12-15
【これまでのあらすじ】
店長、クロード、ケータ、アレサ、ジャック、ウィル、ギャレット、多くの棄民たち。そして五大マフィア。
多くの人間が、戦列に加わっていく。悪党と呼ばれたはずの彼らが。
互いに思惑はあれど、願いは違えど、皆がに27番地へ集っていく。
そんな最中、アメリカ合衆国大統領は、すべてを終わらせるべく、ついに軍の再投入を決断する。
タイムリミットは一時間。あと一時間、生き残ればニコラスたちの勝利。
けれどその勝利は、なにもかもが尽き果てたニコラスたちには遠かった。されど彼らは立ち上がる。
生き残るのは、悪か、正義か――。
【登場人物】
●ニコラス・ウェッブ:主人公
●ハウンド:ヒロイン、敵(USSA)に捕らわれていたが救出される
●双子:トゥアハデ”銘あり”にして、アーサー・フォレスターの腹心
【用語紹介】
●合衆国安全保障局(USSA)
12年前の同時多発テロ発生直後に急遽設立された大統領直属の情報機関で、年々発言力を増している。現長官はアーサー・フォレスター。
●『双頭の雄鹿』
USSAを牛耳る謎の組織。その正体はアメリカ建国黎明期の開拓者『ポパム植民地』住民の末裔。
マニフェストディスティニーを旗標に掲げ、国を正しい道に導くことを指標とする。政界、経済界、軍部、国内のあらゆる中枢に根を張り巡らしている。
名の由来は、ポパム植民地の最大後援者でもあったジョン・ポパムの紋章からもじったもの。
●失われたリスト
イラク戦争中、国連主導で行われた『石油食料交換プログラム』を隠れ蓑に世界各国の大物たち(国連のトップ、現職の大臣、資本家、宗教関係者など)がこぞって汚職を行った『バグダッドスキャンダル』に関与した人物らの名が記されたブラックリスト。
このリストを公表するだけで、世界各国代表の首がすげ変わるほど破壊力を持った代物。『双頭の雄鹿』の資金源と目される。
現時点、証拠はすべて抹消され、証人もハウンドとシンジ・ムラカミだけとなっている。
●絵本
ニコラスがハウンドから譲り受けた手書きの絵本。人間に連れ去られた黒い子狼が、5頭の犬たちの力を借りながら故郷を目指す物語が描かれている。作者はラルフ・コールマン。
炙り出しで謎の文がページの各所に仕込まれており、それらを解き明かすと『証人はブラックドッグ』、『リーダーはアーサー・フォレスター』となる。
●《トゥアハデ》
『双頭の雄鹿』の実働部隊。世界各国の特殊部隊から引き抜いた兵士で構成されており、長のフォレスターが自ら選んだ幹部“銘あり”が数人存在する。
現時点で確認されている“銘あり”は『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』、『モリガン』、『ディラン』、『スェウ』、オヴェドの七名。
現時点で『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』の三名は死亡。
また、なぜかオヴェドは名を与えられていない。
「ハウンド、あんま無茶すんなよ」
「お互いね~」
ニコラスたちは、当初の予定通り遅滞戦を開始した。
勝利条件は、生き残ること。
27番地や五大マフィアを含む特区勢力と米軍、外部の援軍が到達するまでの一時間。この一時間を生き残ることができれば、自分たちの勝ちだ。
となれば、市街地をとにかく逃げ回ればいい、と言いたいところだが、そうもいかない。
敵の総数は未だ二千以上。弾が尽きる様子もなく、装甲車等の車両もまだ数台生き残っている。
対するこちらは38名。残弾もほぼゼロ。市街地に設けた各所の補給を食いつないでも、数分の銃撃戦で撃ち切ってしまうだろう。移動手段も徒歩だ。
敵もそれを把握しているので、数の有利を生かして本隊を左右に広く伸ばし、着実にこちらの行動範囲を狭めている。野焼きの炎が迫ってくるように、市街地を掃討しながら進軍している。
こちらにも車両のような高速で移動できるものがあれば中央突破も可能だが、燃料も尽きバイクすら使えない今それも叶わない。敵本隊も広く分散しているので、砲撃による狙撃の効果も薄い。
であれば、どうするか?
「分散した敵をもう一度集結させる。ハウンド・ギャレット率いる遊撃隊で、敵を所定のポイントに誘導し、密集したところを狙撃する」
ニコラスが事前に設けた市街地の補給ポイントは、分散と発見されにくさだけを重視したわけではない。
そこに立て籠もる場合を想定し、防衛戦がしやすい地形に設置してある。
早い話、各補給ポイントが緊急時の砦として機能するようにしてあるのだ。
例えば、細い一本道の路地を進んだ先の建物。別ルートから侵入した敵が先の道で集合し、十字砲火を敷きやすい地点。侵攻する敵が丸見えになる高所。そういった場所に補給を設置してある。
無論、脱出経路も用意してある。発見されにくく、補給ができ、万が一は城として機能し、秘密の脱出ルートがある。秘密基地の理想だ。
あわよくば自爆装置も、といいたいところだが、そこまではできなかった。まあそのぶん何度も利用できるし、装置の件は別のもので補っているので良しとする。
これが工夫その一だ。
「補給しながら各ポイントを転々とする。自分と教官は遊撃隊の後方の補給ポイントから、味方の移動を援護し、敵の進軍を阻止する。これを繰り返す」
「遅滞戦するにはこれ以上ない好環境だな。後方のポイントから射界も確保できるのもいい」
「そういう事態も想定して街づくりしてきたんだよ。うちは土木工事も得意でね」
ふふんと胸を反らすハウンドに、バートンは感心しきりだった。一方のニコラスは、敵の動向以上に心配なことが一つ。
「お前、本当に鎮痛剤いらないのか? 縫合はしたが、かなり痛むだろ」
「大丈夫、大丈夫。輸血も大量にもらったし、それ判断力にぶるからヤなんだよ。ニコが持ってな」
そう言ってハウンドは、十錠入り鎮痛トローチのPTPシートをポケットに詰め込んでくる。
俺が持ってたって仕方ないだろ、と言いかけて先ほどの出来事を思い出した。
義足の接合部の負傷、あの痛みを無視できていれば、サイラスは死なずに済んだかもしれない。ニコラスは無言で鎮痛トローチを一つ口に放り込んだ。
こうして、ニコラスたちは持ち場についた。
敵は思ったほど食いついてこなかった。陽動して所定の地形に釣る戦術は、これまで散々やってきた手法だったので当然といえば当然である。
敵は陽動部隊を少数であしらいつつ、本隊が回り込もうとした。
が、できない。
陽動部隊が最初に陣取った補給ポイントの後方へ回るルートは、あらかじめすべて塞いでおいたからだ。
これが工夫その二だ。ニコラスたちは瓦礫のバリケードによって国境線に防壁を築くことに成功したものの、侵入を許した時に備えて本土決戦の準備を進めていた。
こちらに有利な地形に補給ポイントを設置し、かつそこへ向かう敵の侵攻ルートを制限しておいたのである。
敵に看破されると分かっていながら、使い古された戦術を採用したのはこのためだ。
敵は渋々別ルートを模索しながら、陽動部隊へ投入する数を増やした。しかし悪戯に増やしたとて、閉所に大量の兵を置けば身動きが取れずこちらの砲撃の餌食になる。
なので、敵は長距離攻撃要員を増やしてきた。すなわち狙撃である。
こちらは自分とバートンだけなのに対し、敵狙撃手の数は腐るほどいる。が――。
「教官、かかりました」
『そのようだな』
ニコラスたちは、満を持して、狙撃手狩りを開始した。
工夫その三、敵狙撃手がつきたくなるようなポイントを、補給ポイント周辺にあえて残しておく。
すなわち対狙撃手専用の罠だ。
罠には赤外線センサーを設置しており、感知すると27番地の防衛アプリの地図上に反映されるようにしておいた。
過去27番地とUSSAが最初に交戦した際、ニコラスが敵狙撃手に用意した罠をバージョンアップさせたものである。
銃使いを狩る者の名は伊達ではない。弾丸の首飾りはなくとも、この腕前が証拠だ。
ニコラスとバートンは、次々に敵狙撃手を討ち取っていった。
援護を失い、敵はハウンドらに翻弄された。敵狙撃手を一掃すると、ニコラスたちは地上の敵に標的を移す。その隙にハウンドらが逃げる。
こうしてニコラスたちは、拠点を転々としていった。
三つ目の拠点に移動した直後だったか。
『ニコ、なんか変だ』
「ハウンドもそう思うか」
ニコラスは危機感を強めた。
作戦は上手くいっている。上手くいきすぎている。
『敵の侵攻速度が全然落ちない。何も考えずにがむしゃら突っ込んできてる感じだ。妙だぞ』
「ああ。敵があまりに無策すぎる。教官、双子の位置は確認できますか?」
『いいや。まだ確認できていない。だが無策というわけでもないぞ。突入方法を変えたり、狙撃手の配置を工夫したりと、多少の変化はある。杞憂じゃないか?』
確かに、丸きりの無策というわけではない。こちらからも突入する部隊の変遷は視認している。罠にかかる敵狙撃手の数は減っている。
だが、なにかが変だ。嫌な感じがする。
前線にいる、自分以上に勘の鋭いハウンドが警戒しているのをみて、ニコラスは確信した。まずいことが起こっている、と。
「本部、敵の別動隊がいないか再度確認してくれないか」
『やってはいるが……本当にいないんだよ』
モニターと睨めっこしているのか、店長は籠り気味の声で低く唸った。
『君らが今対峙しているそれがほぼ全軍だ。多少の脱走兵はちらほら確認できるが、それくらいだよ』
『脱走兵ならこちらでも確認している。だが組織だった行動は見られない。一人か二人の兵士があちこちへ逃げ惑っている、といった感じだ。別動隊とは到底思えんな』
「狙撃班の可能性は?」
『ないな。狙撃手にしては動きが大胆すぎる。身を隠す場所も狙撃に適さないポイントばかりだ。ただの離脱者とみていいだろう』
となると、本当に脱走兵なのだろう。
けれど兵士は、なぜこのタイミングで脱走したのだろうか? そもそも脱走する気なら、もっと前のタイミングで逃げてもよかったはず。これだけ数がいるなら、索敵と称して戦線離脱することも――。
瞬間、ニコラスは蒼褪めた。
やられた。
「教官、今すぐその場を離れてください! ハウンド、部隊を移動する。大至急、撤収の準備をしてくれ」
『なに?』
『ニコ、どういうこと?』
「俺らと同じ戦法を取られた。敵はもう正規軍の戦い方をしていない」
27番地はこれまで、ゲリラ戦術を得意としてきた。ゲリラ戦術とは数に勝る敵に対し、少数の部隊運用による奇襲、待ち伏せ、攪乱等の遊撃を行い、敵を消耗させ長期戦に持ち込む戦法である。
兵の数が足らない、武器も乏しい。そういった理由から、27番地はこれまでゲリラ戦術を取らざるを得ない状況が続いていた。
今は逆だ。27番地外の勢力も含めれば、27番地の方が敵より多いのだ。
そして小規模の精鋭部隊によるコマンド攻撃は、敵が最も得意とする戦法である。
「本部、敵の離脱者の追跡を頼む。奴ら、脱走兵じゃない。一人一人が別動隊だ……! ドローンからの目を掻い潜るために、部隊を極限まで縮小したんだ。今すぐ追跡してくれ!」
ニコラスはそう要請したものの、すでに手遅れだろうと感じていた。もうかなりの数が、こちらの陣地に浸透してきているはずだ。
27番地が五大マフィアと連合を組んだ弊害だ。27番地とマフィアとでは、索敵方法もドローンの運用法も違う。情報統合もすぐにとはいかない。
その一瞬の隙を突かれた。
――だから本隊をそのまま突っ込ませてきたのか。
敵は無策に吶喊してきたのではない。本隊を囮にこちらの位置を把握し、移動経路を予想したうえで奇襲するタイミングをうかがっていたのだ。
この決戦当初、自分たちが本隊を囮にしたように。まったく同じ戦法をやり返された。
そして、敵が真っ先に狙うのは――。
『教官、今すぐ撤退してください! 教官、教官……!』
バートンからの応答が途絶えた。
***
双子は血だまりに倒れ伏す中年を見下ろした。
ニコラス・ウェッブの師なだけあって、狙撃の腕は確かだったが、接近戦はその限りではなかったようだ。
「狙撃手を一人やった。もう片方がニコラス・ウェッブだ。好きに狩れ」
『了解です』
交信を終え、中年を見下ろす。
まだ息はあるが、じきに死ぬ。白の毒を仕込んでおいた。悶え、のたうち回って死ね。
双子の作戦は至極シンプルだ。本隊を囮に、選抜した60名で二人体制を組み、30チームの別動隊が各個撃破する。
各別動隊は、情報共有こそすれ基本各自の判断で好きなように動く。もはや別動隊というより、刺客といった方がいいだろう。
十数人の部隊を組んだとて、どうせ砲撃でやられる。ならば少数編成であればあるほどよい。
厄介なのが上空の偵察ドローンと砲撃だが、潜伏する30の伏兵をすべて発見するのは、容易なことではない。
ましてやここは、空からの目が届きにくい市街地だ。長年敵対していた五大マフィアと協力し、急ごしらえの編成で発見する、民兵風情にそんな芸当ができるものか。
あの『百目の巨人』とて、これだけの刺客が一斉に解き放たれれば、追いきれまい。
数で勝っても所詮は烏合の衆だ。直接対峙すれば負けるだろうが、こちらはたった二人を殺しさえすればよいのだ。
まずは一人。
ニコラス・ウェッブを引けなかったのは残念だが、こいつを仕留めれば――。
「来たぞ」
「ああ」
双子は死角から突進してきた一撃を、難なくかわす。
ほらきた。ヘルハウンドだ。
狙撃手が危ういとなれば、必ずこの女が釣れる。
「ギャレット、バートンにこれ刺せ!」
「ああ! おっさん、ちっと我慢しろよ」
ヘルハウンドが放った黒の短刀を、黒人の大男が受け取り、中年のもとに駆け寄る。
双子はそれらを一切合切、無視した。
狙うはヘルハウンドただ一人。この女を仕留めれば、今度はニコラス・ウェッブが釣れる。
一合、二合と打ち合って、ほくそ笑む。
やはり、かなり弱っている。ただでさえ体力を消耗しているところに、本隊との連戦を強いられたからだ。
貴様とニコラス・ウェッブを消す。我らが主人の悲願を、正義を否定する存在などあってはならない。
アーサー・フォレスターは絶対に正しくあらねばならないのだ。
自分たち双子は、生まれたその瞬間から、恵まれない子供だった。
アフリカの片隅で、差別撤廃運動の革命の副産物として生じた、同種族間の凄まじい格差。一方は正義を為した果てに輝かしい未来を掴み、一方は何も変わらなかった。
人道的犯罪を終わらせた平和の象徴と、大統領が褒め称えられる中、同種族間の怨嗟と憎悪は着実に蓄積していった。世界が「虹の国」と希望した国の末路だった。
それらの産物として産み落とされたのが、双子だ。
両親は、革命によって栄光を掴んだ未来ある若者だった。革命が起こったその街に豪邸を建て、海外のエリートたちと冷房の利いたオフィスで談笑しながら、着実にキャリアを積み重ねていた。
国の更なる発展と繁栄を、信じて疑うこともなかった。妊娠数か月の母が、帰宅途中に攫われる前までは。
革命を主導した学生の一人だった母は、かつて救おうとした同じ黒人から犯され壊れた。妊婦だと分かっていながら襲ったのだ。
父は間違いなく双子が自身の血を引く子であると知りながら、双子を引き取った孤児であるという妄想に逃避した。
両親は掴んだはずの未来を、白人ではなく同族に奪われたことが理解できず、絶望した。すべてを拒絶し、大量の使用人を雇って豪邸に引きこもった。自分たち双子のことは、畜生以下として扱った。
主人がそうなのだから、使用人の自分たちに対する態度も察しがつくというものだ。飯もろくに与えられず、庭にくる小鳥や鼠を捕って食いつないだ。
捕らえた獲物を火で炙るということを覚えたのも、衛生面や味のためではなく、生のまま貪る自分たちを見て発狂した父が厳しく折檻したからだった。
自分たちに唯一恵まれているものがあったとすれば、生来の高い身体能力と適応能力だろう。
自分たちは誰かに愛を求めなかった。誰にも期待しなかった。
互いだけを愛すればいい。互いだけを信じればいい。それ以外は、なにもなくていい。
そんな双子の心境に変化が訪れたのは、七歳の時。
一人の使用人が家にやってきた。中国人のチビで禿げた中年で、欠けた歯を剥き出しにして、いつもへらへら笑っていた。この男が本当に頭の悪い男で、この家の暗黙のルールにもまるで気づかなかった。
男は自分たちを普通の子供として扱った。自分の飯を分け、時に一緒に食べた。言葉を交わし、文字を教えた。噛まれようが蹴られようが逃げられようがめげなかった。
自分が他人にどう見られているかも分からないほど、無知で無能な男だった。だから他の使用人にどれだけいびられても「なんかしんどいことがあったんだなァ」と、逆に気遣う始末だった。虐められていることにすら気づいていなかったのだろう。
男は双子を自身の子と重ね、勝手に慈しんだ。できもしない中途半端な中国拳法を披露しては、故郷の話を語った。腹の出たおっさんの訳の分からない体操にしか見えなかったが、双子にとっては現状を打破する唯一の可能性に見えた。
ある日、見よう見まねで拳法の型をやってみた。男のがあまりに格好悪かったので、双子なりにただ見栄えだけを意識した、武術的にまったく無意味な型だった。
しかし、男は手を叩いて馬鹿みたいに喜んだ。
「おめえら将来ぜってぇスゲー奴になるぞォ。身体能力も高えし、身体も柔らけえし、故郷の師匠にみせてやりてえなァ」
すごい、天才だと、しきりに褒め称えた。
その日から、男は双子の英雄になった。
微妙に間違った型を懸命に学び、意味のない修行をして楽しんだ。やることなすこと、男の後をついて回った。
何をやっても褒める男が意味不明で、おかしくて仕方なかった。
だからだろう。他の使用人たちは、自分たちより遥かに格下と思っている男がいつも楽しそうなのが、我慢ならなかった。
常日頃から酔った父の鬱憤をぶつけられて、不満が溜まっていたのかもしれない。
その日、男が消えた。
男は朝の決まった時間になると、挨拶のためだけに双子を探しにくるという、不思議な習性をもっていた。だから双子はすぐ異変に気付いた。
他の使用人に聞けば、父の物を盗もうとして捕まったのだという。今ごろ罰を受けているだろうと、使用人らは込みあげる笑いを隠しきれぬ様子で、愉しげに言った。
双子は何が起こったのかをすぐに察した。
その晩、非常に珍しいことに、父が双子を呼びつけた。
敷地内の隅の納屋にいくと、変わり果てた男が椅子に縛り付けられていた。相当厳しく折檻されたのだろう。頭髪の半分が焼け焦げ、目に釘が突き刺さったままだった。
父に足の指をハンマーで潰されても、びくりと身体を跳ねあげるだけで、それ以外の反応を示さなくなっていた。
父はべろべろに酔ったまま、鞭をこっちに投げてよこした。
「こいつを打て。俺の息子ならできるはずだ」
息子、という言葉を聞いた瞬間、枷が外れた。
双子は男と接して、初めて誰かになにかを奪われる、怒りと恐怖を知った。
双子は父を無茶苦茶に鞭打った。
外面を死ぬほど気にする父は、自分の汚い部分を見せまいと、折檻の時は必ず人払いを済ませる質だった。だから誰も助けにこなかった。
使用人は、父の絶叫を男のものと勘違いした。
鞭が壊れ、双子はその辺にある適当な器具を、手当たり次第に父に振り下ろした。父が動かなくなり、皮を剥いだ後の鼠のような姿になったのを見て、今度は使用人らを殺しにいった。
屋敷を逃げ回る使用人を仕留めるのは、小鳥を捕らえるより簡単だった。
すべて殺し終えると、今度は屋敷に火を放った。母の存在は数日後に思い出した。確認はしなかったが、恐らくそのまま焼け死んだのだと思う。
それから双子は男を助けに戻った。
けれど、男は恐怖で頭がおかしくなっていた。
解放されるなり、男は双子の前に平伏し、地面に額をこすりつけた。
「申し訳ありません、ご主人様。もうしません。いい子でいます。だから痛いことはもうやめてください」
双子は酷く面食らった。
必死に自分たちだと話しかけたが、男は訳の分からぬ言葉を喚き散らして納屋の隅に蹲ってしまった。
「もう殺してくれ」と泣き叫ぶばかりで、双子の声は届かなかった。
どちらが泣き、どちらが殺したのかは、覚えていない。
ただ男の首に鉈を振り下ろした時、男がほっとした顔をしたのが、唯一の救いだった。
男は英雄でもなんでもなかった。
無知で無能な、善良であること以外なんの取柄もない、ただの弱い人間だった。
英雄は完璧でなくてはならない。完璧でない英雄など認めない。
双子とて、フォレスターが完璧でないことは知っていた。自分と一族以外は人ではないと他者を平然と見下す男だった。
だがその見下しは、極めて公平だった。双子を他の人間と平等に扱った。手段は選ばなかったが、本気で人を救う人間だった。地位も権力も金も能力も人望もすべてを持っている、この世で最も完璧に近い強者だった。
だから双子は彼を王と仰いだのだ。
兵士を一人、救う対象にしなかったのが、なんだというのだ。
アーサー・フォレスターは英雄だ。彼こそが絶対正義だ。
彼はその期待に応え、折れることなく今日まで立ち続けた。なにも為せぬまま無意味に死んでいく弱者とは違う。
――お前はどうだ、ニコラス・ウェッブ。
双子は、肩で息をするヘルハウンドを見据えながら、問いかける。
少女の銃剣の切っ先から、血と汗が零れ落ちていく。空を舞う雫の一つ一つが少女の命であり、刃を振るうたび少女が小さくなっていくような錯覚に囚われる。
さあ、来い。ニコラス・ウェッブ。
貴様が英雄であるならば、この少女だけの英雄というならば、今この瞬間に救ってみせろ――!!
一発の弾丸が、双子の問いに応えた。
双子の背後のコンクリート柱に着弾し、破片と粉塵をまき散らす。
双子は大いに失望しながらも、ほくそ笑んだ。
ほら、やっぱり来ない。
双子は左右に分かれ、同時にヘルハウンドへ飛びかかる。兄が左の手首を、弟が右肘の内側を斬る。
頑なに離さなかった銃剣を、少女はついに手放した。
握れなくなった両腕を無意味に伸ばすものの、弟が少女を蹴り飛ばす方が早かった。
腹を蹴られ、少女が転がっていく。動かない両腕でもがきながら、頭だけを使って起き上がろうとする。
「なぜまだ戦おうとする。助けがくると、本気で思っているのか?」
弟が問いかけた。兄は少し驚いた。常に思考がシンクロしている双子に、ずれが生じ始めていた。
ヘルハウンドは、床に額をこすりつけながら、顔を上げこちらを見た。
「あの男は来ないぞ。時間稼ぎにお前を我らに差し出すような男だ。今も、また貴様を囮に、我らをどう撃つか算段しているところだろう。貴様が傷つこうが苦しもうが、どうでもいいからこんなことができる」
「なぜあの男に期待する? なぜ主人の救いを拒んだ? あの男を英雄と信じる理由はなんだ、なにがお前をそこまで駆り立てる?」
兄もつい問いかけた。
「「ニコラス・ウェッブは英雄でも何でもない。ただの卑怯な偽善者だ。なのにお前はなぜ奴を信じる?」」
思考と言葉が一致した。ずっと双子が問いたかったものだった。
ヘルハウンドは上半身を起こした。地に膝をつき、使えない腕を投げ出してなお、真っすぐこちらを睨んで。
「人を救うということは、自ら立ち上がり戦えるよう、守り支えてやることだ」
少女は断言した。これまで負った傷などないかのように、姿勢を正して。
「英雄とは、間違うことを恐れ、やっぱり間違いだったと悔い嘆きながら、それでも人に手を差し伸べることができる者。正しくない自らを恥じ、憎みながら、それでもなお昨日の自分より善くあろうと藻掻く者。それが英雄だ」
煌々と輝く深緑の瞳が、双子を映す。けれど彼女が見ているのは双子ではなかった。
「今、目の前にいる私こそがその証明だ。カーフィラ、ラルフ、ニコラス。いろんな人間が助け続けた結果、今の私がある」
完璧なヒーローなんていらない、と少女は叫んだ。
「守られるだけの立場なんか欲しくない。ただ迎えがくるのを待ってるだけなんて嫌だっ。私だって、一緒に戦える……!
ニコは後悔し続けることを選んだぞ。全部の罪を背負って立つと決めたんだ。正しい自分以外は認められない、そんな器の小さい男のなにが王だ、なにがヒーローだ! 正しくなれないって思い知っても、正しくあろうと藻掻ける人間の方が、よっぽど強い!!」
ああ、そうか。
双子はようやく納得し、理解した。少女と自分たちの間にある、深い深い分断を。
救われなかった子供だと思っていた。だがこの少女は、自分は救われたと思っているのだ。あれだけの仕打ちを受けてなお、救ってもらったと、助けてもらったと。
なんといじらしく、哀れな。
最初に動いたのは、兄の方だった。
ヘルハウンドをさらに蹴り飛ばし、背後の柱に、短刀で手ごと縫い留める。
両手を貫かれて、ヘルハウンドは悲鳴をあげた。
「なら! なぜ奴はここにこない!? 誰も助けにこないじゃないか!!」
限界がきたのだろうか。痛みに悶えることも疲れ、虚ろな目のまま、少女は顔を上げた。
「仕方ないだろ」
ヘルハウンドは呟くように言う。
「ヒーローは遅れてくるものなんだ」
瞬間、全身が総毛だった。
自分たちの足元。のびる二つの影の間に、もう一つ影がある。
振り返った瞬間、弾が右手と、左肩にめり込んだ。
堪らず飛び退く。見れば、弟も両足に二発食らっていた。
双子はヘルハウンドを縫い留めた柱を影に、建物の端に逃れた。
影の先を見る。
ニコラス・ウェッブがいた。崩壊した天井から差し込む太陽を背に、片膝をつき、銃口を構えて。
「すまん、遅くなった」
「いいよ。迎えに来てくれたから」
ヘルハウンドが小さく笑った。ニコラス・ウェッブはそれに一瞥することもなく、顔を歪めて応えた。
だが奴は撃ってこない。
なぜ、と訝しんだ矢先。兄と弟の間の壁に、赤い点が光っていた。レーザー照射だ。
そこでようやく、遠くから急速に近づく雷鳴に気づいた。
「弾は避けられても、こいつは避けられないだろ」
近接航空支援を呼んだ狙撃手は、淡々と語る。
「単独行動は敵の目を掻い潜りやすいが、視野が狭くなりがちだ。複数人いれば、接近するドローンの存在にも気づけただろう。お前らが放った兵士60名、すべて捕捉させてもらった。逃がさんぞ」
双子ははじめて顔をひきつらせた。
百目の巨人は、すべてを見通していたのだ。
「化け物め」
「どうとでも。その子が救えるならなんだっていい」
接近する戦闘機の腹から、爆弾が産み落とされ、落下してくる。双子はただそれを見上げた。
***
F-15戦闘機からレーザーJDAMを取り付けた精密誘導爆弾が切り離される。その瞬間、ニコラスはハウンドに駆け寄った。
短刀を抜こうと藻掻いている彼女を解放し、抱え込んで柱の根元に蹲る。
光と衝撃が、ニコラスたちを襲った。
全身がバラバラになりそうなほどの震動。真っ先に耳をやられ、頭の内側で金を打ち鳴らされる感覚に、ニコラスは呻いた。
何も見えない。何も聞こえない。ただ身の内に抱え込んだ熱だけを、必死に抱きしめていた。
瓦礫と粉塵混じりの爆風が吹き荒れる中、ひたすら柱の根元に丸まって耐える。
どのくらいの時間が経っただろうか。
ふとニコラスは、背を叩かれていることに気づいた。見ると、粉塵で全身を灰色にしたギャレットが立っていた。
「おい、無事か!? 生きてるよな!?」
声はまったく聞こえなかったが、言わんとしていることは分かった。
腕の中を覗く。ハウンドも同じく耳をやられたのか、耳をこちらの腕に押し付けて呻いている。
だがちゃんと生きていた。やられた両腕が痛々しいが、それ以上の怪我はなさそうだ。
目に入った塵と砂を涙と瞬きで堪え、周囲を見渡す。建物の半分が消し飛んでいた。三メートルはあった柱は一メートルになり、厚さも半分になって鉄骨が剥き出しになっている。
双子の姿はなかった。
「やったか? 流石にやったよな?」
ハウンドの手当てをしながら、ギャレットが言った。相変わらず音がぼやけて聞き取りづらいが、期待と不安ではち切れそうなのは分かった。
一方のハウンドは、静かに首を振る。
「いや」
爆散し、瓦礫の山と化した崩壊部。白煙が舞う、その先を睨んで。
「この程度でくたばるなら苦労はしない」
白煙の中に、二つの黒い影が立っていた。ギャレットが「ジーザス」と呟いた。
「ギャレット、ハウンドを頼む」
立ち上がるこちらの裾を、ハウンドが掴もうとした。腕を動かせず首だけを伸ばす彼女の前に、掌を広げて押しとどめる。
「大丈夫」
ハウンドの顔が瞬時に強張った。なのでニコラスはすかさずこう続けた。
「“自分”なら、ちゃんと取り戻した。だからもう大丈夫」
ハウンドはギュッと顔を歪め、こちらの胸に倒れこむように擦り寄ってきた。そんな彼女を力いっぱい抱きしめる。
それからすぐ踵を返し、白煙の中に飛びこんだ。
***
双子――兄は、白煙の中で、じっと息を潜めていた。
動けば煙に揺らぎが生じ、姿が露わになってしまう。それを見逃す相手ではない。
ゆえに双子は、より煙が濃い方へ、濃い方へと進んでいった。
一方でその選択は、自らの目を塞ぐことにもなる。しかし双子はそのリスクをとった。
恐らくニコラス・ウェッブは、白煙の外から目を凝らしている。狙撃手にとって目は命。視野が確保できない場所に身を置くとは思えない。視界が確保できる高台から、白煙が晴れるのを待って、着実に仕留めようとするだろう。
逆に言えば、煙が晴れるまで、攻撃してこないということだ。
狙撃手の攻撃パターンは二つある。待ち伏せ型と、追跡型だ。今回は前者に該当する。視界不良で標的を追えないからだ。
今ごろ奴は、狙撃地点の確保に勤しんでいるだろう。場所を確保し、撃つ準備を整えてから、標的を探し始める。狙撃手の習性だ。このタイムラグを利用する。
双子は音をたてぬよう細心の注意を払いながら、手探りで進んでいった。時おり小石を投げ、わざとあさっての方角で音を立てて攪乱する。
爆発で千切れた大きな看板をまたぎ、崩壊した建物の内部へ入っていく。煙が晴れる前に、障害物が多いところに潜むことができればこっちのものだ。
なにより、こちらもかなり負傷している。弟は足もやられた。
磁気粘性流体の新型ボディアーマーは、損傷個所こそ塞いだものの、内容物がかなり流れ出したことで、防御力が大きく低下している。先ほど食らった弾も、貫通こそ防いだが、弾は肉にめり込んだ。弟の方は骨も多少砕けているだろう。貫通しなかったがために、着弾のダメージが肉体へもろにくるのだ。
内容物が比較的残っている胴体部はまだしも、手足などの末端部はもう弾を防げない。間違いなく貫通する。
以前のような機動力を生かした戦いはもうできない。忍び寄り、距離を詰めて、殺す。
一発でも撃たせれば、奴の位置はすぐに分かる。建物内に入り、弟が物を使って人影を装う。そうすれば奴はすぐ撃ってくるに違いない。その隙に、兄が奴を仕留めにいく。
数歩歩いては耳を澄ませ、歩いては耳をそばだてる。
微かだが、土砂がさらさらと崩れ落ちる音が聞こえる。爆撃後の建物が自然と崩壊している音のようにも聞こえるが、音は一定間隔で、移動している。上の方だ。
――奴だ。高台に移動している。
――意外と近くにいたな。
双子は頷き合い、音を追った。奴とて探すはずが、すでに追われているとは思うまい。
奴が我らを狩るのではない。我らが奴を狩るのだ。
煙が徐々に晴れてきた。
双子は改めて周囲を確認する。爆撃された建物の、道路を挟んで向かい側の、何件か立ち並んだビルのうち一つ。一階に商店を構えるタイプの小ぶりな雑居ビルの、前に立っていた。
爆撃の影響で、窓やら商品やらは消し飛んでいるが、壁も天井も残っている。崩壊する様子もない。双子はひとまず安堵し、この建物に入ることにした。
音はこの方向へ消えていった。ニコラス・ウェッブも近くにいるはずだ。
弟を先に行かせ、窓枠から跨いで入ろうとした、次の瞬間。
頭上から、なにかが落ちてきた。双子は瞬時に動きを止めた。
おさまりかけていた粉塵が再び舞い、不明瞭な視界に戻っていく。息を潜めて十数秒、再び動き出す。
落ちてきたのは、焼け焦げた看板だった。古着屋、と辛うじて文字が読み取れた。
サイズとデザインをみるに、先ほど千切れ飛んでいた看板の片方だ。辛うじて引っかかっていたのが、落ちてきたのだろう。
双子は静かに息を吐いた。
そう思った、次の瞬間。発砲音がした。
窓枠を跨ごうとしていた弟が、建物内に倒れこんだ。抑えた太腿から、血が噴き出している。
兄はすぐさま弾の出所に気づいた。
後ろだ。
振り返ると、約15メートル後方、爆撃で陥没した道路の縁に、奴がいた。
――馬鹿な……!?
なぜ後ろにいる。奴は、この建物の上にいたはず。
そう思った瞬間、先ほど落ちてきた看板が、頭をよぎった。
あれを落としたと同時に、上から飛び降りてきたのだ。着地の音を紛らわすために。
二発目の発砲音を聞く前に、兄は駆け出した。身体をかすめていく弾を無視して、建物内に飛びこみ、弟を引きずって柱の影に隠れる。
そこまでして、愕然とした。
なぜ逃げた?
あの距離なら、向かっていって近接戦に持ち込んだ方が確実だったのに。
兄は、胸を内から突き上げるような激しい動悸の意味が分からず、酷く動揺した。標的から逃げたのは、はじめてだった。
ともかく、奴を殺す。
弟が苦痛に呻きながら、近くのマネキン人形が着ていたTシャツを引き裂き、患部に巻き付けていた。内容物が傷に沁みて痛むのだろう。
「行ってくれ、兄者。俺が引き付ける」
「ああ」
兄は弟の肩を叩き、マネキン一体を破壊して上半身だけ持って、店の裏口を飛び出した。
ニコラス・ウェッブは消えていた。
先ほどいた道路はもぬけの殻で、爆撃後の廃墟にしがみつくように残っていた粉塵を、風が容赦なく吹き飛ばしていく。
兄は近場の瓦礫に息を潜めながら、弟が奴を釣るのを待った。
弟は、古着屋にあったマネキンに自身の服を着せ、窓枠から自然体を装って、僅かに身体がのぞいたように調整した。なかなかの演技だった。
しかし、奴は一向に撃ってこない。撃つ気配すらない。
完全にこちらの意図を見透かしている。
ならば、と弟は本物で対応することにした。自らの手足を犠牲に、肉体を囮にして、奴の動向を伺う。
割れた鏡を手にした弟が、右手をのぞかせる。
奴はすぐに撃ってきた。鏡が手の中で砕け、弟の手をずたずたに切り裂いた。
見つけた。あの建物の二階か。
兄はすぐさま駆け出した。奴がいるであろう建物からは見えない位置から近づき、内部へ侵入する。
入る時に、わざとドアを蹴破った。奴に、階段から上がってくると思わせるためだ。
兄は侵入した建物をすぐ飛び出し、外壁の雨どいを伝って、二階へ上がった。
壁に張り付きながら。窓を確認する。
二階右奥の窓から、ライフル銃の銃口がのぞいている。
――あの窓か。
階段の位置を確認する。奴がいる窓辺の後方だ。よく見ると、階段に向けて構える拳銃の先が見えた。
自分の位置を確認する。奴と、階段の間の、窓辺の外壁にいる。
奴は今、階段に注意を払っている。今いる窓から突入すれば、奴は一瞬反応に出遅れるだろう。その一瞬があればいい。
兄は赤の飾り紐の短刀を取り出した。
構え、態勢を整えて、一気に身を乗り出し、窓から毒刃を投じるべく振りかぶる。
「!?」
失敗した。短刀を投げようと窓に近づいた瞬間、弾が飛んできた。奴がこちらに、ピタリと拳銃を構えていた。
反射で身を引っ込めたものの、バランスを崩し、落下するように飛び降りた。降りる寸前、降りた後も、弾が窓から飛び出してきた。
兄は信じられず、呆然と見上げた。
なぜだ。奴は確実に階段へ意識を向けていた。二階へ上がるまで、物音は一切立てなかった。
なぜこちらに気づけた?
階段から来ないと分かっていたとして、窓は数個あった。なぜあの窓から自分がくると分かった?
いや。そもそも、こちらが放った刺客すべてを捕捉したということ自体おかしい。60人もの人間を、こんな入り組んだ市街地で、あの短時間にどうやって発見した。
唐突に、兄は骨髄を凍らされたかのような寒気を覚えた。
まさか、本当にすべて視ているのか。
街の地形や道、建物の構造だけでない。どの建物の、どの部分に雨どいがあって、それを見た敵がどう利用するか。
奴は、この街のすべてを記憶しているのだ。当初の空爆で、街の地形が変わっているにもかかわらず。
敵がどの道を選び、どのルートを進行してくるのか。どの場所に隠れ、どこを拠点とするか。
味方がどう移動すれば、敵とかち合わずに済むか。どこにいれば、味方の砲撃や空爆から逃れられるか。
奴はすべてを知っている。すべてが視えている。
これはもう予測ではない。予知ですらない。千里眼だ。
記憶力だけの問題ではない。どれほどの研鑽と分析、どれほどのシミュレーションを繰り返せば、こんな芸当ができる。
ああ、そうか。そうだった。
この光景、この砂塵舞う、弾痕も生々しい崩壊寸前の市街地。あの海兵がずっと戦ってきた戦場ではないか。我らはずっと、奴の縄張りで戦っていたのだ。
無理だ。近づけない。逃げることもできない。
どこまでいっても、奴の目がついてくる。
そして動きを止めれば、空から天の鉄槌が降ってくる。
「くそ!」
こうなったら一か八か、捨て身で突入するしかない。
だができるか? 奴はそれも見越して待ち構えているのではないか?
自分が倒れれば、弟がやるしかない。足をやられた弟に、それができるか。
兄は必死に打開策を考えながら、弟の元へ戻った。こういう時ほど、二人でないと駄目だと、経験と本能で知っていた。
その道中、ふと兄は足を止めた。笑いが込みあげてきた。
ああ、やはり。天は我らを見放していなかった。
***
――もう片方のもとに戻ったな。
ニコラスは移動を開始した。無事な方の双子が、捨て身覚悟で突っ込んでくるかと思っていたが、やはり奴らは慎重だ。
目を閉じる。脳内の地形図を確認する。
双子のうち一人はもう動けない。長距離の移動はできないはず。こちらを殺すこともまだ諦めていない。逃げることもないだろう。
そして双子はこちらの脅威を正確に把握している。最後の最後まで、自棄になることもない。
であれば、奴らの動きは――。
脳内の地形図の上を、いくつもの駒が動く。駒が動いた後は線となり、地図上に色違いの線が描かれていく。
こめかみに鋭い痛みを感じ、思わず手で押さえた。眼球の奥でミミズがのたうち回っているようだ。血管が脈打つたび、鈍痛が酷くなっていく。
俺の方も、あまり長くはもたないだろう。
ニコラスはいつもの深呼吸をして、立ち上がった。
双子の行き先は、すぐに判明した。予想した複数ルートのうちの一つに、僅かだが血痕と足跡が残っていた。
即座に疑念がわく。
あの双子が、自分たちの痕跡を残すだろうか。それとも、それだけ余裕がないのか。
ニコラスはしばし考え、前者を選ぶことにした。
罠の可能性を踏まえ、予想したルートを避け、先へ回りこむ。
道中、真ん中が抉れたビルを見た。空爆の影響か、外れた砲弾が当たったか、ちょっとの強風で真ん中からぽっきり折れてしまいそうだ。復興の際、取り壊しに苦労するだろう。
そんなことを考えながら、ルートの先の地面を確認する。
血痕も足跡もない。地面には、足で消したような跡があった。
やはり罠だったか。となれば、どこに仕掛けたか――。
「来ると思ったぞ」
ニコラスは瞬時に銃を構えた。双子の片割れが、建物近くに立っていた。
撃とうとした瞬間、突き上がってきた震動に邪魔された。
雷が落ちた直後の音を何倍にもしたような、凄まじい轟音が降ってくる。
見上げると、双子が立っていた建物の、上層が折れて落ちてきていた。
双子が立っていたのは、先ほど見た崩壊しかけのビルだった。
ニコラスはすぐさま身を翻し、駆け出した。
だが間に合わない。
***
転がる小石の音一つしなくなるまで、兄はその場から動かず、眼前の光景を注視した。
ニコラス・ウェッブは間違いなく崩壊に飲み込まれた。道中、空爆でやられた刺客――戦闘工兵の遺体に、まだ使えそうな爆薬を見つけたのが幸いした。
崩壊しかけたビルの崩壊部に爆薬を仕掛け、奴を誘き出した。
奴はすべてを視ている。ほんの僅かな違和感も見逃さず、真意を確かめようとする。正確性にこだわる、狙撃手の性ゆえに。見えすぎるというのも考えものだ。
音が完全に消え、双子はニコラス・ウェッブの捜索を開始した。奴の遺体を確認するまで、安心はできない。
「兄者」
弟が指さした。足を引きずる弟を動かすのも忍びないので、急いで駆け寄る。
指さした方向に目を凝らす。
梁らしき鉄骨が、地面に斜めに突き立っている。床材のコンクリートと外壁が微妙にこびりついた様は、焼いた人体の骨にこびりつく肉片のようだ。
その斜めに突き刺さった梁の下に、人の足があった。
砂色を基調とした砂漠用戦闘服のMARPATと、タンのコンバットブーツ。間違いない、ニコラス・ウェッブだ。見えているのは、右足か。
「待て」
近寄ろうとするこちらを、弟が止めた。拳銃を取り出すのを見て、納得する。
奴の左足は義足だ。蜥蜴のしっぽのように、義足を右のブーツを履かせて逃げた可能性もある。奴ならやりかねない。
弟が弾倉を空にするまで、足を撃った。着弾のたび足は跳ね、血が飛散した。撃ちすぎて、最後の方は肉片も舞った。
本物の足だ。
双子は満足した。弟をその場に残し、兄が改めて確認すべく遺体の元へ向かう。
向かう途中、ふと、足を止める。
なにか音がする。引きずっている音のような……。
兄はハッとした。近づいて気づいた。奴の足の側の地面に、大量の黒い染みがある。先ほど確認で撃った時のものではない。
兄はすぐさま音の出所を探し、見つけた。
飛び散った瓦礫で埋め尽くされた道路の、僅かに残ったアスファルトの上を、ボロ布を被ったなにかが這っている。這った後にはナメクジのような黒い線が残っていた。
兄は飛び上がりたくなるほど狂喜した。
なんて奴だ。残っていた方の足を自ら切断し、餌にするか。こいつは紛れもない筋金入りだ。
認めよう。こいつは強者だ。今まで会ってきた中で、一番強かった。その強者を今、ようやく仕留められるのだ。
兄は意気揚々とボロ布に近づいた。
こちらに気づいたのか、ボロ布の這う速度が速くなる。無駄な足掻きだ。
この喜びに満ちた瞬間を、一生忘れないだろう。
兄は大股で距離を詰め、ボロ布を掴んだ。
弟は口惜しかった。兄に横取りされたというのではなく、最高の瞬間を兄と共有できない自身の不甲斐なさが悔しかった。
だがこれでもう、奴に追われることもない。それだけは心底安堵した。
しかし、立ち会えないのは口惜しい。せめてとどめを刺す時だけ、こちらに寄こしてくれないものか。
ボロ布を追って、崩壊した家屋の向こうに消えていく兄の背を見つめながら、そう思った。
弟は、兄が再び姿を現すのを見守った。首だろうが、虫の息の奴だろうが構わない。片割れが土産を手に、喜び勇んで戻ってくる様を見届けたかった。
そんなことを考えながら、優しい目で見つめるその先で。
爆炎があがった。
「兄者!?」
弟は愕然とした。何が起こったのか分からなかった。
直後、二発の銃声を聞いた。
え、と振り返った頃には、膝から力が抜けていた。為す術なく地面を転がる。武器を取ろうとしたが、指一本動かせない。
それでも目だけを動かす。
確認したはずだった。紛れもなく、本物の足だった。
その瓦礫の下敷きになった足が、動いている。
――ああ。お前、最初からそこにいたのか。
弟は最後に兄を呼ぼうとした。
けれどそれも叶わなかった。彼の頭部からは、すでに脳が零れ落ちていた。
***
瓦礫からなんとか抜け出して、ニコラスは地面をのたうち回った。
耐えきれぬ悲鳴が、口から漏れ出して止まらない。
やっぱり撃ってきやがった。あの野郎、滅茶苦茶に撃ちやがって。
ニコラスは忍耐力を総動員し、右足の膝上に止血帯を巻いた。ちょっと動くだけで失神しそうなほど激しい痛みに襲われ、何度も外したくなった。
それでも鋼の精神で巻き、残った鎮痛剤を震える指からこぼしながら、何度も口に詰め込む。
目が覚めて、瓦礫の下敷きになっていることに気づいた。右足だけが出ていると分かった瞬間、この作戦を思いついた。
意識が朦朧とする寸前まで鎮痛剤を飲み、義足を外して、遠隔操作で動かした。
ジャックに散々操作が下手といわれて、一人隠れて特訓した成果が、こんな形で発揮されようとは。義足の油圧シリンダーが破損していたのも功を奏した。赤く染色されたオイルは、血に見える。
――今回ばかりはあなたの変態的な改造癖に感謝しますよ、先生。
アンドレイ医師の個人的な趣味もあり、新型義足には相変わらず変な機能が盛りだくさんだった。その中で、ニコラスが唯一希望した性能が、爆薬の搭載だった。
遠隔操作で義足を“右足を切断した自分”と見せかけて一方を誘き出し、もう一方を狙撃で仕留める。
右足を撃たれた時は、何度も悲鳴をあげそうになった。あまりの激痛で、足も反射で動いてしまい、バレないかヒヤヒヤした。
結果オーライだが、払った犠牲は大きかった。
鎮痛剤が効くのを待ちながら、ニコラスは双子の片割れをみた。
心臓と頭部、両方を撃ち抜いた。間違いなく殺しただろう。
もう一方も。
『ニコ、ニコ。聞こえる?』
一番聞きたかった声が聞こえた。ハウンドだ。
聞いているだけで痛みが和らぐ。ずっと繋いでいたかった。
「ああ。今、全部終わったよ――」
唐突に、鋭利な光が目に入ってきた。なにかが太陽光を反射している。
なにが?
顔を上げて、愕然とした。
双子の片割れが立っていた。全身に義足の破片を突き立てたまま、その破片が太陽光を反射して光っていた。
「弟者、弟者」
そう繰り返しながら、双子――兄は、弟の亡骸を通り過ぎ、こちらに近づいてきた。
歩くたび全身の傷から血が音を立てて噴き出す。刺さっていた義足の、足部に仕込んだワイヤーカッターが抜け、地面を転がる。
「弟者、すぐいくからな。必ず連れていくからな」
まずい。
ニコラスは起き上がろうと藻掻いた。しかし、義足はすでになく、右足もズタボロだ。
なんとか銃を構えようとするが、力が入らない。鎮痛剤の多用と出血のせいだろう。そうやって藻掻いているうちに、兄が追いついた。
腰刀の切っ先が降ってくる。
咄嗟に左腕を盾に、喉元を庇う。腰刀はあえなく腕を貫通し、こちらの喉元に迫る。
――瀕死のくせに、どっからこんな力が出るんだ……!
ニコラスは拳銃に手を伸ばそうとしたが、駄目だ。片腕だけでは圧し負ける。添えた右手を離した瞬間、喉を刃が貫く。
ニコラスは、死に物狂いで兄を押しのけようとした。
しかし兄は動かない。むしろニコラスの方が徐々に、徐々に競り負けていく。
切っ先が、喉に当たった。皮膚を裂き、血が伝っていく。
その時。
目の前を、風が奔った。
「ハウンド!」
彼女が、兄の喉に噛みついていた。腕が使えずとも、この牙があるといわんばかりに。
ハウンドは最後の力を振り絞り、兄の喉笛を嚙み切ろうとした。
しかし、彼女の方も限界だった。
兄は倒れなかった。ハウンドを掴み、振り払う。腰のものを抜き放ちながら。
「やめろ!!」
赤い飾り紐の短刀が、投じられる。
必殺の毒刃は、ハウンドの胸に吸い込まれていった。
「あああああああああああ!!」
ニコラスはついに兄を押しのけた。その体に刺さっていた義足の一部を引き抜いた。
皮肉にも、ニコラスが以前なんの役に立つんだと腐した、義足足部に仕込まれたドライバーだった。ドライバーは、本来の役割とはかけ離れた職務を、見事果たした。
ドライバーが喉を貫通する。
兄が血のあぶくを吹いた。それでもまだ倒れない。
ならばと拳銃を抜いた。狙いも定めず滅茶苦茶に弾を叩きこむ。こんな撃ち方をしたのは、初陣の時以来だった。
撃ち切って、空になった後も引き金を引き続けた。
兄は、とっくに絶命していた。
「ハウンド、ハウンド……!!」
拳銃を放り捨て、彼女のもとに這いよる。
赤の短刀は、彼女の胸に突き立っていた。それを抜き、彼女を背負う。首に回した彼女の手首を結び、右手だけで這う。
「ニコ……」
「大丈夫! 大丈夫だから!」
それは、もはや絶叫に近かった。
大丈夫な理由など、なに一つない。それでも言わなければ気が狂いそうだった。
「必ず助ける! 絶対助けてやる! 約束したろ!?」
かいた右手にガラス片が容赦なく突き刺さる。爪も皮もすべて剝がれたって構わなかった。
目でも腕でも心臓でもいい。神だろうが悪魔だろうがくれてやる。
この子が助けられるなら。
「ニコ、ごめんね」
ハウンドの声が小さくなっていく。背中の熱が、急速になくなっていく。
彼女が頭をこちらの首にすり寄せた。
「ごめん。死にたくない」
ニコラスは言葉を詰まらせた。代わりに涙があふれ出てくる。
渾身の力を込めて、指を地面に突き立て、必死に全身を引き寄せる。最初のところから、数メートルしか進んでいなかろうと構わなかった。
少しでも早く、彼女を援軍の元へ。今すぐ治療すれば、間に合う。間に合わせてみせる。
ついに、ハウンドの腕から力が抜けた。
背から滑り落ちる彼女を受け止めようとして、できず、辛うじて頭だけ抱え支えた。
深緑の瞳は、もはやニコラスを捉えていなかった。
あんなに輝いていた瞳の光が、消えていく。彼女が消えていく。
「空」
彼女はそう、ぽつりと漏らした。それから「ああ」と息を吐く。
「こんな色だったんだ」
そう言って、ハウンドは笑った。いつぞや見た、陽だまりが似合う穏やかな笑みで。
「綺麗な色」
ハウンドの全身から力が抜けた。瞼がおり、深緑が見えなくなる。
ニコラスはただ、少女を抱き――。
次の投稿日は、8月15日(金)です。
毎度、見通しが甘くて申し訳ない。
次回の12-16、その次のエピローグで完結です。エピローグは8月29日(金)投稿予定です。
完結後は、新作の準備ができるまで、Xの方でイベント(『ハウンド悪戯100日チャレンジ!』~ニコラスの表情筋を鍛えよう大作戦!~)を企画しています。
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作者:志摩ジュンヤ公式アカウント
@fkTiger(https://x.com/fkTiger)




