■第23話 英語のノート
その小さな火が灯ったのは、ある日突然だった。
『アタシ、日直でもナンでもないってのに・・・。』
ミコトが不機嫌そうに胸の前でノートの山を積み上げ抱えて、ブツブツと
不満を呟きながら歩いている。
クラス全員分の英語授業用ノートを運ぶように指示されたその放課後、
ミコトの足は帰宅する生徒や部活へ向かう生徒で賑わう廊下を、気怠そうに
重そうに少しよろめきながら職員室へと向かっていた。
『ほんっと、セーカク悪いわ! あんの、ハゲじじい・・・。』
たった1冊のノートなど軽いものだけれど、それが30数人分ともなると
結構な重量になるそれを抱えるにはミコトの細い腕たった2本ではなんとも
心許ないというのに、ただ今日の日付とミコトの出席番号が同数だという
たったそれだけの合致でノートを運ぶ役割を仰せつかってしまったのだ。
『しかも、
ちゃんと板書をノートに写してるかの抜き打ちチェック、って・・・
意味わかんないし・・・
い~ぃ歳して、独身な訳だわ・・・。』
ブツブツと悪口めいたひとり言を呟き続け、ノートの山の重みに腕が痺れて
きた頃やっと目的地の引き戸前に辿り着いた。
引き戸横の壁にその山を一旦押し付け、片膝を曲げてノートの底部分に当て
がうとミコトは無理やり空けた片手で瞬時に引き戸をスライドさせ開け放ち
再び瞬時にその手をノートへと戻し抱え直した。
『失礼シマース。』 誰にと言うでもなく取り合えず小さく入室の挨拶をし
職員室奥の方の日当たりが良い机で呑気に踏ん反り返って湯呑に口を付け、
脂ぎった顔で同僚教師とヘラヘラ談笑している憎たらしい英語教師の元へと
進むミコト。
『あぁ、サエジマ・・・ ココ、置いてくれ。』
例えば ”ご苦労さん ” でも ”悪かったな ”でも、たった一言の労いの
言葉も掛けようとせず、散らかった机を顎で指すその禿げ頭をジロリ睨んで
ミコトはわざと大仰にドサっと大きな音を立てその山を自らの腕から机上へ
と移動させた。
あまりの乱雑なそれに、積み重なっていたノートが少し雪崩れて教師の足元
へ数冊落ちる。
『あーぁ・・・ サエジマーァ・・・。』 いまだキャスター付きのイスに
腰掛けたまま教師は体を屈めて自分の足元に散らばったノートを拾い集める。
ミコトも一応しゃがみ込んで拾うポーズでもしようかと思ったその時、教師
が吹き出して笑いはじめた。
なにを笑っているのかとミコトがしゃがみ込んだまま顔を上げ、教師を見上
げる。 すると、1冊の拾い上げたノートの中身を見て笑っている様だった。
あまりに笑い続けるその禿げ頭に、さすがにミコトも声を掛ける。
『どうしたんですか・・・?』
声を上げて笑っていたその教師が、やっとの事で笑いを鎮めてミコトへ向け
広げて見ていたノートを差し出した。
『今日の授業で、簡単な和文の英訳やっただろ・・・?
”彼は木陰に立っていた ”、って。
・・・中1英語だ、あんなもん・・・。』
ミコトはその日の英語授業で確かにその和文を英訳してノートに記したのを
記憶していた。 ”こんなのも英訳できんならさっさと中学へ戻れ!”と
嫌味っぽくがなり立てた教師のガサツな声色を思い出す。
『コレ・・・見てみろ、サエジマ
アイツ・・・ ほんっと馬鹿なんだなぁ~・・・。』
再び教師が笑い出した。
ノートの ”その箇所 ”を、太く少し爪が伸びた指先で指し示している。
ミコトが少し身を乗り出してそれを見つめた。
”彼は木陰に立っていた He stand up three ”
『過去形にもなってないは、立ちあがっちゃってるは・・・
・・・おまけに、コレ・・・。』
だらしなく膨れた腹部を押さえて、またしても教師が大声で笑い出した。
『 ”tree ”も書けないのかよ、アイツ・・・
これじゃあ、 ”樹 ”じゃなくて ”3 ”だろうが・・・
アイツの名前、”イツキ ”って ”樹 ”って書くくせに・・・。』
それは、イツキのノートだった。
しゃがみ込んだままのミコトが、そのイツキの英文をまっすぐ見つめていた。




