12-12
【これまでのあらすじ】
27番地とUSSAの戦闘が激化する中、軍は迷っていた。
通信妨害は回復せず、最高司令官である大統領は、トゥアハデ“銘あり”モリガンの襲撃を受け、指揮どころではない。
陸、海、空、海兵隊。各々が独自の判断で決断し、行動しはじめる。
27番地と協力して、非戦闘員の避難に協力する者。
静観しつつも、不測の事態に備える者。
USSAの指示を疑いつつも、既存の命令通りに動く者。
様々な思いが交錯した結果、空軍の一部部隊が避難中だった27番地の非戦闘員の車列を誤爆してしまう。
避難中で辛くも空爆を逃れたウィルは、負傷したルカと、彼を助けるために飛び出したジャックを守るため。友達を助けるために、ある行動をとる――。
【登場人物】
●ニコラス・ウェッブ:主人公
●ハウンド:ヒロイン、敵(USSA)に捕らわれていたが救出される
●クルテク:元CIA職員で、元USSA局員。二重スパイ。
【用語紹介】
●合衆国安全保障局(USSA)
12年前の同時多発テロ発生直後に急遽設立された大統領直属の情報機関で、年々発言力を増している。現長官はアーサー・フォレスター。
●『双頭の雄鹿』
USSAを牛耳る謎の組織。その正体はアメリカ建国黎明期の開拓者『ポパム植民地』住民の末裔。
マニフェストディスティニーを旗標に掲げ、国を正しい道に導くことを指標とする。政界、経済界、軍部、国内のあらゆる中枢に根を張り巡らしている。
名の由来は、ポパム植民地の最大後援者でもあったジョン・ポパムの紋章からもじったもの。
●失われたリスト
イラク戦争中、国連主導で行われた『石油食料交換プログラム』を隠れ蓑に世界各国の大物たち(国連のトップ、現職の大臣、資本家、宗教関係者など)がこぞって汚職を行った『バグダッドスキャンダル』に関与した人物らの名が記されたブラックリスト。
このリストを公表するだけで、世界各国代表の首がすげ変わるほど破壊力を持った代物。『双頭の雄鹿』の資金源と目される。
現時点、証拠はすべて抹消され、証人もハウンドとシンジ・ムラカミだけとなっている。
●絵本
ニコラスがハウンドから譲り受けた手書きの絵本。人間に連れ去られた黒い子狼が、5頭の犬たちの力を借りながら故郷を目指す物語が描かれている。作者はラルフ・コールマン。
炙り出しで謎の文がページの各所に仕込まれており、それらを解き明かすと『証人はブラックドッグ』、『リーダーはアーサー・フォレスター』となる。
●《トゥアハデ》
『双頭の雄鹿』の実働部隊。世界各国の特殊部隊から引き抜いた兵士で構成されており、長のフォレスターが自ら選んだ幹部“銘あり”が数人存在する。
現時点で確認されている“銘あり”は『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』、『モリガン』、『ディラン』、『スェウ』、オヴェドの七名。
現時点で『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』の三名は死亡。
また、なぜかオヴェドは名を与えられていない。
「O型だ、ありったけ持ってこい!」
駆け回る医療班の道を妨げないようにしつつ、ニコラスは班長に尋ねた。
「ルカの容態は」
「右腹部に一発、弾は貫通してる。出血量からしてデカい血管はやられてないはずだ。ただ内臓をどこまで損傷してるのかは分からん。応急処置ならできるが、オペとなるとアンドレイでないと……」
「脊髄の方は? 位置的にかなりまずい箇所だろ」
ハウンドの問いに、班長は「分からん」と首を振った。
「俺にできるのは、ともかくルカを死なせないことだ。予後についてはどうにもできん。こう言っちゃなんだが、帰還した負傷者数が少なかったことが、唯一の幸いだな。輸血があまりに余ってる。まあ、なんとかしてみせるさ」
そう言って、班長はルカを中心とした人だかりに消えていった。
その人だかりの近くで、凍りついたように立ち尽くしている子供たちの元へ、ニコラスは向かった。
ハウンドが先んじて、彼らの前に膝をつく。
「さっき、軍の方から連絡があった。ウィル、お前のプラカードは空軍にも見えたそうだ。だから空爆が止まった。よくやった」
ウィルはしゃくりあげながら首を振り続ける。
泣いてはいけないと思っているのか、唇を噛み締めて、殺しきれない嗚咽が彼の肩を一定間隔で跳ね上げていた。
地べたに座り込んだままのジャックが、ウィルの指先をそっと掴んだ。
ニコラスは少し考えあぐねて、ウィルの小さな頭を軽く抱きしめた。
「今はそうは思えなくてもいい。少なくとも今は、“自分は正しいことをやった”と思っておけ。どうせ後悔は必ずやってくる。自分の心を守るためにそう思うことは、何も悪いことじゃない」
そこでウィルは、限界を迎えた。唇を解放して、わんわんと泣きながらしがみついてきた。それを見てジャックも目に涙を浮かべ、頭突きするように突っ込んできた。
他の子らも、自分かハウンドにしがみついた。
ニコラスは思い知らされる。子供を戦闘に巻き込むということは、こういうことなのだ。
守ると言っておきながら、この体たらく。この子らは、今日のことを決して忘れないだろう。
そして自分は、この子らに消えぬ傷を植え付けた大人として生きていく。
「うん、よし」
唐突にハウンドが頷いた。
「飯にしよう」
「え」
「は?」
子供たちとニコラスの声が重なる。
「今のうちに飯にするぞ。店長、物資余ってます?」
「いやいや、こんな時に? ご飯なんて……」
「ならジャック。お前が断食したら、ルカは治るのか? お前が飯を我慢したら、誰も撃たれずに済むのか? 違うだろ」
ハウンドはきっぱりと言う。
「理不尽な目にあって、どうしようもなくなっても、今できることをやるしかないんだよ。お前、足折れてるんだから、いざというとき自力で這って逃げられるようにしろ。でなきゃ、お前を助けるために誰かがルカの二の舞になるかもしれんぞ」
ジャックが黙りこくる。目尻の雫がまたも膨れ上がった。
「同じこと繰り返したくないなら、飯を食え。飯食って体力回復しとけ。人間どんな時も腹は減るんだ。食ってなにが悪い。あと単純に私が腹減った。監禁中、碌なもん食ってなかったしな」
そう言って、店長の元へすたすた歩いていってしまった。
取り残された子らは、顔を見合わせ、こちらを見上げる。ニコラスは頭を掻いた。
「とりあえず、水分補給ぐらいはしておこう。飲める範囲でいいから。腹減った奴は遠慮せず食え。俺の知る範囲で、生き残った奴はどんな時にでも飯を食える奴だ」
そう言って、ニコラスは子供らの背を押した。
「――と、なると、軍は本格的に撤退したのか」
「ああ。今しがた、確認が取れた」
ハウンドに、バートンが頷く。
時刻は午後三時。かなり遅い昼食で人が集まった結果、作戦会議と情報共有が自然と行われていた。
「USSAの本性が明かされた今、特別軍事作戦の大義は失われた。作戦を継続する意味も利益もない。むしろ害悪だ。であれば軍が撤退するのは道理だ。セーリンは、最後まで粘っていたようだが……」
「賢明な判断だ。むしろこのどさくさに紛れて、特区外へ逃亡中の大量の犯罪者の検挙の応援に回った方がいい。すでにFBIも警察もパンク状態らしいしな」
「軍の記者会見については? 本物ですか」
ニコラスはサンドイッチを齧りながら口を挟んだ。バートンは長く息を吐いた。
「本物だ。四軍トップ全員が自分の首を賭けてすべてを公表した。私とお前の素性も含めてだ」
ニコラスはグリルドチーズサンドを皿に戻した。
バートンも同じ思いだったらしく、座る姿勢を正した。その辺の瓦礫に座っているだけなのに、さながら正装で式典に参列する将校のようだ。
「軍の公表については大統領も承認したうえでのことだ。本当は本人がやりたかったのだろうが……まだ厳しいようだからな」
「大統領は? 現在はどこに?」
「分からん。身の安全確保のため、居場所に関することは一応非公開になっている。だが中継は続いているようだ」
「ふぉひゅふぉお(どういうこと?)」
栗鼠のようにサンドイッチを頬に詰め込んだハウンドが、顔をしかめた。
「大統領の逃避行に記者数名が同行しているらしい。途切れ途切れではあるが、大統領は避難する傍ら、記者の質問に答えながら逃げているようだ」
「んぐ。悠長なことやってんな~……もぐ」
「一刻も早く国民の不安を解消すべきと判断したんだろう。現在のアメリカの様相には、国外からも強い懸念の声が上がっている。ここで保身を優先するようでは、この国の大統領は務まらんさ。政治家としても、勇敢さをアピールできるまたとない機会だ。
ところで……ヘルハウンド」
「ふぁい?」
「君、食べすぎじゃないか? 監禁明けだろう。空腹が続いた後の暴飲暴食は内臓を痛めるぞ。店長、こんなに食べさせて大丈夫なのか?」
「私もそう思ってはいるんだけどね……」と不安げに店長が苦笑する。
一応一人二枚ずつと決まっているのだが、子供たちがリタイアした分をハウンドの皿に盛っていくので、山がどんどん大きくなっている。
その山をハウンドは順調に崩しながら「なにか文句でも?」とばかりに眉をあげる。
「なに言ってんだ。食って力をつけるのは基本中の基本だろ。腹が減ってて戦えるか。第一、グリルドチーズとココアのタッグだぞ。
グリルドチーズのとろけたチーズに黒胡椒のアクセント、焦げたマヨネーズの香ばしさと酸味。それだけでもう素晴らしいが、口が塩気に飽きたところでココアを流し込んでリセットだ。
これで永久機関のできあがり。食が進まない方がいかれてるってもんさ」
「……ウェッブ、ちょっと取り上げた方がいいんじゃないか? 彼女、だいぶきてるぞ」
「すみません。こいつ、腹が減るといつもこんな感じなんで」
「少しでも調子が悪そうだったら言いますから」と言い聞かせて、ニコラスはバートンを言いくるめた。
ともあれ、なんとも丈夫な胃腸だ。三十路に突入した身としては、ハウンドの健啖さが羨ましい。
と、その時。建物が小さく揺れた。
天井から落ちてくる埃の量で、ニコラスは爆発箇所の距離を推し量る。
「国境線沿いあたりですかね」
「ああ。報告によれば、敵がついに我々の地下通路を発見し始めた。ヴァレーリ領方面の一か所を残して、残りはブービートラップごと片っ端から潰し回っているようだ」
「自ら退路を断つことになりませんか」
バートンはココアを啜りながら頷く。
「向こうはそのつもりのようだ。文字通りの死兵だな。ここから先は、トゥアハデと我々の一騎打ちになるだろう」
ニコラスは違和感を覚えた。
双子ならまだしも、一兵卒にまでそこまでの覚悟があるだろうか。自分たちの破滅が確定したからといって、道連れ覚悟で突撃してくるものだろうか。
なんにせよ、ある意味、朗報ともいえる。
「全部の地下道を破壊してからくるなら、多少時間ができますね。敵の到達予定時刻は?」
「一時間半、長くて二時間後といったところだろう。迎え撃つのは“例の場所”でいいんだな?」
「はい。散歩していた頃からかなり地形が変わってしまいましたが。今から覚えます」
「無理はするなよ。数十分でいいから休め」
「分かっていますよ」
そう言って、ニコラスは席を立った。
やってきたのは、27番地の中心地。かつてカフェ『BROWNIE』や自宅があった建物の残骸だ。
12階建てのビルはすでに倒壊し、5階ほどになってしまった。
これでも元の形状が残っているだけまだいい。周囲の光景の方がもっと悲惨だ。
隕石が落ちた、というより、いきなり市街地の底が抜けた感じだろうか。
大きな窪みに、焼け焦げた瓦礫と建物の残骸とが、ぐちゃぐちゃに搔き混ぜられて詰め込まれている。クレーターの中だけが別世界になったようだ。
地下道に沿って爆発が起きたせいか、天井部の地面と管壁が噴き飛んだ地下水道の跡だけが、クレータ内を塹壕よろしく這っている。
黒く腐った心臓を覆う血管のようだ。
瓦礫と、傾き崩れた建物と、吹き荒ぶ粉塵。そこに立っているだけで、気管と眼球の湿りが奪われていく、渇ききった空気。
あの時の光景のようだ。全体的に黄土色ではなく、真っ黒だが。
「やっぱり寝てないじゃん」
ハウンドがやってきた。毛布を小脇に、最後らしいサンドイッチを口に押し込んでいる。
「腹は膨れたか」
「ん~七割ってとこ」
「動けるのか」
「一時間以上もあるならね」
便利な身体だな、と思っていると、ハウンドは「よっこらせ」と胡坐をかいたこちらの上に腰を下ろした。
「おい……」
「ちょっと、もうちょい腕広げてよ。ほら左手、背中に回す」
「ここで寝る気か? ちゃんと横になった方が」
と言いかけて、ニコラスは口を噤んだ。ハウンドの深緑の瞳がぎろりと牙を剥いたからだ。
「頭なでなでは?」
「えっ」
彼女から聞いたことのない単語が飛び出して、ニコラスは思わず聞き返した。それがいけなかった。
ハウンドは猛烈に怒り出した。
「『えっ』、じゃない! こっちは一か月も拷問に耐えてきたんだぞ! いいから撫でろ! いっぱいなでなでして、寝るまでポンポンしろ!
あとこれ全部終わったら毎日美味いもんたらふく食わせろ、絵本ご飯! それからお風呂用意して、あがったら髪乾かせ、そっから寝るまでまたポンポンだ! 少なくとも一か月、いや一年はやれ!
そんぐらいいいよな!? いいだろ!? でないと許さんぞっ!!
墓石に『甲斐性なし』って刻んでやる! ニコがちょうど寝たタイミングで枕引っこ抜く悪戯、一生やってやる!! それでもいいんだな!?」
「わ、わかったわかった。俺が悪かった」
ニコラスはひとまず、大急ぎでハウンドの頭を撫でることにした。
髪に触れた瞬間、汚れてささくれだった自分の手に彼女の髪が絡んで引っかかり、慌てて撫でる力を弱める。
それが不満だったのか、ハウンドは自ら頭をぐいぐい掌に押し付けてきた。
「髪引っこ抜けるぞ」
「いいもん、そのぐらい。どうせずっと洗ってなかったし。撫でないなら臭いつけてやる。おらっ」
「いや俺も今、充分臭いから意味ないと思うんだが……」
まあいいか。
ニコラスはハウンドが持ってきた毛布で彼女を包み、抱き直す。彼女の頭に顔を摺り寄せると、彼女もおずおずと胸に顔を摺り寄せた。
あんなに大騒ぎしたくせに、こうなった途端しおらしくなるのが不可思議で、愛おしい。
なにより、彼女だってとっくに限界のはずなのだ。トゥアハデの連中が監禁中、彼女を安眠させたはずがない。
そんな状況でも、やはり俺を休ませることを優先するのだ。
まったく、この子は。
「ありがとな。これ覚えたら、ちゃんと寝るから」
彼女なりの気遣いに謝意を示すと、ハウンドは毛布の隙間からむうっと唇を尖らせた。
「そういうのは気づいても言わない方がスマートだと思う」
「気づいたくせに礼も言わずに平然としてる方がスマートじゃない」
「そういうんじゃなくて……まあいいか。そっちのがニコらしいや」
そう言って、ハウンドは完全に身を預けてきた。とろんと蕩けはじめた目が億劫そうに瞬く。
ニコラスはハウンドの背を一定のリズムでトン、トン、と指先で叩いた。それに応じて、ハウンドはこちらの胸元に顔をうずめていく。
「私が選んだことだからさ。みんなの前じゃ、口が裂けても言えないんだけどさ」
ぼそぼそ寝言のように呟く囁きに、耳を澄ます。
「ごめん。もう二度とやりたくない」
ニコラスは、ハウンドを強く抱きしめ直した。
「ああ、俺も。すまん。あれ以外の選択肢を用意してやれなくて」
「ニコのせいじゃない……むしろ、あの状況からよくやってくれた方だし」
「そうだな。けどもう二度と繰り返しはしない」
彼女の額に、頬をすり寄せて囁く。
「ぎりぎりまで覚えておきたいんだ。先に寝てろ」
「ちゃんと休むんだぞ……」
「ああ」
それきり囁きは消え、小さな寝息に代わっていく。けれど、最後に一言。
「ラルフの遺品……あとで、取りにいかないと」
それきり、ハウンドは眠ってしまった。あの時の面影を残す幼い寝顔をしばし眺め、その頬を撫でる。
ニコラスは真っ黒に焼けた街に目を戻した。
金色の眼を一度閉じ、刮目する。すべてを焼き付けるために。
***
「なあ、本当にこんな木箱が役に立つのか……!?」
「だからそうだって言ってるだろ!? そいつはラルフ・コールマンの遺品だ、あの雌犬が死ぬほど欲しがってた証拠品なんだよっ」
物分かりの悪い同僚に苛立ちながら、そのトゥアハデ兵は怯えていた。
ブラックドッグの抹殺、27番地住民の鏖殺。それが自分たちに下された、最後の命令だ。逆らう選択肢はない。存在しない。
だが、だからといって、それに諾々と従える者が、どれだけいるだろうか。死ぬと分かっていても、最後まで生にしがみつきたいのが人間じゃないのか。
「とっととこのタワーからずらかるぞ。少なくとも証拠品が一つでもあれば、政府の方から保護してくれる。くそっ、あのタペストリーがありゃ、とっくにおさらばできたってのに。あのクソジジイが……!」
悪態を吐き散らしながら、トゥアハデ兵は走る。
“銘あり”の連中に気づかれていないだろうか。ほとんどの連中はすでに、27番地内に入った。
焼き尽くされたあの窪み一帯は闘技場だ。互いの生存を懸け、一方が死滅するまで殺戮が繰り返される。まっぴらごめんだ。
そう思いながら、通路の角を曲がった瞬間だった。
トゥアハデ兵は困惑を隠せなかった。
人はもう、残っていないはずだった。特に、この大男は。真っ先に逃げ出したと聞いていたはずなのに、なぜ。
「Является ли эта деревянная коробка той реликвией, о которой идет речь?(その箱、例の遺品だな?)」
「は?」
聞き返した次の瞬間、隣の同僚の頭部が消し飛んでいた。跡形もなく、頭だけ喰いちぎられたように。
大男の右手に拳銃が握られていた。
聞いたことがある。ロシア軍の特殊部隊で、12.7mm口径という馬鹿が考えたみたいな大口径回転式拳銃を、使う兵士がいると。
当然、強烈すぎる反動で実戦での使用は現実的ではないと言われていた。
目の前の男を除けば。
「Поставьте этот ящик у своих ног.(箱を足元に置け)」
言葉はまったく分からなかったが、意味は分かった。
トゥアハデ兵は木箱を置こうとした。が、膝が笑って上手くしゃがめなかった。ゆえに失格と判断されたのだろう。
大男の蹴りが、目にも止まらぬ速さで膝を直撃した。
フライドチキンの骨のようにあっさり折られ、トゥアハデ兵は絶叫した。折れた骨が肉を突き抜けて飛び出ていた。
木箱は手から転がり、大男の足元に転がる。
床に這いつくばったトゥアハデ兵は、大男の後ろに部下が数人控えていたことにようやく気づいた。
男の巨躯に隠れていた。
大男が木箱を拾い上げる間に、トゥアハデ兵は蜂の巣にされた。
「相変わらず殺し方に品がないねぇ」
フィオリーノはそう言いつつも、原形を留めぬほど顔面を破壊された兵士に目もくれず、先を進んだ。
その後ろをカルロが、数歩遅れて、ルスランも部下とともに続く。
「木箱に傷は?」
「ない」
「中身は?」
「……ない」
ルスランは、木箱の中身を見せながら言った。そこに物が入っていた形跡はない。
フィオリーノは嘆息した。
ラルフ・コールマン、あれほど入念に練られた告発を残す男だ。やはり木箱の中に新たな証拠品を隠すような真似はしないか。
この木箱は、ヘルハウンドへの交渉材料にしか使えないだろう。
「となると、使えそうなのはタペストリーだけど……」
フィオリーノは目当ての部屋に向かった。
一時は奪われたとはいえ、このセントラルタワーの使用権原は五大マフィア各当主にある。これまで記録された監視カメラ映像を閲覧するなど造作もない。
連中がタペストリーを保管していた場所は分かっている。ヘルハウンドが監禁されていたフロアの保管室だ。
これまで得た情報によれば、タペストリーはオーハンゼー含む歴代の先住民がずっと隠匿してきた。
トゥアハデの手に渡ったのは、この特別軍事作戦が開始される前後といったところだろう。分析もろくにできていまい。
だからこそ、ヘルハウンドを介して聞き出そうと、同フロアに保管していたのかもしれない。今となってはどうでもいいことだが。
目的の部屋に辿り着く。
フィオリーノは部下の安全確認も待たず踏み込んだ。カルロも止めなかった。
予想はついていた。
オーハンゼーが壁にもたれかかったまま、死にかけていた。
その足元には、炭化した布きれが散らばっている。
「馬鹿だねぇ。今さら証拠隠滅とか意味ないでしょ」
タペストリーの残骸を踏みしめて、フィオリーノは歩み寄った。
オーハンゼーがゆっくりと目を開けた。腹と胸に一発ずつ。出血量からしてかなりの時間が経っているだろう。
「お主のような、輩が、二度と利用できぬよう、するためだ。忌まわしき歴史とはいえ、先祖が遺し、受け継いできたもの……災禍の種は、儂が、持っていく」
「ふぅん。ならトゥアハデに渡す前に焼いておけばよかったのにね」
「返す言葉も、ない……」
オーハンゼーの傍らに膝をついたカルロが首を振った。もうじきこの男は死ぬ。
その時、ルスランが部屋の入口に立った。奴も予想していたらしく、オーハンゼーの末路を見ても、眉一つ動かさなかった。
オーハンゼーの目が、ルスランの手に留まる。
「箱は、取り戻したか」
安堵したように、息を吐く。呼気と一緒に、血もごぽりと溢れかえる。
「それは、あの娘の、心そのもの。欲しくば、大事に持っておくことだな」
それからオーハンゼーは、なにかを呟いた。聞き取れなかったが、どうせ娘か孫の名前だろう。
犯罪者になる素養も気概もない、ただそれが運命だと受け入れ飲み下しただけの、どこまでも平凡な男だった。
そうして、オーハンゼーは事切れた。最後に「息子」と言ったような気がするが、どうでもいいことだ。
「で、これからどうする」
ルスランが尋ねた。フィオリーノは意味を図りかねて振り返る。
「どうもこうも、お前ら27番地に行くんだろ? あんなどデカい土産なんか残しちゃってさ。ほんとお前ら戦争が好きだねぇ」
「違う。お前はどうするのかと聞いている」
フィオリーノはまじまじと見てしまった。この男が、ヘルハウンド以外の他人の動向に興味を持つとは。
――これも君の影響かねぇ。
つくづく魔性の女だ、ブラックドッグ。
俺もこいつも、カルロすら、どいつもこいつもただ一人の少女に搔き乱され、振り回されている。それすら良しとしている節がある。
彼女は俺を「他人の心に土足で踏み込んできやがる」なんて言ったが、俺からすればこっちの台詞だ。
他人の心にひょっこり入ってきて、いきなり嗅ぎ当ててきたと思えば、あっさり去っていく。ちょっと待てよと肩を掴めば、「なにか?」と本気で怪訝な顔をするのだ。
質が悪いったらない。
フィオリーノは仮面を被った。彼女が被っていた素人丸出しの拙いものでなく、完璧な笑みの仮面で。
「いつものやり方でいかせてもらうさ。幕は上がり、役者もとっくに出揃った。あとは舞台の袖から出番を待つだけさ」
さてはて、あのクルテクとかいう男。どこまでやれるだろうか。
大統領を身を挺して守った英雄となるか、はたまた世にごまんと溢れる“灰色の男”として終わるのか。
――ま、どっちにしても、俺の配役は変わらないけどね。
フィオリーノは自らの出番を整えるべく、カルロを呼びつけた。
***
一つだけ、後悔していることがある。
クルテクは無礼を承知で、大統領に怒鳴った。振りが半分、もう半分は本気の焦りだ。
「大統領! まだ移動できないんですか!?」
「ちょっと待ってくれ。……といった経緯で、今日をもって私は、合衆国安全保障局(USSA)の解体を決断しました。当局の暴走に始まり、特別軍事作戦に突然の特区解体と、国民の皆様には大変ご迷惑とご心配をおかけしました。
だが私は今ここで生きている。皆さんにこうして語りかけています――」
大統領は汗を顎から垂らしながらも、冷静にカメラの前でスピーチを続ける。原稿もない、弾丸が飛び交う中でのこの振る舞いには、クルテクも驚いた。
カメラの向こうの群衆もまた、建国以来初の黒人大統領、以外の魅力を再発見していることだろう。
だが関心ばかりもしてられない。大統領の逃走経路がまだ確保できていなかった。
このような事態に備えて、上院下院双方の議事堂へ繋がる地下鉄が、非常時の際の避難ルートとして確保されている。
議員や議会関係者・職員しか使えない……はずだったが、こうして阻止されているということは、トゥアハデが何かしらの手を回しているのだろう。
なにより、来るはずの救援が一向に来ない。
この場にいる報道陣に箝口令をしいたうえで、カメラの前では「大統領は安全な経路で移動中」と伝えているが、実際は全員が議事堂内に留め置かれたまま、脱出すらできていなかった。
先ほどから記者のマイクに拾われぬ程度に、警備員が「対襲撃部隊は何をしている!?」と小声で怒鳴っている。万が一の際はと頼んでいたデルタフォースも来ていない。
なにか、彼らですら対応できない、不測の事態が発生しているのだろう。
そう思った矢先、その命綱の彼らから連絡がきた。ショートメールが一通、内容は極めて短く、「カメラ D-3」とだけあった。
それを見たクルテクは、前方で、自分と同じく座席に隠れて銃撃を凌いでいる警備員の、尻ポケットからIDを拝借した。
近くのPCから議事堂の管理アクセスサーバーへログインし、監視カメラ映像を確認する。
それを見るなり、クルテクは舌打ちした。道理でデルタもCATも来れないはずだ。
地下鉄へと通じる廊下の途中で、即席のバリケードが組まれている。そのバリケードの足元に、八人の男女が頭に跪いていた。
警備員や、校外学習中であっただろう少女も含まれている。
トゥアハデは物理的な壁の前に、市民という肉盾を置いていたのだ。発砲をためらうCATやデルタを差し置いて、自分たちはバリケード越しに人質の頭上から遠慮なく撃っている。
廊下は幅数メートルの直線。身を隠す場所となると、廊下に面した部屋ぐらいしかない。そのうえ人質を間に置かれたのでは、突入したくともできまい。
突破口を開く必要がある。
「おい、もう外に出られるか? 敵は議事堂外へ押し返したよな」
クルテクの問いに、警備員は首を振る。
「まだ駄目だ。出てすぐの廊下で踏みとどまってやがる。あんな状況じゃ、大統領を行かせられない」
「大統領じゃない。僕が行く。議事堂には、非常時に備えた警備員専用の極秘ルートがあるだろう。案内してくれ」
「それは……」
「知ってるよ。君の権限じゃ利用許可がおりないか、もしくはルートを出た先で敵が待ち構えているか、あるいは両方か。だから今、こうして外部からの救援に頼らざるを得ないんだろ? 使えるんだったら大統領をとっくに逃がしているはずだ」
警備員は言葉もなく項垂れた。クルテクはログインしたままのPCをカーペット上で滑らせた。
「この廊下のバリケードに、一番近い部屋へ誘導してくれ。僕が行く」
「待ってください、ミスター。それは」
ローズ嬢が腕を掴もうとした。それをするりとかわして、クルテクは睨み返す。
「大統領への交渉は成功した。君たちが今すべきことは、一刻も早く特区へ戻り、負傷者の手当てに全力を挙げることだ。もうじきこの戦争は終わる。今のうちから医療体制を整えておかないと、助かる人間も助からないぞ」
「言われずとも分かっている」
アンドレイがローズ嬢の肩を掴んだ。指がわずかに食い込んでいる。まったく、どいつもこいつも。
クルテクは、警備員の誘導に従って、議事堂の壁にあけられた回廊に入り込んだ。
別れの言葉も言わなかった。彼らにも自分にも、必要ないと判断した。
密室の回廊を進みながら、クルテクは考えた。
一つだけ、後悔していることがある。
ラルフ・コールマンに、ヘルハウンドを預けたことを。
当時のCIAは、USSAとの組織を賭けた水面下の戦争に手いっぱいで、『失われたリスト』を巡るUSSAの暗躍を無視した。
国家とCIAの存亡に無関係だと判断したのだ。その結果がこれだ。
もし、CIAがあの件に全面的に関与していれば。
もし、ヘルハウンドをCIAが保護していれば。
もし、ラルフ・コールマンら五人の兵士に丸投げした任務に、もっと自分が関わっていれば。
……いいや。一番許してはならないのは、彼ら五人の棺が輸送機から大西洋に投げ込まれた時。
「国家のため」と嘯いたUSSA局員の言葉を、飲み込んで納得するふりをした、自分だ。
――分かっていただろう。コールマンは、僕よりずっと“特別”に飢えていた。
“特別”を一度も与えられなかった男。親を知らず、兄弟も友人と呼べる者もいなかった。家族といえば、ベトナム戦争が奪っていった子供の名を狼につけて飼っていた盲目の老婆と、白人の子と憎みながら育てた老人。
あの二人とて、彼らなりにコールマンを愛しただろう。けれどコールマンの“特別”への渇望が消えることはなかった。
そんな時に、ヘルハウンドと出会ってしまった。
身寄りのない、一人ぼっちの少女。
自分とよく似た存在が、自分だけを頼り、自分だけを選んだ。
何を犠牲にしてでも守ろうとするに決まっているだろう、そんなの。
取り上げるべきだった。
CIAをヘルハウンドの管轄とし、コールマンと彼女との接触は最小限にすべきだった。いっそコールマンを彼女専属の交渉人とし、彼女とともに安全な後方で任務に従事させればよかった。
当時からUSSAのコールマンへの異常ともいえる執着には、自分も勘付いていた。
CIAはその真意を探るべく、コールマンをはじめデルタフォースへのUSSAの強い関与を、あえて黙認した節があった。
自分も、コールマンのことは気に入らなかった。
優れた身体能力と頭脳をもち、アメリカ最強の部隊の兵士として選ばれておきながら、どこか満足していない様子にも。
心にぽっかり穴を抱えたまま、へらへら笑っているその姿勢も、気に食わなかった。
同族嫌悪、嫉妬。そんなつまらぬ感情が、コールマンと彼の仲間を殺した。
――バリケードと人質の距離が結構あるな。
回廊を抜けたクルテクは、バリケードに一番近い部屋から様子を伺った。
バリケードと人質の間に距離があるということは、敵からも自分の姿が視認しやすいということだ。
人質に近づく人間に気づきやすいよう、絶妙な距離で置いていたのだろう。相変わらず嫌なことをする。
止むを得まい。
クルテクは部屋のドアに隠れて、バリケードの反対側に手を振った。敵はまだ、この部屋にも人間がいるとは思っていない。
いるはずがない場所にまで撃ってくることはないはずだ。
しばらくして、バリケードから50メートル離れたドアの足元に、コンバットグローブをした手が親指を立てたまま、さっと現れて消えた。
クルテクは隙を見て、慎重に部屋を飛び出した。バリケードすれすれに移動しながら、人質の背後に回る。
最初の解放者は、列の左端から二番目の、警備員の女性に決めた。荒事に比較的慣れているし、冷静な対応を期待できる。
クルテクはバリケードの麓から手だけ伸ばして、警備員の両手首と両足首の拘束バンドを切った。
「(解放された後も、合図があるまで動かないで。必ず助ける。全員にそう伝えて)」
警備員は、顔を僅かにこちらへ向けながら、何度も頷いた。
敵の動向を見ながら隣の男性の手首に素早く右手を伸ばし、片手だけで拘束バンドを切った。
短くこちらの伝言を耳打ちすると、ナイフを男性の手に握らせた
男性は、震えるナイフの切っ先で自分の足首のを切ると、隣の人質に手を伸ばす。拘束バンドを切ったら、ナイフを握らせる。そしてまた隣へ。
解放された人質たちは、怯えながらも捕まっているふりをした。
クルテクは、人質の配置の幸運さに感謝した。
警備員を除く女性と子供が、列の両端にいるのだ。これなら彼女らを最後に解放できる。
普通なら、女子供を真っ先に開放すべきと思うだろう。だが今回の場合は悪手だ。
特に子供は駄目だ。パニックのあまり騒いだり突発的な行動をとりかねない。大人ですら平静でいられないのだから、当然だ。
だからクルテクは、真っ先に左隣の少女を解放しようとした警備員に、待ったをかけた。
また全員を解放してからよーいドンで逃げられればいいが、途中で気づかれる可能性も十分ある。
女子供はいざとなれば抱えて走ればいいが、男性はそうもいかない。解放した彼らには、万が一の際の力仕事をやってもらうつもりだった。
彼らもそれを理解したのだろう。男性たちは両端の、議員秘書らしき女性と少女を、目だけでチラチラ見始めた。
しかし、幸運とは長くは続かない。
少女が泣き叫び始めたのだ。自分が後回しにされたことがショックだったのだろう。幼い彼女に、こちらの作戦の意図が伝わるはずもない。
拘束されたまま身をよじり、大声で叫びだす。
八人の人質のうち、四人目が自身の足首のを切るのに、手間取っている時だった。
クルテクは急いで少女を抱えて、バリケードの影に引きずり込んだ。だが遅かった。
バリケードの上からこちらを覗き込んだ敵が声をあげる。気づかれた。
クルテクは速攻で撃った。
顔面をぶち抜かれ、敵兵がバリケードの向こうに消える。だが増えて戻ってきた。
数人が身を乗り出し、銃口を向ける。が、デルタやCATの狙撃手が見逃さない。身を乗り出した敵を次々に撃ち抜いていく。
「部屋まで走れ、走るんだ!」
解放された人質が、弾かれたように駆け出した。解放しきれなかった人質の両脇に手を差し込み、部屋まで引きずっていく。
まずは右端の女性を、それからその隣の老議員、壮年の官僚。
クルテクはその間、パニックで暴れる少女に覆いかぶさった。あの時の彼女より大きかった。
この国最大の立法府を守っているとだけあって、警備員は勇敢だった。銃も取り上げられて丸腰なのに、部屋からこちらに戻ってこようとした。
だが敵の銃撃が彼女を阻む。
さっきまでクルテクが隠れていたドアは穴だらけになった。『その部屋には人がいないはず』という魔法は解けてしまった。
その隙にデルタやCATがじりじり距離を詰めてくる。煙幕弾を撃って、敵の視界を遮ろうとするが、クルテクの位置はすでに敵にバレている。
ついに一発の弾が、クルテクの右足首を撃ち抜いた。
続いて左肩、腰。
クルテクはそれでも撃ち返す。
まだ死ねない。
コールマンたちを、遺族の元へ帰していない。彼女にも、言いたいことがたくさんある。
こんなところでくたばってたまるか。
クルテクは、血を浴びて少女が硬直したのを見逃さなかった。素早く彼女の足首に手を伸ばし、拘束バンドを切る。
「あの部屋が見えるな!? 走れ! 彼女が助けてくれる!」
クルテクは、少女を警備員の元へ押し出した。警備員が飛びこむ少女を抱きとめたのを確認し、クルテクは叫んだ。
「人質全員解放!! 突入しろ!!」
言うまでもなかった。救援隊は、すでにすぐそこにいた。近づいてくる軍靴の音を、これほど歓喜をもって聞いたことはない。
煙幕に覆われる中、誰かがクルテクの両腕を掴み、近場の部屋に引きずってくれた。
止血帯を巻こうとする兵士の手を、クルテクは押さえた。
「自分でやる。行ってくれ。大統領が、待ってる」
兵士たちの目が、迷うように揺れた。
だがそれも数秒。彼らは「必ず迎えにくる」と肩を叩いて、部屋を飛び出していった。
クルテクは、遠のいていく意識を、止血帯を力いっぱい巻くことで引き戻す。激痛に呻きながら、血で滑る止血帯を何度も握り直した。
これで、多少は彼女に合わす顔ができただろうか。
――いや、僕一人が流した血じゃ、到底足りないか。
そう思った、刹那。
クルテクは突き飛ばされたように倒れた。
呼吸ができず、身をよじろうにも、これまでの出血で身体が動かない。
溺れるようなごぼごぼとした音で、喉を撃たれたのだと気づいた。
見上げた先、回廊に人影が立っていた。
赤い髪の女。トゥアハデ“銘あり”のモリガンだった。魔女め。
くそ……。
クルテクは、倒れこんだままモリガンを睨んだ。モリガンが歩み寄ってくる。
最後に、あの女の嗤い顔を見ずに済んでよかったと、クルテクは思った。
***
「やっと死んだわ。モグラ風情がしぶといこと。そうは思わない? オヴェド」
モリガンは、回廊に佇んだままの彼に、語りかけた。
トゥアハデ兵と同じ格好の彼の覆面の下は、すでにあの泣き黒子の優男ではない。だが彼が『オヴェド』であることに変わりはない。
返事をしない彼にしびれを切らして、モリガンはクルテクの死体を足で小突いた。
「ねえ、これ。撮って彼女に送ってあげたらいいんじゃない? あの娘、まだ戦っているんでしょう」
「……それも悪くありませんが」
パン、と乾いた音が一発。
モリガンは虚を突かれた。胸元に持っていった手が、赤く染まる。
撃たれた。彼に?
モリガンは訳が分からず倒れこんだ。
倒れたこちらを見下ろす彼の目を見て、モリガンはようやく彼の意図を悟った。
「ずるいわ。愉しみを、独り占めするつもりなのね」
手足を投げ出して拗ねてみせる。もう表情も思考もまとまらないが、彼は笑ったようだった。
「それもそうですが、」
彼が懐からペットボトルを取り出す。その色を見て、モリガンは蒼褪めた。
安っぽい粉末エナジードリンクを溶かしたような、薄いピンクの液体。ガソリンだ。
彼は、それをこちらの顔面に振りかけた。
「あなたに飽きました」
モリガンの瞳に、ライターを放る彼の姿が映る。それが彼女が見た、最後の光景だった。
一瞬で火だるまになる。髪は一瞬で焼き消え、気化した高温のガソリンが喉を焼き、すぐ呼吸ができなくなった。
顔が、私の顔が焼けていく。
本来の自分の顔ではないということも忘れて、モリガンは顔を搔きむしった。こそげた炭化した皮膚が、同じく炭化した指先にこびりつく。
肉どころか骨すら見えているのに、モリガンは掻きむしるのを止められなかった。
そうして彼女が偽りの顔を破壊しつくしたころ、モリガンは動かなくなった。
作動したスプリンクラーが、すぐに火を鎮火した。
見るに堪えないモリガンの顔面を晒し、クルテクの口元の血を洗い流していく。
ずぶ濡れになった男はそれを見届けると、回廊の中へ消えた。
***
ニコラスは、頭を撫でられて目を覚ました。
「起きろ、ニコ。お目覚めの時間だぞ~」
髪をわしゃわしゃ掻き混ぜるハウンドに「ああ」と返し、しばらく彼女の好きにさせる。触れてくれることが嬉しかったのもあるが、単純に眠かった。
たった三十分の睡眠だったが、丸一日寝ていた気分だ。
ニコラスはこのままでいたい欲求を抑え込み、なんとか立ち上がった。両手をあげて、大きく伸びをする。
「ごめん。痺れた?」
「別にいい。眠れたか」
「お陰様で」
ハウンドもまた屈伸運動を始めた。動きに支障はなく、ちゃんと休めたようだ。
見渡せば、自分たちを取り囲むように、黒煙が何筋も上がっている。これで敵もほぼすべての地下通路を破壊したことだろう。決戦の狼煙というわけだ。
やはり、あの日を思い出す。相棒は違えど、やることに変わりはない。
「ごめんね、巻き込んで」
ハウンドが呟くように言った。ニオイで読まれたか。ニコラスは苦笑した。
「出会ったことを後悔しなかったといえば、嘘になる。けど俺は今がいい。本心だ」
「その結果がこれでも?」
「お前に出会わなかった結末よりは。俺は、今の俺がいい」
そこまで言って、ニコラスはハッとした。
ああ、そうか。ラルフ・コールマンが遺したあの絵本は――。
「ニコ?」
どうしたと顔を覗き込んでくる彼女に、ニコラスは笑った。
「やっと気づいたんだ、あの絵本の本当の仕掛け。お前、本当にコールマン軍曹から愛されてたんだな」
意図を図りかねて、ハウンドがますます首を捻る。彼女には悪いが、これは墓場まで持っていった方がいいだろう。
ラルフ・コールマンは、来たる未来に備える武器として、あの絵本を遺した。だが、それだけではない。
あれは脅迫だ。ただ一人の少女を救えと促す、使命という名の脅迫。
本当の意味で読みぬいた者を、強制的に騒動に巻き込んで、ハウンドの味方となるよう仕向けるための舞台装置。それがあの絵本だ。
だからイーリスに絵本を託した。
さながら選定の剣を授ける者を見定める魔術師のように。読む者が、ハウンドを救うに値するかどうか見極めるよう、頼んで託したのだろう。
ラルフ・コールマンはきっと、こう言いたかったのだ。
『ヒーローになれ。ただ一人だけのための、英雄となれ』
「ああ、なるよ。なってやる」
ニコラスは一人、誰にともなく呟いた。
蚊帳の外に置かれたハウンドが、ジトっとした目で口元をひん曲げる。
「な~に勝手に自己完結してるんですか~? 私には言えないやつですか~、男だけの話ってやつ~?」
「そうじゃない。作者からのメッセージは読者宛だから。それだけの話だ」
「ふ~ん。他人の秘密は話すまで迫るくせに、自分の秘密は話さないんだ?」
「おい、迫ってないぞ。待ってるだけだ」
「ええ、自覚なかったの? ニコの無言って、どっからどう見ても圧かけてるようにしか見えないんだけど」
「……そうなのか?」
「相方が鼻が利く奴でよかったね、ほんと」
と、そこで微かな震動と爆音が聞こえた。
何筋もあがる黒煙にまた一つ、新たな黒煙が加わる。最後の地下通路が破壊された。敵が来る。
「行こうか、ニコ」
「ああ。仕事の時間だ」
ニコラスたちは行動を開始した。代行屋『ブラックドッグ』、最後の仕事がはじまる。
次の投稿日は、7月4日(金)です。




