9-3
「こちらが以前、あなたが提示した事業契約書となります。軍の傘下には入らないとのことでしたので、御社への事業委託という形を取らせていただきました。いくつかの項目をこちらで訂正しておきましたので、ご確認を」
依頼を頼む側の身でありながら、こちらに無断で契約書を訂正した目の前の男女を、ロバーチ一家当主ルスランは無感動に見やる。
指摘しようが、この二人を殺そうが、どうにもならないことは嫌というほど知っている。
女がテーブル上を滑らせたそれに触れもせず、ルスランは署名欄に目を落とす。
「直筆か」
「ええ、大統領閣下みずから書かれたものです。ご必要とあれば、筆跡鑑定も行いますが」
「要らん。失せろ」
それを聞くなり女の横に座っていた男が早々に立ち上がった。
そもそもこの男は、このコテージに入る以前から始終青い顔で、ともかく逃げだしたくて仕方ないという風だった。
男にならって女も立ち上がり、ブリザードのなか叩き出されることへの不満も述べず丁寧に別れを告げると、堂々と踵を返して部屋を出ていった。
その背後についてくる無数の銃口にも素知らぬ顔で、にこやかな微笑を最後まで崩さなかった。
「……大したものですね」
「本邦当局の工作員だ。この程度の歓待で態度を変えるような無能なぞ、弾避けにしかならん」
こちらの返答を聞いた右腕こと第一遊撃隊部隊長は、覆面の下で低く鼻を鳴らした。
彼だけではない。この場にいる部下全員が殺気立っていた。
先の工作員二人に安全装置を外した銃口を向け、話し合いの合間にわざとコッキングを鳴らすぐらいには。
先の男がずっと青い顔をしていた理由である。女ですら鳴った一瞬顔を強張らせた。
唯一顔色を変えなかったのはこのコテージの持ち主兼オーナーの中年男で、大欠伸を隠しもせず暢気に夕飯の準備に勤しんでいる。その足元に寝そべる三頭の犬も同様だ。
一方、よほど腹の虫がおさまらないのか、部隊長は低い声音で進言してきた。
「閣下、今からでも遅くありません。連中に“アレ”を引き渡しましょう。もともと奴は裏切者だ。連中だって奴の首を欲しがってる。それにアレは引っ掻き回すのが得意ですから、連中の目も多少我々から離れるかと」
「祖国ために働くのがそんなに嫌か」
「嫌だから捨てたんです。我らにとっての故郷はロバーチを置いて他にありません」
あなただってそうでしょう、という言外の訴えを、ルスランは黙殺して外を見やる。
灰色一色で覆われた窓には、何も見えない。先日もブリザードが襲ったばかりだが、この様子だと今回のは早く収まるだろうが、なにぶん積雪量が多い。
ロシア人が大半のロバーチ一家だが、特段シベリア・極東の貧困層出身が多く、寒さには強いが豪雪には不慣れだ。明日からの移動は多少手間取るだろう。
ルスランは返答に溜息を交えながら、その巨体をソファーに沈めた。
「この地にいる工作員は本邦のだけではない。他国の監視の目がある中では、我らとしても動きづらい。虫除け役がいる。部隊長、我々は使役されるのではない。我々こそが使役するのだ。それでも不満か」
「……いえ」
「結構。持ち場に戻れ」
その言葉を皮切りに、護衛を除く部下たちが踵を返す。少々まだ不服そうではあったが、部隊長もならって部屋を後にした――のだが、ものの数秒で戻ってきた。
「閣下、これを」
先ほどと打って変わり、やや困惑した様子の部隊長が差し出したのはスマートフォンだった。
そしてこれは部隊長名義のものではない。
コール音で震えるそれの画面には、通話相手の名が表示されていた。
ルスランは思い切り顔をしかめた。
***
『なんだ、元番犬』
開口一番でそう切り出したルスランに対し、ニコラスはスピーカーモードON状態のスマホを前にして、そっと生唾を飲みこんだ。えらく不機嫌な様子だ。
『取引の持ちかけなら不要だ。貴様にはもう価値がない。最初からさしてなかったが、今はもうその命すら無用だ。貴様が奴の捜索に使えないことは、シバルバの一件で証明されたからな』
「承知している。そのうえで頼みがある」
『断る。無価値なものが用意するものはすべからく無価値だ。二度とかけてくるな』
「セルゲイ・ナズドラチェンコがハックした端末がここにある」
一瞬の間があった。
どこからか、盛大なくしゃみの音が聞こえた。
『ほう? 奴が離反したのは知っていたか。いや、そう推理しただけか。この私に端から博打の取引を持ちかけるとは、あの女に捨てられたことがよほど堪えたと見えるな』
「別に推理でも何でもない。そもそもこの番号は奴の端末のものだ。それに違う奴が出たら、あんたの元にいないと判断するのが妥当だろ。元からあんたに忠誠を誓っている風に見えなかったしな。こないだのハウンド失踪の際に奴が彼女に協力していたことも知っている。どうだ、奴の居場所を知りたくはないか」
『興味ないな。裏切者の行方も末路も知ったことではない』
「幹部でもか」
そう尋ねると、ルスランは低く笑った様だった。
『他人のことよりまず自分の心配をしたらどうだ、駄犬。それとも現実を直視したくないだけか。私は貴様の切り札探しに付き合う気も暇もない。好きなだけそこで彷徨っていろ』
通話が途切れた。
会話の引き延ばしは、これが限界か。
息を吐くこちらに、横で息を潜めていた『ボクサー』の妻パメラが眦を吊り上げた。
「今ので終わり? 冗談でしょ。あんたの言ってた当てがある相手ってこいつのこと? 言われるだけ言われて一方的に切られただけじゃない。探偵ごっこやってんじゃないのよ」
「分かってるよ。――『盲目の狼』、どうです? 何が聞こえました?」
話を振られた老婆は顎に手をあて、目を閉じたまま虚空を見上げた。
「木の家がきしむ音、犬の息づかい、くしゃみ……はお前さんにも聞こえたね?」
「ええ。おっさんがしそうなえらく盛大のが」
「ありゃなかなか傑作だったねえ。あとは何かを煮詰める音と……ああ、それからエンジンの排気音もしたね。ブリザードのせいで車種までは分からないが、強いて言うならトラックに近いかね。けどありゃあトラックじゃないねえ」
「車種も分かるんですか? すごいですね」
「なぁに、普通の四輪車かスポーツカーかの違いくらいさ。大したもんじゃないよ」
「ねえ一体なんの話? ばあちゃんもあんたも何してるの?」
話が掴めないパメラが苛立ったように腰に手を当てた。ニコラスは種明かしをすることにした。
「奴の居場所を特定してたんだ」
「さっきのいけ好かない野郎を?」
「そう。五大マフィアの一つ、ロバーチ一家当主ご本人だ」
「……はあ!? 五大マフィアってあの、」
「ああ、特区に巣食ってる大ボスの一人だよ。俺はハウンドと一緒に特区の三等区に住んでたんだ。話、進めていいか」
パメラはまだ言いたげな顔をしていたが、黙って頷いた。
「五大マフィアは文字通り特区を支配する五家のマフィアたちの総称だが、当然一家ごとに特徴がある。さっきのロバーチ一家は構成員の大半がロシア出身で、ロシア政府との繋がりが深い。というか、付き合わざるを得ない」
「どういうこと?」
「一家が関わる仕事に、ロシア政府が援助してることがあるんだよ。ハイブリット戦争って聞いたことあるか? 軍事戦略の一つで、サイバー戦や情報戦、非正規戦なんかの色んな手法を混在させながら戦う戦争のことだ。正規軍同士が戦う昔からの戦争とはまた違う、新しい戦争スタイルだ。で、このハイブリット戦争における非正規戦では、民間軍事会社を使うことがある」
「それがさっきのその一家ってこと?」
「そうだ。ロバーチ一家はアフリカや中東で傭兵業や資源採掘を手掛けているが、ロシア政府からの極秘支援を受ける代わりに、その利権や情報の一部をロシア政府に流してる。つまり奴らの稼業の大半は、ロシア政府が絡んでるってことだ。言い換えればロバーチ一家は、ロシア政府が絡んだことには気を遣わなければならない。で、そのロバーチ一家が今、ハウンドと『失われたリスト』を求めて、このアッパー半島に乗り込んできてる。ロシアを含めた他国の工作員がうじゃうじゃ潜むレッドゾーンにだ」
そこまで言うと、パメラの目がきらりと光った。
「つまりその一家がハウンドって子の捜索に、ロシア工作員の協力を仰いでる可能性が高いってことね」
「そうだ。それを利用する」
「具体的には?」
「ロバーチ一家の居場所をロシア以外の国の工作員に漏らす。んでそのまま囮になってもらう」
「マフィアを餌に使う気?」
正気かとばかりに目を剥くパメラに、ニコラスは事もなげに言う。
「その方がこっちとしても動きやすくなるからな。工作員からすりゃ、俺と大物マフィアだったら確実に後者をマークするだろ」
「そりゃそうだけど……どうやって場所を特定する気よ」
「そのために『盲目の狼』に協力してもらったんだ。――〈木の家がきしむ音〉、〈犬の息づかい〉、〈くしゃみ〉、〈何かを煮詰める音〉、〈トラックのようなエンジンの排気音〉」
ニコラスは老婆が聞き取ってくれた音をメモ帳に箇条書きで書き出していく。そのうちの一つを丸で囲った。
「まず注目すべきはくしゃみの音だ」
「くしゃみですって?」
「ああ、そうだ。ところでパメラ、こいつを見てくれ。ロバーチ一家当主の顔写真だ。こいつをどう思う?」
「すごく……物騒ね。人10人ぐらい殺しまわってきた直後の殺人鬼の素顔って感じ」
「そうだ。すごく顔が怖い。でだ、こいつの前で思いっきりくしゃみする気になるか?」
「ならないわね。むしろ引っこんじゃう」
「そういうことだ。つまり、くしゃみの主はロバーチ一家当主と顔見知りの可能性が高い。で、工作員である可能性も低い。工作員なら俺との電話に耳を澄ませるだろうからな。ってことは恐らく一般人だ」
「この顔の前で盛大にくしゃみするとかどんな心臓してんのよ……。この当主の出身ってどこなの?」
「極東ロシアだ」
「その地方出身の移民ならこの辺りにもいるわね」
「ああ。それに天気予報図でも絞り込める。こっちにはまだブリザードはきてないからな。それとあまり広い部屋にもいない。調理する音が聞こえるってことは、ボスのいる場所とキッチンがそう離れてないってことだ。となると、ヴィラみたいな高級別荘じゃなくて、コテージかバンガローのような宿泊施設にいるってことになる」
「これで〈何かを煮詰める音〉と〈木の家がきしむ音〉が解決したわね。あとは〈犬の息づかい〉……狼ばあちゃん、犬の犬種とか分からない?」
「ううん、小さくはないねえ。この子みたいな大きな犬だ」
『盲目の狼』がお伴の狼の背を撫でる。パメラは腕を組んで唸った。
「ロシア系で犬を飼ってるコテージなんていくらでもあるわ。どうやって絞り込むの」
「いいえ。まだ大きな手掛かりが残ってるわ、パメラ」
唐突に差し込まれた声に、ニコラスたちは驚いた。『トゥーレ』の妻、マルグレーテである。キッチン入り口に立った彼女は、悪戯っぽくウインクした。
「酷いじゃない。私に黙って推理ごっこだなんて」
そういう彼女の目元はまだ赤くて、何も言えずに固まっていると、マルグレーテはやんわり微笑んだ。
「何かできることがある方が気を紛らわせる気がするの。推理なら任せて、こういうの得意だから」
マルグレーテはメモ帳の箇条書きに目を落とし、
「さて、ロシア系の男性で調理中でコテージを営んでいて犬を飼っている、だったわね。最後の手掛かりは〈トラックのようなエンジンの排気音〉。これが鍵ね」
「何か分かりますか、ミセス・セーデン」
「グレーテでいいわ。さっき狼おばあちゃんも言ってたけど、電話してた時はブリザードだったのよね? けどブリザードの中、車を出したりするかしら?」
言われてみればそうだ。いくら雪国使用とはいえ、あんなブリザードの中での走行など自殺行為だ。
「普通の車じゃ到底無理よね。でもエンジン音はした。ということは、あのブリザードの中でも走行できるような車ってことよね。そういうの、こっちにもいくつかあるのよ。特にロシア出身の方はこっちにも重機を持ち込むことがあるの」
そう言って、マルグレーテは端末を見せた。ブラックベリーという、数年前まで流行っていた機種だ。
その端末に映った画像は――
「これ……」
「戦車みたいでしょう? 雪上車って言って、タイヤの部分がキャタピラなの。南極観測隊で使われてたりするみたい。で、私が資料用に撮らせてもらったこのお宅はアラスカの人だったんだけど、こういうの持ってる人、他にもいるらしくてね」
「グレーテ、その人と連絡とれますか?」
「もう取ったわ。さっき電話して、その人に雪上車持ちの人をリストアップしてもらったの。いたわ、ロシア系の人。それもちょうど今、暴雪雨警報が出てる地域に住んでて、個人でコテージの貸し出しをやってる。オーナーも中年男性よ。セントバーナードとアラスカンマラミュートを飼ってる」
ビンゴだ。
ニコラスは美しい名探偵の情報をもとに、さっそく住所を確認した。
***
『ふぅん。そこにあの芋イワンがいるってワケ?』
ルスランと同様、電話に出たヴァレーリ一家当主フィオリーノも不機嫌マックスだった。
当然、電話をかけても取り次いでもらえず、カルロの携帯に直接ルスランの居場所突き止めたこと、現在進行形でセルゲイに乗っ取られ中の端末が手元にあることを伝えると、数分後にかけ直してきた。
「ああ。ちゃんと確認も取った。ロシア人贔屓で有名なオーナーらしくてな、特に同郷の極東ロシア出身者は厚くもてなすそうだ。で、そのコテージも一週間前からずっと予約が埋まりっぱなしで貸し出し不可になってる」
「この真冬にそんなど田舎のコテージが予約で埋まるはずもない、か。なるほどねぇ。で、どうすんの?」
何がしたい、と問われてニコラスは周囲に誰もいないことを確認した。
そしてコートに口元をうずめて深呼吸する。でないと本当に肺が凍りそうになるからだ。
「例の五人の兵士の遺族を護衛してほしい。ハウンドにとって俺はもう用済みだが、彼女たちは違う。あんたらにとっても悪い話じゃないはずだ」
身も蓋もない話、パメラたち遺族はハウンドにとって人質になり得る、ということだ。
最低な物言いだが、こう言わないとフィオリーノは動かない。
何より現状、ニコラスだけでは遺族を守り切れない。
相手はあの『トゥアハデ』だ。27番地の住民の協力を仰いだところで、相手になるかどうかも分からない。背に腹は代えられなかった。
とはいえ、遺族に聞かせられる話ではないので、こうして外に出て話をしているわけだが。
「対価はさっきも言った、ルスランの居場所とナズドラチェンコが乗っ取った端末だ。上手くやればナズドラチェンコの居場所も特定できる。ハウンドもそばにいるかもな」
『だがいないかもしれない。セルゲイ・ナズドラチェンコがヘルと合流を果たしているという保証はない。対価としちゃお粗末すぎるね。ていうかお前、この俺が芋男の動向把握してないと思ってんの?』
「だったら他国の工作員とのコネクションはどうだ」
ニコラスはそこまで言い、端末から耳を放して「出てきたらどうだ」と叫んだ。
返答はない。
「じきにブリザードが来る。そこに隠れたままだと凍死するぞ」
しばらくして、雪に埋もれた針葉樹林の幹の影から、一人の男が現れた。
「いつから気付いていた」
男ははっきりとしたイギリス英語で問うた。あの酷い訛りは微塵もなかった。
「初めからだ。彼女たちはとっくに気付いていたぞ」
「……あの盲目ババア、ぼけたフリしやがって」
お喋り兎と呼ばれたイギリス工作員は小声で悪態をつきながら、雪をかき分けてやってきた。
ニコラスは再び端末に耳を当てた。
「遺族を監視してたイギリス工作員だ。ロバーチ一家はすでに本国の工作員の協力を取り付けてる。けどあんたのとこはまだだろ。多少のツテはあっても、この場所で活動中の工作員と連絡を取るまでに時間がかかるはずだ」
どうする?
フィオリーノが押し黙った。
日の落ち切った暗闇を、雪まじりの突風が唸り声を上げて吹き荒ぶ。じきにここもブリザードが飲みこむだろう。
ニコラスは睫毛についた霜をこすり落としながら、辛抱強く待った。
さあ、どう出るか――。
『やだね。そのコネは貰うけど、護衛は断る』
「……そうか。なら俺も教えない」
『あのさぁ、そういうとこが詰めが甘いって言ってんの。俺とコネ結ぶってことは、ヴァレーリ一家の協力を得るってことよ? そんな美味しい話、工作員が見逃すはずがないじゃん』
振り返れば工作員は前のめりになり、ぎらついた目でこちらを凝視していた。今にも飛びかかって端末を奪いそうな勢いだ。
『お前が教えなくとも、向こうはそうじゃないってこと。駄犬にしちゃ頭捻った方だけど、目の前で手の内を明かしたのは不味ったね』
「……分かった。なら好きにしろ」
交渉失敗だ。遺族の護衛は、呼び寄せた援軍でなんとかするしかない。
ニコラスは工作員に端末を放り、踵を返した。
遺族たちと、今後の作戦を立てなければ。勝算は極めて低いが、セルゲイとの交渉も視野に入れる必要がある。
そう思考を巡らせつつ、隠れ家の裏口の扉に手をかけた時だった。
「おい、お前にまだ話があると言ってるぞ」
工作員に呼び止められ、ニコラスは顔をしかめた。
「なんだ。もう俺は用済みなんじゃないのか」
「おい、用済みなんじゃないのかって言ってるぞ。……ああ? 奴なら今、家に入ろうとしてる。……顔? いや、別に特に変わった様子もないが」
そこまで話して、工作員は顔をしかめて端末をこちらに差し出した。
「お前が話してくれ。何だかよく分からんが、舌打ちされた」
「はあ? なんで」
「俺が知るかよ」
それはそうだ。ニコラスは訳が分からないまま、端末を手に取った。
「なんだ。もう俺に手札はないぞ」
『………………猫』
「猫?」
『つい最近うちから逃げたんだよ。お前の方こそ好きにすれば?』
かけた直後以上に不機嫌な様子で切られ、ニコラスは意味が分からず立ち尽くした。
工作員が呆れつつも、愉快そうに顔を歪めた。
「意味が分からないって顔してるな。奴に切れられた理由が分からないのか?」
「……分かるのか」
「ああ、今のやり取りを見て察したよ。昼飯でも食いっぱぐれたか? 夕飯が待ち遠し過ぎておつむが回らないみたいだな、ええ?」
「……」
「ははっ、そんな腹ペコ狙撃手殿に一つヒントをやろう。あの手の輩はな、お前みたいな奴が大嫌いなのさ」
そんなもの言われなくても分かっている。出会った当初から蛇蝎のごとく嫌われているのだから。
すると工作員はますます意地悪く忍び笑いを零しながら、森の中へと消えていった。
あと30分もしないうちにブリザードが来るのだが、凌ぐ術は持ち合わせているようだ。
――ひとまず戻るか。
ニコラスは今度こそ踵を返した。が――、
重低音の警笛が鳴り響く。
ぎょっとして振り返ると、眩い光が目を焼いた。
腕で遮ってよく見れば、それは白色の長方体を横倒しにしたような姿の車両だった。下にはキャタピラがついている。
「新型南極観測用雪上車【OHARA-LAV】。日本で唯一の雪上車専門メーカーさ。寝床にキッチン付き、もちろんメイド・イン・ジャパンだぜ?」
「ケータ!」
後部扉から飛び降りてきた小柄な青年に、思わず叫んだ。
ニコラスが呼び寄せた27番地からの援軍である。
ここ数日、精神的に参ることが多かったせいか、友人の屈託のない笑顔がやけに心に染みる。
「私もいるわよ。この辺りは先住民も多いから、力になれると思って」
「アレサも来てくれたのか」
自分以上に長身の健康的な美人は、長い黒髪を翻しながらこちらへやってきた。
ミチピシ一家当主であり、スー族・シャイアン族・アラパホ族連合の長でもあるオーハンゼーの孫である彼女がいれば、この地の住民との交渉がやりやすくなるだろう。
というか。
「こんなものどこで用意したんだ?」
高さ四メートル近くありそうな雪上車を、ニコラスは見上げた。するとケータとアレサはそろって肩をすくめ。
「持つべきは金のある協力者だな」
「運転テクニックもね。彼、ほんとなんでも操縦できるのね」
「彼?」
ニコラスは思わず後部扉から運転席を覗いた。そこには――、
「ベネデット……!?」
「よう、番犬。元ヴァレーリ一家当主側近のカルロ・ベネデットだ」
サングラスがむかつくほど似合う大柄な色男は、事もなげにそう言うと片手を上げた。
***
――とある学者の手記
●5月20日 晴れ、風強し
一緒に食事をしましょう、という私からの申し出に、ゴルグさんは渋った。夕飯で席を共にするのはともかく、サハルを同席させることを嫌がったのだ。
家族でもない未婚の女が男と食事を共にするのはどうとか言っていたが、私は押し通した。最終的にゴルグさんは折れた。
そうして、ゴルグさんがサハルを連れてきた。
多少痩せ怪我が増えていたものの、肌質や髪を見る限り不健康というわけではなかった。あどけない様子も変わりない。
だがその異様な目に私は思わずたじろいだ。
なんと言ったらいいのか、茂みに身を隠した獣が、暗がりからこちらをじっと凝視しているような、そんな目をしていた。
私はそんな困惑を出さないよう、食事の用意を進めた。その様子をゴルグさんは胡乱気に無言で眺めていた。
用意が終わり絨毯に料理を並べて、さあ食べようという時になって、私はゴルグさんを連れ立って席を外した。
何のつもりだ、とゴルグさんは問うたが、私は黙って家を出ると、南側の窓の近くへ向かった。そこが自分たちが食事をしようとしていた居間で、サハルが残っている部屋だった。
私は窓へそっと近寄り、サハルが食事をしているのを確認すると、ゴルグさんにも見るよう促した。それを見るなり、ゴルグさんは絶句した。
サハルは四つん這いになり、手を使わず口だけで皿に顔を突っ込んで食べていたのだ。
ゴルグさん食事の作法に関しては厳しくサハルに言いつけていた。だが彼女は今、犬のように夕飯を貪っている。ゆえにショックを隠せないようだった。
あなたの前では作法を守るのかと尋ねると、ゴルグさんは頷いた。私はやはりだと思った。だから私はこう言った。
今のサハルは、あなたの前で人間のフリをしているだけの犬です、と。
気付いたのは四日前だ。久しぶりにサハルに会って、以前のように私がビスケットをあげるとサハルは食べなかった。美味しくなかっただろうかと私がビスケットを口にすると、サハルはようやく食べ始めた。
だが彼女はビスケットを手で受け取らず、口で受け取ろうとしたのだ。
驚いた私がなぜそうするのかと尋ねると、彼女はこうしなければいけないのではないのかと首を捻った。ゴルグさんの前でそうしないのは、そうしないと怒られるからだと言った。
私がそう話すと、ゴルグさんは言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
ゴルグさんのせいだけではないことは分かっている。人買いに売られ、空爆を受け、村人たちに冷遇された。そのうえ今回の誘拐だ。
多感な年頃の幼子がこうも惨たらしい仕打ちを立て続けに受ければ、その影響は計り知れない。
そのことでゴルグさんは酷く自分を責めたのだろう。だからサハルを家に閉じ込めて村人たちから守り、自分がいない間も自力で対処できるよう、大急ぎで彼女を強くしようと訓練に励んだ。
けれど結果的に、それは彼女を本当の意味で犬にしてしまった。
しばらく経って、我に返ったゴルグさんは急いで居間へ戻ると、サハルに自身の名を言えるかと尋ねた。
彼女は言えなかった。サハルはもう、自分の名前すら忘れていた。村人たちがよく口にする蔑称の『狗』を自分の名だと思っていた。
名も忘れ、自身を『狗』と名乗ったサハルに、ゴルグさんはその場に膝から崩れ落ちた。黙ったままサハルを抱きしめ、そのまま動かなくなってしまった。サハルはずっと不思議そうにしていた。
もはや食事どころではなくなり、私はサハルを寝かしつけた後、ゴルグさんと話し合うことにした。
ゴルグさんはどうしたらいい、と言った。完全に憔悴していて、途方に暮れていた。
私はそれに対する回答を持たなかった。だが一緒に考えようと言った。そのためにできることは何でもするつもりでいた。ゴルグさんは、何も言わなかった。
その日、ゴルグさんは一睡もせずに朝を迎えた。帰る時も始終無言で、けれど彼はサハルを抱き上げて歩き始めた。
いつもなら決してそんなことはしないのだろう、サハルは酷く驚いた顔をしていた。だが直後、花が咲いたように笑って、嬉しそうにゴルグさんの首にしがみついた。
私が手を振ると、彼女は満面の笑みで振りかえしてくれた。それは誘拐される前のサハルと同じだった。
これが、今朝起こった出来事だ。
私は、未だに何を知ればいいか分からない。私は所詮しがない考古学者。この地で始めた灌漑にしても、現地住民が飢餓で苦しみ、遺跡発掘どころの騒ぎではなかったために始めた素人事業だ。
私がこの地でできることは限られている。それでも願わずにはいられない。
明日もまた話しにいこうと思う。
次の投稿日は10月6日です。




