88話 シロ
「やあ、お待たせしましたアレクサンダー。別れは済ませてきましたよ」
その港町から離れたところには深い森の入り口があって、大昔、人はそこから出てきて街のあるあたりに住み着いたのだと言われてた。
しかし今となってはもはや未開の森林だ。
そこにはきっといろいろなものがあるし、いろいろなものがないのだろう。
手続きもなく、市民権もない。
海産物もなく、磯においもない。
ひと目でわかるようなものも、ひと目ではわからないようなものも、たくさん、あったり、なかったりするのだろう。
森の入り口で青年がアレクサンダーたちに合流すると、アレクサンダーは「げっ」という声をあげた。
「ね、姉さん……」
アレクサンダーの視線の先にはヘンリエッタがいる。
彼女も旅に同道するのだった。
だから、街を抜けて、ここにいるのだった。
と、アレクサンダーの隣で、イーリィが首をかしげた。
「そういえば、アジトでも呼んでましたけど、なんで『姉さん』なんですか?」
「あーいや、その……説明がめちゃくちゃ面倒、ていうか俺にもよくわかんねーなにかがあって、あの人は俺の姉さんだ。イーリィ、お前ならわかるだろ? 『あなたが兄さんです』の弟さんバージョンだよ」
「あー……」
イーリィは実に苦々しい顔をしていた。
あの桃色髪の『聖女』は、大勢の前では神々しささえ身にまとっている触れ難き存在だというのに、こうして少人数の中にいると、親しみやすく、話しやすい存在になる。
そのあたりもアレクサンダーなんかよりよっぽど危険だと青年は考えている。
たぶんダリウスが後継者候補に選ぶべきはアレクサンダーよりもイーリィだったように思えてならない。
大集団を操る力も、小集団の中でファンを作る性質も、それは指導者に必要不可欠で、後天的に身につけるのはほとんど不可能な技術だと青年は考えている。
まあ、そんなことはどうでもよくて。
青年は歩み出て、すべきだと考えている説明をする。
「真白なる夜のみなと話したのですがね。彼らはあの街にとどまるようですよ。『だってオレたちは勝ってない。このままじゃあ街から出られない』だそうです。……あっはっは。それだと、街を出る僕らが逃げるみたいでは?」
「っていうかお前こそいいのかよ。最初はそりゃあ、死んだことにして連れてくつもりだったけど、最初のころとは状況が変わってるじゃねーか。オヤジさん……あーっと」
アレクサンダーはヘンリエッタのほうを見た。
青年はにこやかな顔をして、補足する。
「すべて白状してきました」
「……」
「僕がダリウスの命令で彼らを集めたことも。『真白なる夜』という集団が、真白なる種族の安定供給のための牧場であったことも」
「なに? 牧場って概念を知ってるのか!? ってことはあの街のそばに牧場があるの!? 肉とミルクの安定供給とかやってんの!?」
「ええ。まあ。……というか、それはそんなに重要なことで?」
「重要だろ! くそっ、言ってくれればまともな畜産の肉が食えたのに……魚しか食ってねえ……!」
「なんだかよくわからないけれど、アレクサンダーがそうやって地団駄を踏んでいる姿を見るのは気分がいいですね」
「性格が最悪!」
「ところで君、僕がみんなに事実を白状したあとの顛末とか、気にならないんですか?」
「ああ、許されたんだろ」
「そんなにつまらなさそうにしないでください。僕も悲しい気持ちになることもあるんですよ」
「お前が話したそうなこと妨害するの、割と好きかも」
「いやあ、僕らには似たところがあるようで。……まあ、そういうわけでしてね。許された、というよりは、『今は忙しいからあとにしてくれ』という感じでしたけれど、なんとなく許されて、ついでのように見送られて、偶然、僕はここにいます」
「まあ、偶然だな。こう転がるなんて思ってなかったし、俺も。たぶん、お前もだろ。お前……ああ、そういや、もうお前『真白なる夜』でも、その頭でもなくね? なんて呼べばいいの?」
「シロとでも呼べばよろしいのでは?」
これにはさすがに、アレクサンダーが一瞬、絶句した。
だから青年は――シロは、嬉しげに笑う。
「旧支配種族を『シロ』と呼び、僕らはその呼ばれ方をするたび、まあ、ずいぶんとひどい目に遭ってきました。けれど、それは、あの街の中だけの話なんですよ」
「……」
「あの街には決まりがあった。平等があって差別があった。歴史があって人生があった。でも、街を出てしまえばそこには、僕をシロと呼んではいけない事情など、なにもないのです。それに」
「なんだよ」
「君が僕をシロと呼ぶとき、そこにはなにもない。ただ呼びやすいからそう呼ぶだけだ。その気安さを、僕は案外、気に入っているんですよ」
歴史だの人生だの、人民だの政治だの、そういったものを背負う男を見てきた。
あの男はそれでも幸せだと言ってのけた。でも、そういうのはどうにも、自分には向いていないのだと青年は思う。
だから、シロがいい。
なにも意味のふくまれていない、ただの呼び名として、アレクサンダーはその言葉を口にする。
まっさらな、名前。
そこには『今まで』がない代わりに、たくさんの『これから』があるように思えた。その軽さこそが自分向けだなと、青年は思ったのだ。
「先の質問に答えますがね、アレクサンダー」
「なんだっけ。っていうか、お前、なんか俺に対して物腰が丁寧になってない?」
「おお、その二つの質問は同時に処理できそうですね。……先の質問、『本当に街を離れてもいいのか?』。未練も後悔もまったくないとは言いませんけれどね、死んだことになっている僕があの街をうろうろしていちゃあ、まずいでしょう」
「そりゃそうだ」
「それに、ダリウスはもう、殺せません」
「……」
「殺すことが救いではないのだと、判明してしまった。あの人はね、僕の救いは、いらないのですよ。ならば、僕がいずれ救うべきは、君ですよ、アレクサンダー」
「えーっと、それって殺害予告だよな」
「照れますね」
「センスが違いすぎてわかんねーよ」
「あっはっは。というわけでね、君についていくことにしたのです。君たちは権利に差のない平等な仲間たちのようですが、僕はそういう感覚がいまいちわからないので、面倒くさいから、君をあるじと仰ぐことにしたのですよ。その方が付き合いやすいので。あとほら、いずれ殺す相手には、いい思いをさせてあげたいじゃないですか。僕は案外尽くす男ですよ」
「ゆがんでるなあ、お前……」
「ヘンリエッタとも相談して、二人で『アレクサンダーが死にたいって言ったら殺してあげようね』『うん』ということで合意をしてます」
「あのさあ、俺の仲間になる連中、半数が俺を殺そうとしてるんだけど!」
「イーリィさん、カグヤ、ダヴィッド……は、違いますね。サロモンでしょうか?」
「そうね! こいつもね! 俺が万全に戦えるような、折れない剣を手に入れたら殺し合おうって予約してるんだよ! なあサロモン!」
サロモンは木に背中をあずけた状態で腕を組み、「ふん」とそっぽを向いた。
アレクサンダーは苦笑する。
「ダリウスとの戦いを途中で止めたからスネてるんだよあいつ」
「スネてなどいない」
「めちゃくちゃスネてるじゃねーか!」
「ふん。いいからさっさとアレクサンダーの剣にふさわしい素材とやらを手に入れ、早く折れない剣を作れ。貴様の存在価値はそれだけだろう、短い女」
ダヴィッドに八つ当たりである。
ダヴィッドは「あァ!? ケンカなら買うぞ!」と背負った大きなハンマーに手をかけた。
シロは笑う。
「いやあ、君たちは仲がいいですね。こんな一団に迎え入れていただけて光栄です。楽しくなってきたなあ。あっはっは」
「俺は胃が痛くなってきたよ」
アレクサンダーが肩をすくめる。
その様子を見てシロはますます笑った。
九章 真白なる夜に 終
次回更新9月5日(再来週土曜日)午前10時