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12-16

【これまでのあらすじ】

 戦いは終結した。数多の犠牲を伴って。


『大いなる悪戯を、ここに』

 その最後の謎を解きに、ニコラスはアフガニスタンへ赴く――。


 

【登場人物】

●ニコラス・ウェッブ:主人公


●ハウンド:ヒロイン




【用語紹介】

●合衆国安全保障局(USSA)

12年前の同時多発テロ発生直後に急遽設立された大統領直属の情報機関で、年々発言力を増している。現長官はアーサー・フォレスター。


●『双頭の雄鹿』

 USSAを牛耳る謎の組織。その正体はアメリカ建国黎明期の開拓者『ポパム植民地』住民の末裔。

 マニフェストディスティニーを旗標に掲げ、国を正しい道に導くことを指標とする。政界、経済界、軍部、国内のあらゆる中枢に根を張り巡らしている。

 名の由来は、ポパム植民地の最大後援者でもあったジョン・ポパムの紋章からもじったもの。


●失われたリスト

 イラク戦争中、国連主導で行われた『石油食料交換プログラム』を隠れ蓑に世界各国の大物たち(国連のトップ、現職の大臣、資本家、宗教関係者など)がこぞって汚職を行った『バグダッドスキャンダル』に関与した人物らの名が記されたブラックリスト。

 このリストを公表するだけで、世界各国代表の首がすげ変わるほど破壊力を持った代物。『双頭の雄鹿』の資金源と目される。

 現時点、証拠はすべて抹消され、証人もハウンドとシンジ・ムラカミだけとなっている。


●絵本

 ニコラスがハウンドから譲り受けた手書きの絵本。人間に連れ去られた黒い子狼が、5頭の犬たちの力を借りながら故郷を目指す物語が描かれている。作者はラルフ・コールマン。

 炙り出しで謎の文がページの各所に仕込まれており、それらを解き明かすと『証人はブラックドッグ』、『リーダーはアーサー・フォレスター』となる。


●《トゥアハデ》

 『双頭の雄鹿』の実働部隊。世界各国の特殊部隊から引き抜いた兵士で構成されており、長のフォレスターが自ら選んだ幹部“銘あり”が数人存在する。

 現時点で確認されている“銘あり”は『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』、『モリガン』、『ディラン』、『スェウ』、オヴェドの七名。

 現時点で『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』の三名は死亡。

 また、なぜかオヴェドは名を与えられていない。

 草木が一つもない、岩場ばかりの山道で、ニコラスは足を止めた。


 峻厳なる岩山も、この地の強烈な陽射しと暴風には敵わぬとみえる。道とは名ばかりの、風化で砂礫と化した岩巌の残骸。踏みしめるたび足が沈む山道で、滑落しないよう踏みとどまるのは、なかなか骨が折れる。


 両脚が義足ならば尚更だ。


「大丈夫か」


 前を歩く男が声をかけた。

 自分より拳ひとつ背が高い以外は中肉の、これといって特徴のない身体つき。しかし胴体には弾倉がみっちり詰まった防弾チョッキ、背には五歳児ほどの大きさの背嚢を涼しい顔で背負っている。


 男は、手を差し伸べることも戻ってくることもなく、軽くこちらを一瞥して足を止めた。


 兵士の、男の気配りなぞそんなものだ。義足でアフガニスタンの険しい山を自力で登ろうとする、自分のような面倒くさい頑固者が相手ならばなおのこと。


 最精鋭と名高い彼らも俺らと同じなんだなと、妙な親近感を覚え、ニコラスは息切れと滝汗を笑みで誤魔化した。


「ああ。けど、ちょっとバランス取るのが難しいな」


「左はともかく、右の方は着けてまだ間もないだろ。よくやってるよ」


「膝下からだからな。まだバランスが取りやすいんだ。平地での話だが」


「その調子ならすぐ慣れるさ」


 デルタフォース・アルファ分隊長、カーニー曹長は茶化しながら口角を吊り上げた。

 よくよく見ると、笑った顔が少しM&Mチョコレートのマスコットキャラに似ている。黄色いやつ。垂れ目がちで太眉なせいだろうか。


 彼はまだ歩き出さない。その意図が分からぬほど鈍感ではない。彼からの心配りに感謝を込めて、ニコラスは再び足を動かした。


 部隊が小休憩している岩場は、すぐそこだった。


 岩場前の、一メートル五十センチの段差をよじ登る時は、さすがに手を貸してもらった。


「大したもんだよ、お前も」


 カーニー曹長は一呼吸いれながら、腰に手を当て。


「彼女もな」


 山頂を仰いで嘆息した。ニコラスも振り仰いだ。


 山頂付近、迫り出した大岩の上に、小柄な人影があった。


 視力のよいニコラスには、目が覚めるような青空を背景に、たなびく黒髪の尾っぽが煌めく様がよく見える。ニコラスは目を細めた。


 ハウンドだ。双子の毒牙で生死を彷徨った彼女だったが、無事一命を取り留めた。


 あの日、あの時、ニコラスは世界が壊れる音を聞いた。


 自分の腕の中で、この世でいっとう大事なものが消えていくのを、為すすべなく見下ろしていた。


 ニコラスはただ、ハウンドを抱き――空を仰いで、息をのんだ。


 いつの間にか、上空を無数のヘリコプターが埋め尽くしていた。所属は陸海空・海兵隊、その他もろもろ。さらに上空には、数機の戦闘機も飛び交っている。

 航空ショーですら滅多にお目にかかれないような大群だ。


 ヘリに関しては数があまりに多いので、そこそこ高度があるのにダウンウォッシュの旋風がすでに地上に届いていた。


 大群の中から数機が下へ抜け出した。数機のヘリはぐんぐん高度を下げ、一定の高度でぴたりと停止、その腹からロープを投じた。


 間髪入れずに、ヘリから兵士たちが飛び出してくる。選りすぐりの精鋭であることは一目でわかった。

 米軍特殊部隊の見本市のようだ。米軍にはこれほど特殊部隊がいたのかと、ニコラスは驚いた。


 真っ先に駆け付けたのは、陸軍特殊部隊デルタフォースだった。

 彼らはこちらに駆け付けるまでの間に、状況を把握した。こちらの前で急停止すると無線に手をやる。


 しかし、彼らは思わぬ横やりを受けることになる。


「どいてくれッ!」


 彼らを押しのけて、飛び出してくる中年にニコラスは仰天した。クロードが救急キットを手に、目前に滑り込んでくるではないか。その後ろからは、アレサも。


「右足部に欠損部あり。輸血キットと止血帯、用意!」


「あいよっ」


「口あけて!」


 言うが早いか、アレサが問答無用でこちらの口をこじ開け、クロードが医療用ガーゼを押し込んでくる。


 舌噛み防止だと察した時には、思いっきり右足の幹部を圧迫止血された後だった。流石に絶叫した。

 涙で滲んだ視界を何度か瞬くと、状況がさらに変化していた。


 空からだけではない。地上からも続々と参加者が終結していた。

 ロバーチの戦車にしがみついた27番地住民が、戦車が停止するより早く飛び降りて駆け寄ってくる。

 ロバーチ構成員や他のマフィアを押しのけ、時に突き飛ばして、我先にと走ってくる。


 その光景に、特殊部隊の面々は一瞬ぽかんとしたものの、すぐに支援に回った。医療物資を提供し、人の整備と、適所に適材兵士を走らせる。そして駆け付けた五大マフィアには銃口を向けた。


 五大マフィアはすべての車両と構成員を停止させ、一定の距離を保って静観した。当主からの指示があったのだろう。あげた銃口もすぐに下ろしたという。


 すべて後から聞いた話だ。当時のニコラスはそれどころではなかった。


 痛みでしばし放心していたものの、我に返り、クロードにしがみついた。


「俺はいい。ハウンドを、ハウンドが、赤のを食らった。なんとかしてくれ」


 途端、二人が硬直する。けれど、そのままこちらの治療を続行しようとするので、ニコラスは怒鳴った。


「違う、俺じゃない。彼女を――」


「分かってるッ! 全部見てた、トリアージした結果がこれなのッ……!」


 血を吐くような声を、アレサが振り絞る。クロードが、ぐしょぐしょに濡らした顔でハウンドの蒼褪めた手を両手で握りしめた。

 駆け付けた住民らも、その光景を見るなり膝から崩れ落ち、項垂れ、天を仰いだ。彼らはドローン映像で見た光景を、己の目で確認するまで信じなかった。だからボロボロの身体を引きずって駆け付けた。


 その結果がこれだ。


 嫌だ。


 ニコラスはハウンドに手を伸ばす。宙で指を掻き、冷たくなってしまった指先に触れ、掴み寄せた、その時。


「道を開けてくれ」


 誰かが群衆を掻き分けてやってきた。否、群衆の方がその誰かを通すために、掻き分けられた。


 現れた人物に、ニコラスは目を瞬いた。


 この瞬間ばかりは、ダウンウォッシュで翻る白衣が、天使の翼に見えた。


「どいてくれ。私の患者だ」


 アンドレイ医師はそう言うと、ハウンドの処置を開始した。解毒剤の入った、アタッシュケースを持って。

 その背後には、大統領その人と、それに連れ添うローズ嬢の姿があった。


 結論から言うと、ハウンドを救ったのは、アーサー・フォレスターの意思だった。


『たとえ暗殺用の劇薬だろうと、使用者の最低限の安全は確保すべし』


 彼が、人道的配慮からそう判断したのか、育成した工作員の無駄遣いを嫌っただけのかは、定かではない。

 だがフォレスターは、自らの意思と理念のもと、自身の計画に関与する人と組織に容赦なく介入した。アンドレイがかつて所属していた国防高等研究計画局(DARPA)も例外ではなかった。


 双子は赤の毒を、アメリカが国をかけて開発した必殺絶死の毒と信じていたのだろう。けれど皮肉なことに、彼らの毒を無効化したのは彼らの主人だった。


 そして、このことに気づいたのは、フォレスターの情報を洗い直していたクルテクだった。


 クルテクが大統領との交渉に、ローズ嬢だけでなくアンドレイの同行を希望した理由だった。

 万が一に備え、彼は元DARPAであるアンドレイのツテを使って、解毒剤を入手しておきたかったのだ。


 それが、ハウンドを救った。


「肝心なところで逃げ回るくせに、美味しいところだけはもっていく」


 彼の訃報を聞いて、旧友であるバートンの第一声がそれだった。入院中、同室だったニコラスは、その時の教官の横顔が忘れられない。

 苦笑しながらも酷く心細そうな、置いて行かれた者がよくする、悄然とわずかな恨み節が、そこにあった。


 そして今、ニコラスたちはアフガニスタンにやってきた。


 最後の謎を解くために。


 休憩終了の掛け声があり、ニコラスは短く息を吐いて、一気に立ち上がる。ハウンドに置いていかれまいと、奮起して岩肌に取りかかる。


 意外なことに、ハウンドはニコラスたちが到着するまで待っていた。というか、彼女の護衛役の兵士が引き留めていた。


 無理もない。ハウンドの顔は今にもぶっ倒れそうなほど真っ青で、冷や汗も震えも止まらない。高山病こそ起こしていないようだが、息切れは激しく、目だけが爛々と血走っている。


「少しペースを落とした方がいいと言ったんですが……」


 護衛役の隊員が、申し訳なさそうに声を落とした。


 そのやり取りとハウンドの表情とで、ニコラスはすべてを察した。


 ラルフ・コールマンが遺した絵本。その最後のページに記された数字群の座標――かつてハウンドがゴルグ・サナイ氏とともに過ごした隠れ家――の跡地をニコラスたちは目指していた。


 『大いなる悪戯を、ここに』

 その悪戯の種明かしを、秘められ続けた絵本最後の謎を今、紐解こうとしている。


 国としては、今回の騒動の大本となった謎を放置するわけにはいかなかった。行方不明とされていた兵士五人の遺棄された棺の回収、特区の完全解体と、USSA暴走による特別軍事作戦の戦後処理。

 それらのほとぼりが冷めきらぬ段階から、絵本の最後の謎を解き明かすべく、特別調査チームとしてデルタフォースを現地へ派遣した。


 一方で、ハウンドもまたこの旅への同行を強く希望した。


 タワー監禁後に負った傷だけで全治三か月の重傷、そのうえ何度も毒を食らったがために内臓へのダメージも大きかった。肺活量も筋力も体力も回復しきっていない。

 あと一月は絶対安静と主治医アンドレイは最後まで主張したが、ハウンドは押し切った。


「私が一番見る権利があるだろう。私は生き証人だぞ」


 デルタフォースとしても、ハウンドはかつてコールマン軍曹らと共にこの地を戦い抜いた戦友だった。無下にはできない。

 国としても、ハウンドの記憶が手掛かりになると考えた。


 そこでアンドレイは渋々ハウンドの許可を出し、代わりにお目付け役として、リハビリ中だったニコラスを引っ張り出してきたのである。


 今のハウンドを駆り立てているのは、期待と希望というより、不安だろう。

 己の目で確認しないことには、不安で居ても立っても居られず。かといって、近寄ることも恐ろしい。だから傷だらけの身体を引きずってやってきた。


 なによりこの先の村は、かつてハウンドを迫害した村だ。負の出来事だけではないことは、サナイ氏の友人ムラカミ氏の手記から判明しているが、不安を強めるハウンドにはマイナスの印象がより強く思い起こされることだろう。


 証拠に、ハウンドの顔色はますます死人に近くなっている。


 やはり彼女だけ引き返させた方がいいのでは、と話す隊員らを横目に、ニコラスはハウンドに近づいた。

 彼女の前に立つと、顔を上げた彼女の深緑と目が合った。


「悪い。遅くなった」


「いや……」


 ハウンドはいそいそと立ち上がり、前にふらつきかけたのを隠すように、ハイペースで進み始める。

 が、すぐにハッとした様子で引き返してきた。


「ごめん」


「いい。どうせ両脚があったって、お前の足には敵わない。けど、ちょっと手を貸してくれるか。どうにもバランスがとりにくくてな」


 ハウンドは頷き、おずおずと手を差し出した。

 ニコラスはその手を優しく、けれどしっかりと握って包み込む。一切の負荷はかけずに。


 冷え切って震える手に熱を分けるように、親指で手の甲を撫でる。歩くハウンドのペースが、徐々に落ちてきた。やがてニコラスのペースと同じに、それよりもゆっくりになった。


 先導するカーニー曹長が「やるじゃないか」とばかりにウィンクした。


 予定より一時間の遅れが出たが、ニコラスたちは無事、所定の山の頂上に辿り着いた。

 頂上からは、防壁のようにそびえたつ山々に囲まれた、盆地の中の村が見える。航空写真で見た時よりも、川沿いに畑や緑地が増えている気がした。


 この頂上から村へ下っていく道の途中に、サナイ氏の家の跡地がある。


 跡地は周囲を見渡すまでもなく、すぐに見つかった。

 今いる山の中腹当たり、ぽつりと緑のある一帯の前に、大勢の人が集まっている。掌の中のハウンドの手が、きゅっと小さくなった。


 ニコラスは、ハウンドが歩き出すのを待って、山を下り始めた。


 近づくにつれ、上で見た緑の一帯が、廃墟であることが分かった。崩れ落ちた天井や土壁から、伸びた草木がこぼれ出ている。

 サナイ氏の家だ。これでも定期的に人の手が入っているのか、家屋を突きそうな木の枝葉が刈り取られている。


 到着して、ニコラスはハウンドの手をそっと離した。ハウンドはさっきまで握られていた手を自分で握り、胸の前にもってきてさすった。


 出迎えたのは、村への交渉役を担った先遣部隊と、村人たちだった。先遣隊曰く、村人のほぼ全員が終結しているという。


 村人たちの前中央に、二人の老人がいた。距離が近いので恐らく夫婦だろう。

 真顔なのか険相なのか分からぬほど峻厳な顔つきの老爺と、夜のような濃い藍のスカーフをまとった老婆。


 二人とも、先ほどまでニコラスたちを苦しめた山々の岩肌のような褐色の皮膚に、渓谷と見紛う深いしわが刻まれていた。この地の決して楽ではない生活の節々が伺える。


 老爺の方に表情の変化はなかったが、老婆の方はハウンドの姿を認めるなり、しかめっ面を笑みに転じた。


「やっと帰ってきたね、サハル」


 本名を呼ばれると思っていなかったのだろう。ハウンドが全身を強張らせた。


 硬直するハウンドをよそに、老婆は自ら歩み寄った。老婆は改めてハウンドを近くで見つめると目を細めた。大きくなった子の幼い頃を懐かしむように、緩やかに、温かな眼差しで。


「おいで。お前に渡さねばならんものがある」


 自己紹介も挨拶もなかった。淡々と用件を伝え、踵を返す。最初から最後までハウンドしか見ておらず、こちらに一目もくれなかった。

 先遣隊が言うには、彼女がこの村の村長の第一夫人であり、サナイ氏の母親のようだ。


 ハウンドは老婆を見、こちらを見て、意を決したように深く顎を引き歩き始めた。ニコラスたちもそれに続く。


 思った通り、廃墟には人の手がかなり入っていた。空爆による崩落こそそのままだったが、床は綺麗に掃き掃除され、散らばったであろう瓦礫も片付けられて、家屋から少し離れたところに積み上げられている。

 窓や玄関も修復されており、焼け焦げたであろう部分は塗装し直されていた。今も人が住もうと思えば住めるだろう。


 老婆が玄関を開け、入っていく。ハウンドは一瞬立ち止まったが、家の中に入った。


 しかしニコラスは立ち止まり、他の隊員を押し留めた。ハウンドが「え」と振り返り、老婆も立ち止まった。


「久々の親子の再会だ。水を差すような真似はしたくない」


 隊員らにそう言って、ハウンドに声をかける。


「行ってこい。ここで待ってるから」


 でも、と戻ってこようとする彼女の背を押すように、「大丈夫だ」と続ける。


サナイ氏(カーフィラ)だけじゃない。軍曹たちも待ってる。だから行ってこい」


 はめ込み扉の、簡素な木枠の敷居を見つめる。ここが境界線だ。これ以上は踏み込んではならない。

 そう思い、ニコラスは玄関前で立ち尽くした。


 老婆がまた先を進み始める。ハウンドは迷ったそぶりを見せたが、こちらが動かぬと分かると恐る恐る家の奥へ進んでいった。


 隊員らもまた、黙って踵を返した。家からも村人たちからも少し離れたところで荷を下ろし、小休憩を取り始める。


 ニコラスは村人たちの視線を感じながら、玄関脇の小岩に腰を下ろした。

 すると、いつの間に近づいていたのだろうか、老爺もまた反対側の小岩に腰を下ろした。


「あなたはいいのですか」


 通じるかどうか分からなかったが、ニコラスは遠慮がちに英語で尋ねた。老爺は杖にもたれかかり、目も開けもせず。


「息子に殴られたくない」


 とだけ言った。


 ニコラスはそれ以上なにも言わず、黙って玄関を見つめた。ハウンドが帰ってくる、その時まで。




 ***




「アメリカ人にしては殊勝な男だ。入ってきたら蹴り出すつもりだったんだがね」


 カーフィラの母は、相変わらず剛毅な人だった。

 家の中に入った途端、お淑やかな夫人としての姿を早々に脱ぎ捨て、老獪な魔女のようにくつくつと喉を震わせた。


「なに、意地悪しようってんじゃない。挨拶ってやつさ。アメリカ人を許可なく家にあげたとなれば、夢であの子に何を言われるか分からん。ああ見えて意外と口が達者でね」


 母は愉快そうに笑いながら先を進んだ。体臭に微かな哀愁を漂わせて。ハウンドは黙って後をついていった。


 家の中は、思った以上に片付いていた。きっと母が定期的に清掃しにきてくれているのだろう。

 崩落以外は、間取りも置いてある物も、そのままだった。薔薇の甘い香りがほのかに漂っているところも含めて、すべてがあの日のまま。


 中庭へ通じる廊下へ出た。甘い香りがさらに強まっていく。


 ハウンドは訝しんだ。あの薔薇、こんなに香りが強かっただろうか?


「ここだ」


 中庭に出た。暗がりにいたため太陽光がことさら眩しい。


 しばし腕をかざし、影の中で何度も瞬きして目を慣らす。腕を下ろしたハウンドは、その先の光景に唖然とした。


 色が見えずとも分かる。鼻腔を満たす、木々の隙間からのぞく木漏れ日のような穏やかで優しい香りが、中庭を埋め尽くしている。

 迷い込んだ風の揺らぎで、ようやく土や家屋のニオイがするくらいだ。


 小さな花壇に収まるくらいだった薔薇は、今や外壁や家の壁を覆い隠さんばかりに成長していた。


「強い花さ。誰も手入れもしてない、ろくに水もないのに、毎年どんどん花の数を増やしてる」


 この時ばかりは、ハウンドは色が見えぬ自分の目を恨めしく思った。


 ニコラスを守って死にかけたあの日、ハウンドは初めて空の色を見た。美しい、目が覚めるような蒼。ラルフとカーフィラの瞳と同じ色。


 アンドレイが言うところによると、人は死に瀕すると、最後の抵抗とばかりに肉体が急活性することがあるのだという。火事場の馬鹿力と似たようなものなのかもしれない。


 ともあれ、ハウンドは、あの時の目が欲しかった。この咲き誇る見事な薔薇を、色と香り、両方を体感したかった。


「サハル」


 母がハウンドを呼んだ。見ると、彼女は足元の、薔薇の蔓がこんもり盛り上がった茂みを指さした。


 覗き込んで、ハウンドは目を見開いた。

 地面に石畳が敷かれており、そこだけ薔薇が生えず、ちょっとしたトンネルのようになっている。


 思い出した。ここは花壇の手入れ用の道だ。道の先には、白い岩をぽんと置いただけの簡素な墓があった。カーフィラの墓だ。


 ハウンドは目を眇めた。

 墓の前に供えるように、楕円形のラグビーボールのようなものが置かれている。あれは、なんだ。


「変わった男たちだった」


 母はぽつりぽつりと、そよ風に流すように言葉を紡いだ。


「ゴルグが死んで、何年かたった冬の初めの頃だ。あの男たちが村にやってきた。ゴルグのことを根掘り葉掘り聞かれるのかと思ったら、あの男が求めたのはあの子の写真だった。まさか一番に聞いてきたのが、『どんな顔で彼は笑うんだ?』だとは思わなかったよ」


 お行き、と母は言った。


「あれがお前に渡すものだ。開け方は知っているね?」


 ハウンドはぎこちなく頷き、四つん這いで薔薇の茂みに潜り込んだ。

 蔦のトンネルは、ハウンドをぎりぎり許容した。薔薇の棘に阻まれることなく墓の前に辿り着く。


 ハウンドはまず、カーフィラに祈りを捧げた。祈り方は分からなかったが、この地の大人たちがやるように、両手を地につき、頭を下げて礼拝した。


 それから供え物のラグビーボールのような物体に、恐々と手を伸ばす。アフガニスタン北部に伝わる泥の保存容器「カンギナ」だ。

 お椀状に固めた泥の器に保存したいものを入れ、同じ大きさの器を上から重ね合わせ、縁を泥で塞いで密閉する。


 ハウンドは腰からナイフを引き抜き、柄で縁の部分をコンコンと叩いた。数回軽く叩いては器を回し、叩いては回し、少しずつひびを入れていく。


 密閉されてはいるものの、泥の器は脆い。上から石で叩き割っては、中身を傷つけてしまう。慎重に、慎重に、ハウンドは泥を取り崩した。


 円周上の三分の二にきたところで、カツ、とひびが奔り、残りの縁を解放した。思ったよりも早く開いてしまって、ハウンドは内心焦った。


 暴れまわる心臓を宥めるように、胸を撫で、深呼吸を一つ。

 意を決し、蓋に手をかけた。


 ゆっくりと蓋を持ち上げた、瞬間。中からニオイが溢れだした。


「あ」


 薔薇の茂みに覆われていたせいもあって、ニオイは散ることなくハウンドを包み込んだ。


『お前、好きなものはなんだ』


 ニオイとともに、脳裏に懐かしい声が蘇る。


 忘れるはずもない、けれど思い出そうとしても決して再現できない、このニオイ。


『前にパトゥが欲しいといっていただろう。その色をいま選んでいる……いや、色が判らぬのは分かっている。だから好きなものを聞いている。どうせなら、好きなものの色をまとう方がよかろう。――花? 庭の薔薇のことか。そうか。お前はあれが好きなのか』


 低く、意外そうに呟いた声。表情は思い出せなかった。けれど、カーフィラが自分を気にかけてくれて、嬉しかったのは覚えている。


 ハウンドは、容器(カンギナ)の中に入っていた布を持ち上げ、広げてみた。途端、一枚の紙が、中からひらりと舞い落ちた。


 ――「お誕生日、おめでとう!!」――


 ハウンドは言葉を失った。

 見間違えるはずもない。ラルフたち五人の筆跡だ。紙を拾い上げる。


『お誕生日おめでとう。勝手にお義父さんのお墓に供えてごめんね。この国の伝統にならって、この器に入れさせてもらったよ。この方が匂いも失われずに済むかな?』


 トゥーレだ。彼らしい丁寧な筆跡で記されている。


『誕生日おめでとう。中身のショール?はリバーシブルなんだとよ。好きな方を使えとさ。あと万が一、親父さんが化けて出たら援護してくれ』


 と、ベル。正直で質朴な彼らしいコメントだ。


 一方で、ロムとレムからのメッセージはシンプルだった。


『ハッピーバースデー! 今年もまたベルとゾンバルト少尉に仕掛けような』

『とびきりすげえの教えてやる』


 後半のコメントには下線が引かれ、矢印で「ちょっかいかけたら分かってるな?」とベルの追記が記されていた。双子からの返答は、中指を立てたイラストだった。

 自由奔放な二人らしかった。


 そして、ラルフ。

 記されていたのは、たった一言。


『悪戯成功!!』


 これがラルフが遺した、大いなる悪戯の正体だった。


 ニコラスの言う通り、彼は本当にこの悪戯のために絵本を描き遺したのだった。


 裏返してみる。


 息をのんだ。

 紙は、ただのメッセージカードではなかった。一枚の絵、その裏に記された寄せ書きだった。


 ハウンドは呼吸も忘れて絵に見入った。


 写真と空見するほどの、精緻で見事な鉛筆画。ラルフがよく描き散らしていた、掌サイズの手帳の一枚だろう。


 絵の中で、高原を一頭の馬に跨った親子が進んでいる。自分とカーフィラだ。

 自分はカーフィラの前に座り、カーフィラを見上げて笑っている。カーフィラもまた、自分を見て微笑んでいた。


 瞬間、記憶が一気に噴き出してくる。


 こちらを叱りつける恐ろしい顔。ただただ顔をしかめ悲しみに耐える顔。本から顔をあげて目が合ったとき、驚いたように瞬いて目元を緩めた――笑った顔。


 ああ、そうだ。こんな顔で笑う人だった。

 自分に好きなものを訪ねたあの時も、こんな顔だった。少し照れくさそうに、口元と目元のしわを緩めて、微笑んでいた。


 記憶が溢れかえれば溢れかえるほど、涙もとめどなく溢れ出てくる。これ以上、雫が絵に落ちぬよう、ハウンドは必死にしゃくりあげた。


 完璧な父ではなかった。けれど、怖いだけの人でもなかった。不器用で、一生懸命で、自分のためにやったこともない刺繍をやるような人だった。


 もう一度、目の前にパトゥを広げる。


 色は相変わらず分からない。大きさもどう見ても幼子サイズだ。本来の“着る毛布”としての役目はなく、ちょっと大きいスカーフぐらいにしかならないだろう。


 けれど、解るものもある。


 ハウンドは、パトゥの縁にある刺繍の花を指でなぞった。

 花の中央に鏡を埋め込んだミラー刺繍、初心者のカーフィラには、さぞ骨が折れたことだろう。よくよく指先で確認すると花の花弁の先と中央とで、糸が替えられている。同じ色に見えるが、色が変えられているのかもしれない。


 裏返してみれば、これまた違う色の布が張り付けられている。ベルの言った通り、表と裏で違う使い方ができるようになっているのだろう。

 表の刺繍が入った華やかな方が女、裏の地味な暗い色合いの方が男。女と男、両方の使い方ができるように。


 ハウンドは、絵ごとパトゥを抱きしめ、顔をうずめて咽び泣いた。


 胡坐をかき、背を丸めて針と布を持つカーフィラの背中。あれが、ハウンドにとっての父の背だった。


 今、その父のニオイがハウンドを包んでいた。

 父の背中がすぐそこに、手を伸ばせば届くところにある気がした。




 ***




 家の奥から出てくる影に、ニコラスは立ち上がった。


 泣きはらした顔のハウンドが、家から出てくる。首に真紅の襟巻(パトゥ)をまとって。


 黄色い花の刺繍が施された美しい布だ。風が吹くたび、裾に縫い付けられた鏡が翻って輝く。その裏地は、アフガンの大地と同じ色だった。


 アフガニスタンの少女(アフガン・ガール)、その身にまとう薔薇と同じ名を冠したハウンドは、赤くなった目元を襟巻にうずめながら、確固たる足取りで戻ってきた。


 絵本によれば、一人ぼっちの黒狼は最後に仲間の助けを借りて、父との再会を果たす。そしてまた、新たな冒険に旅立つのだ。


 今、旅立つ時がきた。


「行こう、ニコ」


「ああ」


 ニコラスは自ら歩き出す。


 かつてのニコラスは、この少女にすがった。静かな景色が綺麗で、飯が美味くて、ときどき賑やかで。そんな場所に、魂だけでも地獄から連れ出してくれと、身勝手に救いを求めた。


 もう、その必要はない。


 行きたいところがあるなら、自分の足でいけばいい。彼女がいきたいというなら、どこへでも連れていこう。

 一緒にいくと望むのであれば、地の果てでも地獄の底でも共に往く。


 俺は彼女の相棒なのだから。




 ***




 アメリカ本土から西へ約二百キロ、北大西洋上空を飛ぶ米空軍所属のC-32は要人輸送機である。

 もっとも、今回は要人ではあるものの、別種の人間を運んでいた。


 重罪人、アーサー・フォレスター。


 今や解体された合衆国安全保障局(USSA)の元長官であり、国家に対するクーデター未遂と、大統領暗殺未遂、特別軍事作戦と称した特区での大規模テロ活動。この三件の重大事件の首謀者と目される男である。


 彼の身柄はキューバ、グアンタナモ収容所で預かることになっていた。彼が長官時代、職権を大いに活用してテロリストとおぼしき人物を何人も強制収容した監獄に、今度は本人が入れられることとなった。

 無論、今後二度と出てくることもない。


 一方で、フォレスターは自らの運命を静かに受け入れていた。


 自分は負けた。完膚なきまで。


 本来、特区を解体し民衆の支持を取り付けてから行うはずだったクーデターも、失敗に終わった。

 ()()では、特別軍事作戦を開始してからの大統領の支持率は急低下しており、成功率は極めて高いはずだった。あのしょうもないネットへのスキャンダルショーがあろうとも、子揺るぎしないほどの盤石な地盤を財界・政界を通して築いてきたはずだった。


 それでも負けた。


 認めよう。自分は敗北した。

 ニコラス・ウェッブ個人にではなく、特区という巨悪に就巣する賊心の総意に負けた。彼らの邪悪さを自分は見誤っていたのだ。


 国が主導する解体では、特区は滅びない。そも特区樹立の事の発端は、民衆の“不公正への怒り”だ。


 現代のアメリカは建国以来、最も格差による分断が激しくなっている。金持ちは生まれながらにして金持ちになることが確約され、貧乏人は努力する意義も方法も知らぬまま負け犬として終わる。

 そして勝者は、自身の利益を末永く保持すべく、高い知力で既存ルールをハックし、自己に有利なようルールをどんどん改定していった。


 そのことに国民は気付いてしまった。ルール従ったところで、この地獄から脱することはできない。

 ルールに背き、時に悪に手を染めなければ、勝ち組になれることはない、と。


 その結果として誕生したのが、特区だ。


 特区とは、五大マフィアのような一部の犯罪組織が創り出したものではない。

 《敗者が下克上を達成するための手段》としての“悪への羨望”の高まりが、名も無き数多の選ばれざりし者たちの負の感情が産み落とした、無辜の怪物だ。


 いずれ特区は復活する。犯罪都市としての「特区」ではなく、別の形となって。

 いつの日か、この国を食らい尽くす。


 だからフォレスターは立ったのだ。影から国を支えるのではなく、表舞台で国を護るために。

 今、歓喜に沸いている国民もいずれ気付くことだろう。特区という名の怪物にとどめを刺しておかなかったことを、後悔する日が必ず来る。


「食事です」


 無機質な声とともに、眼前にトレーが突き出される。フォレスターがトレーの中身を確認しようとしたところ、問答無用で肘置き内の折り畳みテーブルが引き出されてバンと置かれた。

 フォレスターが受け取りを拒否したと思ったのだろう。せっかちな食事係だ。


 食事係の女性兵士はそのまま持ち場に戻った。自分の真向かいに股を開いてどっかり腰を下ろす。


 振る舞いはともかく、なかなかの美人だ。カリカリした様子でしかめっ面をしているのが惜しいほどに。

 よくよく見るとどこか幼さと甘さを残した顔立ちをしている。ひとたび笑えば、真顔のクールさとのギャップにやられる男が続出するだろう。()()()()()モリガンの姿に近しいものを感じる。いま流行の女性像とはこういうものなのだろうか。


 ――モリガンもそうだが……ディラン、スェウ。お前たちは無事だろうか。


 忠義を尽くしてくれた部下の顔を思い浮かべながら、トレー手前で揺れるコーヒーの水面を見つめた。


 当然のことだが、尋問官にいくら尋ねても、彼らの生死は知らせてもらえなかった。先に捕らえられたか、あるいは死んだか。


 いずれにせよ、自分がこの体たらくでは彼らも浮かばれまい。なんとしてでも生き延びねば。いずれ特区という怪物は復活し、この国を滅ぼす。

 その時に国は必ず自分を必要とするはずだ。建国以来この国を影から支え続けた『双頭の雄鹿』盟主としての手腕が、必ず。


 なればこそ、どんな手を使ってでも生き延びる。この正義を、彼らとの正義を成し遂げるまで。

 なにも成し得ぬまま死んでたまるか。


 とはいえ、如何せん食欲がない。取りあえず水分だけとっておこうと、コーヒーを口にした。質が悪いのか、酸味と苦みがえらく強いコーヒーだった。


「空きっ腹にカフェインの摂取は感心しませんね。一口でいいからなにか召し上がってはいかがです。胃が荒れますよ」


 向かいの女性兵士が言った。


 フォレスターは凍り付いた。その声は、どう考えても女性の声ではなかった。


「貴様」


「お久しぶりです。我が主(マイ・ロード)


 その瞬間、フォレスターは目の前の女性――の姿をしたもの――に先ほど沸いた既視感の正体を思い知らされた。


 モリガンが篭絡したターチィ一家の妓女、ナンバー・ツー『チュリップ』。


 報告によれば、ターチィ一家脱出のおり、モリガンが口封じに殺害したはずだった。

 あげられた報告が正しければ。


「貴様、オヴェドか」


「ええ。なかなかの出来でしょう、これ」


 そう言って男は、被った女の顔の頬を摘まんだ。


「再生医療を用いた皮膚培養技術による、生体変装マスクですよ。主要な血管と神経をギリギリまで残して宿主に移植することで、数ヶ月にわたって本当に別人に成り替わることができます。デメリットとしては、宿主の頭部の皮をすべて剥ぎ取らないといけないことと、」


 おもむろにオヴェドが首元を寛げた。それを見てフォレスターはぞっとした。


 首元を覆う包帯の下から、黄色い膿んだ体液が漏れだしている。被った頭部の皮が、すでに腐り始めているのだ。


「何度も繰り返すと、宿主の血管・神経が劣化して移植可能期間がどんどん短くなってしまうことです。今だと一ヶ月が限度ですね。別人に成り替わる手法としては、画期的だと思ったんですがねぇ。モリガンのようにメイクや演技で成り代わる手法は、成り代わる対象が限定されますし。対象を洗脳して影武者を仕立てる手法は、オリジナルほどの能力を発揮できない。逐一細かく指示するのも面倒だ」


 オヴェドは首の包帯をぼりぼり掻き毟った。膿と一緒に肉もこそげて血が服の中に垂れていくが、お構いなしだ。


 そしてフォレスターはまたも気付いた。オヴェドの行動を、周囲の兵士が誰一人として反応しないことに。数もいつの間にか減っている。


 機体が突如、左へ傾いた。

 キューバに向かうなら、直進か、右へ旋回するはずである。大西洋のど真ん中に進む理由はないはずだ。


「あなたには感謝していますよ。おかげでこうして、大逆罪を犯した重要参考人を移送するという大役を担う人員に、同志を紛れ込ますことができました。USSAによる他部署・他組織へのテコ入れは日常茶飯事でしたからね。USSAお墨付きの人物とあれば、誰も素性を精査しようとしない」


「貴様は、何者だ。なぜ裏切った」


 本当は、「なんだ」と尋ねたかった。けれど、得体のしれない人の形をしたものであろうと、部下であった頃の情が勝った。


 オヴェドはゆっくり笑った。すでに被った皮が連動していないのか、笑っているのに笑えていない。神経が壊死しているせいだろう。顔面のところどころが変な動きをしている。

 数種類のジグソーパズルのピースをごちゃ混ぜにしてつくった絵のように、喜怒哀楽すべての表情が、笑みをベースに混在している。


 こんな不気味な笑顔がこの世に存在するのか。


「最初に名乗った通り、『神に仕えし者(オヴェド)』ですよ。裏切ったと仰るが、私はあなたを一度たりとも裏切っておりません。ただ仕えるべき相手が(あなた)ではなかっただけのことです」


「テロリスト、だと……?」


「そうとも言いますね。あなたは実にいい主人でしたよ。ご自分の正義を信じて疑わない。あなたのように自己の正義を妄信する人間が、一番扱いやすいんです。望むものを見せてさえいれば、満足しますからね。一般人を狂信者に仕立て上げるよりよっぽど楽でいい。いやぁ、実に愉しかったですよ。あなたが勝手に破滅していく様は」


 フォレスターは怒りのあまり立ち上がった。

 ずっと正義のために動いてきた。その結果が、テロリストのピエロでしかなかったなど、信じたくはなかった。


 しかし立ち上がった瞬間、全身が脱力した。足が崩れ落ち、糸が切れた人形のように床に転がる。

 指一本動かせぬまま困惑していると、オヴェドが答えを寄こした。


「あなたに一つ不満があるとすれば、開発した暗殺用の毒に特効薬をつくらせたことですね。遅効性の毒に特効薬があるだなんて、毒として致命的な欠陥でしょう。こんなものを必殺の毒と信じたあの双子も憐れですねぇ。まあ、そのお陰で私の大好きな()()が壊れずに済んだのですが。その点に感謝して、殺すのは止めておきましょう」


 立ち上がったオヴェドは、ついに皮を脱いだ。ブチブチと細かい音を立て、膿混じりの肉片と血がカーペットに滴った。

 そして正体が露わになる。


 これならゾンビの方がまだ人の形を保っている。これはもう人ではない。瞼も口唇もない、すべてが剥き出しの、男とも女とも判別のつかぬ何か。


 何者でもないもの(ノーバディー)は、隠すことのできない目をぎょろつかせ、歯を微かに軋らせた。

 それが身体を揺らして笑う男の笑みだと気付くまでに、フォレスターの視力と聴力は著しく低下していった。


「ではごきげんよう、我が主だったお方。実に愉しいひと時でした」


「貴様の……好きには……」


「テロごときで国が揺らぐはずがない、そうお考えですか? ご安心ください。アメリカほどの超大国でもこのザマなのです。さて、次はどの国で遊びましょうか」


 オヴェドの声が聞こえたのは、そこまでだった。聴力の低下だけではない。凄まじい勢いの轟音と突風が機内に渦巻いている。


 狭まった視界で見渡せば、機内にいるのは自分だけになっていた。オヴェドとその仲間は、開け放った扉から脱出していったのだった。


 フォレスターもまた、じりじりと開け放たれた扉に吸い寄せられていた。外界と機内の気圧変化により、内部のすべてが外へ吸い出されようとしていた。

 それにフォレスターはどうすることもできない。


 そう思った矢先、機体が急に傾いた。フォレスターはふわりと浮き上がった自身をみて、機体そのものが急降下していることを悟った。


 浮き上がったまま、吸い寄せられる引力も相まって、フォレスターの身体は機内のあちこちをゴムボールのように跳ね回った。


 全身をぶつけながら、海面めがけて墜落する機体の中で、フォレスターは絶望した。音速で海面に衝突し、機体もろともバラバラになる、その時まで。

次回、最終回です。

投稿日 8月29日(金)




完結後は、新作の準備ができるまで、Xの方でイベント(『ハウンド悪戯100日チャレンジ!』~ニコラスの表情筋を鍛えよう大作戦!~)を企画しています。

開催中は、ぜひ下記のアカウントのフォローとリプライお願いします。


作者:志摩ジュンヤ公式アカウント 

@fkTiger(https://x.com/fkTiger)

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