60話 名誉の死/喪失の虚無
七章 ヘンリエッタと弟
ようするにそれは、多様性の問題だった。
一人でも生きていける者がいる。
能力的な話でもあるし、精神的な話でもある。
どうしたって他人に役目を割り振るより自分でやってしまったほうが早いぐらいの実力、才覚があって、人に任せて人を育てることのじれったさに耐えきれない。
または他人の介入を好まない、他人に自分を定義されるのを好まない――
――『私を勝手に定義するな。私に勝手にレッテルを貼るな。不愉快だ』という精神性の持ち主は、世間を見回せば数多く存在する。
もう一方で、一人では生きていけない者もいる。
能力的な話でもあるし、精神的な話でもある。
どうしたって自分一人ではただ生きていくことさえままならなくて、人の助けがいる。
あるいは、自分で目的を定めて行動することができなくて、割り振られないとなにをしていいかわからないという者もいる。
または依存。
『あの子を守るために私の人生はある』『あの子のためになら、いくらでもがんばれる』という、他者を通して初めて力を発揮する者。他者の存在なしではどうやる気をたぎらせれば想像もついていない者も、いる。
程度の問題はもちろんあるものの、世間を見回せば、やはり、こういうタイプも多く存在するだろう。
ヘンリエッタという女性は『真白なる夜』に所属する『真白なる種族』だ。
真っ白い髪に真っ白い肌。赤と青の色違いの瞳。
『真白なる種族』がいいとこどりの種族であるから、ヘンリエッタもやはり、あらゆる種族のいいところを全部詰めたような、美しい女性だった。
すらりと長い手足に、すっきりした顔立ちは長耳を思わせる。
豊満な肉付きの胸や尻は太短を思わせる。
幼いころから美しかった彼女は、生まれた時から被差別種族だった。
特にエルフである母にすさまじく嫌われ、あらゆる自信を砕かれ、あらゆる達成感を得ることなく、あらゆる努力を否定されて育った。
そんな彼女が五つの時に弟が生まれて、それもまた『真白なる種族』だった。
非常に珍しいことだ。
ことなる二種族同士のあいだに、まれに生まれるのが『両親どちらとも違う種族』である『真白なる種族』である。
そう、まれになのだ――だから、『真白なる種族』同士で血縁関係があるというのは、非常に珍しい。
母は二人も被差別種族を産み落とした結果、伴侶やその家族から見放され、狂い、自分の産んだ子らを恨みながら病床の果てに死んだ。
幼いヘンリエッタはもっと幼い弟と一緒に、この街に残された。
この街のいいところは人々に余裕があり、文明があり、選ばなければいくらでも仕事があるということだ。
そして残飯もあり、誰も近づきたくないような汚い暗がりもある。
そこなら、休むことも不可能ではなかった。
ヘンリエッタは弟を守りながらこの街の暗がりを徘徊することになる。
美しい容姿を持って生まれた彼女には色々な稼ぎ口もあったのだが、彼女は弟を養うために、残飯あさりと盗みという道を選んだ。
選択したという自覚はなかった。
ただ、女であることを活かして稼ぐには彼女に知識がなさすぎたし、ボロ切れをまとい常に薄汚れたままだった彼女はその道に引き入れようと思えないほどには汚かった。
そうしてどうにか数年はうまく過ごし、彼女が十二歳になったころ、発足したばかりの『真白なる夜』という組織が、彼女を迎え入れた。
そこで彼女は最低限の清潔さと、能力訓練と、知識を得る。
『真白なる夜』構成員たちに知識や能力の訓練が課されるのは、頭の意思だった。
末長く続く組織にするために、次の頭になれるだけの者を育てたい、らしい。
この組織の頭であり、組織名そのままに『真白なる夜』と呼ばれる青年は、常に微笑んでいて、それから、常に先のことを考えていた。
ヘンリエッタは自分と弟を助けてくれた青年を素直に慕った。
青年は『常に笑顔でなにを考えているのかさっぱりわからない』とか『見ている場所が違いすぎてなにを言っているのかわからない』とか、ごく一部の、特に『過激派』と呼ばれる仲間から怖がられたり疎まれたりしていたけれど、ヘンリエッタにとっては優しいお兄さんだった。
ところが、弟にとってはそうではなかったようだ。
「『真白なる夜』は腰抜けだ。平等のためには革命の断行が必要だ。生き延びるだけじゃない。武器を持って立ち上がり、腐った街の中枢に正義の鉄槌を振り下ろす、力あるリーダーが必要なんだ。姉さんもわかるだろ?」
ヘンリエッタには難しい話だった。
『真白なる夜』に所属するみんなは頭がよくて、要領がよかった。
でも、ヘンリエッタはその中ではだいぶ、にぶい方だった。
彼女は押しの弱い、どこか儚げな様子から組織でかわいがられたけれど、能力や知性については誰にも期待されていなかった。
弟にも、期待されていなかった。
「まあ、姉さんには難しいか。とにかくさ、俺はやっぱり、力のあるリーダーが頭を張るべきだと思う。『霧の中で怯えてうずくまる者に平等はつかめない。先の見えぬ霧中を、勇気をもって進む者こそが、真の平等と、新しい、本来あるべきだった時代をつかむのだ!』……俺の慕うリーダーの言葉だけどさ。ようするに、そういうことなんだ」
どういうことか、わからない。
弟が引用する『力あるリーダー』の言葉は、簡単に言えることをあえて難しく言っているような、そんな感じがあった。
もっと短く言って欲しいし、それはきっと可能なのだけれど、むやみに長いというか、あえてわかりにくくしているというか、そういう、いやな感じだ。
ヘンリエッタは直感的にその『力あるリーダー』のことが好きになれなかった。
だってその『力あるリーダー』は、『真白なる夜』のみんなでためたお金を勝手に使って、武装を整えたり、宴会をしたり、ひどい時には武装蜂起して街の軍隊を襲ったりしているようだった。
そのせいで何度かアジトを変えねばならなかった。『真白なる夜』に所属して五年で、四回ぐらいの引っ越しがあっただろうか。
よい人には、思えない。
でも、弟は、『力あるリーダー』に心酔しているようだった。
「新しい時代が来たら、きっと、にぶい姉さんも、俺たちの正しさがわかるよ。俺たちは平等を取り戻すんだ。仲間すら殺して街のすべてを手中にした、強欲で悪辣な支配者のダリウスを殺して、俺たちを差別する街の権力構造をぶっ壊すんだよ。既得権益を貪る連中の富を分配して、すべてを平等に豊かにするのが、最底辺に生まれた俺たちの使命なんだ」
弟の言葉は、すべて、『力あるリーダー』の受け売りのようだった。
『力あるリーダー』について語る時の弟は、熱に浮かされていて、みょうに目がきらきらしていた。
その様子はただただおそろしくて、ヘンリエッタは何度も「やめたほうがいい」と述べた。
でも、そのたびに「姉さんはにぶいから、わからないだけだ。あの人は素晴らしいし、俺たちには果たすべき使命があるんだ」と言って、取り合おうともしなかった。
ヘンリエッタはいやな感じを覚えつつも、『そうやって自信満々に言うんだから、きっと、弟が正しいんだろうな』と思ってしまう。
幼いころ、なにをしても母に褒められることのなかった彼女には、自信がなかった。
幼いころ、間違っていると言われ続けた彼女は、意見が対立すると『自分が悪いのだろう』と思う癖がついていた。
幼いころ、自由を認められなかった彼女には、『自分の意思』というものがなんなのか、実感できていなかった。
『真白なる夜』に所属するまでの数年間生きてくることができたのは、弟のためにと思って、必死で行動してきたからだ。
彼女にとって『弟のために』はすべての行動の動機で、すべての熱意の原動力だった。
盗みができる性格ではなかった。残飯あさりがバレればひどく殴られるから、したくなかった。
でも、弟を生かすためなら、勇気が出たし、覚悟もできた。
弟がいなければ、母が死んだあとに、その亡骸の横でぼんやりしたまま死んでいたであろう自分。弟がいたから、生きている自分。
生きることは苦痛だったけれど、弟のためなら耐えられた。
耐えた先で迎え入れてくれた『真白なる夜』のおかげで、ようやく『生きることは苦しくないのではないか?』と思い始めてきたところだ。
これから先にひょっとしたら楽しいこともあって、弟のためにしてきたことが報われ、みんなで幸せになれるんじゃないかというのが、彼女の初めての成功体験として心に刻まれ始めたところだ。
だから、弟が望むなら、自分がつらくても、いやな感じがしても、耐えられる。
ヘンリエッタの人生はべったりと弟に癒着していた。
彼女は他者のためになら能力以上の力を発揮できるタイプだった。その代わり、自分が自分だけの意思で行動することができないという欠落を抱えていた。
だから、弟の希望を第一に考えて、『力あるリーダー』についていく弟を見送った。
そうして、喪った。
何度目かの『革命』が失敗した時の話だ。
弟は武器を持って軍隊に襲いかかり、激しく奮戦して、名誉の戦死を遂げたらしい。
無傷で帰ってきた『力あるリーダー』は弟を称え、その戦いぶりの素晴らしさを大声で語り、涙を流しながらダリウスの卑劣さといかにこの街が腐っているかを喚き散らした。
まだ幼い少年の死を悼み、そんな少年に生きる場所を与えなかったこの街を、ののしったのだ。
すべて、どうでもよかった。
ヘンリエッタの胸には、重苦しい虚無だけがあった。
涙さえ流れない。この日、彼女はすべてを失った。