8-3
少々グロイ描写が出てきます。ご注意を。
敵が野犬、と聞くと大抵の人間が拍子抜けする。
「なんだ、ただの犬か。楽勝じゃないか」と、自宅やその辺を散歩している飼い犬を想像しながら、そう言うのである。
甘いと言わざるを得ない。
そして、そういった認識の人間がここにも一人。
「おいおい。犬相手になんで機関銃持ち出すんだ。小銃で十分だろ」
ケータが呆れた声を出した。
彼の視線の先、今や見た目がちょっとアレな多用途装輪車両と化したリムジンの荷台から、セルゲイがIMIネゲヴ軽機関銃を引っ張り出しているのである。
IMIネゲヴの重量はスタンダードで7.6㎏。
軽機関銃とはいえ、同じ5.56㎜弾を使用するAR15自動小銃を二挺持ってもまだ重く、痩身のセルゲイが持つには明らかに不向きな銃だ。
しかし、振り返ったセルゲイは至極真剣な表情でケータを睨んだ。
「馬っ鹿野郎、相手は野犬だぞ!? 噛めば狂犬病、歩けばマダニ (重症熱性血小板減少症候群(SFTS)を媒介する)、糞すりゃエキノコックス垂れ流す害獣だぞ!? 軽機関銃なんで足りるかっ、火炎放射器かセムテックスであたり一帯ごと焼け野原にしたいところだわ!」
「エキノコックスはともかく、狂犬病は致死率ほぼ100パーセントだ。発症したらまず助からないぞ」
珍しく掩護射撃に入ったカルロにケータが絶句する。
それを見てカルロは皮肉気に口端を歪めた。
「心配すんな。発症するまでにワクチンを数回投与すりゃ問題ない。つっても、んな殊勝なもん持ってきてないからな。一回でも噛まれたら戦線離脱は確定だと思え」
「そーだ、そーだ! セーブなし、救済措置なし、デバフもりもり、一撃即死のナイトメアモードだぞ! ハーブ拾ったって効果ないかんな!」
言っていることの大半はよく分からないが、ケータには通じたらしい。
セルゲイらの忠告に従い、ケータは無言で拳銃からAR15に持ち替えた。
各々準備を着々と整えていく様を見て、ペレスが悲鳴のような声をあげた。
「ほ、本気で行くんですか」
「一応あれでもうちの上司なんでな。放っておけない」
「ここの野犬はその辺うろついてるのと訳が違いますよ……!? それに、さっきの声聞いたでしょう? 数十頭は確実にいるんですよ、そんなのが群れで襲ってくるんですよ!?」
「みたいだな。だからこうして備えてる。あんたは車で待機しててくれ。すぐ戻る」
そう返答すると、ペレスは「待機って……」などと口ごもりながら狼狽えた。
「俺はシバルバから命じられた案内人ですよ。その任務放棄して指くわえて傍観してたとか、一家に知られたらなんて言われるか……。ただでさえここは目が多いってのに。ああ、こんなことなら犬避け持ってくりゃよかった」
「犬避け?」
気がかりな発言を頭の片隅に留めつつ、ニコラスは聞き返した。
するとペレスは「スプレータイプの犬避けですよ」と答えた。
「シバルバ領はお国柄空き地が多いんです。だからこうして野生動物の住処になってる。大抵の住民は動物対策のグッズ持ってますよ。催涙スプレーとか」
「それに似たようなのあるか?」
「あったらとっくに持ってきてますよ」
それもそうだ。
納得したニコラスはしばし考え、後部座席に回った。
車内で待機中だったジャックとウィルが手伝うことはないかと寄ってくるが、ひとまず制して座席奥に置いてあった私物入れ兼クーラーボックスに手をかける。
開けて中身を一瞥し、ニコラスは顎に手を当てた。
「ジャック、ウィル。さっそくだが頼めるか?」
「もっちろん!」
「……なに、すればいい?」
やる気満々の新兵二名に、ニコラスは丁寧かつ詳細な指示を出した。
それも、できる限り早く行うように。
***
目の前で繰り広げられる応酬を、クルテクはただ無言に見ていた。
「本当に上手くいくんだろうな?」
シバルバ一家当主、リカルド・ルイス・ガルシアは“特使”を胡乱気にねめつけた。
42歳、中肉中背。浅黒い肌に、濃褐色の髪とヘーゼルの瞳。
一つ一つの特徴はさほど珍しくもないメスティーソ (欧州人と先住民の混血)だが、そこに居るだけで他者を威圧する何かを持ち合わせた男だ。
群雄割拠だったメキシコ裏社会を、たったの10年で完全制圧しただけのことはある。
一方、ガルシアの対面のソファーで、土足のまま寝そべる特使”――少年は「もちのろんさ!」と自信満々に笑った。
少年の名はクロム・クルアハ。
外見は典型的なラテンアメリカの少年だが、合衆国安全保障局もとい『双頭の雄鹿』私有の極秘武装組織『トゥアハデ』最年少の“銘あり”である。
少年は、得意げに人差し指を振りながら解説、という名の持論を語った。
「例の5人のことはもうおじさんも聞いてるでしょ? あの子はね、あの5人のことになるとタガが外れるんだ。本性を顕わにするんだよ。だから絶対来る。安心していいよ」
「その本性を顕すってのが問題なんだよ。奴は根っからの狂犬だぞ? そんなのをおちょくって、テメエだけで対処できんのか」
「しつこいおじさんだなぁ。あ、もしかしてあの子が怖い? 前に手下コテンパンにやられたんだっけ?」
非礼極まる少年の発言にガルシアが激昂する。
それをクルテクはただ傍観していた。
ガルシアも少年も、こちらの様子など気にも留めない。クルテクとしても気に留めてもらっては困るので、意図的に息を殺して“居ない者”として突っ立っている。
人生を上手に生きるコツは、厄介な人間から目を付けられないようにすることなのだから。
ゆえに、クルテクはこのいつ爆発してもおかしくない空気に、平然と佇んでいた。
ガルシアに至っては本当に銃を抜いて発砲しそうだが、そうなっても瞬時に身を護れる自信がクルテクにはあった。
そこに、緩やかな手拍子が一つ。
「まあまあミスター、座ってください。この少年はまだ入隊して日が浅いもので、どうか見逃してやってください。あとできつく言っておきますから」
クルテクは視線だけ動かしてもう一人の“特使”を見やった。
USSA局長補佐官、ヤハウェ・オヴェド。泣き黒子がチャームポイントの優男だ。
イスラエル系の名だがもちろん偽名で、身元は一切不明。いつの間にかUSSAに現れ、いつの間にか現USSA局長の補佐官になっていた。
散々調べて唯一分かったことといえば、この男が『双頭の雄鹿』にとって不可欠な重要人物であること、『トゥアハデ』の“銘あり”を辞退した唯一の人物であるということだけ。
オヴェドの言に、ガルシアはぐっと言葉を飲み込んだ。
「で? いつまでコレを俺の部屋で腐らせておくつもりだ。ペットホテルになった気はねえが?」
「だ、そうです、クルアハ。行きなさい。我らが主もそれを望んでおいでだ」
「言われなくても分かってるよーだ」
ソファーからぴょんと飛び降りた少年は、口笛を吹きながら部屋を出ていった。
その足音が完全に去ってから、ガルシアはこちらをせせら笑った。
「薄情なこった。部下が喰い殺されても構わねえときた」
「別に薄情ではありませんよ。それこそが彼の本望ですから」
生意気な青二才め、と言わんばかりに顔を歪めたガルシアは右手をさっと横へ振った。
と、同時に室外で待機していた護衛が銃を携えて無言で歩み寄ってくる。
出ていけ、ということだ。
「やれやれ。では我々もお暇しましょう。クルテク」
上司に呼ばれて、クルテクは壁に貼り付けていた背をようやく引きはがした。ひとまず壁役はこれで終いのようだ。
実質叩き出されるようにガルシアの館を出て、特警のパトカーに乗り込んだクルテクは助手席を見やった。
「よかったのですか。かなり手駒を消費しますが」
「構わない」
オヴェドは即答した。
「使ってこその駒だよ。消費は確かに痛いが、温存させて無駄に遊ばせては元も子もない。使うからには使い潰す。幸いなことに、どちらが消えようと我々には利益しかないからね。それに我々はこれまで、手をこまねき過ぎた」
そう言って、オヴェドは懐から防水シートに密閉された一冊の手帳を取り出した。
黒の皮張りの手帳。
11年前、元タリバン兵の男が所持していた『失われたリスト』を隠す際、客人だった日本人学者と協力して用意した“鍵”の一つで、『二冊目の手帳』と呼ばれるものだ。
「我々はなんとしてでも彼女の真の目的を掴まねばならない。この“鍵”をどう使うのか。彼女は何を知っているのか。なぜ、彼女はアーリントン国立墓地で自殺行為に近い振る舞いをしたのか。現時点での推測では、彼女の記憶とこの“鍵”が合わさって、ようやく『失われたリスト』の在り処が判明するということだからね。逆に言えば、分かっているのはそれだけだ。我々に残された時間はあまりない」
――はいはい。ご丁寧な現状説明をどうも。
クルテクは舌を出したい気分になった。
落ちぶれたとはいえ、これでも元CIA局員だ。その程度の誤情報に引っかかるものか。
――しっかしまあ、アーリントンの件はちょっと考えれば分かりそうなもんだけどなあ。
だがこいつらにはそれが分からない。
それこそが大戦後、USSAが中央情報局に勝てなかった最大の理由だ。
まあ。そんな自分たちもUSSAに出し抜かれて吸収合併されているのだから、お粗末なことに変わりはないが。
そんなクルテクの内心と裏腹に、オヴェドはまったくと薄く笑った。
「タリバンごときが小賢しい手を使ったものだ。同志ではなく、外国人に協力させるとはね。小賢しいと言えば、あの男もだ。なんで他国の他人をあそこまで庇ったんだか。幼い少女ってだけで、そんなに守る価値があるものなのかな?」
「……ラルフ・コールマンは極めて特殊な男でした。理解するのは不可能かと」
「散々振り回されたお前がそういうんじゃ仕方ないなぁ。それにまあ、死に際が傑作だったからね。それで一応溜飲を下げるとしようか。知ってるかい? アレが喋ったの、最後の部下が殺されて、彼女が嬲られそうになった時だったんだよ。アレにとっては戦友より見ず知らずの少女の方が大事だったってことさ。つくづく英雄ってのは度し難いほどご立派だね」
クルテクは相手に悟られぬよう、慎重に生唾を飲み込んだ。
いつにも増して口が軽い理由は、それとなく察している。
だからクルテクはオヴェドが次になにを言うか分かっていた。
「そのご立派な人物を育て上げた男だけど。例の家族、まだ見つかってないんだって?」
「申し訳ありません」
「謝ることはないさ。お前が見つけられないんだ。うちの連中の誰にやらしても無理さ。けどお前が親友を殺した後で気が滅入ってるんじゃないかと思ってね」
「……遺体でしたら、すでに所定の場所へ移送済みです。連絡すれば、すぐに確認できるかと」
「分かってるよ。からかって悪かった。けど近いうちに必ずメンタルケアをやっておけ。気付いてないみたいだけどお前、だいぶ鈍ってるぞ」
はい、と答えてクルテクは車を出した。
クラッチペダルの上で左足が震えていたが、幸いエンストを起こすことはなかった。
「報告書でも上げましたが」
「まだ読んでないんだよね。何かあったかな?」
「……ブラックドッグがアフガニスタンから逃亡した後の足取りが一部掴めました。彼女はユーラシアを横断したのち日本へ渡航、その次はフランスへと向かったそうです。協力者がいたのは確実ですが、問題はフランスでして」
「へえ」
「半年間、とある富豪の屋敷に出入りしていたのが確認できました。その富豪が筆頭株主の企業のうち、社内サーバー構築に携わっているシステム会社がありました。3年前、ブラックドッグが27番地を手に入れた直後、真っ先に契約を結んだ特区外企業です」
途端、オヴェドの顔から薄笑いが消え、興味深げに両目を見開いた。
「つまり彼女は、3年前から計画を実行していると?」
「あるいは3年前から計画準備を進めてきたかの、いずれかですね」
「可愛げのない小娘だなぁ」
そう言いつつも、オヴェドはスマートフォンを取り出して部下への指示を開始した。
それを見届けて、クルテクはゆっくりハンドルを切った。左足の震えは、もう止まっていた。
***
雪と日光で錆び色あせた看板には、辛うじて『ビューモート総合病院』と読み取れた。
「なんか変な空き地だな。適当に閉鎖して適当に解体して、なんか飽きたから放置した、みたいな。元は立派な病院だっただろうに。もったいない」
ケータの感想にニコラスもおおむね同意だった。
中途半端に解体された建物に、中途半端に侵食する木々と雑草、中途半端に剥げたアスファルト。遠くには解体途中で中断したのか、半分だけ残った屋内駐車場が見える。
唯一まともに残っている建物3棟は、長方体状の7階建てで、うち正面のやつは下手なホテルよりずっと立派なエントランスホールがあった。
掘ってみないと判別しがたいが、ところどころに見られる雪山は除雪で捨てた雪でできたものと、廃材を適当に積み上げた山に雪が降り積もったものの、二種類がある気がする。
すると、ここまでずっと黙りこくっていたペレスが口を開いた。
「『略奪』のシバルバ、なんて言われてますけど、シバルバ一家はこれまで領内の公共・民間施設には一切手をつけてないんです。一応、なんですけど」
「ってことは何かしらやってるってことか」
「やったというか成り行きです」
ニコラスに対し、ペレスはそう返答した。
「ご存じの通り、シバルバは南米麻薬カルテル系の犯罪組織ですから、領内を麻薬の一大市場に変えちまったんです。特区設立前からこの辺りでは麻薬が秘かに横行してましたから、街全体があっという間にシャブ漬けになっちまったんです。当然、治安は急激に悪化しますから、逃げるだけの金のある連中は土地や権利を売ってさっさと特区外へ退避したんですよ」
「それで売られた土地や権利を軒並みシバルバが買い取ったってわけか」
「はい。代わりに特区住民を労働力として投入して、これまで通り管理維持してるんです。ただ医者とか看護師みたいな専門職は代わりが利きませんから、大半がこうして放置されてるんです。シバルバ領内の大体の空き地は元病院ですよ」
「つまり、ワンコロに噛まれても治療する場所がシバルバには存在しないってこった」
そう締めくくったセルゲイは忌々しげに煙草を噛み締めながら、始終周囲を見渡している。
今のところ野犬は一頭も見ていない。こちらの様子を窺っているのか、不気味なほどに静寂だ。
「あちこちに犬の足跡があるが、人間のもちらほらあるな。見ろ」
カルロが指差した先には、件のエントランスホールがあった。穴の開いた天井から床へ降り積もった雪の上に、数人の足跡がある。
ニコラスは近くに歩み寄って検分した。
「まだ新しいな。ペレス、ここに出入りしてる人間はいるか」
「新入りの浮浪者が家探しにくるぐらいで、大抵すぐに逃げ帰ってきますよ。地元の人間はまず近づきません」
「だろうな。ホームレスだってこんなひでえ臭いのするとこ、お断りだろうさ」
建物奥から吹いてきた隙間風に、セルゲイとケータが鼻を覆った。
肉食獣特有の糞尿と獣臭に、肉が腐った臭いがする。
野犬が住み着いてかなり長い年月が経っているのだろう。
ニコラスたちは懐中電灯で照らしながら、注意深く通路を進んだ。
歩を進めるごとに悪臭が強まっていくが、ふと。ニコラスは妙な違和感を覚えた。
――薬品、いや。消毒液か……?
悪臭に掻き消えてしまいそうな微かな臭いに、ニコラスは眉をひそめた。
元病院なのだから消毒液等の臭いがしても不思議ではないが、これほどまでに強烈に野犬臭が染みついた不衛生な場所で、今さら消毒液の臭いがするのは妙だ。
それにこの臭い……漂白剤も混じっている気がする。
にじり寄ってくるような重低音の唸り声。
ばっと背後を振り返れば、三頭の野犬が視認できた。
毛を逆立てて鼻面にしわを寄せ、剥き出しにした牙からは涎が垂れている。
野犬は一定の距離を保ちつつ、ウロウロとこちらの様子を窺っている。
「さっそくお出ましだ。周囲の警戒を怠るなよ。たぶんまだいるぞ」
「へーへー」
カルロに警戒を促され、セルゲイが肩に担いでいたIMIネゲヴ軽機関銃を構えた。
途端、犬の唸り声が大きくなる。
瞬間。
真横の通路から一頭がケータに飛びかかった。
「うおっ」と驚きつつも難なく躱し、発砲して応戦するも、犬は吠えながらすぐに通路奥へと逃げていく。
背後の三頭が襲い掛かってきたのは、その直後だった。
「陽動か!」
「ほんっと可愛くねえワンコロだな!」
闇夜に銃口炎の明かりが灯る。
ケータのAR15自動小銃と、セルゲイのIMIネゲヴ軽機関銃の火砲が通路に集中する。
単発で狙いをつけていたケータと違い、最初から弾をばらまいて面をカバーしたセルゲイの作戦が功を奏した。
二頭が全身から血狼煙を上げ倒れる。
が、先頭の一頭を見逃した。初動の遅れが祟って距離を詰められたのだ。
一頭がケータの小銃に噛みついた。
頭ごと振って小銃を捥ぎ取ろうとする犬に対し、ケータも腰を落として取られまいと踏ん張る。
犬と人間の引っ張り合いっこだ。
たちまち膠着状態に陥るが、おかげで犬の動きが止まった。
ニコラスは拳銃を構え、発砲した。
弾丸は寸分違わず心臓を穿ったが、犬はまだ動いた。
そのどてっ腹をカルロが蹴り飛ばす。
床を転がった犬は大きく痙攣し、ようやく動きを止めた。
引っ張り合いから解放されたケータが一息つくも束の間。
今度は右手の通路から野犬がケータに襲いかかる。
「なんで俺ばっかなんだよ!」
「チビだからだろ!」
「ぶっ殺すぞ綿棒野郎!」
セルゲイに切れるケータには悪いが、恐らく事実だ。
一番小柄なケータから狙いに来ている。
しかもケータとこちらを引き離そうとしている。狼が鹿の群れから足の遅いものを選り分けるように。
「ケータ、離れるな! 一気に襲われるぞ!」
「んなこと言ったって……!」
ケータをつけ狙う野犬はどんどん数を増していく。
ついに小銃を奪われ、ケータは警棒を抜き放った。
が、間に合わない。
一頭が大口を開け、ケータの腕めがけて飛びかかった。
刹那。
その口に、ニコラスは蹴りを挟み込んだ。
野犬の牙と金属のかち合う嫌な音がする。
野犬が驚いて離そうとするが、それより早くニコラスはその脳天に、銃口を押し付けていた。
轟音。
骨片と脳漿があたりに飛び散る。
同胞の欠片を浴びた野犬は姦しく吠えたてながらも、後方へ飛びずさった。
ようやく解放され、汗だくのケータが不機嫌そうに警棒を振った。
「やっぱ銃当たんねえわ。最初からこれでいけばよかった」
「いやお前、単発で撃つからじゃん。フルオートにしろよ。俺ちゃん仕留めたでしょ? どうしてそうすぐ物理に走ってしまうの……」
「殴るなら頭から潰せ、日本人。ゾンビと一緒だ。目か鼻でもいい。一瞬怯むぞ」
「了解。取りあえず動かなくなるまでぶっ叩けばいいんだな?」
「お前もかよイタリア人! 原始時代にタイムスリップすな、ちゃんと文明の利器を使いなさい!」
「俺はイタリア系アメリカ人だ」
「喧しいこのネアンデルタール人! なあお前は物理組じゃないよな、脳筋じゃないよな、なあ!?」
脳筋に親でも殺されたのかお前。
縋りついてくるセルゲイにニコラスは白い目を向けた。
というか、物理攻撃大好き物騒筆頭の脳筋集団ロバーチ一家の幹部が、何を言っているのやら。
いや、だからこそなのか?
「あんたらいつまでコメディアンみたいなことしてんだ! どんどん集まってきてるぞ!」
ペレスの叫びに我に返る。
態勢を立て直したのか、新手が、左右後方の三方から迫ってきていた。
総勢十数頭。とてもではないが、太刀打ちできない。
「走れ! どっか部屋みつけて立てこもるぞ!」
「それ追い詰められてねえ!?」
「挟み撃ちよかマシだろ、いいから走れ!」
カルロが先頭を切り、ケータとペレスがそれに続く。
「番犬ちゃんもっと早く走れねえの!?」
「無茶言うな!」
前回のより性能は上がったとはいえ、現在装着しているのは多軸空圧膝継手の義足だ。
電子制御で戦術外骨格が組み込まれた以前の義足のようには走れない。せいぜいが小走りだ。
セルゲイの掩護のもと、懸命に走る。
時おり一、二頭を射殺して牽制しては、再び走る。
「二人とも、こっちだ!」
両開きの扉から顔を出したケータが手を振った。
ニコラスはセルゲイと問答無用で飛び込んだ。直後にカルロとペレスが扉を閉め、転がっていた椅子の脚で閂をかける。
直後、扉に何かが激突した。
体当たり攻撃を仕掛けているのか、犬たちがぶつかるたび天井から降り積もった埃がパラパラ降ってくる。
「ここ手術室、か……? 意外と綺麗だな」
「ああ。電気もまだ通ってるらしい」
そういって室内灯をつけたカルロは、ネクタイを緩めて溜息をついた。
「で、これからどうする。完全に袋の鼠だぞ」
「いや、そうでもない。出入り口を一つに絞れた。銃座を設けて射線を集中させよう」
「けどジリ貧に変わりねーぞ。弾だって無限じゃねえし、どーすんの」
セルゲイに反論されて、ニコラスは腕時計を見た。
そろそろだと思うのだが。
『ニコラスー、どこー!?』
そう思った矢先、待ち望んでいた声が聞こえた。マイク越しにではあるが。
『ジャック特製犬避けスプレーのお届けでーす! ちょー臭いからかからないように気を付けてね!』
見れば手術室の奥、滅菌室を併設した更衣室の割れた窓の上から、ドローンが舞い降りた。
ニコラスを除く全員が目を丸くする。
ドローン自体は何の変哲もない八回転翼ドローンだが、特筆すべきはその腹に抱えたものだ。
2リットルペットボトルを抱えている。
しかもこのペットボトル、底に穴が空いている。液体を満タンに入れているというのに。
「改造、上手くいったか?」
『まーね。アームを横に倒してローラーつけてふた緩められるようにした。これならいけるっしょ』
『……ニコラス、犬、どこ?』
「こっちだ」
ウィルに促され、ニコラスはドローンのカメラを向けさせて周囲の建物構造を説明した。その上で野犬たちの位置を誘導する。
「つーわけでこの手術室前に群がってる。思い切りぶっかけてやれ」
『『了解!』』
元気よく返事をしたドローンが、割れた窓から再び出ていった。
しばらくして、野犬の吠え声が止んだ。
と思った直後、一瞬の沈黙をおいて、野犬たちが一斉に悲鳴を上げた。
唸り声はキャンキャンと甲高い鳴き声に代わり、徐々に遠ざかっていく。
ニコラスたちは扉を開け、通路の外を様子見た。
尻尾を巻いて逃げていく野犬たちを、ドローンが追いかけていく。
その腹に括り付けたペットボトルからは、凄まじい刺激臭のする液体がシャワーヘッドよろしく降り注ぎ、濡れた床が野犬たちを追い立てていく。
「ペットボトルシャワーか。考えたな」
「ゲホッ、ペットボトルが何だって?」
咳き込みながらケータに尋ねたセルゲイに対し、ニコラスは解説した。
「ペットボトルシャワーだ。穴開けたペットボトルに水入れても、蓋さえ閉めてれば表面張力で水が出てこないんだ。蓋を開けると大気圧で押し出されて出るようになる。災害とかキャンプで使えるぞ」
『そのとーり! ちなみに液体の材料は酒、レモン、ニンニク、タバスコ、香水、煙草の吸殻を水につけた時に出る液だよ。それをテキトーに混ぜて作る! 簡単っしょ』
「ってそれ全部俺らの私物じゃねーか!」
「後日請求するからな、ガキども。50ミリ170ユーロもする香水を犬に使いやがって。あとこっちに寄るな。液がかかる」
セルゲイに怒られ、しっしっとカルロに追い払われて、ドローンが不満そうに周囲を飛び回った。
功労者なのに、といいたいのだろう。
そんな時だ。
通路の奥から、ひょっこり。
「ハウンド!」
心底不機嫌そうなハウンドが現れた。上着と抱えた右腕部分がちょっと濡れている。
「今さっきドローンがガツぐらっとビリビリねちょねちょグルグルどろりんちょしたニオイの液体ぶちまけてったんだけど、誰の仕業?」
全員が一斉にこちらを指差した。ドローンまでレーザーライトでこちらを照らしてくる。
「やっぱのニコの仕業だったか」
「事前に伝えなかったのは悪かったが勝手に飛び出してったお前にも否はあるぞ。あと俺のコートで顔を拭くな。鼻をかむな」
ぐいぐい顔を押し付けてくるハウンドにニコラスは辟易した。
一見ハウンドに抱き着かれているようになっているが、鼻水を擦り付けようとしているだけである。全力でお断りだ。
「そもそもお前のせいで皆こんな目に合ってんだぞ。何やってんだ」
「それについてはごめん。急がないと手遅れになりそうだったから」
「手遅れ?」
「そう。手遅れ。ぎりぎり間に合ったけどさ」
その声音にニコラスは説教を飲み込んだ。
ハウンドの雰囲気が、おちゃらけたものから瞬時にひりついたものに切り替わったからだ。
ハウンドは鋭くカルロとセルゲイに目配せした。次いでドローンを見る。
それだけで、マフィア二人はすべてを察した。
『わっ、ちょ』
上着を脱いだセルゲイがドローンを覆い、それをカルロが上着ごと押さえつけた。
ニコラスは声のトーンを落とした。
「ガキどもに聞かせられない内容か」
「まあ今回のはちょっとキツイかな」
そう言って、ハウンドは右脇に抱えていた上着を前に持ち直した。
ただ単に上着を抱えていたのではなく、上着に何かを包んで持っていたのだ。
「これ」
パラリと上着が開かれ、中身がのぞく。
全員が言葉を失った。
腕だ。
薬指に銀のラインが入った金の指輪をはめた人間の左腕が、そこにあった。
ニコラスは最初のことを思い出して吐きそうになった。
野犬はゴミを漁っていたのではない。袋に詰められた、切断された人間の死体を漁っていたのだ。
ケータが口元を押さえて視界の隅へと逸れていく。
ハウンドは言いにくそうに、だが道端で野糞をする人間を目撃したかのように、顔を歪めて低く呟いた。
「一応、遺体が集められた場所は確認したけどね。ほとんど骨でこれ以外は判別がつかなかった。確認しに行ってもいいが、おススメはしない。野犬どもの糞が混じってとてもじゃないが見れたもんじゃない。ペレス、確か失踪者の中に、こんな指輪した奴がいたよな?」
「え、ええ。一番最初に失踪した、犠牲者の女性です。指輪も、間違いないかと」
息苦しそうにペレスが答えた。吐きそうなのを堪えながら喋っているので、途切れ途切れになってしまっているのだ。
それに頷いて、ハウンドは再び質問した。
「それからここが一番重要なんだけど。ここさ、多分まだ使ってる」
「は?」
ニコラスは耳を疑った。使っている? それは――。
「この病院を、ってことか?」
「だってそうだろ。この手術室、電気通ってるんだよ? 他の部屋はそうじゃなかった。なんで手術室だけ電気が通ってて、こんなに小綺麗なんだ? それに見ろ、この腕。骨の切り口がやたら綺麗だ。他の骨もそうだった。犬が食い散らしたにしちゃあ、ばらし方がやたら丁寧なんだよ、ここの死体」
全員が押し黙った。
解答など、一つしかない。あまりにおぞましい真実だった。
「恐らくここの死体、人間がばらしてる。ばらした死体を、ここに捨ててるんだ。あるいはここを解体場にしたら、犬が集まってきたか。いずれにせよ――」
言葉を区切ったハウンドは目を鋭く眇めた。
黒く塗りつぶされた瞳が、無機質な白色灯を反射してぬらりと光った。
「もう一度シバルバ一家を調べ直す必要があると思う。私に一番反発しそうな連中が、ここまで一切手を出してこなかった。間違いなく罠だ。そんな回りくどいことをしてまで企んでる何かが、連中にはあるってことさ」
***
その日の晩、ハウンドは駐屯所ビルの屋外非常階段に座りこんでいた。
雪雲に覆われた長夜は闇が濃い。
街灯から数メートルも離れれば自身の指先すら見えないだろう。
息を吸うたび、冷気で肺に刺すような痛みが走る。三本目あたりから数えるのをやめた煙草を咥え、ハウンドは紫煙を溜息に乗せてゆっくり吐き出した。
これだけ喫ってなお、鼻腔にこびりついたニオイは消えない。
血と、肉と、脂とが、腐ったニオイ。
それらが長年染みついて、湿気を孕んでどろりと滞留した淀みのようなニオイ。
自分の鼻に刻み込まれてしまっているのだ。あの日から、ずっと。
いつものように笑っていた、あの人の首が転がり落ちたその日から、ずっと。
――どうする。
あの死体は、十中八九、自分を標的にしたものだ。
自分を誘き出すため、あんな殺し方をした。
だがもう計画の失敗は許されない。
USSAにこちらの目的を勘付かれれば、積みだ。すべてが水泡に帰す。
自分のこれまでの苦労はおろか、ラルフたち五人が命懸けで護ったものが、すべて無意味になる。
だからこそ、今すぐに計画を再実行せねばならないというのに。
それが今、できない。
――あんな形でバレるのは想定外だ。ニコラスを逃がそうと特区外へ出したのが完全に裏目に出た。
そう。ニコラスだ。
ニコラス・ウェッブ。彼こそが一番の想定外だった。
彼が特区へやってきてからというものの、予定が狂いに狂いまくっている。
「言いつけなんて、守るんじゃなかった」
彼に絵本を託したのは、ラルフの言いつけ――今となっては遺言の、それに従った結果だった。
――『いいか、この絵本はお前だけのものだ。誰にも見せてはいけない。だがもし、――もし、この先、独りぼっちになって、どうしようもなく寂しくて堪らなくなったら、そいつにこの絵本を見せろ。そいつは必ず――』――
「お前の味方になってくれる、か」
ああ、そうだ。ニコラスは味方になってくれた。
ラルフが言った通り、これ以上ないほど頼もしく、時には心配になるほど献身的で篤実な味方になってくれた。
だからこそ、恐ろしくて堪らない。
このままでは彼は自分についてくる。道連れにしてしまう。
私は一人で死なねばならないのに。
コンクリートを踏みしめる、微かな音。
それに混じった押し殺した吐息に、ハウンドはすぐさま意識を切り替えた。
こんな時、自分を追いかけてくる人間は、一人しかいない。
「やあ、ニコ。こんなクソ寒い夜に夜更かしか?」
「お互い様だろ」
気付かれたことに何ら気後れすることもなく、ニコラスは堂々と足音を響かせながらやってきた。
ハウンドは、振り返ることもなく言葉を突っぱねた。
「言っとくけど、止めても行くからね」
足音がぴたりと止まった。ハウンドは煙草のフィルターを噛み締めた。
今度こそ、独りで行く。行かねばならない。
「今回の死体、ご丁寧に切断してわざわざこの駐屯地近くのゴミ捨て場に置いてあった。あからさまな挑発だ。連中は私たちが来るのを知っていて、あえてこうしたんだ」
「だから自分から罠にかかりにいこうってか? 許すわけねえだろ。前回の騒動忘れたのか。何もかも一人でやろうとするな。何のために大所帯で乗り込んだと思ってんだ」
「いいや。これは私一人でやらないといけない。私一人でないと、奴らは動かない。分かるだろ?」
しばしの沈黙を経て、腸の底から這い出てきたような押し殺した返答が返ってきた。
「罠にかかったお前を狩りにきた連中を、俺たちに狩らせようってのか」
「それが一番確実なんだ。今回の騒動には間違いなく『双頭の雄鹿』が関わってる。たぶん『トゥアハデ』も動いてると思う。連中を返り討ちにするには、こちらも全てを出し尽くさないと無理だ」
再び沈黙が返ってくる。
だが答えあぐねての沈黙ではない。激情を堪えているがゆえの沈黙だ。
ニオイで分かった。
「ごめん、ニコ。その頼みは聞けない。いつも聞いてないから、今更だけど。でもやっぱり私は行くよ。止められても一人で行く。ヴァレーリとロバーチには万が一の支援は頼んであるから」
ごめん。
沈黙が満ちた。
こちらの存在ごと塗り潰すような、重く隙のない沈黙だった。
けれどハウンドは、自身の言を撤回する気はなかった。
ただ鳩尾が刺すように痛かった。
しばらくして。長く深い溜息が聞こえた。
「ハウンド、煙草くれ」
「……へ?」
突飛な発言に、思わず振り返る。
ようやく目を合わせたニコラスの眼差しにからかいは微塵もなく、ただただ真剣さがあった。
「たまに喫いたくなる時があるんだよ。現役時代は控えてただけだ。ニオイが残るし、肺活量も低下するからな」
そう言ってするりと隣に腰を下ろしたニコラスは「ん」と手を差し出した。
ハウンドは気圧されるように煙草とライターを差し出した。
赤い炎が、ニコラスの顔をぼうと照らす。
ハウンドはつい、その横顔に見入ってしまった。
切れ長、というより強面が似合う吊り目が、黒髪の隙間からのぞいている。
ハウンドに色は判らないが、そこからちらつく双眸の輝きは強く鋭く、極寒夜の砂漠を冴え冴えと照らす月光を思わせた。
眉間のしわと目の下の隈は濃く深くなった。一方で肌にはまだハリがあって活力に満ちている。
戻っている。確実に、初めて出会った頃の彼に。
いいや、安定さでいえば、今の方が確実に上だ。
並大抵のことでは揺るがぬ自信と経験に裏打ちされた冷静さが、全身を隙なく包んでいる。
強くなったのだ、この男は。
自分などもう必要ないほどに。
「ハウンド」
「はえっ、は、なに!?」
「……灰、落ちるぞ」
我に返ったハウンドは慌てて携帯灰皿に灰を落とした。
見ればもうお終いだ。ハウンドは新しいのを喫うことにした。
「ん」
「え、なに。なんでチョコ?」
掌の上の、なかなか洒落たラッピングがされた一口サイズのチョコレートに、ハウンドは首をひねった。
そりゃチョコは好きだけど。
「これ食ってから喫ってみろ」
言われた通り、チョコレートを口に放り込み、咀嚼して飲み込んでから煙草に火をつける。
「おお!」
ハウンドは目を丸くした。
チョコレートの甘さと煙草の苦さが相まって、いい塩梅のほろ苦さになっている。これは癖になりそうだ。
「ガキの頃、母親の同僚の娼婦に教わったんだ。ウィスキーと一緒でもイケるぞ」
「身体に悪いもんばっかだな~」
「身体に悪いもんを摂取したくなる時があるんだよ、大人には。ああそれ、一応ビターもあるから気を付けろよ――って、遅かったか」
顔をしわくちゃにしながら「もっと早く言え」とハウンドはニコラスを睨んだ。
ビターチョコは嫌いではないが、このビターはやたら苦い。煙草も合わさって苦さ倍増だ。
「カカオ70%だからな。ほら、ミルクティー」
ニコラスは煙草を取り上げると魔法瓶のカップを差し出した。ニオイからして蜂蜜がたっぷり入っている。
迷わずそれを手に取り、チビチビ飲んで口直しをする。
ほっと一息ついて、我に返って、しまったと思った。
いつの間にか、完全にニコラスのペースに乗せられてしまっている。しれっと煙草まで取り上げてるし。
さてはこいつ、最初から仕組んでたな?
じとーっと睨んでみるが、ニコラスはどこ吹く風。素知らぬ顔で煙草を吹かすだけだ。
これ以上ふり回されるのも癪だ。ハウンドはそっぽを向くことにした。
「ハウンド」
「……………………なに」
「まだ、話せそうにないか?」
口に運ぼうとしていたミルクティーの手が止まった。
「え……と、」
ハウンドは言葉に詰まった。
今日のニコラスはいつにも増して踏み込んでくる。ここ最近、意図的に避けまくっていたせいもあって、ニコラスへの対応が分からない。
というか、いつの間にこんな心臓に悪い男になったのか。誰かに踏み込まれるのは苦手だというのに。
ハウンドは喋れなかった。
そんなこちらを見て、ニコラスは静かに息をついた。
「分かった。準備ができたらちゃんと話してくれ」
ハウンドは驚いて振り返った。
「聞かないの?」
「聞かない」
「なんで?」
「お前、聞かないでくれたろ。俺が自分から話すの、ずっと待ってた。だから今度は俺の番だ」
ハウンドは動揺した。
聞かなかったのは、治療マニュアルに書かれていたからだ。機械的に従っただけで、気遣いなどと呼べるものではなかった。
それなのに、この男はまるで宝物のように。
そんなつもりなどなかったのに。
こちらの表情を別のものと解釈したのか、ニコラスは苦笑した。
「そんな顔するな。ガキの頃から待つのは慣れてるんだ」
哀しくて寂しいニオイがした。
そうだ。この男もまた、大事な人が自分を迎えに来るのを待っていたのだ。
来るはずがないと分かっていながら、待っていた。
ハウンドは観念した。
駄目だ。この男は、何があろうとついてくる。最後の最後まで付き合う気だ。
先日のクリスマスでそれを思い知ったというのに。
それでも、巻き込みたくない。道連れにしたくない。
ならば、せめて。
ハウンドは首から下げていたループタイを外し、ニコラスに差し出した。
ニコラスは目を丸くした。
「ハウンド?」
「ニコのも貸して。スイッチ入れるから」
「スイッチ?」
ハウンドは受け取ったニコラスのべっ甲のループタイを裏返し、紐とべっ甲との間にある数ミリ単位の小さな突起を爪先で押し込んだ。
「ほい、これでGPS機能ついたから。電池数年は持つから任務中は大丈夫でしょ」
驚き固まるニコラスをよそに、互いのループタイを無理やり交換する。
「位置情報はうちで扱ってる端末にだけ表示されるから、カルロたちに見せたくないなら気を付けること。ほら、これでいつでもお互いの位置分かるでしょ? 一応それ精密機器だから、大事に扱ってね」
虚を突かれたニコラスは、数秒の間をおいて表情筋を脱力させた。
「そんな機能つけてたなら早く言ってくれ」
「GPSは最近つけたんだよ。元は盗聴器なの、それ。なかなか高性能なのよ?」
「何のために使うんだよ……」
「そりゃあ交渉相手の弱み握ったり、あれこれ使うのさ」
ふふんと胸を反らして宣えば、ニコラスは呆れたように、けれどほっと安堵したように笑った。
ああ、こんなにも優しい顔で笑うのに。
強面無愛想だなんだと嫌忌する人間の、なんと勿体ないことか。
ま、絶対に教えてやらないけど。
無理やり交換したニコラスのループタイを掌で転がす。
店長が「満月みたいで綺麗だよ」と評したその色は、ハウンドには判らない。
そっとそれを握って、ハウンドは抱えた両の膝頭に頭を乗せた。
「ごめんね、ニコ」
「詫びるぐらいならやらないでほしいんだがな。……今回だけだぞ」
「うん」
一呼吸入れて、ハウンドは立ち上がった。
行こう。これ以上いると本当に行きたくなくなってしまう。
その時だ。
手を、掴まれた。
「ちゃんと帰ってこいよ」
真摯に見上げる眼差しから、目が泳いだ。
けれど、ニコラスは手を離してはくれなかった。
「どれだけ隠し事しようが、話せないことがあっても構わない。けど帰ってこい。それが約束できないなら行かせない」
決意に満ちたような、それでいて縋るような、置いていかないでと懇願するような眼差しだった。
きっと、自分がニコラスに縋った時もこんなふうだったのだろう。
そう思いながら、ハウンドは躊躇いがちに口を開いた。
「帰ろう、とは思ってる。本当だよ。けど、やっぱ相手が相手だからさ……」
ハウンドは途方に暮れた。
約束はできない。けれど嘘をついたところで彼は見抜くだろう。
それは嫌だ。
救うと決めた男を、最後の最後で傷つけて立ち去るのは、なんとしてでも避けたかった。何かと自身を責めがちな彼の人生を、自分への後悔で縛りつけたくはなかった。
どうしたらいいのだろう。
答えあぐねていると、ニコラスの方が「じゃあ」と先に口を開いた。
「その時は俺が迎えに行く。泣こうが喚こうが無理やり連れて帰るからな。文句言うなよ」
ハウンドは泣きそうになった。
なんでそんなこと言うんだ。死ぬに死ねないじゃないか。
「っ、その時は、ニコの、好きにすればいいさ」
「ああ。そうさせてもらう」
「………………手」
自分より一回り大きな手が、自分の手をやっと解放した。名残惜しそうに掌から指先へ、触れる面積が小さくなっていく。
指先と指先が、ゆっくり離れた。
「行ってくる」
「ああ。気を付けろよ」
ハウンドは一気に非常階段を駆け下りた。そのまま雪の中を駆けだす。
ふと、立ち止まって非常階段を見上げた。
ニコラスは真っ直ぐにこちらを見ていた。
それにちゃんと目を合わせて、ハウンドは再び駆け出した。
もう二度と、振り返ることはなく。
次の投稿日は3月15日です。




