第四十八話 女神の引退宣言
俺の視界に映るのは、空中に浮かぶセーラー服姿の女神と、火刑台の前で呆然としている数万の民衆だ。
俺を押さえつけている聖騎の腕から、いつの間にか力が抜けている。聖騎士たちも、目の前の光景に完全に思考が停止しているようだった。
女神ー
この世界を創造したといわれる神々の一柱。この世界最大規模の宗教、エル・ルミナ教の信仰対象。
三百年間、誰も実際のの姿を見たことがなかった神。
その本物が——今、目の前にいる。
誰も確証はないはずなのだが、そうとしか思えない圧倒的な神性。空気そのものが震えているような感覚。それと同時に、どこか親しみやすさを感じさせる雰囲気も持っている。
セーラー服とルーズソックスという本来この世界にあり得ない服装は、間違いなくお嬢様の影響だろう。教会の女神像は美しいトレスを身に纏っている。
「な、なんてことだ...本物の女神様だ…...」
俺の隣で、大司教ルーカス・フェリクスが震える声で呟いた。
顔は蒼白で、膝が小刻みに震えている。
罪悪感なのか恐怖なのか。俺にはそのどちらにも見えない。
むしろ安堵しているようにすら見える不思議な表情だったが、その目には涙が浮かんでいた。
女神がゆっくりと貴賓席を見渡す。
跪く民衆。立ち尽くすエリュシュア聖国の高位聖職者たち。
そして——
「あたしの名を使って、好き勝手やってくれたみたいだね」
女神のその声が、広場全体に響き渡った。
静寂に包まれる広場。誰も、何も言えない。
俺は黙って成り行きを見守る。
女神の声には怒りも憎しみもなかった。ただ——どこか悲しそうな響きがあった。
「ちなみにさぁ、ちょっと聞きたいことあるんよ」
軽い口調だが、その軽さが逆に重い。
高位聖職者たちが身構える。
「あたしさ、献金もお供え物も別に求めたことなんてないんだよね」
民衆が息を呑む。俺も固唾を飲んで見守る。
女神が——自分の信仰のあり方について、直接語っている。
この光景は、歴史に刻まれるだろう。
「互いに支え合って困ってる人にみんなが手を差し伸べたりさ…」
「…や、やめろ。お前たち、耳を貸すな!!」
高位聖職者の中心にいる人物がなんとか民衆に向かって声を絞るが、気にするものは誰もいない。
「どんな些細なことでもいい。魚が釣れた、牛が赤ちゃんを産んだ、好きな子と手を繋いだ、とかそんな小さな幸せを噛みしめられるような、そんな充実した人生を皆に送って欲しいだけ」
女神がルーカスと高位聖職者たちを見る。その美しい蒼い瞳は、慈悲深くも厳しい。
「エル・ルミナは…一体誰のための教会なの?」
沈黙。重い、重い沈黙が広場を包み込む。
ルーカスは苦しそうに黙り込む。返す言葉が出ないようだ。
高位聖職者の一人が震える声で言いかける。
「そ、それはル、ルミナさm——」
ルミナが被せるようにお首を横に振り否定する。
「違うよ」
静寂がさらに深まる。俺は思わず息を止めた。
女神が——何を言おうとしているのか。
ルミナがそれ以外に正解はない、と断言するように言い切る。
「みんなのためでしょ?」
教会の人間たちが、何も言えなくなる。
重い沈黙が続く。
高位聖職者たちは青ざめている。
ルーカス大司教は膝をついて顔を覆っている。まるでこれまでの自身を悔いているかのように。
教会の根幹を揺るがす問いかけ。
そして——その答えは、誰もが心の奥底で本来知っているはずだった。
だがその時——
「騙されてはいけません!」
突然大きな声が響いた。
声のした方、広場の端——王都大聖堂の方角から、白金の法衣を纏った老人が現れた。
背筋は曲がり始めているが、威厳は保っている。鋭い灰色の瞳。長く白い髭。杖を持ち歩く。
エリュシュア聖国の現教皇——セレノ・ヴァルデン。
元勇者にして現ルミナス王国ロートニア王に並ぶ、世界一の有名といっても過言ではない人物である。十五年間教皇として君臨してきた、ルミナ教会の最高権威者。
だが——なぜここに?
エリュシュア聖国は西の大陸だ。ここまで来るには最低でも数週間はかかる。
「いつまで経っても執行の報告がないから様子を見に来れば……」
どういうことだ?最初から教会に待機していたのか??
であるならばこんな大物がルミナスを訪れていたのであればもっと騒動になっていてもおかしくはないのだが。
「あれは女神様の名を騙る悪魔です!! 耳を貸してはなりません!!!」
教皇の威厳に満ちた声が響き渡る。
自分達が信仰する宗教のトップが、信仰対象である女神を否定する。
確かに女神の真偽は分からないが、雰囲気からしてとてもじゃないが偽物とは思えない。
民衆の間に、瞬く間に動揺が広がっていく。
これは——計画的だったのか。
レティシアの処刑は、最初からエリュシュア聖国本部が仕組んだもの。
そこに予定外に女神が降臨する。
教会にとって女神が本物であろうと偽物であろうと、そんなことはどうでも良い。大切なのは自分達の富と権力だけなのだろう。
俺の拳が、ぎりぎりと音を立てる。
ふざけるな。
女神が一瞬寂しそうな表情を浮かべるが、すぐに笑顔に戻る。
「……やっぱりね。ちょっと寂しいな」
諦めたような、それでいてどこか晴れやかな声だった。
女神がレティシアを見る。
「レティちゃんごめん。やっぱ無理だったw」
お嬢様が首を横に振る。
「ルミぽよ……」
二人の間に、言葉以上の何かが流れている。
親友同士の、深い絆。
次に女神が陛下の方を向く。
「ロトっち!」
は? 今なんて?? 俺の思考が一瞬止まった。
お嬢様鹿呼ばないと思っていた”ロトっち”を、まさか女神が呼ぶとは。
あれ? 広場の西側、王宮の騎士たちの中から陛下の声が聞こえる。
「ルミナ久しぶり!随分素で話すようになったじゃねえかw」
あの国王……万が一に備えてお忍びでお嬢様を救いに来てやがった。ありがとうございます。
いや、待て。それよりもこれはどういう状況なのか。
「うん!レティちゃんのお陰でね!」
女神が嬉しそうに答える。久しぶりに再会したような雰囲気の二人。
それはまるで友達以上—
「ちょっと迷惑掛けるかもしれないけどいい?」
女神が陛下に尋ね、陛下が豪快に笑い飛ばす。
「気にすんな!惚れた女の我儘くらいいくらでも聞いてやるわ」
俺の脳が言葉の意味を理解することを放棄する。
陛下が——女神に?
女神が「かっけえかよw」と笑っているが、気のせいか頬が若干赤い気がする。
よし考えるのをやめよう。男女の話に首を突っ込むのは野暮だろう。
ざわざわと驚きの声が続く中、女神がお嬢様に振り向く。
「じゃあレティちゃんお願い!」
お嬢様が「あいよー」と答え、広場北側の建物屋上に向かって手を振った。
俺の視線がそちらを追う。
屋上に、見覚えのある二つの影。
グリム・ストーンフォージとセリオス・エルネイア。通称『グリちゃん』と『セリちゃん』、お嬢様が仲を取り持ったドワーフとエルフのおじコンビだ。
二人の周りには、複雑な魔法陣と見たこともない魔導装置が展開されている。
あれは一体?
「嬢ちゃーん! こっちの準備はいつでもいいぞ~!!」
グリムの声にお嬢様が手を振って”了解”の意を伝え―——
「バ○ス!」
「そ、それは滅びの……」
お嬢様の言葉に呼応するように光の筋が空に立ち昇る。
滅びではなく、美しい魔法の光。それが空高く舞い上がり——
突如、女神の姿が空に巨大に浮かび上がった。
ホログラム。
お嬢様がいつか話していた技術だ。まさか既に形になっているとは。
光の屈折と魔法陣を組み合わせて、立体的な映像を作り出す——
まさか、グリムとセリオスが実現させたのだろう。
空に映し出された女神の姿。
王都全体から見える大きさだ。
いや——俺は魔法陣の構造を思い出す。
あの規模なら世界中に配信されているのかもしれない。むしろ、そうでなければ意味がないだろう。
女神が、空に映し出された自分の姿を見上げて微笑む。
そして——世界に向けて語りかけ始めた。
「ヤッピー☆ もしもしみんな聞こえてる? あたし女神のルミナ。今ルミナスの処刑場にいるの」
その声が、魔法によって増幅され、王都全体に響き渡る。
確認は出来ないが、恐らく気付いた全ての人間は今頃女神の姿を見て、声に耳を傾けていることだろう。
「突然だけど、あたしエル・ルミナの女神やめる!! 宗教性の違いですw」
世界が——
止まった。
民衆が呆然とする。
聖職者たちが硬直する。
教皇セレノが、信じられないという表情で空を見上げる。
俺も——思わず息を呑んだ。
女神が——引退宣言だと?
女神が続ける。
「あたしは全然崇められたい訳じゃない。みんなに幸せになって欲しいだけ。お金も権力も別にいらんしw」
民衆が息を呑む。
その言葉は純粋だった。そこには打算も、虚飾も、何もない。
ただ人々の幸せを願う、純粋な想い。
それが、女神の本質なのだ。
「ということで、ルミナス王国でこじんまりと余生を送るわww じゃあね~」
そうして映像が消える。女神の余生…一体どれ程のものなのだろうか。
広場に残された人々——
呆然とする聖職者たち。
激昂する教皇。
と、気まずそうな女神が一人。
「「「「「…………………………」」」」」
空に映し出される女神は消えたが、実在の女神はまだそこにいる
数秒の沈黙の後、広場が爆発。
「女神様ああああああ!」
「ルミナス王国万歳!」
「レティシア様!」
歓声。
怒号。
混乱。
民衆が一斉に動き出しレティシアを囲む。
教皇が杖を地面に叩きつける。
「この——愚か者どもめ! 静まれ!!!」
だが、その声はもう届かない。
民衆の歓声にかき消される。
ルミナが空中からゆっくりと降りてきて、お嬢様の隣に立つ。
「レティちゃん、ありがとw」
「ルミぽよもお疲れちゃんw」
俺は呆然と立ち尽くしている聖騎士の拘束から抜け出し、お嬢様の元へ駆け寄る。
「お嬢様!」
「クラウ!」
飛び込んでくるお嬢様を華麗に躱す。ケジメは大切だ。
良かった、無事だ。本当に無事だった。
俺の胸に、熱いものが込み上げる。
女神が俺たちを見て、にこりと笑う。
「クラウスくん、レティちゃんのこと、これからもよろしくね」
俺は——迷わず頷いた。
「はい。命に代えても」
ルミナが「そこまでしなくていいからw」と笑う。
その時——
「ルミナああああああ!」
教皇の怒号が響いた。
俺は咄嗟にお嬢様の前に出る。
だが——
教皇の前に、ルーカス・フェリクスが立ちはだかった。
「教皇猊下......もう、やめましょう」
ルーカスの声は、静かだった。
だが——その目には、確固たる決意が宿っている。
「私は......間違っていました。女神様の教えに背き、女神様の教えを…歪めていました」
教皇が激昂する。
「貴様......裏切るのか! そんな綺麗ごとを並べたところで、貴様のこれまでの罪が晴れる訳ではないぞ!」
「いいえ」
ルーカスが首を横に振る。
「私は——ようやく、本当の信仰を取り戻しただけです」
「そんな重く考えんなって」
そう呟く女神の表情は、照れ臭くもどこか喜んでいるように見える。
その言葉に——広場にいた中央教会以外の聖職者たちが、次々と女神に向かい跪き始めた。
教皇が絶句する。
「お前たち......お前たちも......!」
だが——もう誰も、教皇の言葉に従わない。
女神が教皇に向き直る。
「あんたさ、あたし別に教会を潰したい訳じゃないんから好きにやんな」
優しい声だった。
「ただ——本当に困ってる人を、助けてあげて欲しいだけ」
教皇が言葉を失い、残った中央教会の高位聖職者たちに支えられ立ち去っていく。
その様子を見て女神が大きなため息をつく。
「なんで人は変わっていくのかな…」
背後では民衆の歓声が、まだ鳴り止まない。
今日この瞬間から、きっと世界が変わる。
エル・ルミナ教会という巨大な権威がその意味を失う。世界に与える影響はとてつもなく大きい。




