■第29話 あの日のこと
ミコトはひとり取り残された放課後の教室で、原稿用紙の表紙に目を落と
したままなんだか泣きそうな顔で俯いていた。
静かに橙色に包まれるその空間は、まるで世界中で自分ひとりしかいない
かのように閑散として物寂しさを誘う。 遠く廊下の先から流れるハツラツ
とした部活動生の明るい声がなんだか余計に不安をあおった。
そっと、あの日を思い返す。
もの凄い勢いで大きな音を立てつんのめる様に教室に飛び込んで来たイツキ。
今思えばかなりの挙動不審具合で、財布かなにかを忘れたとか言っていた。
慌てふためき目を白黒させながら、よくわからない事を言い訳めいて。
恋愛小説になど全く興味なさそうなイツキが、一緒に読むと言い出したり、
鼻で嗤いそうな感じに見えて、実際一度も小説のことをバカにしたりはしな
かった。 ここの所ずっと急ピッチで仕上げられている原稿。 寝不足の目の
下の黒々したクマも、右手中指の巨大なペンダコも、作者だと特定するには
充分な証拠のように思えた。
そして思いがけず発覚した、ペンネームの謎。
きっと ”イツキ ”という名前の漢字 ”樹 ”を英語にしたつもりのそれは
”tree ”ではなく ”three”と間違って覚えているのだろう。
おまけにそれにいまだに気付いていない馬鹿さ加減っぷり。
『ほんと・・・ バカにも程があるじゃない・・・。』
指先で掴んでいた原稿用紙をそっと胸に抱き、ミコトは眉根をひそめて
困ったような呆れたような顔で小さく微笑んだ。
『カッコ悪いくせに、一丁前になにカッコつけて隠してんのよ・・・。』
少しだけ腕に力を入れて原稿用紙を抱き締めると、静まり返ったひとりぼっち
の教室に紙がよれる音がクシャっと響く。 その音に慌てて体からそれを離し
小さく出来たシワを手の平で大切そうに伸ばして目を伏せた。
すると、ふと先程のイツキの言葉が甦った。
(お前さ・・・
・・・ミスギと、 付き合ってんの・・・?)
そのひと言は、どんな意味を持つのか考える。
ただの興味本位かもしれない。 クラスメイトの男女が付き合っているやら
別れたやら、そんな噂は面白おかしく瞬く間に広がるものだ。
別に深い意味はないのかもしれない。
しかし、イツキのあの時の声色は揶揄する感じではなかった様に感じた。
怒っているような哀しんでいるような、失望しているような。
『ほんと・・・ もう、なんなのよ・・・。』
胸をきゅっと締め付ける歯がゆさに戸惑いながら、膝の上に置いた原稿用紙を
再びそっとめくってみる。
そこには美しい文字が連なる。
その達筆なそれの陰に何度も何度も消しゴムで消した跡が微かに残っている。
きっと遅くまで懸命に懸命にお話を書いた跡なのだろう。
きっとミコトの為に、ミコトの為だけに懸命に。
指先でやさしく撫でてみた。
やわらかいえんぴつの鉛色から、やさしい温度が伝わるようだった。
『一緒に読む約束になってたじゃないのよ・・・。』
ぽつりひとりごちて小さく息をつくと、ミコトは意を決するようにカバンから
ケータイを取り出し静かにそれを耳に当てた。
真っ赤に染まる左耳に、暫し機械的な通話音が流れそしてそれは繋がる。
『サ・・・ サエジマ・・・?』
明らかにミコトからの電話に戸惑っているその第一声。
わずかに声が裏返って慌てて咳払いをして誤魔化すその気配に、ミコトは
思わず頬を緩めて笑いを堪える。
『今、どこ・・・?』
ミコトが笑い声を必死に鎮めて、ほんのり桜色に染まる頬で問い掛けた。




