35話 /理解できぬことへの理解
サロモンが矢を放って、アレクサンダーがそれを受ける。
勝負はそうやって始まって、サロモンの矢は当たり前のように尽きて、アレクサンダーはそのすべてをはじき終えた。
こうしてサロモンの敗北は決定し、村人たちは困惑を声に出し始めた。
勝負を挑んでおいて矢をうち尽くしても傷一つつけられなかったサロモンに対する批判は大きい。
それはそうだろう。サロモンの自分勝手は、実力により黙認されていたところが大きい。
アレクサンダーに負けたとてサロモンが村一番の弓手であることに変わりはないし、村人たちの強さがサロモンに近づいたわけでもない。
けれど強さを誇っていた者が、強さ比べで負けるというのは、そういうことだった。
強さという寄りどころに一つでも疵がついたなら、強さで押さえつけられていた者たちは、いっせいにその疵をひっかきにいくのだ。
ましてサロモンは特に男衆から嫌われていたのだから、陰口にも容赦がない。
ジルベールは、止められない。
ここで男衆の陰口を止めれば、自分の立場が危うくなることがわかっていた。
……そうだ、安寧たる人生を捨てられない。
サロモンと同じ立場に置かれることに耐えられない。
なんという弱さだろう。なんという信念のなさだろう。
弟を気づかっていたつもりで、自分はけっきょく、『はみ出し者の弟を気づかう兄』という、世間から望まれた役割をこなしていただけだった。
男衆からの冷徹な視線。
陰口の中だまりこむジルベール。
退屈だったと態度で示すアレクサンダー。
その中にあって、サロモンは、後ろから見てもわかるぐらいに、楽しげだった。
「……こういうのを、待ち望んでいた」
敗北を、か。
負けを、望んでいたのか。
ジルベールはサロモンの胸中を想像する。自分ならばある程度正確に弟の心中を言い当てられると思っていた。
サロモンが武装を解除していく。
降伏するのだ。負けたから、抵抗の意思はもうないと、強者に頭を垂れるのだ。
それ以外になにも、想像できなかった。
だけれど、サロモンはやすやすと想像を超えてきた。
「――来たれ」
なにもない手に、弓を構える。
弓は、遅れて出現した。
緑色に輝く、巨大な、弓。
隠し持てる範囲の大きさではなかった。そもそも――『物体』に見えない。なにかの素材を編んで作ったというよりは、風そのものとか、炎そのものとか、そういうものに、近い。
村人たちはどよめく。
あんなもの、知らない。
既存の概念ではまったく説明のつかない。
矢が、現れる。
弓と同じような材質――材質? の、無数の矢が、サロモンの後方に浮かび上がった。
「――『果てなき闘争』。さあ、願いの赴くまま、命尽きるまで殺し合おう!」
目の前の異常事態に、村人たちは混乱する。
けれど、アレクサンダーは嬉しそうに笑っていた。
「痛々しくて、格好いいねえ。っていうかスキル欄にあるのは『魔力無限』なのに奥の手は魔法じゃねーのかよ。なるほど、お前みたいなヤツもいる。――ありがとう。俺の世界はまた広がった」
いや、お前はなにを言っているのだ?
そこから先の闘いは、別次元のものだった。
想像さえしたことのない異能力と異能力のぶつかり合い。
サロモンは比喩ではなく無数の矢を放つし、アレクサンダーはいくら矢を喰らってもひるみも止まりもしない。
あの小さな体でどうやって放てるのかわからない、当たれば真っ二つにされそうな一撃を、サロモンはきわめて冷静に最小の動作でかわし、それどころか反撃さえしている。
しかも、押している。
サロモンの背後から見れば、サロモンがアレクサンダーをなぶっているようにも、見えた。
「ジルベール、あれはなんだ?」
物見やぐらの上にはいつのまにか長老がいて、そんなことを質問してくる。
ジルベールは素直に「わかりません」と言った。
本当に知らなかった。サロモンがあんな異能を持っていたなんて、今まで聞いたことも見たこともなかったのだ。
「サロモン、なぜあれほどの力を隠していた……やつはやはり、この村を乗っ取る計画を立てていたのではないか?」
「……村を乗っ取る計画?」
サロモンが嫌われていたのは知っていたが、そんな話は聞いたこともない。
長老は忌々しげにサロモンをにらみつけ、語り出す。
「単独行動が多かったであろう。それに、あやつは、みなですべきことを、一人でおこなうことばかりであった。しかもあれだけの力を隠していたともなれば、もう、村を乗っ取る目的があった以外には考えられまい?」
「……いえ、その……どうしてそうなるのか、私にはわかりかねますが……」
「女はいらぬという。獲物もいらぬという。サロモンはそういう者だったはずだ。となれば他に価値あるものは、村そのもの以外にあるまい」
「……?」
ジルベールは全然理解できないことを言うこの老人の思考を追跡してみる。
だが、どうにも追い切れない。
だから素直に、ジルベールは、サロモンから言われていたままを告げる。
「あいつは今日、村を出て行くつもりだったようです」
「……どういう意味だ?」
「いえ、どういう意味もなにも……村を出て行くつもりだった、ということですが」
「村を出て行くということが、村を出て行くということだと?」
「まあ、それ以外にないでしょう」
「ジルベールよ、それは少々、愚かに過ぎる。村を出てどうする? 村がなくなれば、生きてはいけまい」
「いえ、長老もおっしゃっていたように、あいつは、みなですべきことを一人でおこなうことができるのです。一人で村を出て行っても、やっていくことができるでしょう」
「モンスターがあふれているではないか」
「そんなものが問題になるように見えますか?」
未だ続く闘いを指さす。
もはや人外の領域だ。二人の人が闘っているだけなのに、大地は揺れ、えぐれ、あたりには甚大な被害がまき散らされている。
どのようなモンスターが出たとて、サロモンの相手にはなるまい。それだけの訓練を、あいつは知らぬあいだに積んでいたのだ。
長老は「むう」とうなる。
「しかし……村の外に出てなにをするのだ?」
「村の外に出ること自体が目的のように思われます」
「……?」
長老と二人で『わけがわからない』という顔をするしかなかった。
異常なまでに話がかみ合わない。
ジルベールは如才なくやってきたほうで、長老衆と話を合わせることも難しいとは思っていなかった。
しかしサロモンにかんする話だけが異常なまでにかみ合わない。なんだろうこの差は。普段の話題と、サロモンと、いったいなにが違うのか――
「……ああ、そうか。そうだったのか」
――気持ち悪さ。
サロモンの語っていたその感覚を思い出す。
それは価値観の違いだった。
『今のまま』を最上とする村人たちを、サロモンは気持ち悪いと表現した。
それはサロモン自体が『まだ見ぬ場所』を求めていたからだ。なぜだか知らないが、この村の外にはこの村よりよほどすばらしいものがあって、努力をして極限まで己を高めた先には今よりすばらしい景色があるのだと、確信していたからだ。
けれど、長老には、その価値観がわからない。
『今、ここ』が最上なのに、『今、ここ』からはみ出そうとする者の気持ちがわからない。
ここ以上など未来永劫なく、過去にもなかったと信じて疑わない彼らに、サロモンの価値観は永遠にわからないのだ。
「……とにかくジルベールよ。あの力は惜しい。どうにか引き留めろ。立場も、妻も、用意する。最上のものをだ」
絶対に無理なのだが、長老にはそれもわからないのだろう。
ジルベールはようやくサロモンの感覚を理解できた気がした。
価値観が違うのだ。
サロモン的価値観が未来的なのか、過去的なのかはわからない。とにかく『今、ここ』にとっては異質で、『今、ここ』にいる者たちには決して想像が及ばないものなのだ。
そして。
その価値観を理解してしまった自分も、きっと――
「すみません長老、サロモンを留め置くことは不可能です」
「要求されたものは出す。次期長老の座を、お前たち兄弟に約束してもいい。あの力は村のために必要だ」
「なにを差し出しても不可能です。だってこの村に、サロモンが価値を感じるものなど一つもないのですから」
「……なにを言っている?」
「私は弟の意を汲みます。『出来のいい兄』を気取ってきましたが、私もまた、あなたや他の村人同様、あいつの価値観を理解できなかっただけの愚か者でした。……今の価値観より、あいつの価値観の方がすばらしいとは思いません。けれど、『違う』ことがわからず、我らの価値観を無理矢理押しつけようとする、愚か者だったのです」
「……なにを、言っている? 先ほどから、ジルベール、お前はなにを……」
「弟にこの村は狭すぎる」
「……」
「旅立つべきだったのです。私が引き留めてしまったけれど、あいつは、外に出るべきだった。そして長老、私にも、夢ができました。周囲に迎合するしかなかった私なんかにも、ようやく、夢が」
「夢などと、そんなものは、子供でもあるまいし……」
「私もそう思っていました。いつしか我らは、夢を見るにも言い訳が必要になってしまった。あいつだけが、自分を信じて夢を見続けた。現実に負けることなく、己を貫いたのです。――その生き様を、私はうらやましく思う」
「……」
「私はこの村を、あいつの戻ってきたい場所にします」
「……む? ふむ……いや、しかし……なんだ、なんだ、つまり、どうしたいのだ?」
困惑する長老の顔が、なぜだか面白くて、笑ってしまう。
ああ、この、いかめしく、尊大で、逆らいがたいおそろしい老人は――
こんなにも小さくて、こんなにも偏屈で、こんなにもかわいらしかったのか。
ジルベールは夢に後押しされて、人生で初めて、先のわからない危険な道を踏み出す。
「あなたには引退していただきたい。これからは、私が仕切ります」
その不安まみれの大冒険は、なぜだか、心がわきたつようなものだった。