3話 死/空いた体に入り込んだもの
暗闇の中で不気味な声がする。
とっくに活動をやめてあたたかい季節に備えている野生動物のものではないだろう。
夜はモンスターが活発になる時間で、それらがヨダレを垂らしながらこちらを見ている、おそろしい気配を感じた。
それは暗闇の中に見た、こわい幻なのかもしれない。
夜の森は暗くて寒くて、風はどんどん強くなるし、ほおに当たる雪の粒は大きさを増しているように思えた。
震えが止まらないからアレクサンダーは地面の雪をすくって食べた。
こうすると体の震えがおさまるのだと、大人が言っていたのを思い出したからだ。
けれど体が冷たくなるばかりで、震えは全然、おさまらなかった。
それどころか震えは、夜の闇の向こう側からぶきみな気配を感じるたびに大きくなっていって、もうそれは、寒さとは関係なく、彼の心を凍り付かせていた。
いっしょに来た英雄候補たちは、もう、どこにいるのかわからない。
さかしい者はどうにか生き残ろうと頭を働かせ、その結果、自分たちの力ではモンスターに太刀打ちできないことを悟ったのだろう。
きっと暗闇の中で息をひそめて、誰かが森の奥にたどりつくのを祈って、その尻馬に乗ろうと画策しているのかもしれない。凍死の可能性さえなければ、一番勝率の高い賭けだ。
英雄を本気で志す者は、ずっとずっと先へと歩んでいたはずだった。
けれど彼らが森の奥の恵みを持って戻ってきた様子は、未だにない。
森が深くてまだたどりつかないのか、それとも彼らの前に気概だけではどうしようもない現実が立ちふさがったのか、暗闇の中でたしかめるすべはなかった。
アレクサンダーは着実に歩んでいくのだけれど、あまりの寒さに体の動きはかたい。
手に持った、柄に布さえ巻いていない剣は冷たすぎて持っていられなくて、シャツのそで越しに握ってはいるのだけれど、今にも投げ捨ててしまいたいような気持ちばかりわきあがってくる。
信仰は極寒の中で砕けかけていた。
アレクサンダーは賢い子ではなかった。けれど愚かな子でもなかった。
信仰がひび割れたすきまから見えるのは『食料もなく、防寒具もなく、火もおこせない』という現実ばかりだ。それらはすべて彼に死を意識させた。
神様に選ばれたのだ、この試練を超えれば自分もきっと魔法を使えるようになるのだ、という夢と希望は『どうやって?』の一言に塗りつぶされていく。
それでも彼は進み続けた。
寒すぎて、おそろしすぎて、立ち止まることさえできなかった。
だから進み続けて見えた景色に、彼は神様の意思を感じた。
そこは、あたたかかった。
そこには光があった。
極寒の暗闇が不意に晴れて、花の咲く泉があった。
たかい木々がからまってできあがる緑の天蓋からは木漏れ日が差し込んでいて、あたりには鳥の鳴き声があって、小動物が木々を伝ってすばやく動くのが見えた。
泉の周囲に咲いている花は、どれも見たことがないものだった。
よたよたと近づくと食欲を刺激する甘い香りがした。
アレクサンダーが本能に従って花弁をむしり、その蜜を吸えば、今まで経験したことのないような、舌のとろけるほどの甘みがあった。
ここが目指していた場所なのだと確信した。
ああ、やっぱり、神様は見てくれていたんだ!
背負いカゴさえ与えられずにここに来たアレクサンダーには、ここの恵みをいっぱいに持ち帰る手段がなかった。
カゴやバッグを編み上げるのは女の子の仕事で、男はやらない。
けれど小さくて力が弱い彼は少しでも他のみんなの役に立とうとして、女の子の仕事もある程度覚えていた。このあたりの植物ならば、きっと、急場をしのぐバッグぐらいは作れるだろう。
冷え切った体はいつのまにか温かくなっている。
彼はのどの渇きを覚えて、泉の水を手ですくって飲んだ。
すっとしみいるような軽さにおどろく。こんな、空気みたいにかろやかな水がこの世にあるだなんて!
彼は植物にからまったツタや、見たことのないほど大きくて丈夫な葉っぱを集め、バッグを作り始める。
なにか芯になるような材料がほしくて視線をめぐらせて、立派な枝振りの木が目につく。
枝の末端あたりの小枝ならばバッグのかたちを安定させる材料にできるだろう。
彼は、小さな彼からすればずいぶん高い位置にある枝に手を伸ばす。
背伸びだけではとどかないかと思えた枝にはなんとか指先がとどいた。
なんだか枝のほうから寄ってきてくれたような錯覚さえ感じる。
彼は世界のすべてが自分を祝福してくれているように感じた。この幸せで満たされた気持ちをみんなにも分けてあげたかった。
だから彼は外の雪深い道をどう越えるか頭を働かせながら、枝を折ろうと力を込める。
枝は、ぐにゃりと曲がるだけで、折れなかった。
不可思議な感触に首をかしげる。
それはあまりにも生物的な感触だった。よくよく意識すれば、その木の枝は生き物めいたぬくもりがあるようにさえ感じる。
それでもまだアレクサンダーはそれを『木の枝』だと思っていたから、どうにかとろうとして、でも素手ではどうにもならなくて、何度か試行錯誤してから、ようやく、そこらにうち捨てていた剣の存在を思い出した。
剣を拾って、木を見た。
木も、こちらを見ていた。
太い幹の半ばに、黄色く濁った一つ目が開いていた。
縦長の瞳孔をもつそれがアレクサンダーへ焦点を結び、しばし止まったあと、ようやくアレクサンダーという人類を認識したらしい。
木はたくさんある枝を震わせ、葉を舞わせる。
そうして黄色く濁った一つ目の真下にあったらしい口を、がぱりと開けた。
その木は、大きくて、おそろしくて、見たこともない、モンスターだった。
アレクサンダーは自分の何倍も大きいそいつが、抱きしめるように枝を曲げて、黄色い一つ目でこちらを見て、ナイフみたいな牙のある口の端からヨダレをたらしているのを見て、すっかりかたまってしまった。
極寒の中でもぼんやりと浮かぶだけだった『死』が、はっきりと濃く頭によぎる。
もらった時にはあれほど心強かった剣は、今、あまりにも小さく、みすぼらしいように思えた。
アレクサンダーは逃げることも立ち向かうこともできなかった。
枝が彼を抱きしめた。
ぷすぷすと背中側から細かい枝が体に刺さる。皮膚は簡単に突き破られ、筋肉も抵抗さえできず、骨さえ貫かれて、内臓はぐちゃぐちゃになった。うすよごれた服がなんの役にも立たなかったことは、言うまでもない。
幸いなのはアレクサンダーが抱きしめられた時点で死んでいたことだろう。
それは肉体の損傷による死ではなかった。気弱な彼が、絶体絶命の状況に立たされたせいで、おそろしさのあまり死んでしまったのだった。
彼は体を刺し貫かれる痛みも、肺を貫かれた苦しみも味わうことなく死ぬことができた。
だから、その死体からあがった声は、アレクサンダーのものではなかった。
「……痛ぇなクソ!」
まぎれもなくアレクサンダーの肉体で、アレクサンダーの声で、けれど、モンスターに抱きしめられると思っただけで死んでしまった気弱なアレクサンダーが、絶対あげないような、乱暴な声をあげる『そいつ』は――