エピローグ
「……おい。なんか、様子おかしくねーか?」
犬の一時撃退に成功し、最後のフロアに向け、慎重に接近していた頃だった。
ニコラスもまた、セルゲイが発した違和感を察知していた。
コンテナ上部から垣間出したSR-25のスコープが捉えた視界、100メートル前方。コンクリート壁に空いた、掩体壕にも似たトンネル型の洞がある。
そこが通路奥、最後のフロアであり、車体に括られた自動追尾型飛行ドローンが、その洞へ突入しようとぐいぐい紐を引っ張っている。
ハウンドがこの先にいる証拠だ。
洞の中ではすでに戦闘が開始されており、銃撃があちらこちらで勃発、天井の足場でもシバルバ構成員が慌ただしく動き回っている。
だが何かがおかしい。
シバルバ構成員が次々と、フロア出入口から転がり出ている。車両で洞を囲んで銃座を敷き、その居並ぶ銃身は洞内部へと向けられている。
あたかも何かを待ち構えているかのように。
何より違和感を掻き立てるのは、男たち表情だ。
頬をひきつらせ、歯を剥き出しにして遮二無二で洞から飛び出してくる。その見開かれた目は血走り、視線は常に背後へと向けられている。
故だろうか、ここまで接近しても(セルゲイに至っては、思い切りコンテナの上から頭を出しているのだが)向こうが気取った様子は欠片もない。気を向ける余裕すらないというか。
――何かから逃げている……?
「……『トゥアハデ』が出て来たのかもしれない。急ごう。ジャックとウィルはケータと一緒にここで――」
瞬間。
突如、車両側にいたシバルバ構成員が一斉掃射を開始した。
訓練された人間の示し合わせた秩序ある射撃ではない。追い詰められた者が恐慌の末に行う防衛本能。映画でエイリアンに追い詰められた乗組員が、形容しがたい絶叫とともに発砲するそれと同様だった。
無茶苦茶にぶっ放された弾丸で、逃げ遅れた男たちがバタバタ薙ぎ倒されていく。血狼煙と肉片が舞い、倒れ伏して動かなくなってもなお射撃は止まない
あまりに救えぬ、惨たらしい光景だった。
動く者が完全にいなくなり、装填も忘れて銃をひしりと抱え込んだ男たちが、ぜい、と肩で息をつく。
束の間、静寂が満ちた――それを、一発の轟音が容赦なく蹴散らした。
男の首が飛んだ。
弾丸で千切れ飛んだらしいそれは、先ほどのシバルバの一斉射が可愛く見えるほどの悽惨さで、しかも一発だけでは済まなかった。
轟音が鳴るたび、シバルバ陣営から抉り取られた人体の一部が飛散し、周囲のコンテナやコンクリート壁に張り付いて紅く彩る。
ニコラスは凍りついた。
その轟音に、聞き覚えがあった。
洞から影が飛び出した。
弾の起動が見えているのか、シバルバの集中砲火をものともせず影が突貫する。
左右無秩序に跳び奔り、死体を踏みにじって跳躍。
ぶちり。
男の一人の喉笛に喰らいつき、そのまま噛み千切った。
首から血を撒き散らし、男が倒れる。それより早く、影は次の獲物に飛びかかり、その見開いた両目に指を突き立て、眼窩を鷲掴んで引き倒す。
影が咆哮した。
それは人の出せる声帯からかけ離れて、自ら喉を潰すような、獣のものとしか思えぬ血を吐くような絶叫だった。
「ッ……!」
あまりの光景に直視できず、スコープから目を離す。
けれどショックを受けたのは、その光景にではない。
血に濡れた揺れる黒髪。その隙間から微かに見えた、深緑の瞳。
あれは――。
「あー……こりゃ駄目だ。しばらく隠れっぞ」
「……久しぶりに見たな、あいつの本気」
「お前、初見じゃねーの」
「初対面の時に。アレでうちの首領は惚れこんだ。お前は」
「“13日の攻防戦”で監視してた時に。――駄目だ。完全に戻ってやがる」
神妙な面持ちで呟き身を引くセルゲイとカルロを尻目に、ニコラスは堪らず車両運転席に飛び込んだ。もう、見ていられなかった。
「ちょっ、おまっ、何やってんだ!?」
「あれはハウンドだ! 加勢にいかねえと……!」
「馬鹿野郎っ、巻き添えで喰い殺されてえのか!?」
その言にぎょっとしたケータが急いでコンテナ上によじ登った。その後を追って様子を見ようとしたジャックとウィルを「見るな!」と凄まじい剣幕で押し留める。
エンジンキーを回そうとする手を、セルゲイが白い両手をより白くして押さえ込む。細いくせにどこからこんな力が出てくるのか。
その手を引き剥がそうと藻掻くこちらに、セルゲイが真剣な表情で顔を近づけた。
「いいか、番犬。今だけは絶対に出るな。加勢でも近づくな。今のあいつを人間と思うな。やるならお得意の狙撃で何とかしろ」
「でもっ」
「でも、じゃねえよ。うちのボスですらあの馬鹿相手するときゃ必ず武器もつんだぞ。自衛のためにだ」
自衛のために武器を持つ?
「それは、どういう」
「昔、古巣にいた頃、聞いたことがあんだよ。進化の過程上、人間は原始人だった頃の方が遥かに長い。ゆえに“原始的な殺し方であればあるほど恐怖を抱く”。
銃より剣、剣より棍棒、棍棒より歯。残虐さを増すごとに、その殺害方法は獣に近づく。アレはそう仕込まれた女だ。より敵の戦意を奪えるようにな。
だからうちのボスはあいつとやり合う時、絶対素手でやらない。戻っちまうんだよ。人間から獣にな」
落ち着くまで放っておけ。それが一番安全だ。
そう語るセルゲイの発言は、間違いなく正しい。
少し見ただけで分かる。今のハウンドは正気じゃない。敵味方の区別がついているかどうかも分からない。
セルゲイの手が離れた。こちらの拳から、力が抜けていくのを見てとったから。
そうだ。
死なない程度に見守って、我に返るのを待つ。
それが最善――。
「ちょっ、この野郎! 人の話聞いてたか!? 出るなっつってんだろっ」
キーを回し、エンジンをかけたニコラスの肩をセルゲイが慌てて掴んだ。それを払いのけることなくサイドブレーキを下ろし、エンジンを吹かす。
「ならついてくりゃいいだろ」
「ああ!?」
「戻ろうが戻るまいが、やることは一つだ。……ハウンドの周囲の敵を排除する。お前らだってそうだろ。このままみすみす敵にリストを奪われてもいいのか」
途端、セルゲイが押し黙った。カルロがポケットに手を突っ込んだまま無言で歩み寄り、ケータが武器を携えて強張った顔つきのまま立ち上がる。
そうだ。あの粉雪ちらつく宵闇で、約束した。
隠し事をされても、何も話してもらえなくてもいい。
憎まれても、恨まれても、利用されたって構わない。
けれど。あの子が帰れなくなった、その時は――。
「――迎えに行く。シバルバも『トゥアハデ』も、あいつに近づけさせない」
***
「班長、どうして命を大事にしなきゃいけないんですか?」
そう尋ねた時、ラルフは酷く困った顔をしていた。
大人にいきなり理不尽に叱られて、訳が分からず戸惑ったような、途方に暮れたような。そんな顔だった。
だからハウンドは聞くのをやめた。聞いてはいけない質問だったのだ。
フロアに逃げ込んだシバルバ構成員が次々に罠にかかっていく。増援もなく、『トゥアハデ』からも撃たれる彼らは捨てられたのだろう。当主ガルシアの命令を忠実に守って、逃げ遅れて。
クルアハが遺した落とし子で穿たれ、刺され、吹き飛ばされて。底へ真っ逆さまに落ちていく彼らを、ハウンドもまた容赦なく追い立てる。
獲物とはそういうものだ。獲物側に回ったのが、彼らの運の尽きだ。
手近な男の腱を切断し、もつれ転んで必死の形相で振り返った男の首筋に、大口開けて喰らいつく。
『人齧んなっつったろッ! 病気になったらどうするんだ!?』
そう怒鳴ったのは、ベルだったか。
当時、ラルフ以外誰も自分に近寄ろうとしなかった頃、そう容赦なく叱りつけた。心配ゆえの叱責は久しぶりで、大いに面食らった。
――大丈夫です。もう大体の毒にも病気にも、耐性をつけたから。
べっ、と引き千切った血肉を唾ごと吐き捨て、口元を拭うと足元に弾を撃ち込まれた。四散した火花で、出所は瞬時に判った。
『なるべく銃を使おうか。無理な接近をせずに済む。便利な道具は使ってこそだよ』
そう窘めたのは、トゥーレだった。
相変わらず悲しいニオイをまとわりつかせた笑顔で、自分の手からナイフをそっと取り上げた。
接近戦しか知らず、生傷の絶えぬ自分をいつも泣きそうな顔で見ていた。
――問題ありません。弾道なら、読めるようになりました。
銃口が向けられた瞬間に跳び、駆け、向けられてはまた跳ぶ。
避けた弾が髪や頬を掠め、毛と皮膚が切れた。
投擲。銃剣が射手の喉元に突き立つ。その銃把を握って、横へ薙ぐ。
輪切りにされた真っ赤な気管を晒して、射手は倒れた。
その真横の観測手と護衛は、一人は両脚の関節という関節の血管を切断して引き倒し、もう一人は口元に銃剣を叩き込んでそのまま引金を引いた。
口から肛門へ弾が貫通し、首が消し飛ぶ。回転弾倉に血肉が詰まった愛銃は、そのまま放棄した。もうこれは、使えない。
直後、またも弾を撃ち込まれる。もうシバルバ構成員は残っていないのか、『トゥアハデ』からの攻撃が多くなった。
こいつはいい。
『トゥアハデ』は銃を使う。銃を使う者は、見つけやすい。
次の射手はすぐに見つかった。逃げられないと悟った途端、狙撃銃を捨て、拳銃とナイフを引き抜き構えた。
けれど、場所が悪かった。こちらの接近対策にと、背後を除く三方を罠に囲まれた位置に立っていた。
『……二度とするな』
そう吐き捨てたのはレム。
敵からの追撃を受けた道中。退路を阻む即席爆弾の解除中に追いつかれ、皆を逃がそうと解除した爆弾を抱えて突っ込もうとしたら、物凄い力で引き倒されて殴られた。
会話はおろか、決して自分と関わろうとしなかった人だったから、どうしてそんなに怒るのか理解できなかった。
――心配しないで。限度ぐらい、把握してますから。
ワイヤーを引っ掴み、罠を作動させる。三方向の罠が一斉に作動し、槍と矢で射手はハリネズミになった。
こちらにも何本か刺さったが、問題ない。急所はすべて外してある。
『お前さ。――なんで、そういう事すんの』
あれはロム。
敵にわざと掴まって情報を掴んで意気揚々と帰還したら、酷く落ち込まれた。
ちょっと爪を剥がされただけなのに、いつも陽気で楽観的なロムが、そう呟いたきり、項垂れたまま動かなくなってしまった。
――なんで、でしょうね。
殺戮する片手間、そんなことをぼんやりと思う。
彼らの道徳は理解できる。尊いものだと思っている。
けれど、どうしても分からない。
なぜ、生き残ったのがよりによって自分なのか。
なぜ無価値な自分が生き残って、生きるべき彼らが死んだのか。
気がつけば、一面、死体で埋め尽くされた道の上に立っていた。
返り血で服が重い。酷使した全身の筋肉が痙攣している。息を吸っても吐いても、血の味がした。
「……何とか言ってくださいよ。駄目なんでしょ、こういうの」
そう呟いてみるも、なに一つ、返ってくる言葉はない。
当然だ。みんな死んでしまったのだから。
自分のせいで。
鈍ったのだ、自分は。狗のままでいればよかった。
人らしい欲なんて出すから、こうなる。――だから、ニコラスも死んだ。
所詮は『失われたリスト』の鍵。ただの道具。
狗と育てられた自分が、人らしい願望なぞ、抱いてはいけなかったのだ。
銃声が聞こえた。
まだ敵が残っていたかと、血で足を滑らせながらも駆け出す。
度重なる出血と疲労で思考がよくまとまらない。自身のかも分からぬ血が目に流れ込んで、視界が歪む。けれど、
まあ、いいか。
殺せばいいんだし。
見つけた。こちらに気付いていないのか、射手は別方向を撃っていた。
好都合だ。
射手の仕留め方は簡単だ。撃つ方角の斜め後ろから忍び寄って強襲する。
大抵の奴は気付かないし、気付いたとしても、その頃にはもう相手の銃口を視認できる距離にいる。
あとは弾道を読んで、弾を避けながら襲えばいい。
簡単。簡単。
獣を殺すより、人を殺す方がずっと簡単だ。
案の定、射手はこちらが跳躍するまで、気付けなかった。
射手の首を鷲掴み、引き倒す。そのまま馬乗りになり、膝で両腕を固定して身動きを取れないようにした。
トドメに、その苦しげに歪んだ両目に、指を伸ばす。
「……ウ……ド――」
射手が、声を絞り出した。愛する人の名だろうか。よくあることだ。そのまま殺そう。
けれど、なぜか腕が動かない。時が止まったかのように、全身が硬直している。
なぜだ?
早く殺さねば、こっちが殺られるというのに。
必死に瞬きする。紅く朧気だった視界が、徐々に明確になっていく。
懐かしいニオイがした。
「え」
思わずそう、声を漏らした。
全身が小刻みに震え始めた。首から何とか指を引き剥がし、その頬をぺたぺたと触る。油の切れた機械人形さながらのぎこちなさで、震える指先を首筋に伸ばす。
温かい。脈がある。
「ニ、コ……?」
途端、射手は眉根を寄せて瞠目し、長く息をついた。
「やっと戻ってきたな。……おかえり、ハウンド」
***
眼球が大きく揺れ、深緑の双眸に光が反射した。
よかった。なんとか正気に戻ってくれたみたいだ。
血塗れの彼女をそっと押しのけ、半身を起こす。
上を見れば、コンテナ山の上からこちらを見下ろしていたカルロ、セルゲイ、ケータが強張らせた表情を一気に脱力させた。
万が一に備えて、自分ごとハウンドを撃って止めてもらうつもりで、隠れてもらっていたのだ。
「マジか、コイツ。本当に成功させやがった」
「いやさ。確かにあのガキの脅迫メールで死んだと思わされた可能性はあったけどよ……ふつーそこで自分を襲わせるとかしちゃう? ほんと。いくらなんでもドン引きだわ」
「よかった……撃たずに済んで本当によかった……」
へなへな顔でその場にへたり込む三人に、ニコラスは頭を掻く。
一か八かの作戦であったのは否定しない。けれどいま思えば、心当たりはあったのだ。
先日出勤して着替えようとしたら、ロッカー自分の制服一式が消えていた。
てっきり誰か勝手に修繕か洗濯に回収したのだと思っていたが、考えてみれば、来店した客であればカフェ『BROWNIE』のバックヤードに誰でも入れるのだ。
クロム・クルアハがどうやって27番地に侵入したのかは不明だが、これまでの奴のやり口をみるに、ハウンドへの精神攻撃として自分が死んだと思わせる工作は十分考えられた。
鼻のいい彼女を誤魔化すなら、自分の制服を盗んで使うのが最適だ。
ともかく、だ。
「すぐにここから脱出しよう。立てるか、ハウンド。幸い一人、行方不明者をジャックたちが見つけてな。無事に保護できた――ハウンド?」
無言で立ち上がったハウンドを、ニコラスは訝しんだ。
後ろへ一歩下がろうとしてよろめいた彼女に慌てて手を伸ばす。その手を、パン、と。はたき落とされた。
「ハウンド……?」
ニコラスは困惑した。
なぜ彼女が逃げるのか理解できなかったし、どうしてそんなに怯えた様子で顔を歪めているのか、分からなかった。
「ごめんね、ニコ」
いきなり謝られて、ますます混乱する。
ハウンドは苦しげに眉根を寄せて目を眇め、頬を強ばらせて口端を吊り上げた。
それが無理矢理につくった笑みだと気付くのに、かなりの時間を要した。今にも顔をくしゃくしゃにして泣いてしまうのではないかと思った。
「やっぱ私。そういうの、いいや」
「は……? ハウンド、お前、何を――」
瞬間。
ドン、と空気が揺れた。
その空を裂く特徴的な噴出音で、ニコラスはすぐに気付いた。
「RPGッ!」
ニコラスは知る由もなかったが、実際は対戦車兵器のRPG-7ではなく、携行式多目的ミサイルのFGM-148ジャベリンであった。
それも弾頭の成形炸薬を極力抑え、ロックオンした標的を自動追尾した後、距離20メートル以内に到達すると起爆するよう細工された特注品だった。
ゆえに、ニコラスが叫んだ次の瞬間、ミサイルはすでに爆破していた。
炸裂した閃光と衝撃波を、ニコラスは為す術もなく、もろに食らい、
転瞬。
それを、小さな背が遮った。
ハウンドが自分の頭部を抱え込むよう飛びついていた。
爆風が容赦なく襲いかかる。
殺害ではなく負傷に留める程度で抑えた炸薬量でも、人を吹き飛ばすなど造作もなかった。
「ッ……!」
音と平衡感覚が消え、半開きの口から肺の空気が強制的に排出された。臓器がふわりと持ち上がる感覚で、落下しているのがわかった。
けれど、どうしようもなかった。
唯一できたのは、ハウンドを抱え込んで、落下の衝撃に備えることぐらいだった。
空白。
誰かに引きずられる感覚で、目を醒ます。
すぐにハウンドを探そうとするが、全身の骨と筋肉が軋む激痛で指一本動かせない。血の味がする口を必死に開くが、呻き声しか出てこない。
それでもニコラスは、焦点の合わぬ眼球を何とか動かして、少女の姿を探した。
ひたり、と。頬を何かが包んだ。
「ごめん、ニコ」
鼓膜をやられたのか、上手く聞こえない。水の中から聞いているようだ。
けれどニコラスはその声に、ハウンドが無事だったことに心の底から安堵した。
頬を包んでいた温もりが離れ、右手に移る。何かを握らされている。冷たくて、小さな――。
「これ、返すね」
途端、さあっと思考が冷えた。
握らされたもの。これは、ハウンドにあげたはずの弾丸の首飾り。
待て。待ってくれ。
「今までありがとう」
右手から、温もりが離れる。
ニコラスは必死に抗った。思考は明確なのに、身体が動かない。
朧げな視界の中で、小柄な体躯が霞の中へ消えていく。
待て、ハウンド。行くな。
渾身の力を振り絞って指を動かし、腕を持ち上げる。けれどその手は、何も掴まなかった。
***
「ニコラス!」
叫び声で、刮目した。視界は明瞭。鉛色の空を背景に、こちらを覗き込むケータとジャック、ウィルの顔が見えた。
激痛を訴える全身を無視して、ニコラスはケータに掴みかかった。
「ハウンドは!? あの子はどこだ、無事なのか!?」
びくりと肩を跳ね上げたケータが、おろおろと視線を彷徨わせる。「あ」とか「う」とか無意味な言葉を発した後。
「そいつは知らねえよ。俺たちが見つけた時には、お前しかいなかった」
と、頭上から呟かれた。見上げれば、血と土埃でぼろぼろのカルロが、疲れ切った様子で煙草をふかしていた。
その横には、同じく襤褸雑巾のような酷い恰好のセルゲイが、地面に胡坐をかいている。
「てめーを掘り出すだけで3時間もかかったぜ。俺たちの救出も含めてな。ったく、お前らといるとほんと碌な目に合わねえ」
「……シバルバと『トゥアハデ』は」
「シバルバの方はほぼ壊滅だ。跡を継いでも向こう10年は再起不能だろーよ。『トゥアハデ』は特区外へ撤退した。今、うちの連中が行先を追ってる。じゃじゃ馬も行方不明。唯一の手掛かりはおめーだが……、おめーも知らねえんじゃもうお手上げだな」
セルゲイにそう言われ、ニコラスは絶望した。
どうして。
握らされた右手の首飾りに目を落とす。
あの日、託したはずの祈りを、願いを、約束を。すべて突き返された気がした。
これからどうすればいいのだろうか。何をすればいい?
そう項垂れた、矢先。
「やっと見つけた! ニコラス、無事かい……!?」
息を切らしたその声に、ニコラスは仰天のあまり振り返った。その場で聞くはずのない声だったからだ。
「店長!? それに、先生も」
「酷い有様だな、軍曹。いつもなら強制的に休ませるところだが……」
小走りに駆け寄る店長の背後、悠然とした足取りで現れたアンドレイ医師は、周囲を固めるヴァレーリ・ロバーチ両家の護衛に一切気後れすることなく目の前に膝をついた。
「先生、」
「軍曹。負傷早々で悪いが頼みたいことがある。まだやれるな?」
真っ直ぐに射貫くその視線を受けて、ニコラスは口元を引き結んだ。右手の中の首飾りを、ぐっと握りしめて。
一つ、力強く頷いた。
***
あの娘が初めて店にやってきた日のことは、よく覚えている。
真冬の吹雪の晩、当時のヴァレーリ当主からの制裁で、電気もガスも止められ、廃材や家具を叩き割って作った薪でなんとか寒さを凌いでいた頃。
雪が吹き荒ぶ宵闇の中から、彼女はふらりと現れた。
第一印象は最悪だった。
空っぽ。一言で表すなら、そんな印象の少女だった。
どんな目に合えば、あんな目の子供ができるのか。虐待を受けて捨てられた子だって、もう少し感情豊かだと、空恐ろしくて堪らなかった。
それほどまでに、彼女の目は空虚で感情が欠落していて、諦念と絶望で塗り潰されていた。
そんな彼女が宿代がわりにヴァレーリ当主を暗殺し、27番地を我が物にして帰ってくるなど、誰が予想しただろうか。
こちらが漏らした愚痴を、見ず知らずの年端もいかぬ少女があっさり解消してしまうなど、夢にも思わなかった。
以来、あの娘は私たち27番地の統治者になった。
空っぽな目の代わりに、うわべの笑みを張り付けて。
縄張りを侵すものとルールを破った者への制裁はともかく苛烈で、刃向かう者はすぐにいなくなった。
当初こそ困惑したものの、悪い子ではないと分かるまでに、そう長い時間はかからなかった。
冷酷であれど苛虐ではなく、非情であれど無慈悲ではなかった。
年にそぐわず無欲で義理堅く、懐に入れた者は何がなんでも守ろうとする信念があった。
だから皆、畏怖しながらも彼女を支持した。
自分たちも同様だった。妻と共に、彼女へ感謝の思いを込めて身の回りの世話をした。
元はと言えば、自分が漏らした愚痴が原因だ。何よりいい年をした大人が、十代の少女に頼り切りな負い目もあった。
彼女もまた、礼儀正しく謝意をきちんと受け取る子だった。
けれど、彼女から薄ら笑みが剥がれることはなかった。
美しい深緑の双眸も、いつの間にか黒く塗りつぶしてしまった。
綺麗ではあったが、ぽっかり虚が開いたような目が、苦手だった。
どれだけこちらが努めても、決して本心を明かすことも、頼ることもしてくれなかった。
彼がこの街にやってくるまで。
「店長、すみません。助手を一人、雇いたいんですが……」
珍しく歯切れ悪く申し出た彼女に、顔には出さなかったが、それこそ腰を抜かすほど驚いた。
あれほど「自分こそを助手に」と言い寄る男どもを鬱陶しげに追い払っていた彼女が、自ら助手を選んでくるとは!
そのうえ連れてきたのが、よりによってチンピラの喧嘩に巻き込まれて死にかけた退役軍人で、ますます驚いた。
その日から、彼女は変わった。
住民とは一線を引いていた彼女が、彼には積極的に関わり、せっせと世話する様子に驚きを隠せなかった。
病院嫌いゆえ、あれほど避けていたアンドレイ医師の元へ足しげく通い、事あるごとに彼の治療方針を相談するようになった。
表情もいつにも増して豊かになり、冗談も口にするようになった。
それが、戦争で深く傷ついた彼を気遣ってのことなのは明白だったが、それだけではないのも自分は気付いていた。
彼へのカウンセリングが上手くいかないと、論文から『男心のホンネ』だなんて得体のしれないエッセイ本まで古本屋で引っ張り出して、うんうん頭を捻りながら勉強していた彼女が、酷くいじらしかった。
他者と距離を置いていた彼女が、彼のためならばと明るく振舞い、時にちょっかいまでかけて励ます様子が微笑ましかった。
空っぽだった彼女の目に、光が宿った。
嬉しかった。
そんな彼が徐々に回復していって、元の自立した立派な大人の男に戻るにつれ、今度は彼女に変化がみられるようになった。
演技ではない、素の感情を見せるようになった。時に我儘を言い、恥じらうようになった。
極めつけは彼へのクリスマスプレゼントだ。
「店長。男の人って、なに貰ったら喜びます……?」
真っ赤な顔で視線を左右に散らしながら頼みこむ彼女は、本当に愛らしかった。
彼の前では年相応に、時にはそれ以上に幼い一面で甘える彼女を見て、心の底からホッとした。
もうそこに、ただの義務感だけで街を守る、空っぽな目をした統治者はいなかった。
だから今回の件も、妙な胸騒ぎを堪えながら送り出した。
彼が居るなら大丈夫だと思った。彼さえいれば――。
そう思っていたのに。
目の前に立つ、空っぽな目の少女を見て、顔が歪むのを堪えられなかった。
ああ。
戻ってしまった。
嘆くこちらを一瞥もせず、少女は真っ直ぐに妻を見据えて口を開いた。
「メールで伝えた通り、ついてきていただけますね。『パピヨン』」
『パピヨン』?
聞き慣れぬ名に困惑する一方、妻は無言で立ち上がった。
瞬間、すべてが線で繋がったような衝撃に打ち据えられて、立ち尽くす。
「そうか。君が持っていたあの絵本は……」
「ええ。例の記事の青年から預かったの。それが許してもらう条件だったから」
ああ、そうか。そうだったのか。
だから君は、ずっと後悔していたんだね。
あの記事を書いてしまったことを。あの青年を巻き込んでしまったことを。
だからこそ、この特区に移住してまで――。
少女の元へと歩き出した妻に、思わず手を伸ばす。
「イーリス」
「ごめんなさい、あなた。これはけじめなの。私なりの、ね」
妻にそう言われ、ライオール・レッドウォールは悲痛な面相で口をつぐんだ。
皆に店長と慕われる穏和な顔はそこになく、ただ愛しい人との別れを拒む頑なな老人がいるだけだった。
妻はゆるりと、少女の血塗れの手を取った。円舞曲流れる舞踏会へと誘う、姫君さながらに。
「さあ、行きましょうか、ハウンド。あなたの最後の旅路に」
予告通り、来週に第9節プロローグを投稿します。
なので、次の投稿日は6月14日です。
プロローグ投降後はまたプロット作成と書き溜め期間のため、2か月お休みを頂きます。




