9-9
何かを言おうと思ったのだ。
再び湧いた激情をぶつけるなり、罵詈雑言を浴びせて追い払うなり、選択肢はいくつもあった。
けれど、結局どれも言葉にはならなくて、ただただ後ずさった。
ハウンドは無意味に開閉させた口を一文字に引き結び、愛用の銃剣を引き抜いて構え、撃鉄を起こした。
心臓をぴたりと銃口が捉えても、ニコラスは微動だにしなかった。
「なに。用はもう済んだだろ」
ニコラスは応えない。
ハウンドは鼻を使った。
深く深く沈んだ悲嘆と絶望の中に、揺るがぬ強固な芯があった。怯え様子を伺う獲物のニオイではない。
撃たれ、追い詰められ、それでもなお対峙することを選んだ、手負いの獣のニオイだ。
ハウンドは酷く苛立った。
どうして諦めない。なぜ追いかけてくる。
救えないと分かっているくせに。
銃床を叩きつけるようにして、立ち塞がる身体を押しのける。予想に反して、彼はあっさりと引き下がった。
引き下がった、のに。
「何のつもりだ」
追随する足音に、ハウンドは玄関のドアノブを握りしめて、低く唸った。
ニコラスはまたも答えなかった。
「なぜついてくる」
「……」
「何も話さないなら消えてくれないか。もう全部済んだことだろ」
「…………断る」
「消えろッ!」
振り向きざまに発砲した。
轟音とともに、彼の背後の暖炉が破砕する。木くずと煉瓦の破片が四散して、ニコラスの頬を切った。
けれど、それでもニコラスは何も言わなかった。
亡霊のように、無言無音に、何かを訴えかけるように佇んでいるだけ。
「次は心臓に当てるぞ。出ていけ。消えろ。話すことなんてもう何もない」
「……………………できない」
「なんでっ――」
「約束」
低く呟かれただけなのに、得も言われぬ圧があった。
思わず口を閉ざしたこちらに対し、ニコラスはのろのろと顔を上げた。
今にも泣きそうな、途方に暮れた迷子のような顔で、口を開いた。
「一人にしないでって、泣いてたから」
「――は」
「俺にできるのは、もうそれしかないから」
だから来た、と、ニコラスは言った。
「一人で死ぬのは、寂しいだろ」
時が止まった。
頭が真っ白になった。
鼻腔の奥で急速にニオイが蘇ってくる。
生きろと希われて、誰も待ってない世界で生きたくなくて、死にたくて死にきれなくて彷徨っていたあの時。
何もかもに置いていかれて、独りぼっちで泣いていたあの夜。まだ非力な少女でしかなかった、あの暁に。
泣くなと、自分を抱きしめてくれた者がいた。
陽光で乾燥し切った衣服の繊維と、汗と皮脂のニオイ。
これが芯だった。あの時のニオイだ。
嗅ぎ慣れて忘れていた。なに一つ、変わっていなかったというのに。
「あ――」
思わず口を覆う。
手から零れ落ちた銃剣が床に突き立った。数歩、背後によろめく。
「それ、だけ……?」
「ああ」
「それだけのために、ここまで来たの……? ずっと……?」
「ああ。約束だからな」
ここにきて初めて、自分の仮面が崩壊するのを自覚した。
己がしでかした最大の失態を、ここにきてようやく悟った。
道理で自分を殺せないはずだ。ずっと、この男が守っていたのだから。
「俺さ、お前が何のために俺を助けたのかとか、どうでもいいんだ。お前だけが俺を助けてくれたから」
かつて自分が偽善で救った男は、どこか困ったように、気恥ずかしげにそう笑った。
笑いながら、すべてを差し出した。
「だからさ。この命、お前にやる」
「待って、違う」
「お前がいくってんなら、俺もいく。お前を一人には――」
「違うッ!!」
喉を潰さんばかりの絶叫だった。
もう後ずさる道もなく、壁にぶつかって、床に崩れ落ちた。髪が千切れるほど引き掴んで蹲った。
「そんなつもりじゃなかった。そんな、呪うために約束したんじゃない……!」
そうだ。私はこの男を呪ったのだ。
かつて生きろと祈られた自分のように、この男にも祈りの言葉をかけた。
『待っている』、そう言えば生きて帰ってくれるだろうと願って、俯いたその背を掴んだ。
待つつもりなど微塵もなかったくせに、そう言えば多少の慰めになるだろうと思って、無責任に声をかけた。
その偽善の代償を支払う時が来た。
『待っている』と、自分のもとに帰ってきてくれと祈ったその時から、この男を道連れにする未来は確定してしまった。
これが極悪非道でないなら、なんと言うのか。
「私は、わたしは、ただ――」
***
ニコラスはハウンドの――狗として扱われ、大事なものを守るため再び狗を名乗った少女の――手をそっと抑えた。
裂けた頭皮から血が滴っていた。
「いいんだ。それでよかったんだ」
本心だった。
「それが呪いでも、どんな意図であっても。俺は、お前が待ってると言ってくれたのが、堪らなく嬉しかった。嘘でもいいから、あの言葉が欲しかったんだ」
充分だ。それだけで、充分。
「俺が帰る場所はお前だ。お前がいくなら、俺もいくさ」
そうだ。もっと早くこうすべきだった。
あの夜明けに、何もかも捨てて、この子の手を取ればよかった。
これ以上この子を地獄にいさせたくなくて戦場から追い出した。独りぼっちでいかせてしまった。
その代償がこれだ。
だから俺もいく。
彼女がいくのなら、どこまでも。
そう言えば、必ず彼女は止まると思った。
他人を巻き込むことを酷く恐れる彼女なら、必ず。
少女は足を止め、我が身を抱えてその場に蹲っていた。
違う、駄目、と。壊れたように拒絶の言葉が零れていく。そんなつもりじゃなかったと、こんなはずじゃなかったと、駄々をこねる子供のように、離れようと手足をばたつかせた。
己がしでかした所業に自嘲して、ニコラスは少女の手から両頬に触れた。
冷え切ったその頬に、自分の体温を分け与えるように包み込んだ。
結局、俺は英雄ではなく、偽善者だ。
「泣いていいんだぞ」
そう言われて、少女が硬直した。
「なく、泣く、『泣く』……?」
困惑した様だった。
なんでと言わんばかりに顔が歪み、迷子のような途方に暮れた顔をしていた。
「ずっと我慢してたんだろ。頑張ったな」
ニコラスは、こけてしまった彼女の頬骨を、親指でそっとなぞった。
「あの人たちに、会いたかったんだよな。ごめんな。何もできなくて、ごめん」
少女は口を開いた。
「いや、それは私がやった八つ当たりだから。謝る必要性は、」
ぽたりと、何かが落ちた。
「え……?」
少女が動きを止めた。
きょとんと、不思議そうに目を落とし、床にできた染みを何度も何度も指先で撫でた。
染みはどんどん増えて、少女の手にも滴った。
訳が分からないようで、少女は当惑していた。
「あ、――」
言葉の代わりに、呻き声が出た。
咄嗟に少女は顔を隠そうとしたが、ニコラスの手が頬を包んでいて、できなかった。
「あ、は、うぁ」
呻き声が震えた。零れていた雫は、もう目尻から溢れ出していて、ニコラスの手を濡らした。
「えあ、あ、あ――」
それは泣き声というには、あまりに不器用な慟哭だった。
嗚咽にもならぬ声を漏らしながら、しゃくりあげては呻く、酷く必死で下手くそな泣き方だった。
ああ、やっと届いた。
「おかえり、サハル。おかえり、ハウンド」
ニコラスは少女を抱きしめた。
また細くなってしまった身体をそっと包んで、赤子のように泣く少女の背を撫でてやった。
次の投稿日は11月17日です。
ようやく書きたかった山場を書けました。ここから先は、エンディングめがけて突っ走ります。




