169話 彼女なりのロジック
『間』が、どうしても気になった。
苦々しそうな顔が気になった。困り果てたような首をかしげる動作が気になった。「うん、まあ、いいけどさ」というなにかを噛み殺すような言葉が気になった。
アレクサンダーは弟が転生した姿だ。
けれど、前世の記憶は失っている。
ヘンリエッタにとっての真実はこうだった。
それは自分だけが気づいているもので、だから誰も知らなくてもかまわないものだった。自分だけが知っていればいい。共感も理解もいらない。アレクサンダーさえ知らなくても、なんにも問題がない。
なぜなら、弟に捧げるのは、無償の愛だから。
でも。
弟にはもう、二度と、間違えてほしくなかった。
弟を好きでもない人たちに踊らされて命を懸けないでほしかった。
あの子は素直で人を疑わないところがあるから。悪い人たちはそこにつけこんで、あの子を自由に動かそうとする。
そんなふうに弟が利用されるのは我慢できない。それは、あの子の前世の死因だ。
ヘンリエッタは自分の判断や決断に自信がない。けれど、前世で弟がどうして死んだかは知っているから、同じことを繰り返そうとしていれば、さすがに止める。
でも、この声は、想いは、弟にとどかない。
弟は話をあまり聞いてくれなかった。たぶん、姉離れ、あるいは反抗したい時期が来ているのだろう。
誰にでもある。でも、お姉ちゃんだって、たまには、大事な話をする。たまには、間違わないことがある。真摯に真剣に話している時ぐらいは、きちんと耳をかたむけて、従ってほしい。
けれど、真剣に話せば話すほど、空回りしていく。
間が気になった。苦々しそうな顔。困り果てた動作。歯切れの悪い言葉。おかしなものを見るかのような目。
どうしてこんなに愛しているのに言葉が届かないのだろう。こんなにも心配しているのに、気持ちがぜんぜん届かないだろう。
ヘンリエッタは、こういう時、こんなふうに思考する。
――私が悪いのかもしれない。
自分に問題があるのだ。話を聞いてもらえないのも、おかしいことを言っているような顔をされるのも、なにもかも、私が間違っているからだ。
反省する。
でも、どこが間違っているのか、わからない。
頭の働きはにぶい方だと言われてきた。
だから、今回も、自分には気づけないなにかがあって、その点が問題になっているのだろうと思った。
自分は――なにを、間違えているのだろう。
……ああ、わかった。
わかってしまった。
弟はいつか、姉のもとを離れていく。
小さいころは『お姉ちゃん、お姉ちゃん』と後ろをついてきたけれど、大きくなれば、そうやって姉に甘えるのは恥ずかしく、かまってくる姉に対して反抗的になってみたり、うざったそうにしてみたりする。
それは、自然なことだ。
でも、この自然なことが、我慢できない。
生まれて初めて、自分の中にある欲望に気付いた。
自分は、永遠にかわいらしい弟にそばにいてほしかった。
他の誰かに影響されて変わっていくのが我慢できなかった。たった二人きりのきょうだいなんだから――たった二人きりのきょうだいで、よかった。
どこに行けば、そうなれるだろう?
……そんな場所、どこにもないと、すぐにわかった。
姉と弟として、ずっと二人でいたい。
目のとどかないところで危険な目に遭ってほしくない。
ほかの誰かの影響で変わっていくのが嫌だった。他の誰かの目を気にして自分と距離をとっていくようになるのが怖かった。だって生まれた時からずっと見てきて、その存在だけを支えにここまでやってきたのに。私だけがずっと弟を見ていたのに、私のもとから勝手にいなくなっていく。
そしてある日、帰って来なくなる。
もう二度とそんなことは経験したくなかった。
でも、それは、また、きっといつか、起こる。
自分が姉であの子が弟である限り、きっといつか、姉から離れて悪い人たちになすがままにされて、帰って来なくなる。
どうしようもない――
……そこから、ヘンリエッタが、『すべてを解決する一手』に気付くまでには、そう時間がかからなかった。
死ねばいい。
死ねば、弟のそばに転生する。
だって、弟がそうだったのだから、自分だって、そうだ。弟は記憶を失ってはいるけれど、前世の縁はこんなにも強い。ならば、自分が再びそのそばで生まれ変わる可能性はとても高いし――
転生に時系列が関係ないのなら、自分はすでに生まれ変わって、アレクサンダーのそばにいるのかもしれない。
たとえば――イーリィが、私かもしれない。
そう思うと、すべてが報われたような気持ちになった。
悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなってくる。つらい気持ちを抱いていたのがどうにも恥ずかしくなってきた。
とっくに解決している問題について悩むだなんて、馬鹿馬鹿しいことをしてしまった。弟が知ったら笑うだろうか。この悩みを弟と笑い話として語れる日が来るだろうか。
イーリィはまだ私の記憶を取り戻していないようだ。
でも、イーリィとアレクサンダーは、あんなにも幸せそうに笑い合っている。
あの二人には、たしかな絆がある。
だから、記憶なんて戻らなくっても、いいような気がする。
だって私たちは、こんなにも幸せなのだから。
いらないこの人生を捨ててしまおう。
なるべく縁が強まるように、あの子が私のことを考え続けられるように捨ててしまおう。
ああ、ちょうどいいものがある。
『くじら』。
イーリィは私を生かそうとするだろう。――だから、彼女の視界がとどかないところで死なないといけない。
頭は私がなにかをしようとコソコソしていれば気付くだろう。――だから頭が私の行動に意識を割く余裕がないタイミングを狙おう。
あとは……
あとは、わからない。
誰がいたかも、わからない。
彼らが大事な仲間になるのは、来世のことだ。
今の私にとってはアレクサンダーだけがすべて。
情報を集めよう。隠れる場所を見つけよう。
そしてうまく、この人生を終わらせよう。
もし、今回、死に損ねたら――
大丈夫。
だって、ここはまだ、旅の途中。
何度だって、チャンスはある。
自分はみんなに助けられてしまったけれど、イーリィとなって、その恩は必ず返せる。
自分なんかのために費やさせたものはすべて、返せるのだ。
だから、もう、死んでもいい。
……ようやく、そんなふうに救われることができた。
――生きることは苦痛だったけれど、弟のためになら耐えられた。
――そうして、私はついに、幸せをつかんだ。
来世で、幸せになった。
――大丈夫、心配しないで。
――私たちは幸せになれるから。
――だから、そのために……忘れないでね。
――強く想い続ければ、きっと、近い場所に転生できる。
――だって、お姉ちゃんが毎日思い続けたら、あなたは帰ってきたもの。
だから、
「これでもう、お姉ちゃんのこと、忘れないよね」
何度だってトライするつもりだった『死ぬ』という目的は、最初の一回で叶うらしい。
だからますます、『こうするのが正しかったんだ』という確信が深まっていく。
正しく、祝福された、死。
――成功するって、こんな気持ちなんだ。
それは、彼女の初めての成功体験。
『くじら』に体を貫かれて、アレクサンダーの前で死んだ、彼女の、彼女なりのロジック。
エピローグ 終