8-13
豪雨と見紛う弾幕に鼓膜が割れそうになる。
ニコラスは思わず頭を抱え、身を丸めた。耳を塞ぎたかっただけではない。
「散らばるな、固まれ! 跳弾でやられるぞ!」
機銃掃射と遜色ない、見境のない発砲である。
周囲の床や壁はコンクリート、遮蔽物となる海洋コンテナは金属。これらからなる迷路に弾を撃ち込めば、当たらずとも跳ねた弾がそのうち獲物を射抜く。
――張り出し足場を金属板で覆ったのはこのためか……!
「なんで俺らばっか狙うんだよっ、不公平だろ!?」
セルゲイが悲鳴に近い抗議を上げる。銃撃戦には慣れっこの彼でもこれは怖いだろう。
ただ敵に狙われるのではなく、どこから飛んでくるか分からない跳弾に身を晒すのは。
「俺らが銃持ってるからだろ、くそっ。番犬、撃ち返すか!?」
「ダメだ!」
ニコラスはカルロに怒鳴り返した。
「手数が少なすぎる、打ち返してもこっちが先に弾切れだ。向こうもそれを狙ってる」
「んじゃどうすんだ」
「敵の弾が途切れるタイミングで気を逸らしてくれ。それと、鏡あるか?」
「さっきガキどもに使ったやつなら」
そう言ってカルロが放ったのは、アイシャドウと思しき化粧道具のコンパクトケースである。開いてみれば、なるほど、小さな鏡がついている。
それを確認するなりニコラスは、遮蔽物のコンテナを背に、カルロたちの反対側へ移動した。
すでに限界を訴える鼓膜の悲鳴を無視して、耳に意識を集中させる。
銃声は連射、フルオート。
屋内ゆえ反響して姦しいが、そこには一つ法則性がある。
比較的反響が抑えられた明瞭な銃声と、反響して不明瞭な銃声だ。位置は前者が近く、後者が遠い。
次に弾痕。大きさから察するに、9mmパラベラム、.45ACPなどの拳銃弾と、5.56mm NATO等の小銃弾といったところか。
弾頭も見つけた。床に突き刺さっている。弾頭径がやや大きいので、AK-47系列に用いられる7.62×39mm弾だろう。
つまり、敵の保持する銃火器は短機関銃もしくはマシンピストル、AR-15、M-16等の突撃銃。
あと、やたら連射音の長いこれ。先ほどの弾頭から推測するに、円筒形弾倉を使用したRPK軽機関銃(ソ連で開発された軽機関銃)か。
ニコラスは軽く唇を食むと、先ほどのアイシャドウケースを開いた。
そっと鏡を覗かせ、すぐに引っ込める。
鏡に映った、銃口炎で瞬く銃眼、その位置、数。
ニコラスは深呼吸を一つ、丁寧にすると、“照合”を開始した。
先ほど見た建物構造、いま目にした光景、観測した敵の数、配置、距離、仰角、音。
――RPKのドラムマガジン装弾数は75発、トンプソン(アメリカで開発された軽機関銃)が.45ACP弾で毎分700発だから、7.62×39mm弾ならもう少し遅い……。
つまり、RPKなら一つの弾倉を撃ち尽くすのに、大体8、9秒かかる。途切れ途切れに撃てば10秒以上。
今、20秒経った。
そう思った矢先、音がほんの少しだけ止んだ。あのやたら長い連射音が止まっている。
案の定、RPKの敵が弾倉交換に入ったのだ。
すかさずカルロたちが発砲を開始する。
本来なら、撃つタイミングをずらして弾倉交換が重ならないよう調整するのだが、そこまでの訓練は受けてないと見える。
またも機銃掃射と見紛う豪雨が降り注いだ。
耳元や足先を跳弾が掠めていく。そんな中、ニコラスはスコープを調整しながら、冷静に待った。
敵がまたも、一斉に弾倉交換に入るタイミングを。
銃声の切れ間を。
10秒経った。連射音が、また止んだ。
その間隙を突いて、ニコラスは身を乗り出した。
発砲、二発。
弾はすべて銃眼に吸い込まれ、次の瞬間を見届けることなくニコラスは身を引き、場所を移動する。
当てる必要はない。銃眼の中に数発撃ち込めればいい。
SR-25が使用するのは長距離射撃仕様の7.62×51mm弾。弾頭が重いぶん、進入角度が浅ければよく跳弾する。
今度は敵が跳弾に晒される番だ。
敵の射撃が集中する。が、またも音が途切れ、その間隙をぬってニコラスは発砲した。
撃って引っ込み、移動する。そしてまた撃つ。
一撃離脱。
難しいことではない。基本中の基本だ。ただ教わったことを繰り返すだけ。
それに敵の銃火と跳弾が加わっただけの話だ。
そうしてニコラスは、着実に銃眼を一つ、また一つと潰していった。こういう時にこそ、速射性に優れるSR-25は効果を発揮する。
何より、すべて200メートル以内の狙撃だ。外す道理はない。
「ウェッブ、来たぞ!」
セルゲイの叫びにハッとする。
複数の吼え声が近づいている。狩犬のご来場だ。
短く悪態をついて、ニコラスは狙撃に集中した。
もう少し。犬が肉薄するまで、少しでも――。
瞬間。
「ッ!?」
右側から、一つの影が躍りかかった。一頭だけ先行していた犬が、音もなく忍び寄っていたのだ。
犬が銃身に噛みつく。それを何とか振り払い、銃口を向けるも、両脇から新手の二頭が飛びかかるのが早かった。
しくじった。
もはや正面の一頭を撃っても、残り二頭に喰いつかれる。
自身の判断の過ちに後悔した、その時。
犬二頭が吹っ飛んだ。
「うぉっ!?」
ニコラスは思わず尻もちをついた。
眼前を猛スピードで通過した巨体が犬三頭を道連れに疾走していく。
高らかに吠えるはエンジンの駆動音。その巨体に窓はなく、四つ脚がわりのオフロードタイヤが床との摩擦で白煙を噴き上げる。
全地形対応車、後背に荷台を備えた四輪駆動、三人乗りオフロード車である。
オフロード車はドリフト停車で半回転し。
「おい、全員生きてるか!?」
「ケータ!?」
運転席から身を乗り出した顔にニコラスは仰天した。
紛れもない、囮作戦を逆手に取られて敵に捕らわれたはずのケータである。
道中ぬぐったのか、顔の化粧が半端に崩れて酷いことになっている。エクステの髪も自分で切ったらしく、端が不揃いでざんばらだ。
これにはセルゲイもカルロも度肝を抜かれたらしく。
「は、ちょっ、日本人!?」
「お前どっからきたんだ」
「そういうの後にしてくれ! こっちも追われてる身なんだよっ」
ケータはハンドルを切り返しながら叫んだ。その視線の先を追って、理解した。
左奥、後方通路。こちらに急接近するオフロード車が四台。
うち、先頭に乗っているのは、以前カルロとセルゲイにコテンパンにやられたシバルバ幹部である。
「待て小娘ぇッ! 落とし前つけてやるっ」
「だから別人だって言ってんだろッ、しつけえぞ!」
怒鳴り返すケータを見て、ニコラスたちは互いを一瞥した。
どうやらこの地下道は、16番地にも通じていたらしい。そしてあの馬鹿幹部は、ケータの変装を見抜けなかったようだ。
「ねーペンギンちゃん、となり乗ってもいい?」
「こいつは三人乗りだよっ、あと荷台! 乗りたきゃご自分でどうぞ!」
ビシリと背後を指差すケータに、セルゲイをはじめ、全員がなるほどと頷く。
なら、獲りに行こう。
ニコラスたちは、即座に標的を足場から車両へ切り替えた。
運転手をニコラスが三人、カルロが一人仕留めた。
それを見た幹部は慌てて助手席から外へ転がり出て、来た道を戻り始めた。逃げ足の速い奴である。
ものの一分で、ニコラスたちは車両を手に入れた。
「アイテムゲットだぜ」
「弾もな。おい、日本人。運転替われ」
「運転でもなんでも替わるから早くしてくれ! なんか犬めっちゃ来てるし撃たれるし、ていうか、ここどこ!?」
目を白黒させながらも器用に席替えをするケータとマフィア組を横目に、ニコラスは荷台に乗り込んで銃眼撃ちを再開していた。
突然の事態に狼狽えているのか、銃火が弱まっている。好機だ。
「移動だ! ベネデットは運転に集中しろ、ケータは俺と射撃要員、ナズドラチェンコはナビゲート!」
「へいへい」
「わ、わかった」
「はいはーい。で、こっから近いのはガキどもだがどーするよ? コレが来たってことは、迷路から抜け出す道もあるってことだろ?」
そう言ったセルゲイに、「馬鹿言え」とニコラスは吐き捨てた。
「『失われたリスト』ごとハウンドを敵にくれてやるつもりか? 俺はごめんだ」
「ま、そーなるわな。んじゃ、取りあえず行きますか」
セルゲイの間延びした呟きを皮切りに、珍道中が開始された。追いかける犬の吼え声をBGMにして。
初っ端から殺戮死合のルールを破りまくっている気がするが、知ったことではない。
要は生き残った奴が正義なのだ。
***
これはまた序盤から随分な大番狂わせだな。
三連結したデスクトップ型画面――その正面のに映し出される車列映像に、クルテクは呆れ果てた。
清々しいほどのルール違反である。
映像は揺れていて、現場撮影者の動揺が隠しきれていない。時おり映る監視役は連中から反撃を受けたのか、右往左往しているのが明白だった。
一方、この見物会場に集ったシバルバ市民は大喝采の嵐だ。
元は市民に序列という『役』を刷り込むための“学校”も、今やシバルバ領随一の娯楽施設。
貧者が富者を、弱者が強者を蹴落とす下克上を鑑賞するその愉悦。
安くはない入場料を払ってまで、誰もがその「本能に刷り込まれた弱肉強食の法則をひっくり返す夢物語」を追体験しようと殺到する。
もはや、市民も棄民も関係ない。統治側者側のシバルバですら市民に混ざって殺戮の消費に勤しんでいる。
『猿山の猿だな。人間が運んだ餌をどう貪るか、それしか頭にない』
無線を介して『トゥアハデ』“銘あり”であるヌアザの嘲笑が聞こえた。
彼が使用中の騒音低減能力の高い無線機がなければ、歓声に掻き消されて声を聞き取ることもままならなかっただろう。
それほどまでの熱狂ぶりだった。
拳を突き上げ、手を叩き。大口を開け、歯を剥き出しにして笑い。熱に浮かされた目で一様に画面を食い入るように凝視する。
『もはや鳴き声にしか聞こえんな』とせせら笑うヌアザの言に、賛同の意を込めて沈黙する。
そもそも会場を封鎖し切れず、新手の侵入を許した時点で中断してしかるべきなのだが、しないところを見るに続行する気なのだろう。
そも構成員自体が暢気に見物に興じている時点でお察しだ。
――シバルバ住民の正体は強制的に『役』を演じさせられた者……スタンフォード監獄実験と同じだ。人々は“被支配者”と“差別”の『役』を与えられ、シバルバは“支配者”の『役』を演じる……。
ゆえに、シバルバ住民に対し、ニコラス・ウェッブたちのような『叛逆者』の姿を見せることは非常に危険だ。
人々の目が醒めてしまう。
規則を破り、刃向かってもいい。『役』に囚われなくてよいのだと気付いてしまう。
もはや、シバルバ一家が住民にかけた“魔法”は解かれつつある。
なのだが。
“何をやっている小僧ッ、早くあの女を追い詰めろッ!”
“もっとだ、もっともっと追い立てろ! 追い詰めてあの女の澄ました化けの皮を剥がすんだ!”
“墜とせ、壊せ、本性を引きずり出せ! あっち側を演じる奴の“正体”を27番地の愚図どもに見せてやれッ!“
当のシバルバ一家当主のガルシアはヘルハウンドにご執心だ。口を開くたび撒き散らす唾まで見える。
ま、気付かずともクルテクにはどうでもよいのだが。
その時。右手画面の左下に、極秘通信を介した報告メールが届いた。
クルテクはデスゲーム鑑賞を中断し、口元のマイクに片手を添えた。
「裏が取れました。彼女が逃亡する直前に撮ったX線画像に映っていました。恐らくこちらの首輪装着の際、ほぼ同じ位置に偶然埋め込んでしまったのでしょう。これではレントゲン検査を行っても陰影が重なって発見されない」
即座に舌打ちが返ってきた。
さぞ口惜しかろうな、と。他人事のように思う。
情報漏洩防止のため、監視のもと現地管理を徹底させたのが、見事に裏目に出た。
せめて入手した当初に精密検査をやっていればと思うが、どちらにせよ完全にこちらのミスである。
とんだ間抜けを演じさせられたものだ。
『“女狐”の様子は』
「変わらず。ただ以前に増してアッパー半島への“観光客”が増えています。中露だけでなく、イギリスも」
『ふん。腐肉を嗅ぎつける鼻だけはいいようだな。すでに外交ルートからの牽制は始まっている。お前は悟られないよう、大人しく待機しておけ』
「標的は」
『まだ泳がせる。ギリギリまでクロム・クルアハに削らせてから対処する。奴の行き先は一つしかない。何重にも包囲網を敷いて確実に捕える』
「ですが、」
『クルテク』
珍しく名を呼ばれて、クルテクは嫌な予感がした。
この男が直属以外で部下の名を呼ぶことなど、まずない。瞬時に心の緊急シャッターを下ろせば、案の定だった。
『逃げるなよ? これが最後の機会だ。お前がしでかした不始末を、私が取り消してやった恩を忘れるな』
それきり一方的に無線を切られ、しばしの時間を要して、クルテクは長く息を吐きながら1DKにも満たぬ狭い天井を見上げた。
――まさか、君に言った台詞がそっくりそのまま返ってくるとはね。
これが因果応報というやつだろうか。
クルテクはまた息を吐いて立ち上がる。自ら切り捨てた旧友を今さら懐かしむなど、虫のいい話だ。
ともあれ、仕事にいかなければ。この時期、今度の出張先はさぞ寒いだろう。
億劫さを溜息に乗せて、クルテクはのそのそと支度にとりかかった。
***
――罠は原始的かつ簡易的。ただし数は多い……ベトコン(南ベトナム解放民族戦線の俗称。ゲリラ組織)のによく似てるな。
あちこちに張り巡らされたピアノ線やワイヤーを掻い潜り、ハウンドはコンテナからコンテナへ飛び移った。
反響した銃声が絶えず聞こえる。急峻な谷底で行われている戦闘を、山一つ隔てて聞いている感覚だ。
恐らくこのフロア以外にも、いくつか部屋があるのだろう。銃撃戦はそこで行われている。
そして恐らく、このフロアが一番古い。
――古いコンテナの上に新しいのをどんどん積み上げてる。底が見えない。天井も上に拡張してる。ここが最初の処刑場か。
迷路というより、迷路の壁の上を歩いている気分だ。
積み上げられたコンテナからなる紆余曲折を、時おり道から道へ飛び越えながら進んでいる。
底は見えないが、時おり吹き上げる腐臭と獣臭、金臭いニオイからして碌でもないのは確かだ。何より平面のコンテナに囲まれて、這い上がるための出っ張りもない。
遥か昔、故郷の農地で畦道から畑に落ちぬよう、いかに速く走るかという一人遊びをしていた。あんな感じだ。
落ちたらお終いの迷宮。
加えてその道には至る所に罠が仕掛けられており、そもそも平坦ですらない。適当にコンテナを積み重ねたせいか段差がバラバラで上り下りを余儀なくされる。
そのうえ時おり嫌がらせかとしか思えない一際積み上がったコンテナ塔が道を塞いで通せんぼする。ゆえに迷路の全貌すら掴めていない。
分かっているのは、この迷路が円形のドーム状になっているということぐらいだ。
――罠はクルアハとか言うガキの仕業だろうが……音も気配も感じない。どこに潜んでやがる? 出入り口も見つからないし……くそっ。
こんなことをしている場合ではないのに。
――ペレス、ケータ、ジャック、ウィル……ニコ。
脳裏に守るべき者の顔が浮かんでは消える。
間違えるな、誤るな。
今度こそは――。
目に流れ込む冷や汗を拭い、逸る心を懸命に抑える。
それでも鼻を使って、ハウンドはひたすら先を急いだ。
底からの悪臭で嗅ぎ取りづらいが、時おり悪臭のない空気が流れてくる。恐らくは出入り口から流れ込んだ空気だろう。
その空気を辿れば、出入り口に辿り着けるはず。
ふと、前方にコンテナの山を見つけた。
迷路道中にある段差にしてはかなり高い。壁、だろうか。何かを覆っている気がする。
ハウンドは道から道へ飛び越え、“山”の周囲を観察する。
当たりだ。
四方の一辺、コンテナ一個分の割れ目が生じている。何かを壁で覆っている。
もしや出入り口だろうか。
ハウンドは手近な罠を見、ニオイを嗅ぐ。そして引き、飛び退る。
手製の矢が数本、先ほど立っていたコンテナ面に降り注ぎ、弾かれた。
矢じりに犬の糞尿が擦り付けてある。コンテナの隙間か、はたまた天井か。至る所に仕込まれ、こちらを狙っている。
それもほぼ自然物を使っているため、鼻が「違和感」に気付きにくい。地雷等の即席爆弾(IED)系列ならすぐ分かるのだが……まあいい。今欲しいのはこのワイヤーだ。
矢じりとワイヤーを加工して、簡単な鍵縄を作る。
それを近場の一番高そうなコンテナ塔に引っかけ、登って辺りを見渡す。
全貌はやはり臨めないが、やはり似たような“山”が時計回りに等間隔に配置されている。もしかすると、この“山”のどれかが出入り口になっているのかもしれない。
――しらみつぶしに当たるしかないか。
ハウンドは手始めに、山の一つを調べてみることにした。
慎重に割れ目に近づいた、その時。
鼻が、あるニオイを捉えた。
罠がないのを確認して、急いで割れ目に飛び込む。
そこには。
「ペレス」
変わり果てた案内人の姿があった。
すでに事切れているのは、右目から頭部にかけて抉り取られたその欠損を見れば、一目瞭然だった。
隣にいるのは双子の弟だろう。二人仲良く、打ち込まれた鉄筋に並んで磔にされている。
穴だらけになった二人の屍体に、何をされたのかすぐ分かった。
『ロム』と『レム』。
陽気で悪戯好きの双子、顔はそっくりなのに性格は正反対の二人。
自分にも兄がいたらと思わせてくれた人、騒がしくも頼もしく優しかった兵士たち。
二人は捕虜となった後、生きたまま射撃の的にされた。
そっくりだから比較にちょうどいいと、嗤いながら嬲り殺された。
「ありゃあ、もうみつけちゃったの? さっすが鼻がいいねぇ」
一閃。
振り向きざまに振るった一刀は、大鉈の刃で難なく受け止められるが、そこで止まらない。
それを見越して撃鉄を起こしていた。
撃発。
バードショットの散弾が一斉に四散する。
だが少年は、それすら見越して頭上に飛んで逃げていた。
「相変わらずだなぁ。久しぶりなんだから挨拶ぐらい――」
撃発、撃発、撃発、撃発。
淡々と引金を引いていく。
耳障りな口上など聞きたくもない。死ね。
一連を撃ち終え、空薬莢を排出。背側の腰ベルトから次弾を取り出す。
愛銃MTs255回転式散弾銃用に改造したスピードローダーを、専用ケースから取り出して装填する。
一方、忌々しいことにすべての弾を避け切ったらしいクロム・クルアハは、ぽりぽりと頭を掻きながら、不機嫌そうに口元を歪めた。
「話しぐらいさせてよ。短気だなぁ。練習に付き合ってもらっただけじゃん。おいら射撃そんなに上手くないからさ。ちょっとミスっただけだよ」
ペレスらの足をポンポン叩きながら、ぬけぬけと語るクルアハに、その舌を今すぐ引き抜きたい衝動に駆られる。
全身の脈が急速に熱を帯び、首とこめかみの血管がひくひくと脈動しているのが分かった。
「そんなに睨まないでよ。大体これ、裏切者でしょ? なんでそんなに怒るのさ」
「裏切者だからだ。裁く権利は私にある」
クルアハを睨んだその先に、ペレスの姿が映った。
いつだったか。犠牲になった棄民の遺体を収容していた時、「お前も一緒に帰るか?」と尋ねた時があった。
ペレスは面食らって目を見開いたが、困った顔で笑って首を振った。「そのお言葉だけで十分です」と、両手で自分の手を握りしめて、目に涙を滲ませて礼を言ってくれた。
今、その目に光はない。
頭部から流れ出た血が流れ落ち、頬を血涙のごとく伝っている。
また、守れなかった。
「私の領民を勝手に殺した罪は重いぞ。そのふざけた面皮、生きたまま剥いでやる」
「元、でしょ。そうカッカしないでよ」
遊ぼ。
にんまり笑って手招きする少年を、ハウンドは真正面から見据えた。
静寂。
先に駆け出したのはハウンドだった。
身を低くしての突貫。愛銃の先に備えた銃剣を閃かせ。
「ちょ、え!?」
ひょいと真横に避けてそのまま通り過ぎる。
慌てて追いすがるクルアハに散弾をぶっ放して、ハウンドはコンテナ山から抜け出した。
自分にとっての優先順位は決まっている。
ニコラスたちの安否、それと味方との合流。
そのためにも一刻も早くこのフロアから抜け出さねば。ガキのくだらん遊戯に付き合っている余裕はない。
ちらと一瞥した背後に、コンテナの隙間に消えていくペレスが見えた。
その光景に顔を歪めて、ハウンドはまたも迷路の渦中へ身を躍らせた。
***
「何やってるのジャック!? 早く爆弾を使って!」
金切り声で叫ぶウィルの声には、余裕なぞ欠片もない。
それはジャックとて同じことだった。
囲まれている。何もかもから。
辺り一面、コンテナに囲まれた迷路だし、そこかしこから野犬が襲ってくる。コンテナ上に登って周りを見ようとすれば上からシバルバに撃たれる。
加えて背後の人質。
「いや……いやぁ……!」
ここに囚われていた女性は、右足の踵を切られているのか動けなかった。
多分、行方不明になった人の一人。
最初こそ名乗ったり事情を説明してはくれたが、追い詰められるにつれ「嫌」と悲鳴以外、喋らなくなってしまった。
さっきから泣きじゃくるばかりで、まるで頼りにならない。
――泣きたいのはこっちだよっ……! つーかここどこだよ!? ケータは無事!? ニコラスたちへの連絡は!?
ちらと背後を振り返る。
相方のウィルは冷や汗を流しながら、苦悶の表情で必死に耳を塞いでいる。シバルバに聴覚過敏用のイヤーマフを取り上げられたせいだ。
今のウィルは、ロックフェスの野外スピーカーの目の前に立っているようなものだ。周囲の騒音の大きさに、気が狂いそうになっている。
これではあのロシアンマフィアの男と立てた計画もパーだ。ウィルが操作しないことには、計画が成り立たない。
「どうした小僧、早く逃げねえと犬どもに食われちまうぞ」
「さっさとそのショボい花火、使っちまえよ」
「自慢の玩具なんだろぉ?」
――うるせえな! 盾で守られてるからって、いい気になりやがって……!
キッと頭上を睨み上げるも、シバルバ構成員はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて冷やかすばかり。完全に舐められている。
実際、奴らはいつでも自分たちを殺せるのだ。
自分の爆弾は手榴弾よりちょっと弱い程度の威力しかないし、ウィルの端末はネットが使えないよう細工されてしまった。
だから自分たちの変装を見抜いた後も、武器も端末も取り上げずにこの迷路に放り込んだ。
自分たちが使えない道具を手に、右往左往する様子を見て楽しんでいるのだ。
――どうする……!? 爆弾使えばちょっとの間だけ犬は追っ払えるけど、すぐまた戻ってくる。あの女性がいるから逃げるに逃げられないし、あんま爆弾使ったら今度はウィルの耳が――。
にじり寄ってきた犬の一団が一斉に吠えたて始める。
ウィルが顔を歪めて耳を塞ぎ、女性が「ひぃっ」と悲鳴を上げて頭を抱えた。
「っ……ジャック、早く爆弾を……」
「っ、屋内の爆破は威力が増して危険なんだっ、さっきも……!」
いや。それだけではない。
自分は怖いのだ。爆弾で人を殺すのが。
内臓を揺さぶる振動と轟音。天高く撒き上がるビルの破片と水柱。そこから落下する、徐々に小さくなっていく人の断末魔。
ウィルを救出しようとデンロン社のビルに乗り込んだ時、自分は確かに人を殺した。間接的ではあった。死にたくなかったからやった。
それでも、殺したことに変わりない。
あの断末魔が忘れられない。今もずっと響いている気が――。
――どうしよう、何か、何か作戦……!
必死に頭を回す。
だがいくら考えても断末魔は消えないし、ちょっと落ち着こうにも犬の鳴き声と上のシバルバが茶化しで撃ってくる弾が怖くて、まるで思考がまとまらない。
どうする。どうすればいい……!?
「ジャック……!」
絞り出すようなウィルの声にハッと振り返り、目を見開く。
「あいつら……服の中まで、確認しなかったから……」
変装用に着用していたスキニーのウエスト、そのシャツの下に隠していた物を、ウィルは取り出した。
「ウィル、それ」
「……君の飛行型ドローン。こないだ、犬避け巻いた時に改造したやつ。僕のセーター、だぼだぼだったから、上手く隠せた」
それで時おりお腹を押さえていたのか。
てっきり恐怖で腹痛を起こしたのだと思い込んでいた自分が恥ずかしくなってきた。
「……卑怯上等でいいって、ニコラスも言ってた」
「!」
「……僕のことなら心配しなくていいから。思い切りやっちゃって」
白い顔で震えながら笑いかける親友に、ジャックは泣きたいのをぐっと堪えた。
ここまで言ってくれたのだ。四の五の言ってられない。
やるしかない。
ジャックは意を決して、デッキジャケットの前をバッと開いた。その内側に結いつけられた計10発の爆弾。ついでにスカートの中の2発。これで全部。
それを握りしめて、ピンを引き抜いた。
「そんなに欲しけりゃくれてやるっ、腹はち切れるまで食らいやがれ!」
犬の群れに投げつけた。
一発、二発、三発。次々に投擲する。
上のシバルバが口笛を吹いて囃し立てた。だがそれも今の内だ。
――ウィル、耐えてくれ!
ちらと振り返った先では、ウィルが悶えながら必死に耳を押さえている。長くはもたない。
ジャックはポケットの中のリモコンを操作しながら、犬めがけて爆弾を投げ続けた。
爆炎の中を、三発の爆弾を積んだドローンが静かに壁沿いへと進んでいく。
そのまま、シバルバのいる張り出し足場へと。
――狭い空間での起爆は威力が増す! これなら……!
ドローンが足場の真下に辿り着いた。
あとは機をみて上昇し、ピンを引き抜いて足場の中で起爆する。
それだけなのだが。
「くそっ、こんな時に……」
震えが止まらなくなった。断末魔の声がますます大きくなる。
犬の鳴き声も男たちの声も遠くなり、ただただあの時の断末魔が辺り一面から響いて、自分を責め立てる。
ジャックは恐怖のあまり、身動きが取れなくなった。
指が止まり、リモコン操作が止まった。
その時。
「……? おいお前らっ、足場の下に何かいるぞ!」
――バレた!
向かいのシバルバの声に我に返ったジャックは、慌ててドローンを上昇させた。
同時に改造したアームを捻り、そこに引っかけていた爆弾のピンを引き抜く。
起爆。
三発からなる同時起爆で生じた衝撃波に、鼓膜が痛み、脳が揺さぶられる。吐き気すらする。
「ウィル、だいじょうぶ……」
と、そこまで言いかけて、全身を硬直させた。
起爆させたはずの足場の上部が、パカリと開いたのだ。びっくり箱が開くように。
「このクソガキが……! やってくれたな」
怒り心頭のシバルバ構成員が、銃を構えてこちらを見下ろす。
ジャックは自分の失態を悟った。
足場の天井部にも金属板があったのだ。
恐らく自分が躊躇したあの時に、間一髪で金属板で蓋をし、爆風を寸前で防いだ。
つまり、敵は無傷。作戦失敗だ。
一斉に銃口を向けられ、ジャックは「ヒッ」と悲鳴を上げた。下半身が熱くなり何かが急速に股間へと向かっていく。
こんなところで漏らすのは嫌だと、ジャックはその場にしゃがみこんだ。そんな事をしてもどうにもならないと分かっていたが、他に為す術がなかった。
終わりだ。
銃声が鳴った。
「………………あれ?」
ジャックは顔を上げた。弾が飛んでこない。恐る恐る上を見上げれば、シバルバが狼狽えている。
「おい誰だこっち撃ったの!?」
「俺たちじゃなっ」
口を開いた男が倒れた。そうして一人、また一人。足場の中に男たちが消えていく。
その様子をジャックはポカンと見上げていた。
瞬間。
重低音の唸りが聞こえた。
犬のものではない。もっと無機質で、機械的な。
音のする方へ振り返った直後、迷路の角に窓のない車が現れた。床に残るブレーキ痕も生々しく、そのままこちらに突進、目前でドリフト回転して向きを変える。
宙を、金色の空薬莢が舞う。
車体から振りまかれたそれの出所を目で追って。
「ニコラス……!」
「ジャック、よく頑張った! そのまま伏せてろ!」
ニコラスがそう怒鳴った直後、車から飛び降りたケータが自分の上に覆いかぶさってくれた。
ジャックは笑った。なのに、涙が止まらなくて鼻水も出てきて、訳が分からず幼児のように大泣きした。
グチャグチャの顔でも、失禁するよりはマシだと思った。
***
――くそっ、ここも外れ!
ハウンドは“山”の割れ目から出る寸前。
と。足を止め、コンテナを足場に右へ跳んだ。
銃声が轟いたのはその直後。
「うぅん。やっぱ銃だと当たんないなぁ」
454カスール弾がコンテナを穿ち、引き千切れた金属片が他のコンテナと衝突して甲高い不協和音を立てる。
もはや榴弾だ。当たり所が悪ければ、皮膚が切れ、手足を貫く。
けれどハウンドは走り続けた。
こいつの目的は足止め、妨害だ。無視して進むに限る――。
「っ!?」
その時だった。
鼻がニオイを捉えた。
――このニオイ……!
嗅ぎ間違えようがない。
安物の石鹸のニオイ、よく干した衣服のニオイ、火薬のニオイ、それに混じって、微かに染みついた皮脂と汗のニオイ。男のニオイ。
かつて自分の手を握ってくれた、あの夜明けのニオイ。
ハウンドは脇目もふらず走った。
いくつか罠にかかって、手製の槍や矢が肩や背に突き立ったが、構わず走った。
それは、ペレスたちがいた“山”の反対側の“山”だった。
「ニコラスッ!! 今、助けに――」
声が途切れた。言葉を失った。
そこには、男が鎖に繋がれて、跪いていた。
かつてのラルフのように。
彼もこんな感じで、麻袋を被せられ両腕に巻き付いた鎖で吊るされていた。
彼が跪いたのは最期。自分の目の前で斬首された時。
「え……うそ……ニコ……?」
男は、首がなかった。
首は男のついた膝の目の前に、供物のように置かれていた。
服装はニコラスのもので、靴もニコラスのもので、裾からチラリと覗く金属の足もニコラスのもので、着けた腕時計も、ニオイも何もかも、ニコラスのもので。
麻袋に覆われた首だけが、ラルフと一緒だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああぁッ!!」
ハウンドは慟哭した。
それは獣の断末魔に似て、喉をすり潰すが如き、血反吐を吐くような咆哮だった。
ああ、やっぱり。
間に合わなかった。
***
「ニコラス、どうだ」
前席のケータに問われ、ニコラスは頭上の足場を睨みながらも。
「……やっぱりいないな。増援が来る様子もない。恐らくヴァレーリとロバーチの強襲に駆り出されてるんだろう」
「ってことは今が好機か」
「油断は禁物だけどな。ここに来るまで、いくつか喰いかけの死体がいくつかあったし」
「俺たち以外の参加者だろうな。ってことはあの犬、人肉食うのか……俺、一人で放り込まれなくてよかったよ……お。ジャック、もう平気か?」
荷台でのそりと身を起こした少年二人に、ケータの視線が移る。
面を上げたジャックの顔はこすったせいで赤らんではいるが、怪我もなく思った以上に元気そうだった。
「たぶん。それよりウィルの方が」
「……僕なら大丈夫。ちょっとまだ、耳ぐわんぐわんするけど」
「そうか。ごめんな、前の席パンパンでさ」
「いいって別に。他の車、荷台に大人三人ぐらい詰まってたし」
「……外側に掴まっての移動はちょっと……」
その時。ズン、と、微かな震動が響いた。
天井が微かに振動している。最初は気のせいかと思ったが、落ちてくる微かな土埃で確信した。
「ナズドラチェンコ、ベネデット」
「おうよ。ロバーチ一家のご到着だ。派手におっぱじめてるらしいぜ」
「……ああ。ヴァレーリもだ。どうも、シバルバ当主のガルシアはこの会場の近くにいるらしい」
「なら、あとはじゃじゃ馬娘と合流して、親玉ぶっ潰して、味方と合流すりゃ、万事解決だな。とっとと済ませちまおうぜ」
マフィア組の言に、そう上手く事が運ぶだろうか、とニコラスは思った。
ガルシアの目的はハウンドへの復讐だ。ここまで念入りに準備するぐらいだ。命欲しさにそう易々と諦めてくれるだろうか。
そして今回の件には『トゥアハデ』も絡んでいる。となれば、邪魔が入らないようあらゆる対策をしているはずだ。ハウンドがより長く苦しむように。
ともかく、急がねば。
――ハウンド。
待っててくれ。すぐに迎えに行く。
***
クルアハは、ワクワクしながらコンテナ山の前で待っていた。
彼女は特別だ。
アメリカを苦しめたテロリストで、今もアメリカで悪事を働くとびきりの悪党だ。
だからこそ、一番苦しむ方法で罰を与えてやらねば。
彼女を倒せば、フォレスター長官はさぞ喜んでくれるだろう。きっと、たくさん褒めてくれる。
クルアハは自分がヒーローなどと思ったことは一度もない。自分にとってのヒーローはアーサー・フォレスター一人だけだ。
彼こそが、クルアハにとっての『正義』だった。父のいない自分を、唯一『息子』と呼んでくれた存在だった。
ならば自分はその手足となろう。汚れた仕事は全部自分が引き受けよう。
所詮は南米ジャングルの麻薬生産者の薄汚れた子供だ。
どんなに血に塗れようと、正しくなかろうと、長官が正義を成してくれる。
出自の汚い子でも、長官の味方である限り、悪ではなく正義の側に立てる。
「アメリカのためになって、皆のためになって、悪党を懲らしめられる! ふふん、おいら正義の味方になってよかった!」
その時だった。
コツ。と、音がした。
音はゆっくりと頻度を増していき、やがて漆黒に沈んだ影の中から、ぬっ、と。小さな人影が現れた。
クルアハはその美しさに息をのんだ。
髪や表情、服装のことではない。髪は乱れてるし、頬から首には掻き毟ったような爪痕が醜く残っている。
服装も発動した罠で破れ、背には数本の矢と槍が突き立ち、右腕に至ってはピアノ線が絡まって血すら滲んでいる。
クルアハが息を飲んだのはその瞳の美しさだった。
――いつも“母さん”に捧げものしてた湖と同じ色。
故郷の密林に潜む、秘境の湖。
凪いだ水鏡が如き湖面と同じ深緑、静謐な美を湛えたエメラルドグリーンだ。
綺麗だ。ほしい。
ほしい、ほしい、ほしい!!
今の生活には十分満足しているが、故郷のあの場所で儀式ができないことが、ずっと気がかりだった。
あの眼を抉り取って捧げれば、母さんもさぞお喜びになるだろう。長きにわたって留守にしたことも帳消しにしてしまうぐらいに。
うん。きっとそうだ。そうに違いない。
そうとなれば、善は急げだ。
コンテナから飛び降り、クルアハは少女の元へ駆け寄った。
……もっとも、クルアハ以外の者からすれば、大鉈を手に突進しているようにしか見えなかっただろうが。
「ふふっ、おいらの役に立つだけじゃなく捧げものまで運んでくれるなんて、君ってホントいい人だ――」
満面の笑顔で刃を振り上げ。
「ねっ」
振り下ろす。
首を切り落として眼球を抉り取るつもりだった。
ここまで幸運を運んでくれたのだ。せめて苦しまぬようにと思った。生きたままだと藻掻き苦しんで、眼が痛むとも思った。
が。
「ぅえ?」
クルアハは吹っ飛んでいた。
いなされたか? と、宙で体勢を立て直すも、驚愕を隠せなかった。
動き、いや。反応が早い。先ほどと段違いだ。キレも増している。
なぜだ。
今の彼女には殺気もない。体力もかなり削ったはず。どこからこんな力が――。
瞬間。
視界に黒い影が映った。
それは球状の小指先ほどの粒で、赤黒く光っていて。
その粒の出所を目で追って、愕然とする。
左手首の先がない。大鉈を握っていたはずの手が。
視線を正面に戻す。
そこには、あの深緑の双眸が――人とは思えぬ殺気を迸らせて――目前に迫っていた。
「っ!?」
クルアハは反射的に上半身を背側に大きく反らす。
そこを両手の銃剣が二閃。両から互いの方角へ煌めき奔る。
――手首を斬り落とした……!? 刺突がメインの銃剣で!?
確かにやけに切れ味の冴えた銃剣だとは思っていた。銃剣というより、猟師が狩りに用いる山刀に近い。
だが、いくら切れ味が冴えていても、骨ごと切断するのは容易ではない。
斧ならまだしも女の細腕。しかもあのぶ厚い刃で、骨と骨の間隙に刃を通したのか――!?
片手で床に手をつき、後転して後方へ飛び退る。
先ほどより倍の距離を取って。左手の止血を行いながら、一分の視線も逸らさず彼女を見据える。
違う。
これは、“彼女”ではない。
皮膚がひりつき、毛という毛が総毛だつ。額から冷や汗が一気に噴き出した。
冷たい。痛い。
首が胴から離れ、その胴をめった刺しにされた挙句、手足を引き千切られる感覚。そう空見してしまうほどの殺気。
指先が冷たく感じるのは、何も出血のせいだけではない。対峙しているだけで、全身の熱が奪われ、急速に冷えていく。
――――――怖い。
「君、だれ?」
少女は答えない。
ひた、と。あの深緑の双眸で見据え、その場からピクリとも動かない。
獣だ、と思った。
獲物を見定めた野獣。
大人しいように見えて、いつ飛びかかってきてもおかしくない態勢を整えている。
指一本でも動かせば、喉元に喰らいつく。
――動けない。
静謐で凪いだ眼だと思っていたのは、まやかしだ。隠していたにすぎない。
これほどの殺気を、完全に封じ込めていた。
そう思った矢先。少女が身を翻した。
走り去っていく背に、クルアハは呆然としつつも、安堵する。
ほら、やっぱり限界だった。
背に矢だって突き刺さっているのだ。出血も少なくない。
冷静に考え、残りの仲間救出を優先したのだろう。賢い娘だ。
だからこそ、先の予想をつけ易い。
――このフロアの“山”は12個。うち、8つを調べた。彼女なら嗅ぎ分けられる。最短ルートで出入り口へ向かうはず!
そう思った傍から、彼女は一時の方角の“山”へ真っ直ぐに向かっていった。
当たり。あれが出入り口だ。
――けど残念。おいらのお役目は、彼女をここで始末すること。
これまでシバルバに撒いた棄民の遺体も、その遺体を例の兵士5人そっくりに「加工」したのも、すべて彼女を追い詰めるため。
この罠の巣で、彼女に冷静な判断ができなくするようにするため。
それほどまでに彼女は強い。強いからこそ、油断はしない。
だからここまで時間をかけて、入念に場を整えた。大嫌いなヌアザの手も借りて、最近仲間になったとかいう訳の分からない先住民のジジイも使って。
――ゴールが分かってるなら、そこに罠仕掛けないわけがないよねっ!
起爆リモコンのスイッチを押す。
轟音。
突き上げる震動と共に、彼女の走っていた道が崩壊していく。
ただコンテナを積み上げただけの場だ。積み木遊びと一緒、下を崩せば上も崩れる。そして下には、
――おいらが手ずから育てた猟犬がいる。やっぱ、とびきりの悪党は山犬に喰い殺されるのが相応さ!
そう。最愛の母を密売人なんかに売り払った、兄のように。
爆破で興奮した犬の吼え声が、谷底から上へ反響してうるさい。
クルアハは崩れできたコンテナの谷を、岩場を駆け下りる山ヤギのように、跳躍しながら飛び降りた。
この程度で死ぬとは思えない。生死は必ず確認しなければ。
いた。
谷間の中頃、半分が宙に突き出たコンテナの上に、辛うじてしがみついている。
ちょっと蹴っただけでコンテナから落ちてしまいそうだ。
あちこちに散らばった、爆破で誤作動した罠の残骸のワイヤーに足を取られぬよう、クルアハは慎重に降り立った。
それも、彼女から十数メートル離れた場所に。
近づいて道連れにされては堪らない。
この距離なら、自分の腕でも当てられる。いざとなれば第二陣を爆破すればいい。
「残念だなぁ。その眼だけでも欲しかったんだけど」
大口径の回転式拳銃、レイジング・ブルの照準を彼女の頭部に合わせる。
彼女はあの凪いだ美しい瞳で、じっとこちらを見ていた。
引金に指をかけ、そっと引く。
発砲。
が、弾は大きく上に逸れた。なぜなら、
「!?」
足に何かが突き立ち、思い切り引かれたからだ。
見れば右足を矢じりが貫通しており、矢じりにはワイヤーがくくりつけられている。
自分の罠を再利用した小道具、それを罠の残骸の中において紛れさせていた。
――くそっ
クルアハは宙で身を丸めた。足に突き立った矢じりに手を伸ばす。
尻もちをつけば即座に引き込まれる。このまま矢じりを抜けば――。
目前に、刃が迫っていた。
「がッ」
闇夜に血飛沫が舞い、両足の踵と膝裏が灼熱する。次いで横腹に蹴りがめり込む。
クルアハは吹っ飛び、谷底へ落下した。
幸い、そこまで高さがなあったので受身で凌げたが、問題はそこではない。
「あ……」
地面についた右手が、ぬるりとした物を掴んだ。犬の糞尿に塗れた人骨だった。
興奮した猟犬が、唸り声をあげ涎を垂らしながらにじり寄ってくる。
クルアハは急いで拳銃を抜き、口に咥えた。
自分は両脚の腱を切られた。左手もない。もう戦えないし、逃げられない。
死は怖くない。怖れた試しなど、一度もない。
死ねば必ず母の元へ行けるのだから。
だが獣に喰い殺されるのは別だ。それは悪人の死に方だ。兄の死に様だ。
母さんの元へ行けなくなってしまう。
残った右手で、引金に指をかけようとして。
右腕が吹っ飛んだ。
「がぁあッ」
衝撃で歯が折れ、咥えていた拳銃が跳ね飛んだ。拳銃は床を転がって、犬の群れに紛れてしまった。
「あ……」
「捧げものがどうとか言ってたな」
見上げれば、回転式散弾銃を構えた彼女が、あの獣じみた殺気を迸らせて、こちらを見下ろしていた。
銃口に装着された銃剣の返り血が、熱で沸騰し、蒸発している。
その見下ろす深緑の双眸は、もう凪いでいなかった。
以前、長官に聞いたことがあった。
賢い獣ほど、弱ったふりをするのだと。
「ちょうどいいのがここにあるじゃないか」
それだけ告げて、彼女は踵を返した。だがクルアハはそれどころではない。
「ゆひ、指笛……!」
猟犬は指笛で躾けてある。だが今はその指がない。
ならば口笛だ。口をすぼめ、息を吸い、必死に吹く。
けれど何度吹いても音は出ない。折れた歯の出血で唇が濡れて、音が出なかった。
猟犬の一頭が足に噛みついた。もう一頭が腕に、肩に、腹に、腿に喰らいつき、一斉に首を左右に激しく降り始める。
獲物の肉を引き千切るためだ。そうやって山犬は獲物を弱らせ、仕留めていく。
クルアハはあられもなく絶叫した。
奇しくもそれは、かつて聞いた兄の断末魔と全く同じだった。
***
「はははははははッ! そら見ろ、これが小娘の本性だ! やればできんじゃねえか!」
殺戮死合会場の真横、当主専用VIPルームで、壁一面を覆うディスプレイの真正面の肘掛け椅子で、シバルバ当主ガルシアが狂ったように膝を叩いて笑っていた。
もう手下の、誰一人として彼に近づかない。
『特区の双璧』ヴァレーリ・ロバーチ両家によるシバルバへの侵攻、それに乗じた住民の大規模な暴動。
加えてシバルバ一家が手掛けていた、国内の医療業界との癒着とおぞましい所業の暴露。
ロバーチ一家に至っては、すでにこの地下施設上部にまで到達している。
もはや事態はシバルバ一家だけの手には負えなくなっている。
それらすべてを一切合切無視して、ただ一人の小娘に執心する当主が、理解できないのだ。
もう手下の大半は、今すぐ撃ち殺すべきか逡巡した面持ちで指先を引金にかけていた。それに気付いていないのは、当主本人ぐらいなものだろう。
「そうだっ、お前はこっち側の人間だ! この俺と同類なんだっ! この掃き溜めで綺麗事ほざいて理想なんぞ掲げてんじゃねえ! 住民は所有物、ただの家畜だっ! 夢も希望も与える必要はねえ! ただ鞭打って言うこと聞かせりゃ――」
銃声。
ガリシアの頭部が消し飛び、壁面ディスプレイに血と脳漿の花が咲く。
それを冷ややかに見届け、ヌアザはシバルバ構成員を振り返る。
「諸君らの当主、ガルシアは死んだ。たかが一人の小娘に振り回されるような弱いリーダーは必要ない。仇討ちがしたくばこの場で申し出ろ。そうでなければ武器を置け。私が雇ってやろう」
途端、シバルバ残党は一斉に武器を捨て、両手を頭の後ろで組み、膝をついた。
――弱肉強食が徹底した組織。特段、力と恐怖で縛る組織ゆえに、代打の強者が現れれば、すぐ従う、か。
ヌアザは口端を微かに歪めた。
だがその変わり身の早さは気に入った。実に合理的で現実的でいい。
次いでヌアザは直属の部下を振り返る。
「地上のロシア人どもは適当にあしらっておけ。娘を捕える。だが今の奴には決して近づくな。……奴の養父には随分と世話になったからな。奴もその同類だ。手負いだからこそ、気を抜くな。
ともかく接近を避けろ。疲れて動きが鈍くなったところを手足を撃ち抜いて拘束する。時間がない場合は胴体でも構わん。心臓さえ止まらなければ、手段は問わん」
「はっ」
「それと、27番地の方はどうなっている?」
「それが……今日に限ってヴァレーリ当主が出向いているらしく、作戦続行は困難かと」
偶然だろうか、それとも故意か。あの気まぐれ当主なら、どちらでもあり得るか。
何にせよ予想以上に五大マフィアの動きが早い。特区の双璧などという御大層な名も、あながち馬鹿にしたものではないようだ。
まあいい。
「では監視を増やす。『パピヨン』が今、27番地にいる以上、奴は必ず巣へ帰るはずだ」
必ず捕えろ。
その端的な一言に、『トゥアハデ』は一斉に動き出す。
仲間が喰い殺される様を気に留める者は、誰一人としていなかった。
次でエピローグ、第8節完結となります。
以前予告した通り、第8節完結後も連続して、第9節プロローグまで投稿します。
次の投稿日は6月7日です。




