■第60話 最後の物語
その朝、イツキは2時間早く自宅を出てゆっくりゆっくり歩いていた。
”サクラ咲く アカル散る ”の最終話が昨夜書き終わった。
数か月かけて全てを書き上げた、それ。
今までもいくつも小説をしたためてきたけれど、やはりそれへの思い入れは
殊更で ”終 ”と最後の一文字をページ後方に書き込むその手は、達成感やら
嬉しさやら高揚する気持ちが抑え切れず小刻みに震えた。
それと同時に、一抹の寂しさも顔を出す。
小説でも描いた事のない思いもよらぬ展開で、ミコトにそれを読んでもらう
流れになりふたりでひとつの机に腰掛けて物語に入り込む放課後がなにより
大切になっていた。
隣で原稿に目を落とすミコトが嬉しそうに微笑んだり、自分のことのように
はしゃいだりするのを横目に、どんどん溢れだす淡い気持ちのやり場に困り
果てた。 そしてそれに比例するように募ってゆく、罪悪感。
ミコトを騙している
嘘をついている
ミコトが嬉しそうに微笑めば微笑むほど、それはイツキの胸に重く積もって
ゆく。 本当のことを言いたいけれど、それはミコトを幻滅させ、なにより
物語を愛してくれた気持ちまで否定させてしまう気がして、臆病なそのノド
からは真実など言えそうになかった。
決して言えぬまま、最終話を迎えていた。
そして、イツキはひとつ決心していた。
これが、最後。
これで嘘は最後にしよう。
もうこれ以上ミコトには物語を届けない、と。
そう決めたイツキの指先は、いつにも増して強く強く8Bのえんぴつを握り
締め変形したペンダコが痛々しい程だったが、周りの音など一先耳に入らない
くらい集中して最後の物語を書いた。
ミコトのことだけを想い、懸命に、えんぴつは止めどなく流れるように原稿の
上にやさしい鉛色を残した。
まだだいぶ早い早朝の校舎は、運動系部活の朝練すら行われていないため静ま
り返ってまるで音のない世界に迷い込んだかのようだった。
靴箱前に立ち、上履きに履き替える。
なぜか今日はいつも踏み潰す踵を、指先で均しながらすっぽりとその中に押し
込めた。 常に気怠さを装って敢えて擦って歩くその耳障りな足音も、スっと
背筋を伸ばしまっすぐ美しい姿勢で歩くイツキに、磨き上げられた廊下の床面
に響く内履きの靴裏ゴムがキュっと小気味よい。
イツキの足はゆっくりゆっくり2階の教室へと向かう。
階段の段差を静かに踏みしめると相変わらずの耳にやさしいゴムの擦れる音と、
片手に握ったカバンが制服のズボン横をかすめる音が小さく聴こえた。
階段踊り場の高い位置にある窓からは、若い朝陽が顔を出しイツキを照らす。
ふと、ミコトと階段でじゃんけんグリコをしたあの日を思い出した。
新作を読み終わった夕暮れの放課後に、ふたりで腹を抱えてケラケラ笑った
あの日。 階段踊り場に、壁に、天井に、ふたりの愉しそうに笑い合う声が
色とりどりのスーパーボールのように元気よく跳ねて響いたあの日を思い出し
イツキは懐かしそうにどこか寂しそうに目を伏せる。
(もう、放課後にあんな風に笑い合うことも無いんだな・・・。)
小さく溜息のような息をつくと、見慣れた教室の戸口前で足を止めた。
引き戸に指先をかけてそっと右にスライドすると、それはガラガラと乾いた
音を立て当たり前だがまだ誰もいない閑散とした教室内が一度に見渡せた。
ゆっくりミコトの席まで向かい、机の上にカバンを置く。
バックルを指先で挟むようにカチャリとはずして、かぶせ部分をめくると
それが見えた。 この数か月で少しくたびれてよれてしまった原稿が入った
茶封筒。 やさしく取り出すと、表に書いた ”感想お願いします ”の文字
に少し微笑んでそっと撫でてみた。
茶封筒が小さく小さく撫でられて音を立てた。
鼻から息を吸って、小さく吐く。
じんわりと熱いものが込み上げる胸が、呼吸に合わせて上下した。
するとその時、
『こんなに来るの早かったんだね・・・。』
慌てて振り返ったイツキの目に、教室戸口に佇むその姿が映った。




