117話 正義
そいつは地上に張り出したプリズムのてっぺんに腰掛けていた。
ルカ少年は地上に出るのが生まれて初めてというわけではなかった。
というか、旅人が普通に入ってこられたように、地上との出入り口は普通にあって、ふさがれてもいないし、警備も特にいない。
地上というのはつるりとしたものだという印象を抱いていた。
どこまでも見渡せる広い空洞だ。
地下で生まれ育ったルカはその広さと高さにひどく落ち着かない感覚を覚えたと記憶している。なんにもない、虚無の広漠。それが『地上』というものの印象だった。
ところが、今、そこには、石造りの街があった。
そこでは人々が――地下で暮らしていたはずの、見知った顔の人々が、すでに生活を営んでいる様子があった。
商店には獲物の肉が並び、武装した探索者たちがどこかに発ち、あるいは帰還している様子があった。
かつて、地下に獲物がまだいたころと同じか、それ以上の活気がそこには存在した。
もうじき夜がおとずれるというのに、煌々と明るい街が、まるで何十年も前からそこにあったかのように、存在していたのである。
「やあ、どうも、先輩。案外早かったですね! 先輩はてっきり、最後の一人になるまで地下にこもっているものかと思っていましたよ」
アレクサンダーはプリズムのてっぺんに腰掛けたまま、にこやかに述べた。
彼の周囲には、仲間の『真っ白いの』が二人、彼を守るように立っている。
そしてさらにそのまわりには、ルカにとってよく見知った顔の者たち……探索者クランの、クランマスターたちが、おもねるように、こびるように、アレクサンダーを取り囲んでいた。
「……君が、元凶か」
「ほんっとわかりやすいよなあ、あんた」
「……?」
「どうした? 昔馴染みから俺のやってる商売のことでも吹き込まれたか? どうせそいつは自分のことを被害者だって口調で語ったんだろ? で、強いあんたに助けを求めた。あんたはそれに騙されて、勢いこんで俺のところまで乗り込んできた。……ああ、なるほど、あんた、カモにされそうになったけど、騙されなかったんだな」
「な、なにを」
「いやあ、あんた、しっかりしてるもんな。騙されねーだろうなあと思ってさ。あんたはまじめだよな。それは『真摯』でも『誠実』でもなくって『杓子定規』って感じだけど。うん、だから言ったんだよ。すでになにかを狂信してるやつを騙すのは困難だって。詐欺をうまくやるならターゲット選びが九割だぜ。そいつがどうにも、理解されない」
「……ともかく、アレクサンダー、君は不誠実を働いた。それは許されることではありませんよ」
「おいおい、こっちの言い分は聞かないのかよ」
「聞くまでもない。今のこの状態を見ればわかる。名だたるクランマスターたちが、君を恐れるように見ている。地下街にいた者たちが、急に地上で暮らしている。君がなにかをやったに決まっている」
そう述べてルカが手にしたのは、穴を掘る道具だった。
それは探索者たちにとって、地下街を広げるための道具であり、そして、獲物と出会った際には武器にもなるもので、探索者なら誰もが持っているものだった。
アレクサンダーは、ルカがまるで武器のように持ったそれを見て、目を輝かせる。
「やっぱり武器はスコップか! すげーな! それで殴られたら二時間サスペンスみてーな死体になるわ! 腰に短い剣があるように見えるけど、そいつはサブウェポンなんだな」
「君が己のしたことを白状し、クランマスターたちを恐れさせているものをどうにかし、地下の人たちを地下に返し……すべてを元どおりにするならば、見逃しましょう」
「元どおり?」
アレクサンダーはニヤリと笑う。
ふわふわの黒髪。大きな黒い瞳。十歳かそこらの少年が浮かべるには、あまりにも醜悪で、凶悪な笑みだった。
アレクサンダーはその表情のまま、
「元どおりってのは、どういうことだ? 地下で飢え死にしそうだった連中のケツを蹴っ飛ばして、また穴蔵に返すことか? 俺が教えた地上での生き方を全部忘れさせちまうことか?」
「地下で獲物がとれなくなった原因も、どうせ君なのだろう?」
「あんたはさあ、いいよなあ。そう考えられるの、すごくうらやましい。すげーポジティブだ」
「?」
「『すべての悪いことには原因があって、しかもその原因は、あらゆる悪いことを一手に担う、悪事の総合商社だ。そいつさえ倒せばすべてが解決して、元
どおりの平和な暮らしが返ってくる』」
「……」
「なるほど、俺が獲物がいない原因を『わかりますよ』と言ったあたりが、あんたの中で根拠になってるんだな。いいなあ、そうやって自分に都合のいいように情報をつなげられる思考回路。あんたの人生はさぞかし幸せだろうぜ」
「僕を侮辱しているのですか」
「褒めてるじゃねーかよ! めちゃくちゃ大絶賛だよ! いや、マジで心からうらやましいんだ。久々に見たよ、あんたみたいな人種。この世界にもいるんだなあ。いやあ、これが世界が広がる感覚か。ありがとう。俺の世界は広がったよ。あんたみたいなのは苦手だけど、そのまっすぐさを俺は全力で肯定するぜ」
話にならない。
それは応じるだけ時間ばかりを浪費させられる言葉の罠だと、ルカは断じた。
スコップを握る手に力を込める。
アレクサンダーは、背負った剣……たしか折れていたはずだ……の柄に手をかける様子さえない。
一気に詰め寄って……
奥の手を使う。
そう決意して重心を前にかたむけたタイミングで、アレクサンダーが口を開く。
「先輩。伝わりにくいかもしれねーけど、俺はあんたを尊敬してる」
それは、なんとも、攻撃の気勢を削ぐ言葉で、声で、表情だった。
だからルカの攻撃の意思が一瞬だけ低まったところに、また、アレクサンダーが声をあびせてくる。
「俺が真にあくどいだけのことをしてるとしよう。でもな、そんな俺に対して、こうやって切り込もうとしてきたの、あんただけだぜ」
「……」
「わかるか? ここにいる連中は、正義を為さずに、俺の前にひざまづいたんだ。あんたが探索者の規範を示さねばならないって息巻いてた理由がわかるよ」
「……ええ。僕はここで君を叩き伏せ、規範を示さねばなりません」
「いいなあ。正義がいてくれると盛り上がる。やっぱ正義はそうじゃねーとな。人に理解を示す姿勢なんか見せたら正義じゃねーよ。わかった! あんたの望み、把握したぜ」
アレクサンダーは立ち上がり、背負った剣を抜いた。
それは大剣のようではあったけれど、半ばから折れている。
「イーリィ! いるな!」
叫べば、どこかから「今忙しいんですけど!」という女性の声が返ってくる。
そちらに対して、アレクサンダーは叫び返す。
「今から一人殺すから、準備しとけ!」
ルカ少年の中にわずかにあった迷いが消える。
アレクサンダーは、剣を抜いてこそいるが、構える様子もなく、まだ、しゃべる。
「あんたはみんなに、地下に戻って暮らせという。それが平和で、それが幸せなんだと信じてる。そして、俺という悪を倒せば、それが叶うという信念を持っている」
「そうだ」
「一方俺は、地下に閉じこもってるだけじゃあ、みんな死ぬことがわかってる。あそこに二度と獲物は出ない。地上で生きる道を示さないと、地下街は死体の埋葬された籠になると信じてる。……はっはあ。ここに、お互いの主張がぶつかったわけだ。あんたが悪と信じてる俺にも、俺の信じる正義があるわけさ」
「君に正義などない」
「正義のあんたと敵対してるんだ。別な正義があるに決まってんだろ。ああ、まあ、いいや。ともかく信念がぶつかったわけで、言葉を交わしてどうにかなる気配は全然ない。なら、殺し合うしかねーよな」
「……君が反省するなら、まだ間に合う」
「おお、いいねえ。いっぺんの疑念もなく、話が通じない相手だ。最初から自分が正解で相手が不正解だって疑ってさえいねーんだもんな。あんたみてーなのは、死なないと納得しない。さあ、来いよ。教化してやる。あんたみてーなのを引き入れてこそ布教だ」
口上が終わるまでルカが待ってしまったのは、アレクサンダーの姿も理由だっただろう。
構えない。
そして、幼い、少年。
あきらかに自分より弱い相手――倒されるべき悪として、あまりにも頼りないその姿。
それの不意を打つかのように攻撃を始めるのは、ルカの正義感が許さなかった。
だが、来いよと言われたからには、もはやいっぺんの迷いもない。
人に刃を向けるのは初めてだが――
信じた街を取り戻すためならば、そこに迷いが生じないのが、ルカのまじめさだった。
一気に距離を詰めながら、スコップを振りかぶる。
そして、スコップが当たらない位置で振り下ろす――その動作で、投げた。
アレクサンダーが剣でスコップを弾いたころ、すでにルカ少年は必殺の一撃の準備を終えていた。
――それは、狭い穴蔵で、いきなりでくわす獲物に対応するために磨かれた技術。
『掘り手』と『護り手』にわかれて行う探索を、たった一人でやり続けたルカの編み出した一撃必殺。
ルカの右手は腰に差した短剣に伸びていた。
それは他の探索者がそうであるように刃をさらしたまま、緊急ですぐに使えるようになった状態、ではない。
鞘込めされている。
アレクサンダーを間合いにとらえる。
柄を握った刃を、鞘の入り口にこすりつけるように……鞘で弾いて勢いを増して、抜き放つ。
加速した刃はプリズムのようなきらめきさえまといながら、まっすぐにアレクサンダーの腹を薙いだ。
胴体を切断するつもりだったけれど、思ったよりも硬い。
だが、腹部に与えた傷は深い。絶命はまぬがれないその一撃を確認して、ルカ少年は死にぎわの一撃に対応するために短剣を構え直す。
アレクサンダーの体は動かなかった。
代わりに。
口が動いた。
「居合か!」
「……!?」
「無意識だろうが、魔力を使ってる形跡があるな。なるほど、鞘を加速器にして撃ち出すレールガンって感じか。意外なもんが見れた。俺の世界はまた広がったってわけだ」
それは全然まったく、末期の発言という感じはなかった。
腹に深い裂傷を刻まれた彼は、傷ができる前と今とで、全然かわらない、元気な調子で、言葉を発している。
「いやあ、ルカ先輩。あんたは正しいよ。でも、アホだ」
「……なに、が」
「どうして俺が数の有利を頼まないのか、考えろ。そこにシロがいて、姉さんがいて、街にはサロモンやらイーリィまでいて、俺をとりかこむクランマスターたちがいて、そいつらをあんたに、けしかけない理由を考えろ」
「……」
「一対一の状況を作られた時点で、あんたは詰んでるんだよ。俺には絶対に勝てないって、俺に確信されてるわけだ。一つ、教えてやろうか――」
アレクサンダーが短剣を掲げる。
その半ばから折れた剣の断面からは、まるで刃の続きのように、青白い光が伸びている。
「――気持ちよく負けてやる悪役なんか、現実には一人もいねーんだよ」
剣が振り下ろされる。
それはルカの体を真っ二つにする軌道で降りてきて、ルカは応対も忘れてその美しさに見入って。
そして――




