75話 扇動者
青年はそこからも変わらない日々を送ろうと思ったが、アレクサンダーがあれこれ変えてしまった。
「なあ、シロ」
と、うっかりというようでもなく、さりとて計算づくという感じでもなく、アレクサンダーはごくナチュラルに、アジトの中で、青年のことをそう呼んだ。
青年はそういう蔑称を気にしない。
だが、アジトには気にする仲間もいる――大勢いる。むしろ、大多数が『気にする』方だと言えるのだった。
しかも悪いことに、その時は暗く狭いアジトがもっと狭く感じるぐらいにたくさんの同胞たちがいて、さらにその中には、青年にかなり心酔してて、性格的にかなり直情的な男がいた。
「おい」
と立ち上がったそいつは天井に頭がつくほどの大男だった。
体の大きさは仲間の中で随一で、力の強さも筋肉量なりにあって、真白なる種族特有の綺麗な顔には複数の傷や火傷がある、組織で一番の強面だ。
それがアレクサンダーの小さな体の背後に立ち、首根っこをつかんで持ち上げたものだから、そばにいたヘンリエッタが悲鳴のような声をあげた。
その悲鳴のような声の出どころを一瞬申し訳なさそうに一瞥したものの、大男は冷静に怒りを発散する決定をしたようで、つまみあげた(と表現したくなるほど圧倒的な体格差があった)アレクサンダーを自分のほうに向かせて、言葉を続けた。
「オレたちはな、お前が、ヘンリエッタのお気に入りだから、ここに、こうして、置いてやってる。この街で、『真白なる種族』を差別してる、そのトップである、人間族の、お前をだ」
街には種族ごとの序列があった。
真白なる種族を最下層、ヒト未満において、その上から獣人、太短、長耳、そしてトップに人間となっている。
それの序列をそっくりそのままひっくり返したものが、『真白なる夜』の中での種族好感度になっている。
つまり、人間族は、人間族であるというだけで、たいそう嫌われていた。
また、このアジトにいる真白なる種族は、自分たちと同じ種族が支配者だったころはまだ生まれていなかった者ばかりだ。
自分たちと種族が同じだけで無関係な『過去の人』に向けられていた憎悪をそっくりそのまま引き受けることは、たいそう理不尽で、腹に据えかねるものであった。
シロ、という呼び名は、そういう理不尽に対する怒りとか、不条理に対する憎悪とか、その呼び名をよく使うようなヤツに対する殺意とかを呼び起こすものなのである。
つまり人間族であり、組織の実質的トップを『シロ』呼びしたアレクサンダーは、最短ルートで全員からの殺意を買い占めることに成功したのだ。
これからちょっとしたおしおきが始まっても、それを止めようと思う者は――ヘンリエッタを除いて――一人もいなくなるほどの、いじめ殺してもかまわないのだという大義を全員に与えるほどの、激しい怒りを、かったのだ。
シロ呼ばわりされた青年当人も、止めようとは思わなかった。
この状況でアレクサンダーがどう立ち回るか見たかった。
『人』を解読する作業をこの青年は好んだし、理解できない相手であるほど、強く解読欲とでも呼ぶべきものが鎌首をもたげる傾向にあった。
「人間、お前に許されるのは、ヘンリエッタの弟として振る舞うことだけだ。オレらの頭に声をかけたり、ましてやそれをシロ呼ばわりする権利なんざねぇんだよ」
「ああ、悪い、悪い」
アレクサンダーは案外素直に謝った。
だけれどそれは、みょうに神経を逆撫でする謝り方だった。あまりにも軽いというのか、怒りの深さに見合っていないというのか……
むしろ、あえて挑発するような謝罪に思えた。
案の定、アレクサンダーは謝罪のすぐあとに、言葉を続けた。
「でも俺にも俺の主義があるわけよ。俺は言葉狩りはあんま好きじゃなくってな。戦争って言葉が消えて、なくなるのは戦争の悲惨さを語る記録だけなんだぜ。戦争そのものはなくならねーんだ。わかるか? シロって呼び名を禁じたところで、差別は消えない。俺はそういう考え方だ。それぞれの考え方は尊重されるべきだろ? なにせ――俺たちは平等なんだから」
青年は吹き出しそうになるのをこらえるのに、かなりの労力をかけた。
だって笑ってしまうぐらいに挑発的だったのだ。人間族が、人未満の真白なる種族のアジトで、真白なる種族に囲まれながら、平等を語る。
これ以上に差別されてきた自分たちを挑発する物言いがあろうか?
狙いがさっぱりわからない。
いや、たぶん、アレクサンダーは、暴力を引き出そうとしているのだろうと、青年は分析した。
そして、狙い通りになった。
「いっぺん死ねや」
大男は拳を固めて、アレクサンダーの腹部に打ち込んだ。
小柄なアレクサンダーを軽く上に放ってからそうしたのだ。アレクサンダーは見事にふっとんだ。
空気しか詰まっていないかのような軽さで吹き飛び、天井にぶつかって、跳ね返って地面にぶつかって、最後に壁にぶつかって止まった。
「アレクサンダー!」
ヘンリエッタの悲鳴はもはや狂気の域だった。
絶対に死んだ、と誰もが思った。
しかし、
「あんま叫ばないでくれよ姉さん。ここは音がよく反響する」
アレクサンダーはしっかりと二本の足で床の上に立ち、背中についた汚れを軽くはらってから、大男のそばに歩み寄る。
――不死身。
場にいるほぼ全員が、おどろきで、口をぽかんと開けた。
「ふふ」
青年は笑った。
不死身を自称をする男なんて枚挙にいとまがない。
ちょっと危機をくぐり抜けた男はだいたい『俺は不死身だ』なんて吹聴するものだし、それはアレクサンダーを殴り飛ばした男もそうだった。
だから、普通、不死身だなんて自称、たいていは偽物だけれど――
本物を見せつけられてしまった時、人は、こんな反応になるのだというのがわかって、青年は面白くなったのだった。
不死身のアレクサンダーは、不死身を自称する男を見上げて、
「じゃあ、一発のお返しな」
にっこり笑って、無造作に腹部を打った。
身長に差がありすぎて、アレクサンダーは飛び上がって打った。空中で殴ったものだから踏ん張りもきいていない。でも、大男は吹き飛んだ。
まっすぐ後ろに吹き飛んだのだ。おいてあったテーブルや椅子を弾き飛ばして、アジト内の石壁に激突して、めりこんだ。
壁には蜘蛛の巣状のヒビが広がり、天井からはホコリが舞い、どこかでネズミが危険を察知して鳴いていた。
全員がおどろいている。
全員が沈黙している。
全員が口を開けたまま、吹き飛ばされた大男を見ていて――
パチン。
アレクサンダーが指を鳴らすと、全員が、そちらに視線を向けた。
「この力、ほしくねーか?」
大男を吹き飛ばした力。
ほんの十歳程度の体格しか持たない少年が、大男を殴っただけで壁にめりこませるほどの力。
「俺なら、あんたらを七日で強くしてやれる。強くなると、どうなると思う? 堂々としていられるんだ。こんな暗闇にひそまないでもすむようになるんだ。自分たちをこんな穴蔵に追い込んだ連中に怯えて生きる必要がなくなるんだ。自由の第一歩目なんだぜ、『強さ』は」
まずいことが起こり始めたなと青年は気付いた。
アジトにいた同胞たちがアレクサンダーの話に耳をかたむけ、それどころか、彼の語る言葉に一定の信頼を示している。
なるほどこれがダリウスをその気にさせた話術なのか、と青年は思った。
人心を乱すことを目的とした扇動術。
例の『過激派』の口上など比べ物にもならない、もっと悪質でもっと強力な言葉の力。
タイミングのはかりかた。場の作りかた。人を幻惑するための下準備。
「俺が『魔法』を教えてやる」
アレクサンダーは、ちらりと青年のほうを向いた。
青年はまた、笑いそうになるのをこらえるのに大変な労力を必要とした。
魔法。
そういえば、アジトに来る前に言っていた!
魔法を広めるのが使命だと! 青年たちが知る、生活をちょっと便利にするようなものではなく、本物の魔法を、広めるのだと!
さっきの暴力沙汰はこの流れのために起こしたに違いがなかった。
そして。
そして、ここに集う人たちとは別な魔法を、青年にも教えてくれるというのだ。
人を惑わす話術。自分をどれほど軽んじている相手にも、話に耳をかたむけさせる技術。
なんて――なんて、たちの悪い!
けれど、青年は楽しくて楽しくてたまらなかった。
なぜかわからないのだけれど、本当に、自分でもどうかと思うけれど、綺麗に騙されようとしている同胞たちを見て、このまま成り行きを見守ることに、なんの迷いもなかった。この見世物を止めたくないと、そう思う自分に気付いたのだ。
「この世界の誰も知らない力を、お前らだけが、知り、使うことが許されるんだ。……想像してみろよ。巨大な火の玉を生み出し、それを操る力。風を見えない刃に変えて放つ力。操った水は氷の槍となり、踏みしめる大地さえも意のままになる――そんな、おとぎばなしみたいな、力」
アレクサンダーが、青年を見た。
青年は――あれほど期待に応えるつもりがないと断言した青年は、つい、うっかり、期待に応えたくなってしまう。
「ありえない」
現実的な視点をもった者による否定を、アレクサンダーは待ち構えていた。
だから、すぐにアレクサンダーは否定を否定した。
「ありえない、なんて言い切れるか? 俺が今、倍ぐらいある大男を吹き飛ばしたのだって、『ありえない』ことだろ? あんたらの思う現実は、さほど強固なもんじゃねーんだよ。想いの力なんていうあやふやなモンで、簡単に塗り替えられるんだ。なあ――」
次にアレクサンダーが狙いを定めたのは、ヘンリエッタだった。
そばにいた彼女の手をとって、アレクサンダーは、問いかける。
「――姉さんなら、俺の言うことを信じてくれるよな?」
信じないはずがない。
ヘンリエッタは案の定、はっきりと「信じる」と述べた。
さらに、続けた。
「奇跡はあるし、ちゃんと私たちが幸せになれるように見てくれてるものは、絶対にある。私たちは報われるんだよ」
これはアレクサンダーの予定以上の言葉だったようで、彼はちょっとだけ行動を停止した。
だが、すぐさま言葉の再構築を終えたらしい。語り出す。
「なに、あんたらにリスクはないさ。俺が教える。あんたらは覚える。一日にたった数分でいいんだ。それだけで、あんたらの不遇だった日々を終わらせる力が手に入る。奇跡はあるって思えなくても、幸せにしてくれるものがあるって信じられなくても、報われるだなんて思えなくても、そのぐらいの労力を払うのは、惜しくねーだろ?」
「うわあ」
青年はこらえきれなくて、つい、声を立ててしまった。
あまりにもあからさますぎた。そして、その『あからさま』は、全員を充分に熱狂させたあとだからこそ、このうえなく効くものだろうなとも思えた。
幸いにも――かどうかはわからないが――青年の漏らした吐息は誰にも聞こえなかった。
みんながガヤガヤとアレクサンダーの言葉を吟味し始めるさわぎにまぎれて、耳にとどかなかったのだ。
そして、誰かが――ヘンリエッタでも、頭たる青年でもない構成員が、アレクサンダーに言った。
「やってみよう」
アレクサンダーはその言質をとってから、
「そのために、一つだけ、頼まれてほしい。……俺の仲間をこの街から見つけ出す必要があるんだ。そこでのびてる大男を治療するにも、あんたらに魔法を教えるにも、仲間がいたほうが、ずっとずっとうまく進む。どうだ? あんたらはこんなにたくさんいる。たった四人ぐらい、すぐ探せるだろ? なにせ、あんたらは優れてるからな」
こうしてアレクサンダーは、仲間探しの大義名分を得た。
しかも構成員たちに協力までさせることに成功した。
……思えばここが、あらゆる変化の始まりだったのかもしれないなと、のちに青年は思うことになる。
でも。
仮に未来の記憶をもったまま時を巻き戻せたとして――
たぶん、自分はこの、アレクサンダーの扇動を止めないだろうなとも、思うのだった。