりげなく態勢を整える。
「ま、なかなか不便な環境だが、これも仕事だ。それもお嬢さんからのお誘いなら断るのも失礼、ってなわけで一足先に急ぎの仕事片付けてすっ飛んできたってわけだ。聞きたい話ってのは、例の小型船の――」
ニコラスとハウンドは、ほぼ同時に動いた。
ニコラスは拳銃を、ハウンドはナイフを。
武器商人がぎょっと硬直し、護衛が銃口を上げた。
が、ニコラスたちの方が早かった。同時に閃かせ、発砲、一閃する。
アフガニスタン人二人が地面に倒れた。
殺してはいない。一方は右腕と足を撃ち抜き、一方は肘関節と膝関節の裏側の腱を切断して、無力化した。
「この場所は現地人にも知らせていない。英語を話せる人間も限られている」
「ついでに言うとそこの二人、このあたりの人間じゃないぞ。両方とも俺の記憶にない。今度から通訳選びは慎重にすることだ。寝首搔かれても知らねえぜ」
ハウンド、ニコラスがそう言い放つと、武器商人は顔をひきつらせた。
護衛の方は口をぽかんと開けている。安全装置を外す前にすべて終わっていたのだから。
「いいだろう。気に入ったぜ」
武器商人は声を上ずらせながらも不遜な態度を崩さなかった。虚勢であっても弱みを見せまいと努力するあたり、ちゃんと修羅場は経験しているようだ。
さらに武器商人は咳払いで表情をリセットすると、質問を投げかけた。
「お前ら、名前は」
ニコラスとハウンドは視線を合わせ、悪戯小僧のようにニヤリと笑った。
これにて本作は完結です。
四年間、完結するかも分からないアマチュア作家(しかも今回が処女作)の連載を追ってくださり、本当にありがとうございます。皆さま読者のお陰でここまで来られました。
投稿直後の平日の朝六時から必ず6~10人の読者さんが読みにきてくれる、それだけでどれだけ勇気づけられたことか。各章を完結させるたび感想を投げてくださる方の言葉に、どれだけ励まされたことか。
そういった意味で、代行屋『ブラックドッグ』という作品を育てたのは、読者の皆さまです。
ニコラスとハウンドが無事に旅を終えることができたのは、皆さまの応援のお陰です。
本作もとい代ブラはもともと、作者が精神病院に入院中に書き始めた物語でした。過去のどうしようもない自分を救ってくれる英雄、どんな悪党でもいいから自分だけの味方になってくれる人が、一人でいいからいてほしい。その一心で書き続けました。
これからも二人の旅は続いていきますが、続編は今のところ出す予定はありません。
早く新作を書きたくて仕方なくてですね……。
かなりの周回遅れではありますが、次は異世界転生もので、スナック感覚で通勤通学の道中にサクッと読める作品を創ろうと考えています。自分が書きたいものは代ブラですべてぶつけることができたと思うので、今度はネット受けする作品を全力で創ってみようかなぁと。
代ブラは賞も出していますしね。
新人賞に落選したら、改めて推敲し、同人書籍として販売してみたいなぁとも考えています。その時には「ジェーンのお勉強日記」とか、各キャラの小話外伝も入れてみたいな~。小説を書き始めてからというもの、夢が絶えず溢れ出てくるのでとても楽しいです。
また代ブラは世情を多少反映している部分が少なからずあるため、今後の世界情勢に応じて、表現の一部を変更することがあります。
(連載当初はアフガニスタンの動乱もロシアの侵攻も起こるなんて夢にも思ってませんでした。アメリカももう平和な国ではなくなってしまいましたし……)
今後も新作を用意しつつ、本作の投稿原稿の表現・台詞回し等を変更する予定です。キャラや物語、伏線等、物語の根幹にかかわる部分には、一切手をつけませんのでご安心ください。
最後になりますが、本当に、本当に、完結まで応援ありがとうございました。
執筆歴六年のド素人でありましたが、この四年間(準備期間も含めると五年)エタることなく完結まで書き上げられたのは、大きな自信になりました。
改めまして、志摩ジュンヤという作家を育ててくださった皆さまに、心からの感謝を。
今度の目標である十年執筆を目指して、今後も精進してまいります。そして次回の新作も、見に来ていただければ幸いです。
この度は、本当にありがとうございました。
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