ハレー・シネーション
「号外! 号外! 英国国王エドワード7世崩御! ハレー彗星の猛毒ガス、シアノゲンによる影響か! 地球が彗星の尾に突入するまであと2週間だぞ!」
群衆が新聞売りに殺到する。奪い合うように新聞が売れていく。
家を密封だ、大きな袋を用意するんだと誰かが言う。
ガスマスクや酸素吸入器がどこの店にもない。買い占めて高値で売るやつのせいだと誰かが悪態をつく。
万博は中止だ! 強行するのは、金持ちや貴族を展示中の飛行船に避難させる秘密計画があるからだと陰謀論が広がる。
通りの喧騒は近くの病院の中にまで届き、病室のベッド脇で寝てしまっていた新聞記者を起こしてしまった。徹夜明けで妹の見舞いに来て、そのまま病人のベッドに頭を乗せて寝てしまっていたのだ。
気がつくと肩には毛布がかぶせられていた。
外の喧騒に起こされたジャックは頭を振り、妹の様子を見る。
ジルの酸素マスクが小さく曇り「ジャック兄さん、起きちゃったのね?」と聞いてくる。
「いや、寝てないよ」と、ジャックと呼ばれた新聞記者は言いかけたが、肩にかけられた毛布を見て「ああ、すまないジル」と言い直した。
「謝ることじゃないでしょう。謝るなら私の方。こんな体になって」と妹のジルは天井を見つめた。
「それよりも調子はどうだ?」とジャックは話題をそらす。
「酸素吸入器ってすごいのね。呼吸がすごく楽になった。昨日まで息をすることすら苦痛だったのに、今なら生きていてもいいかなって思えるようになった」
「ああ、それは良かった。本当に良かった」
ジャックはジルの手を取って祈るように額を当てた。
「だから謝るのは私の方。私のせいでジャック兄さんがこんなにも働かされて」
「それは違うよ。新聞記者なんてみんなこんなものだ」
「うそよ。患者よりも顔色の悪い見舞い人だって、看護師たちが心配してたわ。ねえ、もう少し見舞っていってよ」
「いや、さすがにそうもいかないんだ」
ジャックは立ち上がり、病室の窓から通りの喧騒を眺めた。外ではまだ人々が大声でハレー彗星の尾から逃れるための議論をしている。ジャックは振り返ってジルの様子を見た。体が弱いジルにはこの騒ぎは毒だ。
「仕事、行くの?」ジルの声がマスク越しにくぐもる。
「ああ、デスクには酸素吸入器の借りもできたし」とジャックは答える。
「じゃあ、私がこの酸素吸入器を外せば、兄さんの仕事はもっと軽くなる?」そういってジルは酸素吸入器につながれたマスクに手をやった。
ジャックは慌ててジルを止めた。
「そうじゃない。そうじゃないんだ。頼むからそんなことを言わないでくれ」
「じゃあ、なんで新聞記者なんてやっているの。なんでそんなに働き詰めなの。兄さんの夢は違ってたはずでしょう」
ジャックはジルのベッド脇テーブルを見た。テーブルの上には、ジャックの上司であるデスク名義で配達された見舞い品があった。部下の家族が病気で入院すれば、そういう気遣いができる人物だ。
だが仕事では別人になる。それは、ジャックには受け入れられないものだった。
教会の鐘が鳴った。ジャックはジルの手を握り「やらならければいけないことがあるんだ。頼むから、マスクは外さないでくれ。すぐにまた来るから」そう言ってジャックは病室を出た。
病院を出てジャックは東の空を見上げた。
昨日は深夜にエドワード7世崩御の情報が海底ケーブル経由の電信でロンドンから入って、新聞社に残っていたジャックは、すぐに用意していた追悼記事を号外版下に組み合わせて印刷の手配をした。
ジルの見舞いという理由で新聞社を抜けさせてもらい、深夜に病院に来た。
その時、東の地平線から南の天空に向かって長く大きくハレー彗星の尾が伸びていた。
まるで天を切り裂く白と青の刃のようだ。もうすぐあの尾が地上に振り下ろされ、地球は彗星の尾の中に入る。
1909年ごろ、天文学者たちは翌年に飛来するハレー彗星の尾に地球が入ることを予測した。
1910年2月7日、アメリカのウィスコンシン州ヤーキス天文台の科学者チームが分光分析でハレー彗星の尾に猛毒のシアン化合物が含まれていることを発見した。
その後、フランスの有名な天文学者カミーユ・フラマリオンが、地球が彗星の尾に突入することによって、地球上の全生命が絶滅する可能性があると発表した。
ジャックが働く新聞社のデスクはハレー彗星の毒ガス情報を利用して恐怖を煽った。新聞の発行部数は何倍にもなり、今やデスクは国内有数の影響力を持つ人物になっていた。
ジャックが編集部に戻ると、デスクが新人を怒鳴っていた。
「分光結果3883オングストロームなんて数字だけで読者が恐怖するか!青酸ガスの仲間だと書け。アーモンドの香りで死ぬと連想させろ!」
デスクは皿のマジパンを新人の前に押しやった。
「この苦い香りだ。嗅げ」
やがて新人が震え始めた。「やはり俺たち、死ぬんですか」
「馬鹿野郎。地球と彗星の大きさを考えろ」
「でもフラマリオンが」
「有名人が言えば真実か? 新聞が書けば真実か? いやまあ、そういう時代を作ったのは俺だがな。いいから外で頭を冷やしてこい」
デスクは急に怒鳴るのを止め、口調を緩めて新人を追い出した。
「まったく!」そういってデスクは椅子の背もたれに体を預けた。
ジャックが「大変ですね」とデスクに声をかけた。
「労いの言葉なんかいらん。記事をよこせ」
デスクはジャックのメモを奪い取り、パラパラめくる。
デスクはメモを見ながら「ジルの様子、どうだった」と聞いてきた。
「意識を取り戻しました。デスクが病院と交渉して酸素吸入器を買い取ってくれたおかげです。これで他に回される心配をせずに治療に専念できます」
「良かった。家族は大事にしろ。ひとりぼっちは寂しいからな。孤独は闇だ」
デスクがメモをめくっていると、あるページで止まった。
「全生命の絶滅を予言したカミーユ・フラマリオンが、絶滅の可能性は極めて低いとコメントした、って何だこの記事は」
「何だと言われても取材記事です」
デスクはジャックに顔を近づけて、急に人が変わったように説教を始めた。
「いいか。確かにフラマリオンは思考実験の一つとして発表したにすぎなかった。それは原論文を読めば分かる人には分かる。だがどこの新聞社がそれを正直に報道した? もっと瓶に空気を集めたりするような間抜けな連中を取材しろ」
「そんな記事ばかりじゃ、後世の人たちに我々は間抜けの集団だったと思われてしまう」
「オカルト幻覚で見たという未来の話か。ジルの看病で疲れているのは分かるが、お前も相当やばいぞ。ちゃんと休め」
「ちがう。きっとこれは幻覚なんかじゃないんだ。聞いてくれ」
「いいから休め。俺の生涯をかけた使命は、忌々しい毒ガスの犠牲者を無くすことだ。ハレー彗星の毒ガス情報は徹底的に利用する。人類絶滅の危機だと煽らせてもらう。間抜けな記事ですら、読者の興味を引けば反面教師として役に立つ。いいか、何度でも言うぞ。俺の父親は炭鉱の硫化水素で亡くなった。母親も、まだ幼かった俺の妹も、ランドリー工場の一酸化炭素中毒事故で亡くなった。ガスが俺の家族をみんな殺した。みんなだ。ガスはな、本当にわずかな量でも死に至るんだ。ガスで死んだ人間の異様な死にざまを取材させたはずだ。濃度が薄いから危険はないなどと言うやつは、俺が俺の新聞で叩き潰す。ガスの恐ろしさは、どんなに煽っても煽りすぎることはないんだ! 分かったらさっさと記事を直してこい。締め切りは明日の早朝4時だ!」
デスクは立ち上がり、ガラス張りの自分の部屋から出て扉の所から編集部全体に響くように声を張り上げた。
「俺たちの使命は新聞を売ることだ。売れる新聞だからこそ読者は俺たちの記事を読み、ガスの脅威を信じてくれる。今や俺たちはこの国の700万の人口に影響を及ぼす存在だ。だが油断するな。今やマルコーニが発明した無線電信機が世界中の情報を一瞬のうちに駆け巡らせるようになった。我々は最新のライノタイプとブロック完全自動輪転機を導入した。発明されて間もないブローニーカメラ改良型も大量に購入した。他社もすぐ追い付く。そこから生まれるのは、これまで人類が経験したことのない情報の奔流だ。我々は今、読者が一生かけても読み切れない情報を一瞬で生み出し続ける時代に突入したのだ。記事はいくらあっても足りない。さあ、諸君。記事を書きたまえ!」
その頃、隣の印刷工場では金属の音が響き続けていた。ライノタイプだ。鉛を溶かし、鉛の小川が活字を鋳造し続ける音だ。
活字棚が鳴る。新聞の束が自動で積まれる。労働者が額の汗を腕で拭いながら唸る。
「彗星の毒より前にこっちが先に死ぬぞ。過労で絶対死ぬ」と誰かが吐き捨て、再び鉛の液が注がれた。
「黙って働け。他の印刷工場じゃあ、鉛中毒でどんどん工員が死んでいるんだ。その点、うちはデスクのおかげで鉛中毒患者は一人もいない。偏執もここまでくれば役に立つってもんだ」
「でも過労で死ぬぞ」
「それはデスクの偏執範囲外だからだ」
「新聞! 新聞!ハレー彗星の騒ぎ収まる気配なし! 一部地域で暴動の危機!」
新聞売りが大声を上げていた。新聞は日々増刷してもあっという間に売り切れる。
病室の窓から集団が見える。「ガスマスクを!」「酸素吸入器を!」と叫び声を上げて行進している。
ジルの手が震えている。いや、怯えている。
「大丈夫」とジャックは嘘をついた。
病院を出てまた東の空を見る。いつも見舞いは夜明け前に特別に病院に入れさせてもらっていた。
今日も朝の騒ぎが起きるまで妹の病室で寝てしまっていた。ジルはジャックが寝るのを邪魔しないようにそっと毛布をかけ、看護師に頼んでそのままにさせてもらっていた。
未明に病院に行くとき、薄あかりの空の向こう、地平線の近くにハレー彗星が見えた。青と白の尾が空を左から右上に向かって大きく伸びていた。
毎日明け方前にこの彗星が夜空を切り裂いている。人々はそれを見て、さらに新聞の記事を見て恐怖を増幅させていった。
編集部に戻ると、デスクが今日も新人を指導していた。
「オカルトは完全に否定しろ。毒ガスへの危機感を歪める。神秘の力にすがらせるな。俺たちの新聞を信じさせるんだ。神秘の力で病気が治せるなら、まず虫歯を治してみせろと書け」
デスクはまた自分の部屋の扉から編集部全体に演説を始めた。
「諸君!政府の鎮静化策は失敗した。科学的に考えて行動しろと言われても国民は聞かず、我々の記事を読み漁った。なぜか? それは今年1月に現れた巨大彗星C/1910A1を天文台が予測できなかったからだ。あの昼間でもよく見えた大彗星を予測できなかった。今さら科学の何を信じろと言うのか。かつてニーチェは「神は死んだ」と言った。そして今度は科学が死んだ。では次に人類が拠り所とすべきものは何か? それは情報だ。やがて人々は神や科学より、影響力のある情報発信者を、つまり我々を信じるようになるのだ。諸君! 読者の思考力を奪え! 断定的に書け! 不安を煽れ! さあ、記事を書きたまえ!」
「新聞! 新聞! 政府は万博を強行! 展示中の飛行船に金持ちや貴族を避難させる秘密計画は実在するか? 今日の新聞はその陰謀を暴くかも!」
この日、街の大通りでは「政府は嘘をついている!」と叫び声を上げる集団が行進し、警官隊と衝突していた。
「新聞! 新聞!政府はガスマスクや酸素吸入器の増産を指示しているというが、店頭には一切並んでいない。今日の新聞はこの消えたガスマスクと酸素吸入器の行方を追うぞ!」
この日、叫び声を上げる集団は、新聞売りのセリフを使い、街の店を破壊し、金品を強奪する事件が起きた。
ついに警官隊がデモ隊と衝突した。怪我人や死者が出た。道路に破壊された物の破片や血の跡が残った。
同じ頃、新聞社内でもデスクとジャックが衝突していた。
「外を見てくれ。机に並べられたあなた好みの記事だけじゃなくて、外に出て世界を見てくれ。記事が、情報が、憎悪すら運ぶようになっているぞ」
「新聞が売れるならそれでいい。今こそ、毒ガスに復讐できるチャンスなんだ。情報が憎悪を運ぶなら、俺の憎しみも運ばせてやる」
「復讐とは何です? 後世の人々は、本当に我々を愚かな集団だと思うようになりますよ!」
「またオカルト幻覚で見たという未来の話か。だがそれでいい。間抜けな話であればあるほど、未来の子孫たちは嘲りながら俺たちの世代を語り継ぐ。それは、毒ガスの情報も一緒に語り継いでくれる。つまらない話を誰が語り継ぐ? 前回の彗星の話が語り継がれたか? 次回の彗星の話は語り継がれるか? 信じられるか? 俺たちの騒動は永遠に語り継がれる。毒ガスの情報と共に。ならそれは俺の勝利だ。俺の復讐の完成だ。さあ! 未来の子孫たちよ! この時代を嗤え!」
ジャックは首を振った。
「ちがう! あなたが言う情報の正体は、いわば怪物だ。怪物は今や情報網をチャンバーにして、憎悪をいつまでもエコーさせて膨張している。憎悪が風船のように地球規模で膨らみ続けているんだ。我々情報発信者の責任だ。今、怪物を調伏できなければ、やがて5年もしないうちに怪物は、銃声一発のニュースだけで世界を巻き込む戦争すら引き起こせる存在になるぞ」
「毒ガスに関係ない話なら、どこでどんな戦争が起きようが知ったことか! 出ていけ!」
「新聞! 新聞! 教会はハレー彗星に関して贖宥状発行のコメントなし! 我々の罪は赦されるのか?」
この日、ついに警察が内務大臣の委任状まで示して新聞社に来た。パニックを止めろと言う。
デスクはやむなく自分の部屋で対応したが、「記事は書かない」と即答した。
警官が低い声で「あなたの記事で死者が出た」と言った。
「無関係だ」
デスクは社員に茶と茶菓子を出すように命じた。
若い警察官が「地獄に落ちろ」とフラマン語で言ったのを年配の警察官が叱った。
デスクは気にもとめず立ち上がって、壁の額縁を指した。豪華な枠に、教会発行の贖宥状が飾られていた。
「大丈夫。私は天国に行ける。これがある」
警官たちが驚いて顔を見合わせた。
「あなたが、神を信じているのか?」
「死後の世界はまだ神の領域だ。2日後の人類絶滅の日に、私は両親や私の妹に天国で再会する」
「2日後? まあそれより、最近、贖宥状詐欺が起きているのですが」
警察官たちはデスクの言葉が気になったが、それよりも重要なことを伝えた。
「まさか、俺は枢機卿が推薦する仲介人に会って話をしたんだ」
デスクは枢機卿の写真入り紹介状を取り出して警察官に見せた。
警察官は、ああやはりという残念な顔でその紹介状を見た。
「枢機卿の写真は本物ですね。誰でも入手できる写真ですが」とゆっくり言った。
その瞬間、デスクは全てを理解した。なぜ、市販の写真が貼られただけで、まるで本人が公認したものだと思ってしまったのか。
贖宥状自体も最新の印刷技術なら字体や印、サインまで簡単に複製できる。
「やはり一度、警察に来てもらえませんか」
この機会を逃がすまいと、警察官は語りかけた。
だが、デスクもこの程度で負けはしない。
「他のヨーロッパ諸国よりもさらに進んだ検閲の禁止まで憲法に盛り込まれたこの国で、私を警察に連れて行って何をしようと言うんですか」
デスクは考え続けた。
「大丈夫、まだ酸素吸入器が手に入る。俺は死なない」と独り言を言った。
その独り言を警察官は聞き逃さなかった。
「もしや酸素吸入器をAという男から、これから入手予定ですか? Aなら昨日、我々が逮捕しましたが」
「何ですって」
「1台の酸素吸入器の写真を複製して、それを最近普及してきた謄写版とかいうものを使って、あなただけにと秘密感を演出して架空販売していました」
「それじゃあ、酸素吸入器は」
「そいつらが持っていた1台だけです。我々が押収しました」
そして警察官は感想を述べるように「恐るべきは詐欺師ですね。私は詐欺師ほど最新技術をいち早く導入し、技術を理解し、そして思いもよらない方法で活用できる人種を他に知りません」
「そんなはずはない! 俺が最先端だ! その酸素吸入器は俺が金を払った俺の物だ!」
「では、警察まで取りに来ていただけますか?」
警察官はまるで逆転チェックメイトの道筋を見つけたような笑みでデスクに手を差し出した。
差し出された手を見ながら、それでもその手は取らずにデスクはよろめきながら壁伝いに手をついて、自分の席に戻ろうとした。
そこに、先ほどデスクから指示を受けた社員が、新しいお茶を持ってきた。
「お茶をお持ちしました」
盆の上にはお茶と一緒に、お菓子のマジパンがのせられていた。
砂糖と、たっぷりの苦いアーモンドの粉末が練り込まれた菓子だ。
苦いアーモンドの香りがデスクの鼻腔を刺激し、やがてその香りが脳全体に広がった。
「アーモンドの香り」とデスクはつぶやき始めた。顔が次第に硬直しはじめ、「アーモンドの香り、アーモンド、アミグダリン、プルナシン……シアン化水素」とつぶやきが続いた。
「ムッシュ、大丈夫ですか?」と警察官がデスクの顔を覗き込んだ。
「シアン化水素だ。毒ガスだ。彗星の尾の影響が出始めているんだ! みんな死ぬぞ!」と叫び始めた。
警察官はデスクの両肩を強く押さえ「ムッシュ、落ち着いて。私を見てください。周りを見てください。誰か苦しんでいますか?」
周囲の目がデスクに集まっていた。デスクもその視線に気がついた。誰も苦しんでいる様子はない。
新しいお茶を用意してきた社員の盆の上に、マジパンが乗っているのをデスクは見た。
警察官が心配そうにデスクの顔を見た。
「先ほども気になったのですが、あなた、まさか彗星の尾による人類絶滅をあなた自身が信じ始めていませんか?」
「何を言ってる。みんなそう言っているじゃないか」
「あー、ムッシュ? みんなとは?」
デスクの視線はすでに合わなくなっていた。
「ちょっと、上着を取ってきます。こちらで少々お待ちください」と言ってデスクはよろめきながら部屋を出て行った。
その日、デスクはいつの間にか外に出て、新聞社に戻らなくなった。
「新聞! 新聞! 明日の未明。ついに地球はハレー彗星の尾に入るぞ! どうかこの日を生き抜く人々は語り継いでくれ! もうこれが最後かもしれない。みんなどうかこの新聞を買ってくれ!」
新聞売りの声がジルの病室に届いていた。
暴徒はついに病院まで襲い始めていた。
「酸素吸入器はどこだ!」と誰かが叫んでいた。
暴徒による病院襲撃の情報を聞いて、ジャックは全力で病院まで走り続けた。
しかしすでに遅かった。ジルの酸素吸入器が奪われていた。
ジルはベッド脇の床に座り込み、苦しそうに息をしていた。
誰かがジルの横で倒れていた。デスクだった。体中が傷だらけで出血もしている。
デスクはジャックに気づくと「すまない。すまない」と謝り始めた。
「偽物だった。贖宥状も、酸素吸入器も、全部偽物だった。気がついたら群衆に混じって酸素吸入器を探し回っていた。この病院に群衆が来たとき、ジルの顔が浮かんで我に返った。俺は彼らを止めようとした。だけど止まらなかった。病院中の酸素吸入器が奪われた。ジルを守ってやれなかった」
医師や看護師が来てくれた。怪我をしたデスクの様子も見てくれた。治療室に運ぶために担架に乗せられたとき、デスクはジャックの腕をつかんだ。
「飛行船だ。万博展示の飛行船には高度飛行の高山病対策として酸素吸入器が装備されているはずだ」
「しかしあそこはすでに軍隊が配備されているはずだ」
「だからこそだ。暴徒は入れない。世界中の飛行船が集まっている。俺の引き出しに取材腕章がある。大声で助けを呼ぶんだ」
担架が病室を出るとき、デスクは「君が正しかった。君が、新しいデスクだ。君の新聞を作ってくれ」と言い残し、部屋から運ばれていった。
もう陽が沈みかけている。深夜にはハレー彗星の尾に地球が突入する。
ジャックはジルを背負い、車に乗せた。
新聞社に立ち寄り、取材腕章を手に入れた。まだ写真による身分照合は採用されていない。腕章さえ付ければその人が報道関係者だった。車に戻り万博会場に向かった。
飛行船係留所に到着したとき、すでに空は暗くなっていた。もうすぐ東の空に彗星の尾が見えはじめる。そうなれば地球は彗星の尾の中に入る。
濃度が薄いなど、どんな科学データを示されても意味はない。この五感を圧倒する現実こそが恐怖の対象なのだから。
ジャックは、もし後世の人々で今の我々を嗤う者が現れるとしたら、それは大彗星をせいぜい手のひらサイズの写真や絵でしか見たことのない人間だ。そんな奴らに嗤わせてたまるかと思った。
中に入ろうとして門で止められた。重病人を連れて記者腕章で入ろうとするのは、明らかに怪しい。
ジャックは門で守衛に正直に話し、「たのむ、入れてくれ、どうしても飛行船の助けが必要なんだ」と懇願する。
しかし守衛も職務上、入れるわけにはいかない。
「ねえ、兄さん。私はもういいから」とジルは苦しそうに言う。呼吸自体が苦しいのがジャックにもよく分かる。
「しゃべらなくていい。俺が絶対に何とかする。絶対に助けるから」
ジャックはジルに言いきかせた。
そこに後ろから「Sie, mein Herr(そこの君)」とドイツ語で呼びかける声が聞こえてきた。
ジャックが振り返ると、2人組の男が荷物を抱えて立っていた。恐らく、外で何か買い物をして戻ってきたところだろう。制服の襟に金の錨、肩章に星。立ち居振る舞いや服装から、飛行船の上級乗組員と思われた。
ジャックはドイツ語でこれまでのことをかいつまんで話し、助けを求めた。
男の一人は「失礼」と言って、ジルの脈を取る。
「船長、医務室へ」
「船医の判断なら従おう」
船長と呼びかけられた男はジャックに「ついてきなさい」と言って歩き始めた。ジャックはジルを背負ったままドイツが誇る世界最大級の硬式飛行船に入った。ジャックは飛行船の威容に圧倒された。
船長は乗組員に指示を出し、ジルを医務室に運ばせた。ジルに酸素吸入器が装着されて酸素が送られ始めた。その間、船医はジルの病名、血液型、既往歴などをジャックから詳しく聞き出していた。同時に、ここでは酸素吸入はできても治療は大してできないぞと念を押した。
気がつくと、間もなく日付が変わる時刻になっていた。遠くで教会の鐘が鳴るのが聞こえた。ハレー彗星の尾に地球が突入する時刻だ。
1910年5月19日、グリニッジ、零時。
まず初めに中央アジア。夜明け頃のカシュガルやサマルカンドから尾に接触する。駱駝の商隊が目を覚まし、空を見上げる。鮮やかな蒼いタイルの建物がガスで覆われる。そこから東西に、シルクロードを旅するようにガスが世界に広がっていく。わずか7分でヨーロッパの隅々までガスが到達し、地球全体がガスに覆われるのに15分もかからない。その後約12時間、ガスのエリア内を地球は軌道に沿って運動する。プラズマの影響で、無線電信にはノイズが乗り、世界各地の地磁気計に擾乱が記録されていた。ガスのエリアを抜けるのは、ジャックたちのいる地域で昼頃となる。ここで朝を迎えるときには地球は尾の真っただ中にいる。そこで目を覚ますのか、それとも……。いずれにせよハレー彗星後の世界が判明するのだ。
飛行船内は船長の「寝るのは仕事だ」の号令一つで当直以外は全員就寝した。
就寝前、ジャックは船医から「君も酸素吸入器が欲しいかね」と尋ねられた。飛行船の船室には気密性などなく、ガスが恐ろしいなら精神安定剤代わりに装着しても良いと言ってくれた。乗組員たちはどうするのかと聞いたら、使わないと言われた。
シアノゲンが恐ろしくないのかと聞いたら、「彗星で人が死ぬならとっくに人類は滅んでいる。今日は普通の日だ」と船長が答えた。
その論理の単純さに、ジャックは思わず笑ってしまった。こんな笑い方ができたのはいつ以来だろうと思った。しかしジャックは習性でさらにその決断に迷いはないのかと聞いた。
すると船長は「自分たちは飛行士だ。日々の決断の責任は自分と仲間の命で負っている。そういう意味でも、今日は普通の日だ」と答えた。
ジャックはこのシンプルな理屈だけで、ここまで心の底から安心できるとは思ってもいなかった。ジャックは酸素吸入器の使用を辞退して、ジルの様子を見守ることにした。だが疲れでいつの間にか寝てしまっていた。
朝になっていた。窓の外が少し明るくなっている。ジャックは医務室を出て他の窓も見てみる。
「起きたかね」と船長が後ろから声をかけてきた。
ジャックは昨夜の件について深く感謝の言葉を述べた。
船長が「外に出てみるかね」と言い、船室の扉を開けた。外気が船内に入ってくる。
船長とジャックは共に外に出た。
朝焼けの空が東に広がり、もう少しで朝日が昇る。
鳥が空を舞っている。遠くで家畜の鳴く声が聞こえた。
太陽が昇る直前の薄あかりの空。オレンジ色の帯が地平線の上に広がる。
昨日まで見えていた尾は、空が明るくて見えない。
眩しい光とともに、太陽が姿を現しはじめた。小さな光の点が面積を持ち始め、2分と少しの時間で円となる。雲は太陽の側が明るく白く輝き、反対側が薄暗い。
天文学者たちが書いた図によれば、今は太陽と彗星が全く同じ位置にいるらしい。
考えてみればそうだ。太陽の圧力を受けてのびる尾の中に今、我々がいるのだから。
もうこれ以降、恐怖の対象だった彗星は普通の彗星になった。76年後、さらにその次の人々にとってのハレー彗星がどんな存在になるかはその時になってみないとわからない。
世界は、何事もない朝を迎えた。
「これからどうするかね」と船長が聞いてきた。
ジャックは、十分な支払いをするのでジルのことをもう少し飛行船で面倒見てほしいと頼み込んだ。
船長は「それはかまわないが」と言ってくれ、「君自身はどうするかね」と聞いてきた。
「新聞社に戻ります」とジャックは答えた。「戻って、記事を書きます。今回のハレー彗星騒ぎの全てについて、事実を全て書き残したい」
「事実とは?」
「私の上司、デスクは正しかった。今回のハレー彗星騒動は、一人の有名な天文学者フラマリオンが、一つの思考実験を発表したにすぎなかった。フラマリオンははじめから危険性は低いと発表していた。しかしそれを有名新聞や雑誌、有名人が捻じ曲げて大きく報じた。みんなが報じるからみんなが信じた。天文学者たち、フラマリオン本人すら何度否定しても止まらなかった。膨大な情報の渦の中からハルシネーション(幻覚)が生まれたんだ」
「なるほど」船長はうなずいた。
「だけど今回のパニックで、人々はハレー彗星を漠然と恐れていたわけではなかった。分光分析を理解していた。シアノゲンを理解していた。シアノゲンが大気と交わるのは、ハレー彗星が来た時ではなく、去っていく時だという天体の軌道運動を理解してパニックを起こした。そりゃあ、人間は千差万別だ。中には馬鹿なことをした人もいた。暴徒もいた。死者も出た。しかし総体としての人々は無知蒙昧で間抜けなわけではなかった。迷信に囚われてもいなかった。この国ではかなり以前から識字率も就学率も非常に高かった。民族紛争の火種がくすぶる最中に、国々の恩讐を超えてオリエント急行を開通させた、高い目的意識を持つ人々だ。フランスは飛行機発明後わずか6年で、昨年ドーバー海峡を越えた。英国のグリニッジ天文台は、未来の世界すら従う基準点となった。ドイツのハーバー教授が空気中の窒素から肥料を生み出す時代を拓いた。後世の人々に、今の我々を未開で未成熟な集団だったなどと思わせてはいけない。放っておいたら、後世の人々は我々を自転車のチューブに空気を溜めて集めるような架空の話まで創作して、間抜けな集団だったと扱う記事を書くようになるだろう。私たちは、そうやって新たなハルシネーションを作りかけているんだ。そうなれば被害者は後世に続く全ての人類だ。私の生涯をかけた使命は、それを止めることだ」
ジャックはまるで、昨日までのデスクのように演説をしていた。
新しいデスクが誕生していた。
「具体的に何をするつもりなのかね? 理念だけでは飛行船は飛ばない」
「私は未来の子孫に、我々の時代をハルシネーションで嗤わせたくない。だから情報が記録として未来に残るなら、私はその情報に可能な限りメッセージを紛れ込ませてみようと思う」
「メッセージとは?」
新しいデスクは少し考えて、やがてメモ帳を取り出してこう書いた。
『やあ未来の子孫たち。未来の君たちは、今の我々よりマシな人間になれているか?』
<終>




