4話 死なない体の利用法
ひどい記憶の混濁があって、今がいつで、自分が誰で、ここがどこなのか、わからない。
ぶすぶすと前から後ろからたくさんの細かいトゲで刺される痛みを感じつつ記憶を探る。
心臓がつぶされているせいで頭まで血が巡っていない気がした。カエシのある枝は――モンスターの、枝のような腕は、皮も筋肉も内臓も貫いて、体をゆすったぐらいでは抜けない。
致命傷を受けつつ彼は記憶を探ることを優先した。
頭の中によぎるのは明確な映像ではなくって、ぼんやりしたイメージだ。
ビル群。アスファルトで舗装された道路。スクランブル交差点。
行き交う大量の人たち。スマホで撮影をしている外国人。大型モニタを見上げればそこには話題の芸能人が映し出されている。
その芸能人がどんな顔だったかは全然思い出せない。世界全部がカラフルでぼやけた映像になってしまっていた。
そしてなにかひどく唐突に、死があった。
イメージはどんどんあいまいになっていく。光景はどろどろに溶けて、ただ光が見えた。
その光は、そうだ、神で――
異世界、転生。
死後の際、あまりにも心地よい声でしゃべる何者かと話したことを思い出した。
色々と注意事項やらなんやら言われた気もするのだが、細かいことは全然思い出せない。
彼は記憶を探ることをあきらめて正面を見る。
黄色くにごった目でこちらをにらみ、大きな口を開いて今にもかぶりついてきそうになっている、大きな樹木みたいな化け物が見えた。
その光景は彼にとって非現実的なものだった。
彼の記憶では、現実世界にこんな化け物は実在しない。
だからこそ彼はこれをゲーム的に脳内処理することができた。
モンスターだ。
手には剣がある。
相手が襲ってくる。
ならば戦う。
幸いにも、この肉体は致死性のダメージを受けても死ぬ様子はない。
刺さり、からまった枝があまりにもうざったいので無造作に抜いた。
抜けた枝に自分の血やら肉やらがからまっているのは見えたのだけれど、体の動きに支障はなかった。
画鋲を踏んだだけで悶絶して飛び跳ねるはずの自分が、内臓へ達するダメージをまったく意にも介していないことも、彼の中で『これはゲーム的ななにかだ』という理解を加速させる。
剣なんて振ったことはなかったけれど、それなりの重さのある金属のカタマリは、きっと普通に思いっきりたたきつければそこそこの攻撃力を発揮してくれるだろうと思った。
振りかぶって、殴る。
相手の動きはにぶくて、的は大きかった。
当たったけれど、刃が食い込むことはなかったし、モンスターが痛がる様子もない。
ひらめいた。きっと攻撃力が足りないのだ。
スキルとかステータスとか見えないもんかな、と思った。
目をこらす。自分のそれは見えなかったけれど、相手のそれは見えた。
だから彼はいよいよこの世界をゲームのようなものだと決め打って、そこから思考を展開させていく。
ゲームならば、スキルがあってもいい。ステータスがあってもいい。
自分のそれは見えないが、敵には、あった。
ならば、レベルもある。
彼はゲームにおいて弱いまま工夫してボスにいどむこともあったけれど、初見の攻略はだいたい『レベルを上げて物理で殴る』だった。
そもそもこの世界がどんなゲームなのかはっきりとわからない。工夫するには相手や世界のことを知らなければならないのに、その情報がないのだからどうしようもない。
つまりやるべきことは、『レベルを上げる』ことだ。
彼はいったん逃げることにした。
あたたかな空間を飛び出す。
すぐさま氷雪吹きすさぶ真っ暗闇に出迎えられて、彼は舌打ちをする。
そういえば、ここから村までのあいだは、闇と雪に閉ざされて満足に視界も通らないありさまだったことを思い出したのだ。
連鎖的にアレクサンダーの記憶を思い出していく。
アレクサンダーは魔法を使えない子だった。神様の力でどうにかしてもらおうと神様におべっかを使いご機嫌うかがいをする様子は、かいがいしくて、けなげだった。
『英雄』に選ばれて森の奥で恵みをとってくる役割を負った。その感動を忘れない。初めて持たされた剣の重さと心強さは鮮烈だった。
一緒に来た英雄候補たちは変なやつだったり、素行不良なやつだったりしてこわかったけれど、アレクサンダーはその中で自分が一番信仰に熱心で、だからきっと報われるだろうと思っていた。
そんでもって、あっけなく、死んだ。
「……お前もどっかで神様に拾われてるといいな」
アレクサンダーの体を操る彼は、アレクサンダーの声でそうつぶやいた。
ケチをつけるのもアホらしいほどおめでたいお花畑思考だと感じたけれど、この体のもとの持ち主に対してそこまで辛辣になるのもどうかと思った。
だってこの体の元の主は、どう考えたって被害者なのだから。
アレクサンダーに奉仕され彼を救わなかった神様はたぶん、ニセモノなのだろう。本物だったら、死んだ魂を異世界転生させるぐらいやってみせろ、と思う。
神様がニセモノと仮定すると村の中心人物である『代行者』あたりがなんか裏がありそうで超あやしい。きっと神様はツクリモノの模造品なんだろうな、と思う。
まあ、人様の信仰にどうこう言ってもしょうがない。
頭によぎった『神様のこと』は、ヘイトをまき散らすために放送されるニュースみたいなものだった。
一言言ってやりたくもなるんだけれど、一言言っても世界はなんにも変わらない、みたいなアレ。
そもそものんきにコメントしている余裕などない。彼はあの木の化け物を倒すために、あるものを探している。そしてそれは、雪と闇に覆われた場所にひそんでいるはずだった。
「アレクサンダー!」
闇の中から声がしたから、そちらに視線を向けてみる。
ぼんやりとともるライターみたいな火がそこにあった。それは走るように揺れ、こちらに近寄ってくる。
たぶん魔法による火だ。
本当の本当に、この世界ではライターの代わりにしかならないような火をおこすのが『魔法』というらしい。
火は――魔法により火をおこした者は、ついに彼の視界におさまるぐらいの距離までやってきた。
息せききってこちらに来るのは赤みがかった茶髪の少年だ。
アレクサンダーより頭一つぐらいでかくて、体もがっしりしているのだけれど、落ちくぼんでぎょろりとした目がどこか不健康そうだった。
「も、モンスターが来る! お前、どうにかしろ!」
そう言うと少年はアレクサンダーの背後にまわり、その背を蹴った。
アレクサンダーの体はよたよたと押し出され、雪に足を埋めながらもどうにかふんばって転ぶのを避ける。
顔を上げると、目の前には輝く赤い瞳がたくさんあった。
モンスターだ。
アレクサンダーの村を悩ませていた、黒い体毛の、狼のような連中だ。
群れで活動するそいつらはどうやら森を縄張りにしているらしい。
森までの道にばらばらと出てくるのは、群れの中でも弱いやつらが偵察に出されているだけなのだろう。この場所で対面したそいつらはアレクサンダーの記憶にないほど大きく、おそろしかった。
牙を剥いてこちらを見るモンスターを見て、背に剣を向けてくる少年を見て、なるほど絶体絶命じゃねーのと彼は笑った。
たぶん剣を突きつけてくる少年は、アレクサンダーをモンスターどもに襲わせているあいだに逃げる方針なのだろう。
そんなことをしてもジリ貧だ。
こんな暗闇と豪雪の中で、ただの人間が死の危険から逃げられるはずがない。少年の行動はせいぜい死因を変える程度の力しかなくって、結末はどう考えてもデッド一直線だった。
ちょっと悩む。
見えないところで勝手に死んでくれるぶんには涙の一筋も流せば罪悪感が薄れるのだけれど、こうして声も手もとどくところに来たのに死なれるのは寝覚めが悪い。
ここに追いやられた少年たちはみんな十二歳で、アレクサンダーの中に発生した彼からすれば、みんなみんな『幼い子供』に入る。それが村のルールでは『成人』なのだとしても、彼の中で『成人』とは二十歳を指す言葉なのだった。
しょうがないなあ、助け船ぐらいは出すかあ、まあそれでも無視されたらそれはもう自己責任ってことで! と決めた。
決めるまでうーんうーんと悩みながらぼうっと突っ立っていたせいで、四方八方からモンスターに食いつかれた。
ピラニアの池に投げ込まれた生肉の気持ちが味わえる。
痛みはある。あるけれど、にぶい。
指先にほんの五ミリぐらいの切り傷がついた程度でヒリヒリして気になるはずだった彼は、アレクサンダーの肉体に入ってからというもの、どうにも痛覚がやけに遠い感じがした。
全身にモンスターを食いつかせながら、彼は言う。
「助かったよ」
「はあ!?」
少年はひどくおどろいているようだった。
発言内容にだろうか、それとも『全身に牙を突き立てられておいて、痛がる様子もなく普通に話を始めた』ということ自体にだろうか。
真相はわからないが、アレクサンダーの中の彼は前者だと考えたようだ。
発言内容に補足がいるかな、と思い、付け加える。
「いや、モンスターをぞろぞろと引き連れてくれてホント助かったよ。――俺、手頃なモンスターを探してたんだ」
彼はそう言うと、手にした剣をゆったり持ち上げ、一番やりやすそうな位置にいたモンスターの後頭部に、ゆっくりと剣を突き刺した。
思った通りだった。
この真っ黒な毛並みの狼型モンスターにならば、なまくらな剣が、自分の腕力が、通る。
攻撃が通れば相手を殺せる。
相手を殺せば――経験値がたまる。
経験値がたまると、どうなるか?
レベルが、上がるのだ。
レベルが上がれば?
ステータスが上がる。
そうしていずれ、あの木の化け物に攻撃が通るようになるだろう。
刺し殺したモンスターが光の粒になって消えていく光景を見る。
相変わらず自分のステータスは閲覧できなかったが、光の粒が自分の体に吸収されていったような気がして、それはきっと経験値なのだろうと勝手に決めつけた。
「手間をはぶいてくれたお礼に言うけどさ」
見やった先で、少年は腰を抜かして尻もちをつき、おそれるように彼を見上げていた。
アレクサンダーの体を操る彼は安心させるように笑うのだけれど、すぐさま次のモンスターがくいついてきて、視界がふさがれてしまった。
はいはい邪魔ですよー、と顔に食らいついてきたモンスターの頭部を突き刺して経験値にしてから、
「この雪と闇の中じゃあ、どこにいたって危険だと思うぞ。だから、俺が食いつかれてるあいだに逃げ出そうなんていうのは、やめたほうがいい」
ぶすり、ぐちゃり、モンスターを突き刺す。
少しだけ腕力が強くなったような気がする。
ぶすり、ぐちゃり。ぶすり、ぐちゃり。ぶすり、ぐちゃり。ぶすり、ぐちゃり。
五匹もつぶすころには自覚できるぐらいに腕力が強くなった。
空いた場所には新しいモンスターが食いつく。それを刺し殺すだけで強くなる。なんていう簡単なレベリングだろう。
モンスターたちは次々と食いついてくる。便利でいい。ヘイトも自分だけに集まっているようだ。
だから彼は、へたりこむ少年に告げた。
「安全がほしけりゃ、黙って静かに、そこにいろ。今、この森の中では、たぶん、俺のそばが一番安全だ」