12-10
投稿日時ミスってました。17日(金)じゃなくて、16日(金)です。
本当に申し訳ない。
【これまでのあらすじ】
ハウンド奪還作戦は成功した。
ニコラスは、デルタフォースや、ジャック・ウィルたちの機転に助けられながら、無事ハウンドとともに、タワーから脱出を果たす。
脱出方法は、かなり難ありであったが……。
一方のフォレスターはまだ諦めていなかった。望みをすべて絶たれたと知ったフォレスターは、最後の凶行にでる。
戦闘は、いよいよ混沌さを増していき――。
【登場人物】
●ニコラス・ウェッブ:主人公
●ハウンド:ヒロイン、敵(USSA)に捕らわれている
●ケータ:元特区警察の警官。近接格闘術に優れるが、臆病で小心者。
●アレサ:ミチピシ一家当主の孫。モーターサイクルギャング『ブラックヘキサグラム』とは旧知の仲。
【用語紹介】
●合衆国安全保障局(USSA)
12年前の同時多発テロ発生直後に急遽設立された大統領直属の情報機関で、年々発言力を増している。現長官はアーサー・フォレスター。
●『双頭の雄鹿』
USSAを牛耳る謎の組織。その正体はアメリカ建国黎明期の開拓者『ポパム植民地』住民の末裔。
マニフェストディスティニーを旗標に掲げ、国を正しい道に導くことを指標とする。政界、経済界、軍部、国内のあらゆる中枢に根を張り巡らしている。
名の由来は、ポパム植民地の最大後援者でもあったジョン・ポパムの紋章からもじったもの。
●失われたリスト
イラク戦争中、国連主導で行われた『石油食料交換プログラム』を隠れ蓑に世界各国の大物たち(国連のトップ、現職の大臣、資本家、宗教関係者など)がこぞって汚職を行った『バグダッドスキャンダル』に関与した人物らの名が記されたブラックリスト。
このリストを公表するだけで、世界各国代表の首がすげ変わるほど破壊力を持った代物。『双頭の雄鹿』の資金源と目される。
現時点、証拠はすべて抹消され、証人もハウンドとシンジ・ムラカミだけとなっている。
●絵本
ニコラスがハウンドから譲り受けた手書きの絵本。人間に連れ去られた黒い子狼が、5頭の犬たちの力を借りながら故郷を目指す物語が描かれている。作者はラルフ・コールマン。
炙り出しで謎の文がページの各所に仕込まれており、それらを解き明かすと『証人はブラックドッグ』、『リーダーはアーサー・フォレスター』となる。
●《トゥアハデ》
『双頭の雄鹿』の実働部隊。世界各国の特殊部隊から引き抜いた兵士で構成されており、長のフォレスターが自ら選んだ幹部“銘あり”が数人存在する。
現時点で確認されている“銘あり”は『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』、『モリガン』、『ディラン』、『スェウ』、オヴェドの七名。
現時点で『キッホル』、『クロム・クルアハ』、『ヌアザ』の三名は死亡。
また、なぜかオヴェドは名を与えられていない。
どうすればいいのか、大体の方針は立っていた。
アーサー・フォレスターは、高度を上げていくヘリの中で一人俯いていた。
視界の端で、向かいの護衛二人が気まずさから、外に注意を向けている風で、こちらから目を背けているのが確認できる。
しかしフォレスターは不快に思っても、動じはしない。
自分は今、間違いなく破滅の一途を辿っている。
世論は、否。今や、世界中が自分に注目している。
自ら口にしてしまった己が正体と、醜態。忌々しい犬どもの策にまんまと引っかかった自分を、世界中が嗤い、怒り、罵っている。
それでもまだ、自分は終わっていない。破滅したとて、終末へのシナリオ選択の道は残されている。
そのための保険は、これまでに数多、入念に仕込んできた。
――大統領さえ説得できれば。
ゆえに、フォレスターは待っていた。救世主からの直接連絡を。
自らが救国の救世主になろうとしていたことは、すでに記憶から消去していた。
そんな都合の悪い記憶は必要ない。自身の視野と選択を狭めるだけの害悪でしかない。
そう、自分は生き残るための道を、懸命に探してもがいているに過ぎない。人間なら誰しもやることだ。
この生命本能を、誰が咎められようか。
そんな矢先、待ち望んだ電話がきた。フォレスターはワンコールが終わるよりも早く着信にでた。
「私です。大統領、現在出回っているデマについてですが」
『あなたでも追い詰められると、そんな陳腐な台詞しか出てこなくてなるんですね』
その瞬間、フォレスターは自身のシナリオが強制選択されたことを悟った。
その男は、大統領ではなかった。
「貴様……」
『大統領なら目の前にいらっしゃいますよ。議会の皆様もです。言い残すことがあるならどうぞ』
二重スパイ、クルテクはぬけぬけと宣った。
『あなたがこちらへ寄越した“銘あり”モリガンは、議会警察がすでに拘束済みです。ミス・ローズが大胆なことを考えましてね。閉会してない議会に無理矢理のりこんだ挙句、事の顛末をプレゼンし始めまして。危うく摘み出されるところでしたよ、あなたが盛大な墓穴を掘らなければ』
そう言って、クルテクの言葉が途切れた。ガサゴソという物音の後、別の人物の声になる。電話を元の持ち主に返したのだ。
『私だ。フォレスター長官、何を言われるかはもう分かっているな』
第44代大統領、フルグ・キバキは落ち着き払った声で言い放つ。それは死刑宣告に等しい宣告だった。
『アーサー・フォレスター、君の合衆国安全保障(USSA)局長官としての任を解く。できれば大人しく、我々に身を委ねてほしい。君が私をどう思っていたのかはともかく、ともに働いた君の撃墜命令を出すのは気が重い』
その時、窓の外を何かが横切った。
銀色が奔り、雷鳴が尾を引く。F-22戦闘機、恐らくは、ラングレー基地から飛来したもの。
F-22二機が飛び去った先の上空で、シャンデル機動で左右に開く。その開いた中央に、黒の一団が待ち構えていた。
艶のない漆黒の機体、総勢四機からなるMH-60Mブラックホーク。第160特殊作戦航空連隊、“闇夜に忍び寄る者”のおでましだ。
それを見たフォレスターは、観念した。もはや、これまでだ。
「承知しました。さようなら、大統領」
それは、別れの言葉だったか。あるいは捨て台詞だったか。否、どちらでもなかった。
通話を一方的に切ったフォレスターは、合わせた両手でスマートフォンを覆い、膝に肘をついて虚空を睨んだ。
未来に破滅しかないというのであれば、一か八か、計画を先倒しにするまで。
自分はどこまでいけるだろうか。
***
「ナイトストーカーズがフォレスターの乗っている機体の確保に成功しました。本人の搭乗も確認済みです」
クルテクがそう告げると、議事堂内から溜息がこぼれた。
下院本会議場の演壇で、同じく胸をなでおろしていたキバキ大統領は、複雑な心境を隠しきれない曖昧な笑みを浮かべた。
「感謝する、クルテク担当官。いや、ここは中央情報局作戦統括補佐官と呼ぼうか」
「担当官で結構です。他に生き残りがいないから繰り上がっただけの男ですよ、私は。大統領こそ、我々の警告に耳を傾けてくださったことに感謝します。政治生命を脅かしかねない本作戦に、よくのってくださいました」
「警告を受けたのは、君たちからだけではなかったのでな。レッドウォール夫人の献身に感謝せねば」
そう言って、大統領は呆気にとられたままの議員たちを見回した。
「皆さん、聞いての通りです。クルテク補佐官は私のプライベート・エージェントでして。USSAの潜入捜査を続けてもらっていたのです。
これが、私がこれまでUSSAの暴走を止めなかった理由でもある。その結果生じたこれまでの被害への批判は、甘んじて受け入れるつもりです」
大統領令になったのは、途中からだけどね。
内心そう付け加えつつ、クルテクは大統領と打ち合わせた筋書き通りの態度を取った。
これまでUSSAが引き起こした特別軍事作戦について、大統領は国内外から猛烈な非難を浴びた。
政治生命を絶たれかねない大博打に彼がのったのは、ひとえにクルテクたちCIA残党が、フォレスターの罪状を明白にするシナリオを、繰り返し説いたからである。
今この瞬間、キバキ大統領は「USSAの操り人形でしかない愚かな大統領」から「汚名を背負ってでもUSSAの悪事を暴いた英雄」となった。
この場に体よくマスコミがいるのもそういうわけだ。大統領のこれまでの批判は、ものの見事にひっくり返るだろう。
「また私は、USSAに代わる情報機関として、CIAの復活を望んでいます。皆さん、どうか賛同していただけますか」
大統領の説明、という名の演説の締めくくりはそれだった。議員たちの困惑も晴れ、スタンディングオベーションで迎えられる。
クルテクはようやく一息ついた。これで自分たちの首の皮も繋がる。
「これにて一件落着ですね」
背後のローズ嬢が、アンドレイ医師に耳打ちする。口には出さなかったが、しかし、クルテクは同意しなかった。
フォレスターが、『双頭の雄鹿』が、この程度で諦めるはずがないからだ。
その程度の連中であれば、自分たちがこれほどに甚大な被害を負うこともなかった。
背後から肘を引かれる。
「ミス・ローズ?」
「さあ参りますよ、ミスター。事情はどうあれ、ペナルティは受けませんと」
「ペナルティだって?」
クルテクが思わず聞き返すと、令嬢は真面目くさった顔で「当然でしょう」と言った。
「いくら事情があったとはいえ、開催中の議事堂に権利のない者が乱入するのはルール違反です。しかるべき処分を受けませんと」
「いやいやいや。さっきの大統領の話を聞きました? 今の我々はそういう立場ですので」
「それとこれとは話が別です。立場ある者なればこそ、誰よりもルールに厳格であるべきです。さあ、そこの方、我々を別室へ連れていってくださいな」
いきなり話しかけられた議会警察の警備員が、「えっ」と立ちすくんだ。
さっきまで射殺せんばかりの勢いで迫ってきたというのに、今や親鳥を見失って戸惑うカルガモの雛である。
そんな彼らに、ローズは今度は自分たちがどういう罪状に当たるのかをプレゼンし始めた。
クルテクは頭を抱えたくなった。アンドレイが、横からニヤニヤと口を挟んだ。
「諦めたまえ。彼女はジャンヌ・ダルクの生まれ変わりなんだ。熱意と高潔さは、時にこういう弊害も生む」
「ああ。長所は短所になり得る、見事なまでの一例だよ。まったく」
クルテクは仰々しく溜息をついた、その時だった。
突如、議事堂のドアが開いた。蹴破られた。
「大統領!」
クルテクは叫んだ。正確には、大統領の周囲を固めるシークレットサービスへの警告だった。
彼らは訓練通り、闖入者から大統領を守るべく動いた。
それからクルテクは、ローズとアンドレイを引っ掴んで、床に飛びこんだ。
銃声。悲鳴に、怒号。
シークレットサービスは任務を果たした。大統領の盾の一番外側にいた、数人が床に倒れている。
クルテクは腰の拳銃を引き抜きながら、舌打ちした。
フォレスターの先ほどの言葉、奴は観念などしていなかった。あの言葉は、攻撃開始の合言葉だったのだ。
議事堂入口に銃を構え立つ、赤毛の女、モリガンをクルテクは睨んだ。
ここから先は、工作員同士の戦いになるだろう。
***
ハウンド救出に成功したニコラスたちは、危機的状況にあった。
「即席戦車で道ふさげ、そのままトーチカにするんだ!」
遊撃隊隊長のクロードの怒声を聞きながら、ニコラスはジャックを肩に担ぎあげ、アレサのピックアップトラックまで走った。
少し遅れてウィルを背負ったケータが続く。
荷台へ、ハウンドが真っ先に飛び乗った。少年二人を引きずり込み、補給の弾をこちらへ投げてよこす。
「アレサ、退路への道は?」
「ギャレットたちが護衛してくれるわ。今ならまだ――」
アレサの言葉が、轟音で消し飛ぶ。
振り返ると、即席戦車が火だるまになっていた。生き残ったもう一台が反撃するが、すぐまた同じ末路を辿る。
燃え盛る二台の間から、彼らを火だるまにした張本人が顔を出す。
陸軍主力戦車のM1エイブラムスだ。これが本物と紛い物の違いだと言わんばかりに、二台の残骸を押しのけ突き進んでくる。
その背後から、装甲車二台が滑り込んでくる。続いて、歩兵。どちらもトゥアハデ所属。それから、トゥアハデと同編成の、陸軍の部隊が突入してきた。
陸軍は、ハウンドの顔を知っていたのだろう。こちらを見つけるなり、警告を発してきた。
「武器を捨てて投降しろ! 両手を頭に――」
陸軍装甲車から発せられたアナウンスを、銃声が遮る。発砲するトゥアハデに、陸軍兵士がぎょっとした様子で振り返るが、ニコラスたちにそんなことを気にする余裕はない。
「ケータ、運転代わって!」
運転席から飛び出したアレサが、荷台に飛び込んでくる。
なにを、と問うより早く、アレサは荷台端の防水布に覆われた塊を引っ掴み、中身を取り出した。
「伏せて、後方爆風に注意!」
対戦車擲弾発射器を担いだ彼女を見て、ニコラスとハウンドは急いで頭を引っ込め、耳を塞いだ。
アレサの狙いは正確だった。発射されたロケット弾は、陸軍の戦車ではなくトゥアハデ装甲車に命中した。
装甲車は吹っ飛び、横にいたもう一台を巻き込んで、ともに道路脇の信号機に激突する。
「いい狙いだ。説明書でも読んだか?」
某有名映画の一シーンを思い出し、ニコラスは次弾装填を手伝いながら、尋ねた。アレサは前を向いたまま、口角をもち上げる。
「そうよ。と、言いたいところだけど、お爺ちゃんに習ったの。毒矢の作り方もね」
「年寄りの言うことも聞いておくもんだな」
と、そこで、ニコラスたちはガクンと前のめりになった。ケータが発進させたのである。
こちらタワー潜入部隊の撤退に合わせて、遊撃隊が前後を挟み、援護しながらターチィ方面へ逃げ出す。
陸軍はもう追ってこなかった。先ほどのトゥアハデの攻撃で、様子がおかしいことに気づいたらしい。
司令部に新たに確認を取ろうとしているのか、戦車の後方、装甲車近くでトゥアハデ兵と怒鳴り合っている。
ともあれ、彼らの追撃がないだけでもありがたい。
「軍、退くと思う?」
ハウンドが尋ねた。ニコラスは首を振った。
「最終的に退くだろうが、最低でも一時間は攻撃が続くと思った方がいい。軍隊ってのは、規模がデカくなるほど混乱も大きくなる。そのうえ今回は俺たちの方から混戦を煽ってる。トゥアハデもそこに付けこんでの通信妨害だ。現場の混乱は相当だと思うぞ」
「となると、第二ラウンドは軍との戦闘か」
そこまで言って、ハウンドが突如硬直する。直後、凄まじい形相で周囲に怒鳴る。
「上空、攻撃ヘリ一機!」
ハウンドの警告は、一足遅かった。
攻撃ヘリは二機だった。トゥアハデが保有するAH-64Dアパッチ・ロングボウが、隊列の前後を挟み撃ちにしてくる。
前方に回り込んだ一機のガトリング砲で、遊撃隊の工兵戦闘車がやられた。
装甲ごとぶち抜かれ、タイヤを破壊され横転する。先ほどの即席戦車と同様、搭乗員が逃げ出す暇もなかった。
仲間を立て続けにやられながらも、クロードは冷静だった。遊撃隊を即座に転身させ、二等区の、道の入り組んだエリアへと入り込んだ。
ターチィ領では、ビルとビルの合間に、提灯だの旗だのがぶら下げられていることが多い。
少しでも上空からの視界が悪い道を即座に選び取れたのは、常日頃から特区を走り回っていた彼だからなせる技だろう。
しかし、ニコラスは状況が非常によろしくないことにも気づいていた。
対空防衛システムからの警告が一切ない。加えて、マクナイト率いる砲兵部隊からの砲撃音も聞こえなかった。
通信妨害ゆえ、ニコラスは把握できていなかったが、その頃。
バートンら本部は自爆ドローンの猛攻に手を焼いていた。
敵ドローンの狙いが、対自爆ドローン防御陣地の放水砲と、防空システムを担うドローンへ切り替わったためであった。
一方のマクナイトは、海軍からの艦砲射撃に晒されており、デトロイト川を懸命に逃げ回っていた。
武装化しているとはいえ、即席戦闘艦ではひとたまりもなく、すでに半ば浮き砲台になりつつあった。
「ニコ!」
ハウンドが叫びながら後方を指さす。追いかけてくるヘリを見上げたニコラスは舌打ちした。
双子だ。タワーの屋上で拾ってもらったのだろう。第二ラウンドはまだ終わっていなかった。
加えて、ヘリの後を追うように、トゥアハデの装甲車数台が、こちらに追いつき始める。
「ポリスメン!」
並走していたギャレットが、運転席に叫ぶ。
ケータは彼の意図にすぐ気づいた。右折する彼に続き、ピックアップをアーケード内へと侵入させる。
以前、ニコラスがチコたちとともに、暗殺者を追跡した際に通った、あのアーケードだ。
入り組んでいるうえに、道幅が狭く、ピックアップがぎりぎり通れるレベルだ。当然、装甲車は通れない。無論、ヘリも。
トゥアハデはアーケード入口で急停車し、苛立たしげに身を翻した。回り込む気だ。
「ここでやり過ごして、クロードに拾ってもらえ! あとは俺たちに任せろ! 穴に潜っちまえば、こっちのもんだ!」
前方を先導しながら、ギャレットが叫ぶ。
ニコラスは一瞬、判断に迷った。このアーケードで敵をやり過ごせるとは思えなかったからだ。
二機のヘリのうち、一機は確実にクロードのトラックを捕捉している。彼が自分たちを拾うのは、容易ではないはずだ。
トゥアハデにしても、装甲車こそ入れなかったが、歩兵は入れる。人海戦術でアーケード内を掃討してくるだろう。
そしてアーケードを出れば、もう一機のヘリが待ち構えている。
そう思った矢先、ケータが叫んだ。
「ギャレット、お前らの車を貸してくれ!」
「なんだって!?」
「車だ、車!」
ケータは怒鳴りながら後方を指さした。
ピックアップのすぐ後ろ、ギャレットら『ブラックヘキサグラム』の、キャデラックの改造オープンカーが姫を守る騎士のように、追走していた。
「敵が狙ってんのはこのピックアップだ、俺たちが囮になる! 後ろの全員、後ろのオープンカーに乗り移れ!」
ギャレットが答えるより早く、アレサはケータの指示に従った。後方のオープンカーに素早くジェスチャーする。
オープンカーがそれに応え、するすると前に進み出てくる。やがてピックアップの背後にぴったりとくっついた。
車間30センチ未満の、驚くべきドライブテクニックだ。
「行って! 私が残るから」
アレサが防水布を掴みながら叫んだ。
「駄目だ、アレサ! 君も……」
「カッコつけてんじゃないわよ。囮になるなら、荷台に人がいるって偽装しなきゃでしょ」
それを聞いたギャレットが、口笛を吹いた。短く、長く、長くを一回。それで『ブラックヘキサグラム』はすべてを把握した。
二人乗りバイクの後ろ数人と、オープンカー助手席にいた男が、ピックアップ荷台に飛び移ってくる。
オープンカーからの男は、こちらが乗り移りやすいよう、手を差し出した。
もはや断る理由もない。急がねば、回り込んだ敵装甲車から、こちらが乗り移っている様子が見えてしまう。
ニコラスはハウンドとともに、ジャックとウィルを乗り移らせた。それからハウンド、最後に自分が飛び移る。
途端、オープンカーは速度を落とした。
「戻ってこい、必ずだ!」
離れゆくピックアップに、ニコラスは叫ぶ。ケータは窓から突き出した手で親指を立てた。
***
敵装甲車が前方に回り込んできたのは、ニコラスたちのオープンカーが脇道へ逃れた、まさにその時だった。
真っ向から対峙し、停車するやいなや、対戦車ミサイルをぶっ放してくる。
ミサイルは上にそれ、夜はさぞド派手であろうネオンの看板を粉砕した。その破片がケータたちのピックアップに降り注いだ。
ケータは右へハンドルを切った。ビル角に車体をガリガリとこすりながら、脇道を疾走する。
ニコラスたちとは反対方向だ。
荷台のアレサが、防水布を被ったまま、上ずった声で叫んだ。
「上手くいったみたい。ヘリの音がこっちに来てるわ」
すなわちそれは、自分たちに危機が迫っていることでもあった。
ケータは自身の恐怖を悟られぬよう、がなり声で「ああ!」と返した。声は裏返ってしまった。
その時だ。車体が急に、ガクンと速度を落とした。
ハンドルは制御を失い、左右に大きく揺れる。
やがてピックアップは脇腹を見せ、脇道の両脇の壁に、車体前部と後部を引っかけて止まった。横転しなかったのは奇跡だろう。
「後ろ、大丈夫か!?」
「何が起こったの……!?」
アレサが悲鳴をあげた。怪我をしている声音ではなさそうだ。ほっと安堵して、前方に向き直り、硬直する。
前方、脇道の突き当り。
大通りに面しているであろう入口の光を背に、二人の大男がやってくる。あの双子だ。
「冗談だろ、サイボーグかよ」
先ほどまでヘリに乗っていたはずの双子は、すでに地に降り立ち、グレネードを装着したM4カービンを持っていた。
あれがピックアップの前輪を破壊したのだ。
「荷台の人間、降りてこい。そこにニコラス・ウェッブとヘルハウンドがいないことは分かっている」
挙句にバレている。
それでも自分たちを止めたのは、ニコラスたちが向かうであろう穴、地下通路の入口を聞き出したいからだろう。
「アレサ、降りるなよ」
ケータは運転席から降りた。ドアが曲がっていて開かなかったので、ドアごと蹴破って外へ出る。
降りながら、助手席の釣り竿ケースを掴んだ。
――俺が本当の人斬りになったって知ったら、勲じいちゃん、なんて言うかな。
幼い頃から恐怖と絶望の象徴でしかなかった、日本の祖父を思い出しながら、ケータは刀を取り出した。
***
「ねえ戻った方がいいって。ケータじゃあの双子は無理だ、オレ知ってるんだよ」
ジャックが涙目で訴えるのを、ニコラスは黙って聞いていた。
断じて我儘でないのは分かっている。ジャックもまた、あの双子に襲われた経験があるからだ。
しかし。戻るわけにもいかない。
皆、口には出さないが分かっているのだ。こうなった以上、誰かを犠牲にしながら逃げるしかないことに。
それも、一度ではすまない。小出しに何度も何度も味方を見捨て、彼らを囮にして時間を稼ぎ、態勢を立て直すしかない。
分かっているのだ。ケータたちでは、あの双子に太刀打ちできない。
「いや、意外といけると思うぞ」
ハウンドが唐突に声を上げた。ニコラスは思わず聞き返した。
「いけるって……あの双子相手に、か?」
「うん。ケータなら勝てるかも」
「適当なこと言わないでよ。ハウンドだって、あの双子には敵わなかったんでしょ。ケータじゃ……」
ジャックが鼻声で声を荒げた。しかし、ハウンドは「そうか?」と首を捻った。
「けどあいつ、私より強いぞ?」
***
ケータと双子との戦闘は、ものの数分で決着がつきそうになっていた。
無論、ケータの敗北、という形で。
「ぐっ」
何撃目かの攻撃をかろうじて凌ぎ、数歩、後ろへ後ずさる。後ずさったところで、背後からまたも攻撃。
この繰り返しだ。
始終挟み撃ちにされている。一方が襲いかかれば、もう一方は背後に忍び寄って致命の一撃を繰り出す。
狼の狩りによく似ている。
しかもこの双子、双方が手練れの武術家だ。
――太極拳と八卦掌をベースに、色んなのを組み合わせてるな。
中国武術の先駆的指導者、王樹金によれば、太極拳と八卦掌は長身の人間が自身の体格を生かす武術と言われる。
双子はこの二つの武術をベースに、他の武術の型や、動作を実戦仕様に改良している。現代のブルース・リーといえるだろう。
「っ……!」
背後からの一撃を、ぎりぎりでかわす。
かわしきれず、脇腹をかすめ、ワイシャツが切れた。
少しでも軽量化しておきたいと、ボディアーマーを着てこなかったことを今さらながら後悔する。
――これまで何度か戦ってきたが……これまで相当手加減してたんだな。
手汗が滴り始めた刀の柄を、握り直す。
以前と違って、双子の動きに派手さがない。最小限の動作で無駄なく仕留めにきている。
つまり、本気で殺しにきている。
膠着している、と判断したのだろう。双子はいったん退き、こちらと距離を取った。
息一つ乱さぬ涼しい顔の彼らに対し、ケータはもう汗だくだ。肩で息をしている。
「やはりお前は粘るな。あの女ほどではないが」
「どこまでいっても、殺意のないお前は我らに勝てぬ」
ケータは内心ぎくりとした。
殺意のないお前は勝てない。それは、日本の祖父が繰り返し口にした言葉だった。
一方で、頭の片隅で冷静に判断していた。双子はいよいよトドメを刺しにかかっているのだ。
逃げ続け、疲れ果て止まった獲物の周囲をぐるぐる回る狼のように。言葉でこちらを翻弄しながら、殺すタイミングを見計らっている。
――やっぱ無理かぁ。
ケータは、自身の臆病さに落胆を通り越して笑えてきた。
この期に及んでまだ殺したくないと思っているのだ、自分は。
怖いから。一度踏み外せば最後、元に戻れぬと薄々感じ取っているから。
餓鬼道に堕ちたくない、祖父のようにはなりたくない。どうせなら、父のように、人として――。
「貴様は日本出身だったか。なるほど、平穏な国に生まれた貴様が臆病なのも道理よな」
「さぞ親にも愛され、甘やかされて育ったことだろう。その時点で貴様は我らには届かぬ」
その発言に、ケータは動きを止めた。呼吸も止まった。
愛されていたのは事実だろう。マクナイトじいちゃんに、メグばあちゃん。日本の撫子ばあちゃん。
生まれも育ちも、ただ一人を除いて愛されて育った。
自分を愛していなければ、父も母も、自分を庇って死ぬことはなかった。
不意に、祖父、津田勲の言葉が頭をよぎった。毎日の稽古終わりに、必ず繰り返した呪いの一言。
『お前にも、殺さねばならぬ時が必ずくる。殺さねばならぬ相手が必ず現れる』
「殺意ももてぬ半端者は死んで当然よ。死ね。死んでそこを退け」
双子のその発言が、トドメだった。
ああ、それは駄目だ。それだけは駄目だ。
こいつらは祖父と一緒だ。殺せない人間を、殺さない人間を馬鹿にする。
自身はとうに外道のくせに、まっとうに生きている人間を軟弱者と馬鹿にする。狂っているのはお前たちの方だというのに。
ああ、そうか。こいつらだ。こいつらが、殺さなければならない人間だ。
ケータは、青眼の構えを解いた。
前方へ真っ向から対峙していた姿勢から、大きく右足を引く。握りも両手をやめ、右手だけで刀を握り、引いた右半身に置く。
「半月」と呼ばれる、頭を相手に差し出して敢えて隙をつくり、相手が打ってきたところを狙う構えである。
先ほど、双子に看破された技だった。
だが双子は襲いかかってきた。
自ら頭を差し出す捨て身の構えが、やけっぱちになったと判断したのだろう。日本人お得意の特攻だと。
双子の片割れが、上段から、腰刀を振り下ろす。同時にワンテンポ遅れで、下段から短刀を繰り出す。
八卦掌の動作の両手に、刃物を取り付けた実戦仕様の技。さっきも、これでやられた。そして今も、恐らく防げない。
けれど関係ない。双子がどう動こうと、問題ない。
ケータは先ほど通りに動いた。
打ち下ろされる腰刀を下から払い、相手が崩れたところを斬りかかる、一連の動作を。
一点、違うのは――。
***
「私がこの世で戦いたくない相手は三人だ。一人はルスラン。フィジカル化け物なうえに、それを最大限生かした戦いをしてくる。システマの使い手で皮下脂肪もあってこっちのダメージが通りにくい。
二人目があの双子。パワーではルスランに劣るが、敏捷性はあっちのが上だし、連携攻撃が厄介だ。そして三人目が、ケータだ」
空を睨みながら、ハウンドは淡々と語った。
「そも日本の古武術は、二度死んだと言われている。一度目は、19世紀の明治政府による士族、いわゆるサムライの特権剥奪。社会制度の近代化と、新政府への反乱勢力を予防的に潰すためだったと言われている。
二度目は、第二次大戦後のGHQによる武道禁止だ。剣術、柔術、そういった類のものは軍事訓練とみなされ、多くの道場が解体に追い込まれた。指導者が戦死したってのも大きかったそうだ」
ニコラスは小銃の引金を指でなぞりながら、ハウンドの解説に耳を傾けた。一方のジャックや他の人間は、怪訝な顔をしたままだ。
ケータがハウンドより強い、とは思えないのだろう。自分とて半信半疑だ。
けれどニコラスは、その信憑性を裏付ける事実を知っていた。ケータの身体に残る無数の傷跡だ。
「要するに、現代に伝わっている日本の武術の大半は、殺傷を目的とした殺人術ではなく、様々な要因から無毒化されていったもの、ってことだ。剣道や柔道にしても、本来の武術を無毒化し、スポーツや礼儀作法を学ぶ修練とすることで現代に残した。
そもそも古武術ってもんは、本来サムライの軍事訓練を技術化・体系化したもんだ。そいつが時代を経ることに、人殺しの術としてではなく、人格形成の『道』として様式化され、演武や試合といった形で継承されていった。
そんな中でケータの動き……流派ってやつかな。あれは絶滅危惧種だよ。あれは間違いなく、殺しの技だ」
「どういうこと?」
ジャックが眉をひそめた。
「どうもこうも、そのまんま。まったくもって無毒化されてない、殺しの技としての武術だ。うちでの稽古中は絶対に最後までやらなかったが、型を見てぞっとしたよ。あんなに効率化された人殺しの技は見たことがない。
これまでケータがうちで教えてきたもんは、ケータが手順を途中で端折って、独自に無毒化したもんだ」
「そいつは、ケータの身体の傷跡と、なにか関係あるのか」
「ニコも見た?」
ニコラスは「シャワーの時にな」と頷いた。
「全身に切り傷があった。前も後ろも。かなり古い傷跡だったが」
「あれね。日本の祖父に切り刻まれたんだってさ」
「は?」
「マクナイト爺さんの話によればね」
ハウンドはそう前置きして続けた。後方を睨む彼女の横顔を、走行による風圧で流された髪が隠す。
「ケータの母方の祖父がね、とんでもない奴だったらしくてさ。このご時世に、孫のケータに殺しとしての武術を本気で仕込んだらしい。物心ついた頃から、真剣で毎日、本当に殺す気で襲いかかっていたそうだ。それであの切り傷。
それを知ったマクナイト爺さんが、ケータが中学の時に、その祖父からケータを取り返したんだと。『あの屑にケータを任せた自分が馬鹿だった』ってのが爺さんの話だ」
「両親は?」
「ケータが一歳の時に他界してる。日本で無差別殺傷事件に巻き込まれたらしい。しかもな、ケータの父親は軍人でな。一度犯人を制圧した後に、殺されてるんだ。
犯人はナイフだけじゃなく、パイプ銃を持ってたらしくてな。しかも素人づくりの滅茶苦茶性能の悪いやつで、撃った瞬間に暴発して犯人は死亡。けどその時、飛び散った破片がケータの両親に当たった。しかも当たり所が最悪だった。
日本じゃ銃の所持はかなり厳しく制限される。その安心感が、仇になったのかもな」
ニコラスは事の顛末を察した。
恐らくケータの祖父は、それでおかしくなってしまったのだろう。だから同じ悲劇が二度と起こらぬよう、孫を鍛えた。
到底許されることではないが。
「私は幼少期、人買いに攫われて、犬小屋に二週間ほど飼われてた時期があった。その時に昼夜を問わず、闘犬と死ぬ気で戦わされた。ケータの場合、肉親だから多少の手心はあっただろうが、あんなのを十年以上もやらされてたなんて、冗談じゃない。
だから私はケータを真っ先に27番地に引き入れたんだ。特警由来の人脈が欲しかったのもあるが……ケータとだけは絶対に戦いたくない。
臆病だから気づかれにくいが、あいつは頭のねじが数本飛んでる。銃持った相手に、なんの対策もなしに突っ込んでくし」
「え、でもそれ、ハウンドもやるじゃん。あの双子も」
一瞬だけ目をやったハウンドに、ジャックは肩を跳ねあげた。彼女はそれを気にすることなく、哨戒に戻る。
「馬鹿言え。私も双子も、対策したうえで近接戦に持ち込んでる。仕掛けるのは必ず閉所、しかも、自分がすぐ撤退できるポイントに構えて、突入時は必ず敵の射線を避ける。
それからジグザグに動いたり、低姿勢のまま急接近し、多数対一に持ち込んで、敵のフレンドリーファイアを誘発しながら、数人やったら即撤退だ。
そして、この戦法は訓練された人間相手にしか使えない。素人は誤射なんてお構いなしに撃ってくるからな。ケータは――」
ハウンドはいったん閉口して唾を飲み込み、喉を湿らせた。
「あいつは、そんなのお構いなしに突っ込んでく。怖い怖いとか言ながら、銃持った相手に躊躇なく突っ込んでくんだ。
そもそもな、普通の奴は、射撃が苦手だからって近接戦仕掛けたりしないんだよ。後方に引っ込むこそすれ、銃持った相手に近寄るなんて、普通やらないだろ」
言われてみれば、その通りだ。
ハウンドが平気で突っ込んでいくので麻痺していたが、本来、銃を持った相手に接近戦など、無謀以外の何物でもない。
ただの臆病者に、できるはずがないのだ。
元少女兵だったからこそ分かるのだろう。ハウンドはほんの一瞬だけ身震いした。
風圧に晒され続けたから、というわけではあるまい。
「というか、現代にまで続く殺しの武術を習ったってだけで、もうヤバいだろ。国や戦争で何度も淘汰されてきてんのに、それでも生き残った殺しの技だ。
継承者がどういう執念で残したのかは知らないけど、そいつを幼少期から仕込まれた男だぞ? あんなのと戦うなんて、ごめんこうむるね」
***
双子の片割れが、慌てたように飛び退いた。
何が起こったのか分からぬという顔で、右腕を抑えている。
切り裂いたのは、右腕と、左腿の内側。しかし血は流れない。
――USSA特製のボディアーマー、斬撃も凌げるのか。
ケータは双子の装備に、内心舌打ちした。なら、指と顔を狙うか。
対峙した片割れが、背後の片割れに叫ぶ。
「小弟弟、退下! 这个和以前不同!(弟者、下がれ! こいつ、さっきと違うぞ!)」
なんか言ってるな。まあいいか。
ケータはまた、先ほどと同じ「半月」の構えをとった。同じ技の繰り返しだ。
試合であれば、まずもってやらない自殺行為である。対策されてしまえばお終いだからだ。
けれど問題ない。殺せばいい。殺してしまえば、対策もクソもない。
双子、片割れは、判断に迫られた。
同じ技の繰り返し。しかも構えから隙をみせてくる。攻撃するか、否か。
数秒の逡巡ののち、片割れは斬りかかってきた。
しかし、重心が前かがみではない。半身だ。ちょっと打ちかかってみて、どういう仕組みか見極めよう、という魂胆だろう。
ケータは振り下ろされる腰刀を払うべく、下段から上段へ刀を振り上げ、
「!?」
腰刀の刃ではなく、柄を狙った。もっと言うと、柄を握る指を狙った。
指を落としてしまえば、もう武器は握れない。
片割れは引きつった顔で、腰刀から手を、ぱっと、離した。
――思いきりがいいな。
ならばと、ケータはそのまま踏み込んだ。片割れの襟を掴み、零距離のまま首元を薙ぐ。
ボディアーマーは首にまで及んでいるが、顎から上はその限りではない。そのまま上へ、刃を滑らせればよい。
片割れは顔をのけ反らせ、辛うじて刃を逃れた。
しかし、ケータはもうすでに仕掛けていた。相手が後ろへのけ反るのを見越して、足払いをかけていた。
そのまま地面に引き倒し、倒れたところを何度も腹を突き刺す。
「兄者!」
もう片割れが叫んだ。ケータは一瞥もしなかった。
声で位置を把握しつつ、目の前の片割れにさらなる追撃を仕掛ける。
しかし相手はあの双子。流石に避けられた。
片割れは、先ほどの二倍の距離まで下がり、脇腹を抑えた。指の隙間から黒い泥のようなものが流れ出している。
ボディアーマーの磁気粘性流体だ。衝撃は凌げても、針のような鋭利なもので穴を開けられると弱いのかもしれない。
「什么? 这家伙做了什么?(なんだ? こいつ、何をやった?)」
「没有。从那以后什么都没有改变。这是……(いいや。さっきと何も変わっていない。これは……)」
意外としゃべるな、こいつら。
ケータは双子が来ないうちに、息を整えた。
別に変ったことは何もしていない。型も動作も、先ほどと一切変わっていない。
ただ一点、変わったのは、攻撃箇所を選ばなくなったことである。
現代武術の多くは、型を学ぶ際、攻撃箇所がある程度設定されている。危険だからだ。
剣道における有効打突部位が面、胴、小手、喉垂れの四か所に設定されているように、怪我防止の観点から攻撃箇所は厳しく制限されてきた。
真剣稽古においても、それは同じだ。
そもそも現代において、刀を振り回すような事態はほとんど発生しない。学んだところで必要ないのである。
その不必要なものに、生涯をかけて固執したのが、ケータの祖父だった。
大戦を生き残った祖父は、孫の自分に門外不出の禁じ手とされた殺しの技を、余すことなく詰め込んだ。
強制的に刷り込んだ、といった方が正しいだろう。
『見せびらかす技も、勝負事の技も一切不要。斬ってこそ剣術の本分』
そう言って、祖父は現代武術を毛嫌いした。
自分に殺しの技だけを教え、少しでもこちらが演武や試合のような殺意のない動きを見せると、すぐに斬られて道場外へ蹴りだされた。
演武や試合であれば、相手の武器や防具めがけて打ち合うが、殺し合いの場でそんなことをする必要はない。
初手から手足なり顔なり斬りつけて、武器を落とさせ、トドメを刺せばよい。
人を斬ることを刷り込まれたケータと、実戦仕様に改良したとはいえ、演武や試合形式の組手に慣れ親しんだ双子。
その違いが如実に現れていた。
型は全く同じ。重心の動きも、構えも何一つ変わらない。ただ刃先の向かう先が、人か武器か、それだけの違いだ。
相手を斬ることと、相手と打ち合うこととでは、訳が違う。
――来ないな。ならこっちからいくか。
ケータは刀の刃を、トン、と肩に担ぐように当てた。そしてそのまま、低姿勢で突っ込む。
虚を突かれた双子はぎょっとした顔で身構える。
片割れ(恐らく弟だろう)がもう一方の前に立ち塞がり、短刀を振り下ろす。
その振り下ろされた短刀の、弟の手首を、ケータは逆手で掴んだ。
「っ!?」
ケータは懐に飛び込んだ。
背負い投げの要領で身を翻し、弟の腕を肩に担ぐ。肘関節と逆方向へ曲げ、骨を折りにかかる。
刀を肩に担いだまま。
ケータの肩と、弟の腕の間に挟まれた刃は、ボディアーマーを切り裂いた。
黒い粘性の物体が飛び散り、顔と刃にかかった。その黒に、さらりとした紅が混じる。弟から低い悲鳴があがった。
「弟者!」
兄が蒼褪めた顔で短刀を投げるべく振りかぶった。
――骨、折っておきたかったんだけど……。
ケータは渋々弟の腕を離した。弟を、兄の方へぶん投げてから。
この身長差で態勢も崩れているとなれば、背負い投げするのは簡単だ。
弟を受け止める形で兄は巻き添えを食らい、二人そろってもんどり打ちながら地面を転がった。
ここまでこの双子が無様な様子を見せたのは、初めてではなかろうか。すぐ起き上がったけど。
けれど、ケータはそれを見ても無感動だった。
――あのボディアーマー、勢いよく斬りかかると駄目だけど、ゆっくり刃を滑らせたら斬れるな。
次の策を考えていた。目の前の二人を、いかに早く、殺す方法を。
殺せる人間の方が正しい人間なんて、この世にいない方がいい。
祖父も、この双子も。
だから殺そう。こいつらを殺して、全部終わったら、自分も殺そう。
そうすれば、まだ父さんに顔向けできる。
『殺せ。父のようになるな』
それが祖父の口癖だった。
事件が起こった時のケータの記憶はない。物心つくころには祖父母たちしかいなかった。
祖父が稽古をつけ始めたのは、五歳の誕生日の翌日からだ。
毎朝自分を道場に引きずっていき、自分が失血で失神するまで斬りかかった。それから祖母に手当てをさせ、翌朝になるとまた自分を道場へ連れていった。
祖母は必死に庇おうとしたが、そうなると祖母が殴られた。
だからケータは、未だに早起きが苦手だ。目は完全に醒めているのだが、布団から出るのが怖い。
全身をすっぽり布団で覆い隠して、あの鬼のような男が迎えにくる朝を震えながら待つしかなかった、あの頃の記憶が消えてくれないのだ。
一度だけ、祖父に逆らったことがある。
小学三年の頃、同級生に親がいないことを馬鹿にされた。子供によくある、他人の心情を推し量る能力がないがゆえの、無邪気で残酷な行為だ。
当然腹が立ったので、同級生の顔を一発殴った。それだけで同級生は右目を失った。
祖父に毎日殺されかけていた自分は、加減が分からなくなっていた。
祖父は、同級生の両親に頭を下げにいったものの、家に帰ると手を叩いて喜んだ。「それでこそ自分の孫だ」と。
ケータは心底恐怖した。それで翌朝、はじめて鍛錬を拒否した。
祖父は怒り狂って斬りまくってきたが、自分は頑として刀を取らなかった。
失血でいつものように失神して、目を覚ますと、看病する祖母の顔に、大きな刀傷があった。
これまで祖父が祖母に手をあげたことはあったが、斬ったことは一度もなかった。
以来、ケータは祖父に逆らわなくなった。
祖父は父を心底憎んでいた。
犯人に手心を加え、たった一人の愛娘の母を守れなかった愚か者と、名すら呼ばなかった。遺影はおろか、写真も一枚もなかった。
ケータが父の顔を知ったのは、中学にあがる前の十二の頃。
夕方の稽古をなんとか生き延びて、夕飯まで一人裏の畑のあぜ道で、今日斬られた箇所の手当てをしている時だった。
いきなり現れた背の高い米軍人、父方の祖父ビリー・マクナイトに、ケータは心底面食らった。
その時に父の写真を見せられたが、誰なのか分からなかった。あんまり顔は似ていなかった。
マクナイトは、祖父である自身どころか、父のことをまったく知らぬ自分に、ただ事ではないと察したようだった。
そこからはもう大変だった。
孫を渡せ、渡さないと、祖父同士の本気の殺し合いが始まった。慌てふためく大人たちをよそに、あの恐ろしい祖父に逆らう人間がいるのかと、目を丸くした。
けれど大人たちにとっては深刻な問題だった。当時のマクナイトは現役の在日米軍幹部、かたや祖父は自衛隊の近接格闘術の師範だったので、警察も対応に困り果てた。
一歩間違えば外交問題になりかねないのはもちろん、そもそもお互い実力が高すぎて、仲裁にすら入れなかったのだ。
結局それぞれの所属基地の海兵隊員と自衛隊員が駆け付けて、数人がかりでなんとか引き剥がした。
その頃ケータは、祖母から綺麗にまとめられた荷物とパスポートを受け取っていた。マクナイトを呼んだのは、彼女だった。
「ケータ、前!」
背後を守ってくれていたアレサが叫んだ。
長い長い、しかし時間にして数秒に満たない回想から引き戻される。
見ると、双子の兄の方が縄鏢を取り出していた。ワイヤーの先に棒手裏剣状の刃物を取り付けた暗器だ。
近距離が不利となれば、長距離から挑む。シンプルで合理的な判断だ。
兄が縄鏢を投じた、その瞬間。
ケータは腰の鞘をぶん投げた。
鞘はクルクルと回転し、縄鏢のワイヤーを巻き込んで、兄へ向かった。
回転しながら顔に向かってくる鞘を、兄は舌打ちしながら避けた。
ゆえに、その隙に斬りこんだこちらに、半秒出遅れた。
口伝の棒術の一種で、棒をあえて回転させるように投げつけることで、相手を怯ませる。
棒は当たったところで大したダメージはないが、回転しながら飛んでくる棒は、先が頭部や足に当たりかねず、軌道が予測不能で相手は対応に苦慮するのである。
ケータの刃は、兄の耳先を削ぎ、肩に当たって止まった。斬れはしなかったが、手ごたえがあった。
先ほどボディアーマーに穴をあけたのが、徐々に功を奏しているようだった。いずれ斬撃も通るようになるだろう。
けれどケータは、追撃をすることなく、素早く身を翻した。
案の定、片割れの弟が、背後から仕掛けていた。
突き出された短刀を腕ごと掴み、逆手に持ち替えた刀で斬り上げる。
刃先は内股と顎に当たり、顎から血が飛び散った。
双子は再び距離を取った。
「兄弟、我们用毒吧(弟者、毒を使うぞ)」
「兄弟、但是(兄者、しかし)」
「如果我在这种地方被打败的话、我就没法再面对我的主人了。记住我们对主的誓言和忠诚(こんなところで倒れたとあっては、主に顔向けできぬ。主への忠義を、我らの誓いを思い出せ)」
そんな会話をしたあと、双子はそれぞれ武器を取り出した。一体どれだけ武器を隠し持っているのやら。
しかし、ケータはすぐに違和感に気づいた。
――なんだ? 飾り紐の色が……。
武器の形状種類に変化はなかった。ただの腰刀と短刀だ。
しかし、飾り紐がついている。
兄の方は白、弟の方は黒だ。そして双方の短刀の中に、赤い紐の短刀が混じっている。
なぜ紐をつけた?
疑問に答えを出す前に、双子は同時に仕掛けてきた。小柄な自分相手に、器用に交互に連撃を繰り出してくる。
どちらかの腰刀が、頬をかすめた。
その瞬間、顔になにか液体が飛んできた。当たった瞬間、皮膚を剝がされたような鋭い痛みがはしった。
――毒……!
ケータは即座に距離を取った。しかし、双子はそれを狙っていた。
距離を取った瞬間、双子は赤い紐飾りの短刀を数本投じてきた。何本か弾き、何本かがかすめていった。
しかし不運なことに、うち一本が、ケータの背後にいた『ブラックヘキサグラム』の一人に当たった。
かなりの距離だったので、衣服に阻まれて、短刀は落ちた。しかし、ごくわずかに短刀は男を傷つけたのだろう。
数秒後、男は白目を剥いて倒れた。大きく痙攣する男を見て、ケータは蒼褪めた。
間違いない。飾り紐の付いた武器は、すべて毒入りだ。
「アレサ、全員を下がらせろ! 武器に毒が――」
ほんの一瞬、背後に注意を逸らした時だった。
双子の兄が、目の前にいた。赤い紐飾りの短刀を持って。
ケータは即座にいなして、背後も見ずに刀を振るった。間違いなく、弟の方も仕掛けてきていると思ったのだ。
やはり弟は背後にいた。黒紐の短刀を携えて、襲いかかってくる。
けれど、ここで奇妙なことが起こった。
兄の方が武器を持ち換えたのだ。
短刀をしまい、わざわざ腰刀を引き抜く兄に、ケータは違和感を覚えた。
――なんで引っ込めた?
もしや、そう思った瞬間。
「おいチビ、頭引っ込めろ!」
背後で『ブラックヘキサグラム』の面々が吠えた。仲間を一人やられ、怒り狂った彼らは、双子を銃撃すべく物影から飛び出していた。
「馬鹿野郎! 出てくるなって――」
遅かった。双子が男たちめがけて、突進した。
距離30メートル以内は、双子の間合いだ。男たちの腕では、双子に弾を当てられない。なにより、ここは射線を遮る障害物が多すぎた。
男たちは必死に弾幕を張ったが、壁、地面、壁と、ピンボールのように軌道を変える双子には対応できなかった。
まず弾切れした一人が兄に喉を切り裂かれ、その隣が弟が投じた赤の短刀でやられた。
そして三人目に弟が襲いかかった瞬間、ケータは三人目にタックルして、身体ごと割り込んだ。
兄の方のはなんとか弾いた。
しかし死角から弟が投じた、短刀のことは、見えていなかった。
「ケータ!」
アレサの悲鳴が聞こえた。
左目に、焼き鏝を突っ込まれたような灼熱が神経を焼く。
狭まった視界で、黒の飾り紐が揺れるのが見えた。
弟が投じた短刀は、ケータの左目を貫いたのだ。
「許せ、東国の武芸者。我らは主君の命を果たさねばならぬ」
双子のどちらかが言った。
どこか惜しむような声音だった。同じ武芸者として、正々堂々、殺し合いがしたかったのだろうか。
――知らねえよッ……!!
のけ反り、背後に倒れかかっていたケータは、最後の力を振り絞った。
黒く絞られていく視界で、双子のどちらかを掴んだ。
「な……!?」
慌てた声がした。
ケータは構わず、相手を掴んだまま、刀を一閃した。
意識が戻った時、アレサが見えた。
ただし、酷く形が歪んでぐちゃぐちゃだ。髪が長いのとジャスミンの香りで、彼女と分かったぐらいだ。
痛みも、もうよく分からない。
「取れた! 水!」
カランと音がして、顔を掴まれた。
アレサの顔が近づいては、離れ、近づいては離れる。
しばらくして彼女は離れ、近くの人間からなにかを受け取って、口元へ持っていった。それを一気にあおって吐き出し、再びこちらに戻ってくる。
アレサが吐き出した先には、あの短刀と、その切っ先に突き刺さった球体の影が見えた。自分の左目だ。
ああ、アレサ。助けようとしてくれているのか。毒交じりの血を吸いだすなんて、危険まで犯して。
意識が再び遠のいていく。
いけない。伝えなければ。
あの双子はきっと、ニコラスとハウンドの元へ向かったはず。
伝えなきゃ。
「っ、おいアレサ……!」
誰かが叫んだ。その後、アレサの「ああ、そんな」という悲痛な声が聞こえた。
そこでケータの意識は完全に途切れた。
その腹には、白の飾り紐の短刀が深々と突き立っていた。
***
ケータの訃報は、ニコラスたちが地下通路へ辿り着いた、その時に伝えられた。
皮肉にも、通信班が死に物狂いで近隣の通信妨害を解除した、その直後の第一報がそれだった。
運命の女神はどこまでも意地が悪かった。
未だ通信妨害が完全に解除されてない戦場で、その一報は、デトロイト川で奮戦するマクナイトたちの元にも届いてしまった。
のちに同班のテオドールは「あの時、ミスターが老人だったことを思い出しました」と語った。
海軍の艦砲射撃にもまるで意に返さなかった彼の背が、酷く小さく見えたという。
「だから行かせたくなかったんだ。ケータは息子に、一成に、一番似とるんだ」
来週、九連勤が控えているので、一週間のお休みいただきます。流石に時間が足りない(´・ω・`)
次の投稿日は、6月6日(金)です。




