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僕の言葉に彼女は勢い良くこちらを振り返り、大きな目を更に大きく見開いた。
やっとこちらを正面から向いてくれたかと思ったら、目が合った瞬間、先程よりも素早く、バッと猛スピードで俯いてしまった。
そんな、首の骨の心配をしたくなる速さで目を逸らさなくても、いいんじゃないかな。
流石にヘコみそう。
……でも、この態度は……あれ?
外しちゃったの、かな??
あの子が僕と交わした約束の中で、最大限に重要かつ、忘れられたら悲しいと感じるであろうことが、この教会で交わした「大きくなったら、またここで二世の契りを」と言う内容だと思ったから、言ったんだけど……
‘’二世の契り‘’っていうのは、現世と来世の二世にわたる約束があるということから、夫婦になりましょう、という約束を意味する。
当時、あの子から教えて貰った。
夫婦になろうと約束を交わした、ということはつまり、結婚の約束を交わしたということで、婚約者も同然だと思ったのだけれど……
……ハッ!
もし、この約束を彼女が覚えていなかったら、僕ってば不審者と言われても仕方ないようなことを、堂々と言ったことにならないか!?
フル勃起させて「お前なんて知らねぇよ」と言っていたヤツが、数時間後、いつの間にか自分の家に上がり込んだ上、半勃ちにさせて「君は僕の婚約者です、デュフフ」と言って来た状況になるんだよな。
え?
もしかして、キモイとか言われちゃう??
「勘違いすんな! この童貞野郎!!」とか言われちゃう???
むしろ即行、警察呼ばれちゃう?????
……うん、想像しただけで死ねる。
せめて骨だけは、拾って下さい。
「……て……、……か」
「ん?」
顔をこちらに向けないまま、ボソボソと喋るので、聞き取れなかった。
ごめんなさい。
違います。
己のこの後の運命に嘆いていて、全く聞いていませんでした。
「……覚えて、くれて、いたん、です……か?」
何度も聞き返すのが怖くて、首を傾げながら、ひたすら彼女の言葉を待つ。
そして俯いたまま、ようやく十数秒後に彼女から再び発せられた言葉は……震えていた。
よく見ると、磨かれた年代を感じる床の一部が、上から落ちてくる雫によって、所々濃くなっているのが分かる。
え!?
まさか、泣かせた!!?
ネガティブな想像をした時よりも、あからさまに気が動転してしまう。
慌てて立ち上がったその反動で、コーヒーをこぼしてしまいズボンにかかるが、すでにぬるくなっているし、そんなことは気にしない。
駆け寄ろうとするが、動揺しているはずの脳ミソが、警鐘を鳴らす。
『約束が果たされないまま私に触れれば、先輩は一生、EDのままです』
ワーニンワーニンとグルグル回る赤いランプと共に脳内に通り過ぎる、呪いの言葉。
……抱き寄せ、慰めることも叶わないのだろうか?
目の前で泣いているのに。
僕が、泣かせてしまったと言うのに。
いやいや、呪いなんてあるわけがないし?
泣いている女性をそのままにする方が、バチが当たるだろう!!
だがしかし、万が一ということも、有り得るかもしれないし……
あぁ!
混乱していては、思考が余計に空回りする。
そもそも、昔は辛そうな時や、泣いている時に、抱き寄せ慰めることを日常の様にやっていたが、互いに成長した今、それをしていいものなのだろうか。
彼女が今も、僕を好きでいるのかどうかも、分からないのに。
嫌悪感を、抱かれないだろうか。
汚物を見るかのような目でなんて、見られたくないぞ、僕は。
……あ。
今更だが一つ、気付いたことがある。
いや、ようやく自覚した、と言った方が正しいか。
ハンカチをこういう時に限って持ち歩いていない……!!
紳士として、あるまじき行為だ。
失態続きだな。
カットソーの袖をのばして人差し指にひっかけ、頬を流れているであろう、涙をぬぐう。
ちゃんと洗っているし、汚くないよ。
安心してね。
俯いているから咲良の顔は、僕には見えない。
目元に持って行って、指をブッ刺してしまってはいけないし、頬を流れ続ける雫を、拭き取るだけにとどめておこう。
流れ出てくる元を抑えることができないため、床に作られていく染みは、まだ、増えていく。
「正直に言うと、思い出したのは本当、ついさっきなんだ。
あぁ、ここで昔、君と結婚を誓ったな……って。
……ずっと、忘れていて、ごめんね」
存外、素直に謝れた。
手紙が来なかったこととか、当時の僕も辛かったこととか。
突然の呪い宣言で混乱したり、ツンケンした態度を取られて悲しかったこととか。
色々、主張したいことはある。
責めたいと考えていたことも、あった。
プライドが邪魔をして、謝ることすらできないかもしれないと、懸念していた。
でもそんなことは、咲良の涙の前では、どうでも良かった。
どうでも良いものに、変わってしまった。
本当、女の涙とは恐ろしい。
男の意地やプライドなんて、簡単に無価値な物へと変貌させる。
泣きやませるつもりが、先ほどよりも勢いよく流れ出てくる涙のせいで、僕の服の袖は、みるみる重くなる。
その上彼女の足元には点ではなく、かなり大きくいびつな形のシミが広がっていった。
な、何が泣きの琴線に触れてしまったのだろうか。
「な……なん、で。
へんじ……くれなかった、ですか」
僕から一歩離れ、自分の服で目元をぬぐいながら、しゃくりあげてしまい上手に口に出せない言葉を、それでも必死に紡ぐ咲良。
一歩でも距離を置かれたことのショックは大きいが、聞き逃せない言葉を聞いたぞ。
そちらの方が、余程気になる。
……今、なんて言った?
『何故、返事をくれなかった?』
咲良は、そう言った?? よな???
彼女はちゃんと約束を守って、手紙を送ってくれていたのか?
なのに、何故か僕の手元に、それが届いていない??
そういうことなのか???




