1 脱根
もう、やめようかな。
カバが大きな口を開くのを見届けてから、呟いた。
「それじゃあ、どうしましょうか」
おじさんは右手に抱える黄色のバケツを左手に持ち替える。枯れた色をした細長い草がカサカサと鳴った。
「多少の制限はあるのでしょうが、アナタさんはどこへ行ってもいい」
目尻に、柔らかい皺が流れる横顔を仰ぐ。
「ここにいる動物たちとは違います」
おじさんは続ける。
「たしかに、選ぶことができる。厄介なのはそれからです。でもその時も、また選ぶことができるでしょう」
あと一週間で閉園する動物園には、まだ冬を惜しむような風が吹いている。残された目玉は、入り口手前のカバだった。
そうして私は、この寂れた気持ちを、ぼろりと剥がれたピンクの壁のせいにしている。
「田村さん」
胸元のグレーの名札をあてにしながら言う。
「この子はどうなってしまうのですか」
はぁ、と吐き出された田村さんのため息が、白いモヤとなって空に登っていく。
「この子は、生まれた場所に戻ります。アフリカの都市の外れまで、いかんせん、長い旅です」
「アフリカ」
「そう。ずっと遠くから来てくれたんですね。僕がまだ30代の頃だったかな。やっと故郷に戻れるとなって、この子は嬉しいかもしれないし、むしろ辛いかもしれない」
マチコ。食欲旺盛。朝の水浴び姿が見もの。
ガラスの横に貼り出された雨風に晒されて薄く滲んだ紹介文は、かろうじて読むことができるくらいだった。
「マチコ」
「まったく、身勝手でしょう」
人のいない改札口を抜ける。
振り返ると、田村さんはこちらに背を向けて、マチコを取り囲むピンクの壁を手で擦っていた。
この動物園がなくなってしまったら。
田村さんはどこへ行くのだろう。マチコはまた勝手な仕方で、新しい名前をもらうのかもしれない。
私は。
私は人に溢れたこの街を、あてもなく歩いている。
物に溢れ、命に溢れ、建物や木々に溢れたこの星を、ただ歩いているだけだ。
ある人はそれを美しいと愛した。
ある人はそれを悲しいと嘆いた。
ビルの隙間に覗いていた青空が、段々とネオンに堕ちていく。
いずれにも馴染めない宙吊りの心が、浮き彫りになっては、また闇に隠されていく。
それで、とトシロウ。
「この土曜は何したんですか?」
「え?」
トシロウが怪訝な顔をする。
「マチコさん、僕の話聞いてました?」
ごめん、と言いながら、透明の袋が入った箱をレジ下から取り出す。
「土曜はね、コダマ動物園に行ってた」
「あ、あの閉園するっていう?」
「そう。ね、そこのトレー取って」
落ちたレーズンがへばりついている。
汚れたらその都度、洗ってもらうように伝えていたのだけれど、トシロウの気の回らなさは今に始まったことではなかった。
「どうでした?あそこ。前に彼女と行ったことありますけど、アクセス悪いし、動物のパフォーマンス性も低くて、経営が厳しいのも納得ですよね」
「たしかに、ちょっと遠かった。乗り換えも必要だしね」
まったく気にもしなかったことを、あたかも気にしたように言ってみる。
私がテープを取り出したところで、トシロウはようやく手を動かし始めた。
夕方になっても売れ残っているパンは、衛生のために、ビニール袋に入れていく。
平日はスーパー帰りの主婦がちらほら訪れるくらいなので、店長は少なめに焼き上げているみたいだが、それでも今日はかなりの数が残っていた。
商店街とは言え、人足の少ない通りの一角にあっては、よほどの定評がなければ客は寄り付かないのだ。
「一人で行ったんですか?」
トシロウがメロンパンに手を付けたので、私はエピパンを担当することにした。
「うん」
「旦那さんは?」
すかさず質問を飛ばしてくるそのスピード感に、私はいつも盛りの若さを感じ取る。トシロウは近くの国立大学に通っていて、経済学を専攻しているという学生だった。
「熊本に出張中。とは言っても、私はよく一人で出かけるんだけどね」
「新婚でしたよね?」
「まだその部類かなー、もうすぐ2年になるような」
「へー」
「あ、クリームパンはもうちょっと待って。まだ温かいから、冷めてからにしよう」
あまり早く袋に詰めてしまうと、水分がついてべちょべちょになってしまう。
「あ、そうでした。すいません」
私は代わりにおかずパンを渡した。
午後7時くらいになれば、サラリーマンがちらほら来客する。そうなると、塩気のあるパンか、執拗なくらいに甘いパンがよく売れる。
「僕は会社に入ってから2年くらいで、彼女と結婚しようと思ってますよ」
「そうなの?」
「そう。決まったのが東京の会社なんですけど、彼女もそこに呼んで」
「え、知らなかったよ。おめでとう」
憧れの一つもない祝福の言葉をかける。
トシロウは満足げに笑って身を揺らした。きっと彼は、友人たちにも同じように語ってみせたのだろう。
二十代後半になってもアルバイトで暮らしを立てている私を、心のどこかで見下し、笑っているのだ。あるいは、旦那の傘下でぬくぬくと生きるか弱い女として、自分とは一線を引いている。
この国の神話。
そう言いかけて、やめた。
「レジ締めの用意しちゃうから、サンドイッチに割引シール、貼っておいてくれる?」
このパン屋の仕事も、きっと彼にとっては腰掛け程度のことなのだ。
「三割引きでいいですか?」
「平日は、四割引き」
どこかへ行くことが決まっている人間にとって、今いる場所は、踏み台でしかないらしい。
どこか別の場所へ。
飛んで、飛んで、飛んで。
そうやって追い求めていくことの愚かさが、私の手を引っ張っていく。
この国の、この世界の神話。
私はそれが、心底嫌いだった。




