第四十七話 とある聖職者の生涯(ルーカス・フェリクス視点)
いつからだろうか、本来の目的を見失ったのは。
私はただ、人々の暮らしを豊かにしたいだけだったはずだ。
私、大司教ルーカス・フェリクスは執務室の重厚な机に向かい、羊皮紙に記された執行命令書を見つめていた。
”レティシア・リオネール嬢、火刑執行。罪状:異端技術の流布、神の領域への侵犯、聖遺物の窃盗”
インクで記された文字が、まるで呪いのように目に焼き付く。
窓の外から聞こえるのは、中央広場に集まる民衆の怒号だ。
「レティシア様を殺すな!」
「教会こそ腐敗している!」
声は、怒りと悲しみに満ちていた。
私は、何のために聖職者になったのだろう。
思い起こせば五十五年前、小さな村の小さな孤児院。
薄汚れた麻の服を着た幼い少年が、修道女の膝に抱かれていた。
「大丈夫よ、ルーカス。女神様はあなたを見守っているわ」
温かい手が、少年の頭を優しく撫でる。
修道女の声は、まるで春の陽だまりのように柔らかかった。
ルーカス少年——幼い頃の私は、その温もりに縋るように泣いた。
両親を流行り病で亡くし、頼る身寄りもなく、飢えて衰弱しかけていたところを、教会に拾われたのだ。
助けられた時は意識が朦朧とし気付かなかったが、もう少し発見されるのが遅ければ確実に死んでいたと、後に教えられた。
一週間後、回復した私は修道女が運んでくる温かいスープ、柔らかいパン、清潔な寝床——全てが奇跡のように思えた。
「ありがとうございます、シスター・マリエッタ」
毎日毎日何度も何度も頭を下げた。
そのたびにマリエッタは優しく微笑む。
「女神様に感謝なさい。全ては女神様の思し召しです。…でもねルーカス、女神様は恥ずかしがり屋だから、感謝されるよりも自分が貰った優しさを他の人に分けてあげる方が喜ぶのよ」
俺は真剣にその話を聞き、小さな拳を力強く握りしめた。
「僕も......僕も、誰かを助けられる人になりたい」
マリエッタが、私の頭を撫でる。
「きっとなれるわ、ルーカス。あなたには優しい心があるもの」
その言葉が、私の人生を決めた。
十五歳で修道士となり、聖典を暗記するまで読み込んだ。
特に第二章「相互の誓約」——一人は万人のために、万人は一人のために——その言葉が、私の胸に深く刻まれた。
二十歳になり、地方の村の小さな教会の司祭となった。
村は貧しかったが、人々は素朴で皆温かかった。
「ルーカス様、今日もパンをありがとうございます」
老婆が、しわだらけの手で頭を下げる。
「いえ、これは女神様の恵みです。感謝するなら女神様に、そしてまたその感謝を他の人々へ」
教会の備蓄を少しずつ分け合い、病人には薬草を煎じて渡す。
子供たちには文字を教え、困っている者には手を差し伸べる。
助けられた者はまた別の誰かを助け、そうして優しさの輪が広がっていく。
感謝の言葉、笑顔——それが、それだけで私は幸せだった。
毎晩、祈りを捧げる。
「女神様、今日も無事に過ごせたことを感謝します。明日も、皆が笑顔でいられますように」
心からの祈りだった。
そんな小さな幸せな日々が続いていたある年の冬。
記録的な飢饉が村を襲った。
秋の収穫が壊滅的で、備蓄も底をつく。必死に近隣の町から食料を集めようとしたが、どこも同じ状況だった。
世界的な飢饉。そうなってくると、誰もが自分のことだけで精一杯で、他者を気に掛ける余裕などない。
おのずと権力と金のあるところに救いが集中する。
私はエリュシュア聖国のルミナ教の総本山、中央教会に何度も助けを求める書状を送ったがただの一度も変身はなかった。
きっと私たちは見捨てられたのだろう。
「ルーカス様......お腹が空きました......」
幼い少女が、青ざめた顔で呟く。
ルーカスは、殆どない自分の食事を分け与える。
だが、それだけでは村を救えない。村人が次々と倒れていく。
子供が、老人が、弱い者ばかりが死んでいく。
「…なんて私は無力なんだ……もっと......もっと力があれば......!」
ルーカスは、教会の祭壇で拳を握りしめた。
血が滲むほど強く。
涙が、石の床に落ちる。
「女神様......どうして......どうして私には力がないのですか......!」
祈りは、届かなかった。
冬が終わる頃、村の人口は半分になっていた。
三十代。
異端審問庁への配属。
ルーカスは、昇進を重ねた。
理由は簡単だった——成果を出し続けたからだ。
異端者を見つけ、裁く。
教会の権威を守り、秩序を維持する。
だが、ルーカスの心には常に疑問があった。
(本当に、この者たちは異端なのか?)
魔法の研究をしていただけの学者。
新しい農法を試していただけの農民。
彼らは、本当に罪人なのか?
だが、ルーカスは従った。
本部の命令に。
上司の指示に。
「これも、教会の秩序のため」
そう自分に言い聞かせた。
そして——四十代。
副司教に昇進。
少しずつだが、着実に私は力を手にしていった。
ある年、再び大規模な飢饉が発生した。
私は飢饉対応の全権を任され食糧配給を指揮する。
各地から物資を集め効率的に分配する。
一部の貴族から目を付けられ嫌がらせもあったが、それでも数千人の民を救うことができた。
「ルーカス副司教様、ありがとうございます!」
「あなたは我々の救世主だ!」
民衆の歓声、感謝の涙。
私は確信したー権力があれば、もっと多くの人を救える、と。
それはある意味正しい考えだが、ある意味間違っていたのだろう。
なぜなら——
「ルーカス副司教、次の昇進には本部の支持が必要です。ですから、このたびの件は......」
上司が、書類を差し出す。
それは、無実の商人を異端として処刑する命令書だった。
「この者は......異端ではありません。ただ、商人ギルドと揉めただけで——」
「本部の意向です」
上司の目には、冷たい光があった。
「副司教ともあろう方が、まさか本部に逆らうおつもりですか?」
ルーカスは——無言で署名した。
その夜から、幼い頃から一日も欠かしたことのない女神へ、祈りを捧げることができなくなった。
五十代、大司教に就任。
豪華な執務室、金糸で刺繍された法衣。
権力。
地位。
全てを手に入れた。
だが——民は?
「これも、民を救うため」
ルーカスは、毎日そう口にした。
政敵を排除する時も。
無実の者を処刑する時も。
エリュシュア聖国本部の命令に従う時も。
「より多くの人を救うためには、権力を維持しなければならない」
自分に言い聞かせた。
だが——本当にそうだったのか?
いつから、民を守るための力が、民に牙を向くようになったのか。
いつから、女神への祈りが、権力への執着に変わったのか。
本当は、とうの昔に気づいていた。
自分が道を間違えたことに。
それでも——止まれなかった。
五十年の人生をかけて登ってきた階段を、今更降りることなどできなかった。
そして——今日。
レティシア・リオネール嬢の火刑執行日。
「大司教様、エリュシュア聖国からの使者が到着しました」
部下の報告に、ルーカスは頷いた。
本部からの命令は明確だった。
レティシア・リオネールを処刑せよ。塩の製法を教会が独占、人々の教会に対する感謝を万全のものとせよ。崇拝されるは教会だけで十分、と。
ルーカスは、レティシアの言葉を思い出す。
『民が幸せになることを女神様が望まぬとお考えなんですか?』
あの少女の瞳には——純粋な信仰があった。
民を想う、本物の優しさがあった。
まるで——昔の自分を見ているようだった。
だからこそ、危険なのだ。
あの少女が存在するだけで、ルーカスの欺瞞が暴かれてしまう。
本物の聖職者とは何か——それを体現している少女。
(私は......何のために......)
執務室の窓から、中央広場が見えた。
既に火刑台が準備されている。
民衆が集まり始めている。
私は、古びた聖典を手に取り、第二章「相互の誓約」を開く。
”一人は万人のために、万人は一人のために”
文字が、滲んで見えた。
「女神様......私は......」
祈りの言葉が、喉に詰まる。
私は、もう何年も、女神様に祈ることができていなかった。
正午。
中央広場。
私は貴賓席に座り、眼下の火刑台を見下ろす。
レティシア・リオネール嬢が、柱に鎖で縛られている。
エリュシュア聖国の大司教たちが、隣に座っている。
彼らの目には——冷酷な光があった。
民を救うためではない。
ただ、己と教会の権力と富を守るため。
もしかしたら、自分もまた同じ目をしているのかもしれない。
「ルーカス大司教、早く執行を」
中央の大司教が、苛立った声で刑の執行を促す。
私は答えが出ぬまま立ち上がり、宣告文を読み上げる。
だが——その声は何故か震えていた。
「レティシア・リオネール、汝は異端の技術を流布し、神の領域を侵し、聖遺物を盗んだ罪により——」
民衆から、激しいブーイングが起こる。
「やめろ!」
「レティシア様は聖女だ!」
目を閉じる。
(これで、いいのか......?)
心の奥底で、何かが叫んでいる。
だが——もう、引き返せない。
「——火刑に処する」
聖騎士が、松明を手に取る。
その時——
異変が起きた。
貴賓席に置かれていた「光の依代」が、突如として眩い光を放ち始めたのだ。
「な、何だ......!?」
中央の大司教たちが、慌てて立ち上がる。
光はどんどん強くなり、広場全体を包み込むような、圧倒的な輝きを放つ。
私は、何故かその光に目を奪われた。
温かい。優しい。
まるで——幼い頃、修道女マリエッタに抱きしめられた時のような感覚を覚える。
光の中から——何かが現れる。
人の形をした、何か。
いや——
人ではない。
もっと、崇高な存在。
金色の髪が、風に靡く。
蒼い瞳が、慈悲深く輝く。
その姿は、まるで光そのものを纏っているかのようだった。
「 」
見たこともない服装に、不思議なポーズ…
「キュピーン☆ よっ!久しぶりー♡」
その声が、広場全体に響き渡る。
私の思考が停止した。 私は今、何を見ているんだ......?
民衆も沈黙する。
聖騎士が剣を下ろす。
中央の大司教たちが青ざめている。
そして——私は直感した。
これは——————本物だ。
三百年間誰も見たことがない、聖典にしか記されていなかった女神。
その女神ルミナが——今、目の前にいる。
膝が震えた。
力が抜けて貴賓席の椅子に崩れ落ちる。
「め、女神様......」
声が掠れた。
女神ルミナが空中でくるりと回転する。
その動きは、あまりにも軽やかで——伝承に残る慈悲深さとはまた違う気もするが……
だが——
それでもその存在感は、紛れもなく本物だった。
圧倒的な、神性。全身に鳥肌が立つ。
(私は......何をしていたんだ......)
五十年の人生が、走馬灯のように蘇る。
孤児院で救われた日。
修道士になると誓った日。
村人にパンを配った日。
飢饉で無力を痛感した日。
権力を求め始めた日。
無実の者を処刑した日。
そして——今日。
本物の女神の前で、聖女を火刑にしようとした日。
「私は......何を......」
女神様が貴賓席を見る。
その蒼い瞳が、真っ直ぐ私たちを捉える。
先ほどまでの軽い調子とは明らかに違い、神々しく威厳に満ちた声。
「さて——」
その一言だけで、広場全体の空気が凍りついた。
「あたしの名を使って、随分と好き勝手やってくれたみたいだね」
心臓が跳ね上がった。
私は震える手で胸の聖印を握りしめた。
私は許されるはずがない。
数十年間も女神の名を騙り続けた罪。
民を救うと偽り、権力を貪った罪。
純粋な信仰を持つ少女を、殺そうとした罪。
だが、それと同時に私は安堵する。
これで―——これでようやく皆が救われる。




