化け物、もげたし、警察来た。
「ふざけんなよ、なんでこんなことに……!」
肺が、焼ける。喉の奥がひりつく。吸い込む空気は湿っていて、腐った落ち葉と土の匂いが鼻に刺さった。
夜の森は黒い。街灯なんて当然ない。月明かりすら、枝葉に噛み砕かれて、地面には斑点みたいに落ちるだけ。
――なのに。
背後には「それ」がいる。
枝を折る音。ぬめった何かが擦れる音。足音じゃない。歩くというより、這うというより、もっと“別の方法”で近づいてくる気配。
振り返りたいのに、振り返ったら最後だと本能が叫んでいた。
俺は大学のサークル仲間と、ノリだけで肝試しに来た。地図にもろくに載らない廃村。
「雰囲気あるじゃん」「動画撮ろうぜ」――そんな軽口の先に、こんな現実が待ってるなんて思わない。
遭遇して、数秒だった。
「ぎゃああああああ!!」
一番のビビり、タカシが叫んで、真っ先に山を下った。
あまりに速すぎて、俺は一瞬“助かった”と思ったくらいだ。誰かが囮になれば、残りは――。
その考えが最低だって気づいた瞬間、俺たちは散り散りになった。
暗闇に溶けるように、バラバラに。戻る場所も決めずに。
そして今、俺は一人で――追われている。
「くっ……!」
枝が頬を叩いた。石に足を取られて、体勢が崩れる。転ぶ、と思った。
その瞬間、背後の気配が、ぐっと距離を詰めた。
もうだめだ。追いつかれる。
俺は覚悟して目を瞑った。視界を閉じれば、怖さも少しは薄れる気がした。
でも、薄れるどころか――耳だけが、世界の全部を拾い始める。
ぐちゅ。
ぴちゃ。
骨が、擦れるみたいな。
「――ッ」
歯が鳴りそうになるのを噛み殺した、そのときだった。
「おらぁ! どんくせえんだよバケモンが!」
聞き慣れた、野太い声。
直後、草むらが爆ぜるように揺れて――
金髪が飛び出した。
「……ダイキ!?」
普段からイキり散らして、飲み会のコールも一番うるさい。陽キャの王。
そのダイキが、胸を張って立っていた。肩で息をしてるくせに、顔だけは勝ち誇ってる。
そして。
その手には、何かの“首”があった。
俺たちを襲ってきた異形――あの、目が多すぎる、顔の輪郭が定まらない、アレ。
それの首を、まるで戦利品みたいに掲げている。
「ダイキ……お前、それ……」
声が震えて、情けなく裏返った。
ダイキはニヤッと笑って、首をぶらんと揺らす。首から先があるはずの部分は、闇に溶けてよく見えない。見えないのに、見たくない。
「おう。なんか落ちてた鉄パイプでフルスイングしたら、もげたわ」
「も……げた……?」
現実感が追いつかない。
ダイキの手が少し震えてるのを、俺は見逃さなかった。強がってるだけだ。たぶん、こいつも怖い。
「それより見ろよ!」
ダイキが、森の斜面の下を指さした。
最初、何が見えてるのかわからなかった。
暗闇の底で、光の点がいくつも動いている。蛍みたいに、でも規則正しく。列になって、這い上がってくる。
赤い光。
回転灯――赤色灯だ。
次に、音が来た。腹の底に響く、低い唸り。エンジン音。
そして、けたたましいサイレン。
「……嘘だろ」
無線の声が、夜気を切り裂いた。
『こちら県警本部! 対象を完全に捕捉した! 逃げ遅れた民間人を保護せよ!』
県警“本部”?
現場に本部が出てくるのか? そんなツッコミが頭をよぎる。でも、それどころじゃない。
光が増えていく。車両が止まる音。ドアが開く音。
黒い影が、機械みたいな動きで降り立ち、森へ散っていく。
――機動隊。
盾。ヘルメット。防護服。長い警棒。
特殊車両から次々と隊員が出てきて、あっという間に“森の中の戦場”を作り上げていく。
「え、え、え……」
俺の喉から、情けない音しか出ない。
「タカシだよ」ダイキが言った。「あいつ、マジで町まで走ったんだと。根性だけはあるんだな」
そうだ。序盤で逃げ出した、あのタカシ。
置いていったことを責める暇もない。今は、ありがとうと言いたい。泣きそうだ。
サーチライトが点く。
白い光が森を薙ぎ払って、夜が一気に“昼”になる。木々の影が伸び、短くなり、また伸びる。
俺は眩しさに目を細めた。
その光の中で、別の仲間たちが見つかった。
泣きながら座り込んでるやつ。泥だらけで呆然としてるやつ。肩を抱え合って震えてるやつ。
「民間人発見! 確保!」
「負傷者確認、搬送準備!」
「第三小隊、左翼展開、死角潰せ!」
声が飛ぶ。動きが速い。速すぎる。
混乱の中でありがたいはずなのに、どこか不気味なほど整いすぎている。
「第3小隊、包囲網完了しました!」
「よし、対象を逃すな! 一歩も外へ出すな!」
包囲網。
その言葉が、胸の奥にストンと落ちた。
ああ――終わったんだ。助かったんだ。
俺は安心のあまり、足から力が抜けて、その場にへたり込んだ。土が湿って冷たい。膝が泥で汚れるのも構わなかった。
「……よかった……ほんとに……」
涙が出そうになる。いや、もう出てたかもしれない。
そのとき、影が俺の前に立った。
「いやぁ、皆様ご無事で本当によかった」
穏やかな声。年配の男。
ライトに照らされたその顔は、いかにも現場指揮官って感じの貫禄があった。肩章。無線機。落ち着いた眼差し。
「ありがとうございます……本当に、助かりました……」
俺が言うと、男――警部は、にこりと微笑んだ。
「ええ。これでやっと……」
その“笑顔”が、途中で止まった。
メキ。
メキメキ。
音がした。
歯ぎしりじゃない。顎の関節が鳴る音でもない。もっと、硬いものが割れていくみたいな。
警部の口角が、ゆっくり、ゆっくり持ち上がる。
上がるというより――裂ける。
耳の付け根まで。皮膚が耐えきれずに、線が伸びる。
裂けた口の奥が、サーチライトに照らされて――赤い。
「――対象、確保」
その瞬間、サイレンの音が止んだ。
森は、最初から何もなかったみたいに静かだった。




