130話 『かみさま』
『かみさま』がないている。
そこはわずかにこんもりと盛り上がった丘にしか見えなかった。
けれど、『かみさま』がないている今、音の発生源がそこなのは、近付くにつれ大きくなるぶおおおおという音と震動でわかった。
たいらな黄土色の平地では、小石が跳ねて、砂がごぼごぼと水のように流動している。
「『くじら』様」
老人たちは膝をついて、両手を組み、その手を大きく頭上にかかげた。
「『くじら』様、どうか、どうか、今しばらく、お眠りください。我らに用意できる限りを捧げます。我が子らよ、どうか、どうか、寂しがらないでおくれ。新しいお友達を、今、送り出す。本当は二人、送れるはずだった。けれど、もう一人は戦いの中でどこかへ行ってしまった。だから、一人きりだけれど、許しておくれ。きっとこの戦いに勝利して、もっとたくさんのお友達を送り出してあげるから」
この老人たちは、アレクサンダーも捧げものにする気だったのだと、今さらわかった。
たしかに、アレクサンダーは小さい。
本人はとっくに大人だと言うけれど、それはカグヤからしても『知識』でしかない。
対面したアレクサンダーは自分とさほど歳の変わらない男の子にしか見えなかった。
そして、出会った当初はあったわずかな身長差は、カグヤの背がだんだんのびてきていて、次第に縮まりつつあるぐらいだった。
……アレクサンダーはどの街に行っても、たいてい、うまくやって、そこにいる人々を掌握してしまう。
だから気にも留めなかったが……今思えば、わかることがあった。
老人たちがアレクサンダーに戦争の差配をさせていた時、その顔には慈しみがあった。
大人が子供を見る時の、この旅の中で何度か目にした、そういう、愛情みたいなものがあった。
だから、この老人たちは、アレクサンダーにのせられて戦争の権限を渡してしまっただけではなかった。
この老人たちは、アレクサンダーという『子供』の、好きなようにさせたのだ。
愛情と慈しみをもって、命懸けで、信念さえ懸けた戦争を、子供がそうしたがったからという理由で、そうさせたのだ。
子供好きな『かみさま』に仕えるこの人たちもまた、子供好きだった。
際限なく甘やかし、わがままを可能な限り聞き、愛しいものを見るように見て、できうる限りで慈しみ――
そうして、『かみさま』へと捧げる。
ここにいるのは、そういうことを、当たり前だと思っている人たちなのだった。
「『くじら』様」
老人がまた呼びかける。
すると、『くじら』は吠えながら、その体をぶるぶると震わせて、自分を埋めている土をその震動で払い除けながら、だんだんと、地表に出てくる。
……ほとんど、夜になっていた。
空は赤と青がまじった不思議な色合いになっていて、もうほんの少しすれば、世界は暗闇の中に閉ざされるだろう。
けれど、目の前にせり上がってきたものは、夜の闇より、なお、黒かった。
途方もない巨体が、どこかのっそりと、しかし実際にはすさまじい速度で、土を撒き散らしながら、その全容をあらわす。
てっぺんを見ていたけれど、どれだけ首をあげても足りない。
左右を見るけれど、ぜんぜん、切れ目が見えない。
夜空より黒いその球体は、ついにその全身を土の上に出すと――
口を、開けた。
球体の真ん中が裂けて、真っ赤な口内がのぞいた。
少しだけ紫がかった、イボのたくさん生えた舌が見えた。
そうして、ずらりと並ぶ、黄ばんだ、先の丸い、すり潰す用途であることが明らかな歯が見えた。
大口を開けて鳴く、『かみさま』。
そいつの吠え声は耳が潰れるかと思うほど大きくて、そして、撒き散らされる口臭はなまぐさく、思わず眉根をよせて、耳より鼻をかばう方を優先させるほどのものだった。
「さあ、お行きなさい」
カグヤの背がそっと押される。
お友達が待っているよ、と付け加える老人の顔は、どこまでも優しかった。
カグヤは歩き出した。
アレクサンダーがなにもしてこない。
だから、流れに身を任せるのが正しいのだろうと思った。
それは、信頼ではなかった。
勇気でもなかった。
まだカグヤにも判然としない、よくわからない衝動がある。
その衝動に身を任せて、ここで死ぬのは、それもいいかなと思う自分がいる。
だからその歩みに迷いはなかった。
けれど、
「伏せろ」
その声に従ったのは、もはや、反射的なものだった。
すっと伏せたカグヤの頭上を、青い刃が通り過ぎていく。
それはぱかりと開いた『くじら』の口の、番の部分にぶちあたり、『くじら』を半ばから両断した。
「おお、ほんとだ。口の中なら攻撃が通るな」
両断された『くじら』の上半分が大地に滑り落ち、すさまじい震動と砂ぼこりをあげる中、何者かが近付いてくる。
「でしょう? あれの体表は不思議なことに、殺せる色をしていなかった。あっはっは。不思議ですねえ。皮も脂も肉も削げるというのに、攻撃が通らないとは」
「お前の目、ほんと便利だよなあ。……つーわけで」
砂ぼこりが晴れて――
カグヤは腕で目をこすり、近寄ってきた人を見上げた。
「傭兵の時間は終わりだ。俺の神様の布教のために、土着の『かみさま』をめちゃくちゃにしに来たぜ」
アレクサンダーが、刃の消えた剣を肩にかついで、言った。
シロがその斜め後ろで、いつものように微笑みを浮かべていた。




