17話 ゴール地点/ゴール地点
三章 イーリィと花香る聖域
「アレクサンダー!」
いつもの怒号だった。
それは最近恒例となってしまった追いかけっこの始まりの合図で、この叫び声が聞こえると村にいる者は目を見張り、耳をそばだて、娯楽の少ない冬の村で繰り広げられる逃走劇を見逃すまいと意識を研ぎ澄ませる。
イーリィはといえば、その追いかけっこの模様を見ることができない。
なぜなら、イーリィはゴールなのだった。
アレクサンダーはここに来る。
ここに来るまでに代行者がアレクサンダーを止めようとする。
その追いかけっここそが村で今もっとも熱い娯楽で、イーリィはいつだって小部屋の中でアレクサンダーを待つ、とらわれの身だった。
同世代の女の子たちが興奮気味に騒いでいる声がここまで聞こえてくるから概要を把握しているだけで、実際に一度もその追いかけっこを見たことがない。
見たい、と思う。
たぶんその追いかけっこは、ずいぶん娯楽性に富んだものなのだろう。
なぜってアレクサンダーが、あるいは代行者が、もしくは両方が、あえてそのようにしているフシが見受けられるのだ。
まず、代行者がこの小部屋の扉前で待ち伏せしない理由がある。
このあいだ、そうしていたら、アレクサンダーが壁をぶちこわしてあらわれ、イーリィを連れだしてしまったのだ。
当然ながら代行者は怒った。
けれど頭のてっぺんまで赤くしながら怒る、誰もがおそれてしまいそうなほどおそろしい代行者を相手に、アレクサンダーは半笑いで言ったのだ。
「いやいや、おっさん、それはナシでしょ。部屋の前で待ち伏せとかずるいわ。そういう禁じ手使われたら、こっちも壁ぶっ壊したりっていう禁じ手使わざるを得ないじゃん」
なあイーリィ、と言われたので、イーリィも素直に答えてしまった。「たしかに『ずるい』と思います」。
かくして協定が結ばれ、アレクサンダーは建造物を破壊しない縛りを加え、代行者は扉前で待ち伏せしないルールを受け入れた。
また、この全力の追いかけっこは暗黙のうちに安全性への配慮がなされていて、アレクサンダーが武器を持つことはなかったし、代行者が拳を固めることもなかった。
となるとこれは娯楽に他ならない。
必死の、けれど命懸けではない、追いかけっこ。
しかも勝敗の割合がすごい。謀ったように互角なのだ。
アレクサンダーは二回に一回は代行者に捕まって追い出されるし、代行者も二回に一回はイーリィを連れ去られる。
そうして連れ去られたイーリィがどんな仕打ちを受けるかと言えば、それはいろんな場所に連れて行ってもらって、木の実を拾ったり、花を摘んだりということなので、イーリィ的にはアレクサンダーを応援したい心情が強かった。
どんがらがっしゃん、とずいぶん乱暴な音がする。
建物の破壊はルールで禁じているのだけれど、それは故意の場合に限るようだった。
追いかけっこの流れの中で壊れてしまうぶんには、ルールに抵触とまではいかないらしい。
イーリィは目を閉じて音に集中する。
大きな足音と、小さな足音が響き続けている。
全力で走ると二人の足の速さは同じぐらいらしい。併走、併走、併走、急停止。大きな足音がたたらを踏む。そのスキを縫うように小さな足音が駆ける。
だんだん近づいてくる足音。追いすがる大きな足音。乱暴に神殿の扉が開かれ(普通は開かれているのだけれど、追いかけっこが始まる時間帯には閉じられることが増えた)、内部に乱暴に踏み入ってくる。
イーリィは胸を手でおさえる。
ドキドキする。二人の足音は神殿の中で響き続ける。
どちらだろう。扉を開けて先に顔を見せてくれるのは、いったい、どちらなのだろう。
目を開ける。
扉を見る。
小窓越しに外が見えてしまって、イーリィはあわてて目を閉じる。
少し前まではあの小窓が大好きだった。だって、外界とつながる唯一の場所だから。
でも今は、なくしてほしいと思う。
扉が開くその直前まで、どちらが先に顔を見せるか知りたくない。扉が開いたその瞬間に、迎えに来た人の姿を見たい。だから今は、小窓のない扉がいいなと思った。
足音が近づいてきて、扉が開いた音がした。
イーリィは目を開ける。
そこにいたのは、アレクサンダーだった。
「うし。今日は森まで行くぞ」
彼の背後には、あと一歩というところまで迫った代行者の姿。
膝に手をつき息をあららげ、悔しそうにアレクサンダーを見ているその代行者の――父の姿に、イーリィは笑ってから、
「はい」
ゆるむ頬を見られないように、顔をうつむけて、返事をした。