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露わになった咲良の顔は、涙と鼻水で、くしゃくしゃになっていた。
人によっては、汚いと感じるだろう。
僕も、通常ならばそう感じる。
なのに咲良相手だとそれを可愛いと、愛しいと感じるのは、恋愛フィルターを通して見ているからなのだろうか。
……うん、それでも。
やっぱり、可愛い。
あぁ、もう。
なんだこの可愛い生き物は。
咲良は涙を流したせいで赤くなった目よりも、更に赤く染めた顔で、暫し動揺を隠しきれないまま、口を噤む。
手を振りほどかれないあたり、僕に触れられること自体は、嫌ではないようだ。
……本当に?
本当か??
僕は、何か見落としてはいないか!!?
この沈黙が、痛い……!!
お願い、何か喋って。
これがさ、僕に近付いたのは、かつての恋心を傷つけた復讐で「お前のことなんざこれっぽっちも想ってないんだよ!」とか叫んで、次の瞬間フハハハ笑い出す流れになったらどうしようかと、つい、考えてしまう。
だって、あれだけ冷ややかな視線を向けて来たんだよ!
さぞかし恨んでいたのだろうと思うじゃん!?
そう言う可能性だって、黙りこくられると、考えちゃうんだよ!!!
まぁ、僕が忘れていたことに対してショックを受けていたことや、折々に見せる態度や口調で、嫌われているわけではないのは、察することができている。
どうでもいい相手なら、そもそも話し掛けても来ないだろう。
嫌っている相手なら、尚更だ。
関わりたいとすら、思わないだろう。
……でもさ、ほら、万が一、億が一ってことも、なくはないだろうし?
だがその微塵以下の可能性はもう、考えなくて良さそうだ。
もじもじと、言いにくそうにしていた咲良は、何度か口を開けたり閉じたり、繰り返していた。
だが突然、僕の腕を持ち上げ立つように促した後、ぽつりと、聞き逃しそうなほど、小さな声でつぶやいた。
「……………キスを」
彼女もあの時の様に、僕を好いてくれている。
その事実が、何よりも嬉しかった。
僕以上に傷ついただろうに。
僕以上に寂しい思いをしただろうに。
色々聞きたいことも、問いただしたいこともあるだろう。
僕ですらあるのだ。
ずっと僕を忘れずにいてくれた彼女は、その比ではない位に、沢山僕に言いたいことが、あるはずなのだ。
なのに、咲良はそれはせず、全てを飲み込み、ただ口づけを要求してきた。
仲直りのため?
誓いを立てるため??
そんな理由は、どうだっていい。
いや、蔑ろにするわけではない。
だが今は、僕への好意を伝えようとしてくれている。
その事実が分かれば、十分だ。
僕に主導権を渡し、そっと目を閉じて顔を上に向け、行為を待ってくれている。
咲良のその、いわゆるキス顔は、そりゃあもう理性を飛ばしそうになるくらいに、魅力的なものだった。
しかし。
しかし、だ。
ここで一つ、問題がある。
僕は恋人がいたことがない。
当然、生まれてこのかた、キスというものをしたことがない。
相手を妄想して抱き枕を相手に練習、とか。
壁に好きな子の写真を貼って練習、とか。
そう言ったことすら、一切ない。
まぢで、ない。
姫と王子のハッピーエンドは、口付けが定番だろうに。
その努力を、したことが一度たりともない。
なんということだ……!
妹たちが生まれた時、彼女たちのあまりの可愛さに、親類縁者が頬や頭にキスをしているのを、見たことはある。
だが僕は、拒否権も何も意思表示すらままならない赤ん坊にするのは、良くないと思い、したことがない。
それこそ、食べちゃいたいくらいに可愛いと、その衝動に駆られたことはある。
だが、耐えた。
耐えてしまった。
ドラマでキスをしている所も、見たことならある。
だからといって、そんなシーンを思い浮かべた所で、何の参考にもなりゃしない。
そんな所に着目して、観てないもの。
ぼんやりとしか、思い出せない。
……酔っ払った母や姉に、奪われたことはあるけれど。
それこそ、向こうから一方的に押し付けて来ただけだ。
セクハラされただけ。
あれはキスではない。
酒やゲロにまみれた、ただの口内暴力だ。
なんの参考にもならない。
え、初めてって皆、どうしてるの?
鼻、ぶつからない?
息って止めた方がいいの?
歯、磨いてないけど大丈夫?
あ、昼食後、歯磨きガムは食べたし、平気か?
でも、もう夕方だ。
ヒゲとか、例え薄らだとしても、生えていないかな?
そもそも肩とか、掴んで良いの?
もしくは腰とか引き寄せるべき?
あ、顎クイとか、女子の憧れなんだっけ?
女子の憧れと言えば、壁ドンが有名だけど……さすがに、ここではできないな。
壁と壁の、ちょうど真ん中の位置ですよ、ここ。
するとしたら、床ドンなら可能か。
いや、押し倒してどうする。
どうすればいいのか、皆目見当もつかないまま、咲良の肩に、手を置いた。
少し跳ねた身体が、彼女も緊張しているのだと、伝えて来る。
……自分の心臓の音が響きすぎて、耳が痛い。
受験の合否判定を見に行った時よりも、警察署や裁判所に行った時よりも、何よりも緊張するし、頭が真っ白になる。
目標をとらえ、自分の顔をゆっくりと彼女に近づける。
ミスを犯してはいけない。
着地点を見定め、互いの熱や、呼吸を感じられる距離まで、詰める。
触れるか。
触れないか。
あと、一歩。
バヂィンッっ!!!
……あと、本当、数ミリというところで、聞いたことのない、金属が裂ける音が響いた。
そのせいで、驚いた彼女は目を開き、僕は脱力し、結局、初キスは失敗に終わった。
……ズボンのジップが壊れるって、どんだけ僕の息子は、暴れん棒なんだろう。




