9-2
〈2014年1月28日 午前11時10分 アメリカ合衆国ミシガン州 アッパー半島 ハイアワサ国有林近郊〉
到着後、早々に猛吹雪に閉じ込められて早三日。ようやく青空が見える日を迎えた昼過ぎのことだった。
「ウェッブさん、で、いいかしら」
『コリー』の妻、マルグレーテ・セーデンに話しかけられて、ニコラスは「しまった」と思った。
ここへ来た当初から彼女がずっとこちらを見つめていることには気付いていた。その視線の意図も。
だからこそニコラスも全力で避けていた。
疑ってはいるものの、行方不明になったと信じ帰りを待っている遺族に、「あなたの夫は無残に殺されてすでに死んでいます」などとは、口が裂けても言えなかった。
どうすれば一番彼女らが傷つかずに済むか、最適解が出せずにいた。
そういった迷いが顔に出ていたのだろう。マルグレーテは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんなさいね。ちょっとでいいの。昨日までの猛吹雪で倉庫のドアが凍っちゃってて、私じゃどうしても砕けないのよ」
こちらが避けているのを気付いたうえで、下手に出た頼みだった。こうなるともう断りようがない。
ニコラスは気遣わせたことに心底申し訳なく思いながら、すぐにスコップを肩に倉庫へと向かった。
物の数分で倉庫のドアをこじ開けると、マルグレーテは感嘆の吐息を漏らした。
「すごいわね。私、30分かけても開けられなかったのに」
「持ち方があるんです。スコップならこう、両手で持ち方を変えるんです。この方が腰を痛めないし、楽に地面を掘れる。氷も一緒みたいですね」
「そうなのね。ありがとう、助かるわ。私もちゃんと鍛えないと駄目ね。もう腕がくたくた」
「お仕事は作家、でしたっけ」
「そう。基本座りっぱなしのデスクワーク。唯一の肉体労働といえば、ぐずる娘を抱っこするぐらいかしら」
怠けたツケが回ってきちゃったわ、と苦く笑うマルグレーテに、ニコラスは首を振る。
「力仕事なら俺がやりますよ。足はこんなですが、多少のことはできますから」
「ありがとう。でもあなた、急いでるんでしょう? ハウンドさん、だったかしら。その人を探しにきたんでしょう。本当なら私たちの手伝いなんかほっぽいて飛び出したいぐらいに。ずっと気もそぞろだもの。それとも私たちにどう接していいか分からなくて困ってる? あなた口下手っぽいし」
返答に窮するこちらに、マルグレーテはますます苦笑を深めた。
「私が書くの、推理ものが多いから。職業病ってやつね。気を悪くしたのならごめんなさい。親切なのにずっと気まずそうに仕事してたから、気になって。あと女の人、苦手よね? あんまり視線合わないし。パメラなら大丈夫よ。彼女、口はああだけど世話好きで優しいのよ」
「いえ、その、それは完全に俺側の問題ですから、彼女を嫌ってるとかそういうわけでは……」
「分かってるわ。私やパメラみたいな年齢の女性が苦手なのよね。イーリスや狼おばあちゃんは平気だもの」
物の見事に言い当てられて閉口していると、マルグレーテは吹き出した。
「あなた思ったよりずっと誠実なのね。なんだか避けられてる感じだったから、私もあまり関わらないようにしてたのだけど。ごめんなさいね、苦手なのに付き合わせて」
「いえ、女性が不得意なのは俺の問題ですから。俺の方こそ気を煩わせて申し訳ない」
「いいえ全然。だって困るでしょう。夫がまだ生きてるって信じてる遺族に、もう死んでますって伝えるの」
思考が完全に停止した。
油の切れたロボットよろしく緩慢に振り返れば、マルグレーテは出会った時と同じように儚げな微笑を浮かべていた。
「言ったでしょう、推理もの書いてるって。夫の班にね、ちょっとやんちゃな若い子がいたの。双子で孤児院の出身でね、その孤児院の牧師様がこないだ亡くなったの。『消えた五人の真相を暴きにいく』って言ったきり。私、これでもミステリー作家なの。こんなお約束展開みせられたら、嫌でも何かあったって思うわ。そして今のあなたの表情を見て確信した」
やっぱり、あの人はもう居ないのね。
微笑を浮かべたまま俯く『コリー』の妻、否、未亡人の横顔に、ニコラスは心臓を叩き潰された気分になった。
口を開いては閉じ、また開いては閉じを数度繰り返して、言葉を絞り出す。
「本当は、こちらの安全を確認してからお話しようと思ってたんですが――」
観念したニコラスは事の真相を語り始めた。ここまで察せられているのなら、黙っていても仕方がない。むしろ黙っている方が不誠実だと思った。
文字通り、知っていることのすべてを話した。
一人の少女のため、自ら狗を名乗った五人の兵士の最期を。
聞き終えたマルグレーテは、しばらく黙した後「そう」とだけ呟いた。
「あの人は、私たち家族よりその子を選んだのね」
震える声を飲みこむように息をのみ、天を仰ぐその横顔に、何も言えなかった。
「あの人らしいわ」
ニコラスは崩れていくマルグレーテの微笑を眺めながら、立ち尽くすしかなかった。
それまでの笑みが、感情を堰き止めるための最後の堤防でしかなかったことを、思い知らされながら。
***
「ちょっと。いつまでその辛気臭い顔してるつもりよ。鬱陶しいんだけど」
芋を剥く手と止めて振り返ると、パメラは刺々しい台詞に似つかわしい苛立った表情をしていた。
「手際がいいのは認めるけどそんな顔するぐらいなら出てって。夕飯準備の邪魔」
「……元からだ」
そう返すとパメラは「あっそ」と吐き捨てて、塩で真っ白に固まったサラミを力任せに切り落とした。
「ていうかさ、こっちの状況考えればわかるでしょ。私らだって馬鹿じゃないの。こんだけ普通じゃないことが起こりまくったら多少のことは察するわよ。特にグレーテは勘がいいのよ。何を気遣って黙ってたのかは知らないけど、そういうの余計なお世話」
「…………彼女に察せられたことにショックを受けてるんじゃない」
「あのねえ」
腰に手を当て語気も荒くパメラが振り返る。
ニコラスは肩がびくりと跳ね上がるのを押さえられなかった。思わず手元の芋を取り落とすこちらに、パメラの表情に驚きと罪悪感が入り混じった。
よほど酷い顔をしていたのだろう。飛び出た発言も刺々しさが抑えられていた。優しくはなかったが。
「私らにとって一番大事なのは家族なの、夫なの。そういう仕事だから彼らが家族最優先にできないのは仕方ないって割り切ってたわ。けど“無関係の民間人”のために命を懸けたなんてなったら話は別よ。あんたにとってそのハウンドって子はすごく大事なんでしょうけど、私らにとっても夫の命はかけがえのないものだったのよ」
「分かってる。…………すまなかった」
顔も見られず手元に目を落とすばかりのこちらに、パメラが盛大に溜息をついた。
「それで? あんたこれからどうすんの。そのハウンドって子、探しに行くの?」
「そのつもりだ」
「だったら早く出てったら。またブリザードで足止めされるわよ」
「そうしたいのは山々だが、今は無理だ」
「なんで」
「今の俺じゃ何を言っても彼女を止められない。あの子はあんたの夫やコールマン軍曹たちのことは大事だったんだろうが、多分この国のことは好きじゃない。むしろ恨んでる。身を滅ぼしてでも復讐する気のあの子を、俺はなんて言って止めたらいいか分からない。イーリスも、」
言葉を区切り、取り落とした芋の皮と芽を取ってボウルに放り込む。
「その辺りが分かってるんだろう。だから何も言わないし、どれだけ聞いてもどこへ行ったか教えない。今の俺じゃハウンドの元へ向かわせたって何もできないって察してるんだ。俺としてもあの子の居場所が分からないんじゃ、動きようがない」
「ふぅん。じゃあどうすんの、このまま黙って大人しくここで待ってる気?」
そう言いつつ、隣に立って剥いた芋を洗って鍋に放り込むパメラに、ニコラスは「いや」と首を振った。
「準備が整い次第ここを出る。一つ、当てがある」
「当て?」
「あの子の居場所を探す方法だ。試したいことがある。それに、あんたらの護衛も必要だ。今、俺の知り合いがこっちへ向かってる。こっちの居場所を特定されないよう慎重にな。彼らと合流でき次第、ここを発つ」
「あんたね、」
「余計なお世話だってんだろ。けど俺にとってはそうはいかない。あんたらはあの子にとって守るべき大事なものなんだ。あんたらがどう思おうとな。あの子が守るってんなら、俺も守る。同じ戦場で戦った身としても、五人の遺族のあんたらを放っておけない」
ハウンドは、パメラたち五人の遺族を守るために費用を、自分の金から出していた。27番地の金には一切手をつけなかった。
あくまで五大マフィア相手に依頼で稼いだ金を、ほぼ全額遺族に投じていた。そして、自分にも。
「迷惑をかけたのは事実だし、何も知らせず申し訳なかったと思ってる。けどあの子があんたらを守るために必死だったのも事実なんだ。それだけは分かってくれ」
パメラは何も答えず、黙って芋の入った鍋をストーブ上に置いた。が、すぐに鍋をまた持ち上げるとテーブルに置き、つかつかとこちらに詰め寄った。
「何したらいい?」
「え」
「こっちだってもう待つだけはうんざりなのよ。そのハウンドって子なら夫のこと知ってるんでしょ? 何したらいいの。どうやったらその子に会える?」
真剣な眼差しで見上げられ、一瞬、呆気にとられるもすぐに口元を引き結ぶ。
「まず『盲目の狼』の力が必要だな」
「狼ばあちゃんの?」
「呼んだかい?」
「きゃっ」
背後のドアからひょっこり顔をのぞかせた老婆『盲目の狼』に、とパメラが少女のように肩を跳ね上げた。
すぐに真っ赤になって「見てないでしょうね」とばかりに睨む彼女から目を逸らしつつ、ニコラスは存外お茶目な老婆の元へ歩み寄った。
「この老いぼれの力が必要かい?」
「ええ。頼みたいことがあります。きっと、あなたにしかできないことです」
***
〈2014年1月28日 午後2時26分 アメリカ合衆国ミシガン州 キーウィノー半島 ハンコック クインシー銅山跡〉
「『ディラン』、『スェウ』、起きろ。仕事だ」
頭を叩いてやりたいのを辛うじて堪えたような声音を浴びて、『スェウ』と呼ばれた双子の弟は刮目する。
「起きている。瞑想だ」
「ほう、世界平和のためにでも祈っていたのか。それともこちらの話を聞きたくないだけか」
目線を上げれば、苛立った様子のアングロサクソン系の中年男が、侮蔑の色も隠さず見下ろしていた。
弟はその光景を瞠目して遮断した。
「……子供らのために祈っていた。お前はなにも思わないのか。確かに未熟ではあったが、クロム・クルアハは我らと同じ“銘あり”の同胞であった。朋の死を悼むのは、そんなにおかしなことか」
「おかしなことだな。そして無意味で無価値だ。奴は死んだ。弱く愚かだったから死んだ。それだけのことだ。作戦に何の寄与もしない存在のために時間を割くなど時間の浪費でしかない」
「スェウ」
兄『ディラン』が名を呼び窘める。
弟はすぐに矛を収めたが、別に引き下がったわけではない。「相手にするのも無駄だ」という兄の忠告に従っただけだ。
「で、今度は我らに何をしろと?」
兄が胡坐を組んだまま尋ねると、中年男は「報告だ」と語気を強めた。
「我が王への報告の際は同席しろといつも言っているだろう。余計な手間をかけさせるな」
なるほど、それで現場指揮官みずから出向いてきたわけか。
『ヌアザ』の銘をもつこの男は、徹底した合理主義かつ現実主義者だが、王の前だと形式にこだわる節がある。部下を背後に並べて自分が立派に指揮官をしている様を王に見せつけたいのだ。
この男らしい傲慢で狭量な虚栄心といえる。
我ら“銘あり”はすべからく同胞、兄弟だ。
地位だの階級だので縛り区別する他の組織とは違う。それが『トゥアハデ』だというのに。
「仕え甲斐のない将もいたものだ」
「全くだ。王の意向を解さぬのはどちらなのやら」
音も出さず、唇を動かしただけの呼気で会話した双子はのそりと立ち上がった。
男はすでに立ち去っているが問題ない。自分たちの方が男よりずっと背も高く足も長い。すぐに追いつく。
等間隔に投光器が設置された坑道を、双子は大股で進む。
頭のてっぺんから爪先まで黒づくめの、黒い髪と瞳と肌のその姿が影法師のごとく浮かび上がるたび、通りすがる隊員が足を止め最敬礼で見送った。
結社『双頭の雄鹿』が保持する私設武装組織『トゥアハデ』、うち動かせる部隊の半数がこの前線作戦基地、アッパー半島の北西部、キーウィノー半島の銅山跡坑道を活用した地下基地に集結している。
しかしながら、ここに至るまでかなりの紆余曲折があった。
隊員の集結にも一年間かけて少しずつ、素性を偽り各々別ルートを使用して移動させた。
アッパー半島の至る所に潜伏している他国の工作員に目をつけられぬための処置だった。
――呼称『パピヨン』、本名イーリス・レッドウォール。元フリーのジャーナリストだったか。
弟は事前に閲覧した、暖炉の側で揺り椅子に揺られながら刺繍を嗜む姿が似合いそうな、上品な老婆の画像を思い出して人知れずほくそ笑む。
この老婆がアッパー半島を工作員の巣窟にしたのだ。
詳細は不明だが、恐らく『失われたリスト』に関する情報の一部を他国へ流したのだろう。
その証拠に、アッパー半島へ最初に潜伏した工作員は、老婆の親族がいるフランス政府関係者だった。
虫一匹殺せないような顔をしてよくやる。そして、そんな女に協力を取り付けたあの少女も。
『順調のようだな、ヌアザ』
指揮所の簡易テント内に入るなり、設置されたアルミ製テーブル上の軍仕様のPC「タフブック」が口を開いた。
男が姿勢を正す。
画面に映る我らが王ことアーサー・フォレスターは、律義に男の背後に佇むこちらにも視線をやってから、鷹揚に頷いた。
『各国の動きは対外活動チームから報告を受けている。現時点で勘付いた国はゼロといっていいだろう。流石の手際だな、ヌアザ』
「はっ。ですが標的に張り付いたイギリス工作員をまだ排除できておりません。ご命令とあらば、いつでも」
『そう急くな。それについてはこちらから本国へアプローチをかけている。それに、今回の最重要は彼女ではない』
王は再びこちらに目をやると「彼らだけと話がしたい」と男に言った。
男は己だけ席を外されることに一瞬だけ不服そうにしたが、すぐ神妙な面持ちで頷くと踵を返した。
残された双子は、王の御前にて先ほどとさして変わらぬ態度で言葉を待った。
『多少のことは聞いている。クルアハの死を悼んでくれたそうだな。ありがとう』
双子は合わせ鏡のように同時に低頭した。王が長く深く息をつく。
『憐れな子だった。実の兄に母親を売られ、その憎しみゆえに兄を手にかけ、麻薬密売人を狩る獣となった。父親を知らないせいか、私のことをよく慕ってくれた。同じ獣の彼ならばと思ったが……残念だ。彼もまた救われるべき存在だった。あんな無残な最期を迎えていい人間ではない』
ほんの少し語気を震わせる王に、弟は意外に思った。顔には一切出さなかったが。
国益を最優先に容赦なく駒を使い潰す男と思っていたが、情はあったらしい。
『だが彼は偉大なことを成し遂げた。志半ばで倒れたのが悔やまれるが、彼のお陰でようやくブラックドッグを引きずり出せた。彼もきっと本望だろう。我が祖国のため名実ともに英雄となった少年に、私は心からの敬意を表す。そしてディラン、スェウ、今度は君たちが彼の意志を継ぐ番だ』
弟は兄にならって再び低頭する。表情筋を総動員して真顔を保ちながら。
「無論、心得ている。あれは我らの獲物」
「我ら兄弟は決して獲物を逃しはしない」
『心強い言葉だ。頼りにしているぞ、ディラン、スェウ。どうかあの憐れなブラックドッグを救っておくれ。殺しておくれ。それ以外に彼女が解放される道はない』
それだけ告げて、通信は途絶えた。
「……恐ろしい男だ」
「ああ」
弟の呟きに、兄が頷いた。
情を抱いたまま駒を使い捨てるならまだ分かる。そういった者は大抵、情を押し殺して泣く泣く駒を捨てる。だがあれは、そういった次元ではない。
もっとおぞましいものだ。
「だが解放しろとの命には賛成する」
「同感だ、気が合うな、弟者よ」
「当然だろう」
我ら双子は銀の車輪の子。
捨てられ呪われし我らみなしごは、乙女を騙りし愚者の罪過の証左、衆人に暴かれた恥辱の象徴。
親も知らず、国も知らず、互いの存在のみを拠り所に生き抜いてきた我らにとって、この世に存在する憐れな子はすべからく愛おしむべきものであり、憐れむべきものだ。
「早く殺してやらねばな」
「そうだな、兄者」
双子は王の命を胸に身を翻す。極寒の大地で人狩りが始まった瞬間だった。
***
――とある学者の手記。
●1月1日 晴れ
あの子を攫った人間が判明した。タリバンに雇われていた傭兵集団だ。傭兵の片手間、人攫いなどの略奪行為もやる連中だという。
そいつらがここの村はずれの一家を襲い、一家が我が身かわいさでゴルグさんの家を売ったのだ。
ゴルグさんは私が掘った水路の調査への付き添いで定期的に家を丸一日空ける日があって、その間、家にいるのはサハル一人だった。
そのことをその一家は知っていた。ゴルグさんのこともよく思っておらず、日頃から『不信者』と陰口を叩いていた。
とはいえ、一家にも年頃の娘が二人いた。娘を守るためとなれば責められない。
今はともかくサハルの行方だ。こういう荒事はゴルグさんの方がよっぽど頼りになるので、力になれない己の非力が憎たらしい。
サハル、無事でいておくれ。
●1月2日 快晴
ゴルグさんが帰ってきた。傭兵たちは見つかっていない。サハルも行方知れずのまま。ゴルグさんはすぐにまた出ていった。
●1月3日 曇りのち雪
村のモスクへお祈りをしてきた。
作法も何も分からない上に異教徒の私を、イマーム(礼拝の指揮者)は快く迎え入れてくれた。本当にありがたいことだ。何人かは私と一緒に願ってくれた。
けれど長老の方々はよく思っていなかったようだ。モスクを出るなりゴルグさんの御父上から色々と問い詰められた。
彼はゴルグさんに早く再婚してほしいらしく、サハルのような孤児にうつつを抜かしてほしくないらしい。
御父上からゴルグさんへの説得を頼まれたが、断った。ゴルグさんは、私が説得した程度で己の決意を齟齬にする男ではない。
そう伝えると、渋い顔をしながら帰っていった。
これ以上書くと御父上の悪口を書いてしまいそうなので、今日はここまで。
(以降、少女が見つからない旨が不安そうに綴られる日が続く)
●3月3日 雪のち雨
色んな事が立て続けに起こったので、まとめて書く。
一つ、あの子がようやく見つかった。ゴルグさんが見つけ、連れ帰ってきた。
信じられるだろうか。なんと彼女は、人買いのところではなく闘犬場にいたのだ。
例の傭兵集団に攫われた際、傭兵の一人の手に噛みついたことに腹を立てた連中が、知人の闘犬を育てる飼育家の元へ売り払ったらしい。
そのうえ捕えている間、犬のような扱いをして、あろうことか闘犬とも戦わせていたのだという。
これだけでも酷すぎて言葉にならないが、最悪なのはここからだ。
サハルは避妊させられていた。
のちに娼館に売るための下準備だったのか、はたまたただ弄んだだけだったのか。どちらにせよ、連中が彼女を思って避妊したのでないことは、手術痕を見れば明らかだった。
知人にドイツ人の医者がいて本当によかった。すぐに連れていって処置をしなければ、彼女は破傷風で死んでいただろう。
知人の医者も手術痕を見るなりどこの素人がやったと怒り狂っていた。
ともかくサハルは一命をとりとめた。今はそのことに安堵するしかない。
ゴルグさんは、サハルの無事を聞くなり、無言で家を出ていった。
二つ、ゴルグさんがその傭兵集団と闘犬の飼育家を皆殺しにした。
サハルが一命をとりとめたと告げた翌日に出ていって三日後、血塗れで帰ってきてそう言った。
飼育家から闘犬を買っていた人間がゴルグさんの元へ抗議しにきたが、事の顛末を話すと蒼い顔で帰っていった。
飼育家が住んでいた村と、うちの村とで話し合いが行われ、ゴルグさんの行いは不問になった。
この地には仇討の文化があり、かつ国が定めたルールより村の掟が優先される傾向がある。
長老の息子だったこともあり、ゴルグさんが罪に問われることはなかった。
三つ、ゴルグさんが変わってしまった。
以前に増して頑固になり、口をきかなくなってしまった。
サハルに、自分のことを『カーフィラ』と呼ぶように強制し始めた。
村人が不信者と誹るのをもじったのか、はたまた指揮官の隠語として使いたかったのは分からない。だがサハルへの訓練は前よりずっと過酷なものになっているようだった。
体罰の回数も増えた。以前は怪我をすればすぐに治療に来ていたが、今はもうよほどのことでない限り連れてこない。
サハルを厳しく躾ける彼の姿に、村人も長老会も何故か納得したような、安堵した顔で見守っている。
狗の子は狗らしくしていればいいということなのだろうか。理解に苦しむ。
村人とてハザラ人と付き合う者は少なくないだろうに、パシュトゥーン人と同じ緑の目というだけで、ここまで冷遇されるものなのか。
かつて我が国も、戦後増えた白人とのハーフを蛇蝎のごとく忌み嫌ったという。ここで起きているのも、それと同じことなのだろうか。
こんな状況だからか、サハルも家から全く出なくなってしまった。
前は人目を避けてはいたものの、市場へ行ったり、私とも一緒に夕飯を食べたりしていたのに。夜に遊びに出かけることもなくなった。
サハルは元気だろうか。ここ最近はめっぽう会う機会が減った。前回の傷が膿んだりしていないだろうか……。
(以降、少女を案じながら日常を綴る日が続く)
●5月19日 晴れ
久しぶりにサハルに会ってきた。
結論から言う。あれは駄目だ。あのままでは、サハルは本当に狗になってしまう。人ではなくなってしまう。
今晩、ゴルグさんに会いに行く。会って説得する。怒鳴られても拒まれても退く気はない。あの子のためにも、彼のためにも。
次の投稿日は9月29日です。




