168話 そこは、花香る聖域
最近よく、騒がしい足音の夢を見る。
もう自分が長く生きられないのはわかっていて、近々来る『終わり』はずいぶん幸福なものだなと感じている。
病気もなく、怪我もなかった。
一時期騒がれていた王家や貴族に対する暗殺とも無縁で。
娘や孫に見守られながら――
イーリィは、ただ『年老いた』という理由で、死のうとしていた。
心残りのない人生ではなかった。
でもそれは、誰にでもあるものだと思う。
東方の集落から始まった人生は、意外な場所で終わろうとしていた。
……ああ、そうか。
この足音は、『追いかけっこ』の足音だ。
かつて、花の香る聖域だけが生きる場所だった時代があった。
そこで聞く、父とアレクサンダーの追いかけっこの足音が好きだった。
それといっしょに聞こえてくる歓声や悲鳴のさわがしさを好ましく思っていた。
部屋から出られないのはもどかしかったけれど、その扉を開けて現れる人を見るのが好きだった。
……恋愛、という概念はきっと、最後までわからなかったけれど。
あの人が言い訳のように口にしたその概念は、きっと知らないあいだに心に根付いていたのかもしれない。
ほら、目を閉じれば、花の香りと、あのころの足音が聞こえる。
……幸せな記憶はどこにでもあって、もちろん、あの花の香る部屋にもある。
でも、一番の心残りはあの花の香る部屋にだけあって、それがどうにも、昔懐かしい村の雪景色とともに、胸の中によみがえってくる。
もしも、自分があの時、うまい方法を思いついて、アレクサンダーの旅立ちを止めていれば――
あの人は、あんなにも苦しまなかったんじゃあないか。
あの人が他者に影響を与えることをおそれているなんて、あのころからわかっていた。
あの人が自分の知ることを村のみんなに教えなかったのは、自分の知識で変わってしまった人たちが不幸になることを恐れていたからだと、ずっと前からわかっていた。
……本当に困った人だ。
わかっていたのに、指摘すれば、かたくなになってしまう。
だから、なにも言えなかった。……言うべきだったのかもしれないと、それもまた、心残り――
――想像の中にしか存在しない、ありえたかもしれない、人生だ。
もしも。
もしも、死後に、本当に『世界』があって。
そこに彼が来たのならば。
……今のように、すべてにかたくなになっている彼ではなくって、もう少し素直に、人の言葉を受け止められるようになっている彼が来たならば、素直な感謝を。あなたのおかげで、この人生は、他のどの人生よりも、幸せだったと――
……ああ、うん。
あの人はひねくれているから、きっと、それは、死んでも治らないだろう。
だから、まあ、待っているだけでいいかもしれない。
ずっと、待って、あの人を当たり前みたいに迎え入れよう。
……ああ、にぎやかな足音と、花の香りがする。
寒くて厳しい冬の中。窓の外には雪景色。
部屋には窓が一つきり。カーテンの向こうの景色を、私は想像するしかなくって――
足音が近づいてくる。
足音が、ドアの外で止まる。
扉は開かない。
まだまだ、開く気配もない。
それでも私は、待ち続ける。
その永遠にも一瞬にも思える時間……
この時に感じるもどかしさが、焦ったさが、きっと――
あの人の言っていた、恋愛というものなのかもしれない。