第三十五話 親心子知らず(アーロン・ハートレイ視点)
修行六日目。最終日。
私──アーロン・ハートレイは、早朝の訓練場で息子たちを待ち構えている。冷たい空気が肌を刺す。夜明け前の静けさの中、隣には妻のマリアが立っている。
「昨夜も二人で何か話していたわね」
マリアが穏やかに口を開く。俺は腕を組んだまま頷いた。
「ああ、一昨日の夜からだな。そのせいか、昨日は二人とも目つきが変わっていた」
昨日の訓練が終わった後、小屋の中から漏れる二人の真剣な話し声が聞こえてきた。内容までは聞き取れなかったが、何かを掴みかけているのは明らかだった。
「だが、まだ甘い」
そう低く告げる。
「今日で合格できなければ、古代神殿への同行は認めない」
ふふふっ、とマリアが小さく笑う。
「大丈夫よ、私たちの子供でしょ」
穏やかに微笑む妻。その横顔を見て僅かに胸が温かくなる。
「久しぶりにクラウと修行が出来て嬉しいくせに」
「………………」
思わず頬が僅かに熱くなる。確かに息子と真剣に向き合えるこの時間は、父親として何より貴重だが、そんなこと口が裂けて脊髄が剝き出しになって内臓が飛び出てこようが言える訳がない。
そんな恥を晒すくらいなら、最愛の妻であるマリアの一族に伝わる拷問を三日三晩受け続ける方がマシだ。いや、さすがに言い過ぎたかもしれん。
と、そんなことを考えているうちに遠くから足音と話し声が近づいて来る。
クラウスとセバスチャンが、必死に意見を交わしながら訓練場に現れた。ボロボロの身体。衣服は泥と汗で汚れ、あちこちに打撲の痕がある。だが──二人の目に、諦めはない。
むしろ昨日までとは明らかに違う。
確固たる意志が宿っている。
(さあ、見せてみろ。息子よ)
心の中で呟き、構えを取る。
「始めるぞ」
短く告げる。
クラウスが頷き、俺と向き合った。いつもの距離。いつもの間合い。
だが──何も変化がない。
昨日、何かを探っているような気配を感じたが──何も変わっていない。構え方も、足の運びも、視線の配り方も。全て今までと同じだ。
(昨日探っているような雰囲気は気のせいだったのか?)
僅かに眉を寄せる。
(まだ独り立ちさせるには早いのか…)
少し残念に感じながら、私は拳を繰り出した。
上段からの一撃。速度は昨日と同じ。息子が対応できるギリギリのライン。
だが──
「む?」
クラウスが避けた。そう、避けたのだ。
いつもなら真正面から反撃してくるのに、今日は違う。横に流れるように避け、俺の動きを観察している。
(ふむ……だが、それだけでは足りない)
続いて容赦なく蹴りを放つ。中段への回し蹴り。クラウスが腕で受け流す──その動きに、明確な意図が見える。
受け流しながら、俺の重心移動を見ている。
次の攻撃を予測しようとしている。
(なるほど。正面からの力勝負を諦めたか)
内心で評価しながらも、表情は変えない。
三撃目を繰り出す。下段への足払い。クラウスが跳んで避ける。
ふと、昔のことを思い出す。
あれは──クラウスがまだ幼かった頃。当然、お嬢様も幼い、乳飲み子だったか。
組手とは言えないような、親子のじゃれ合い。その中で、幼きクラウスは必死に私の真似をしようとしていた。
拳の振り方も、足の運びも、短い手足で全て俺の動きを模倣しようとする。だが一向に上手くいかない。何度も何度も地面に転がり、それでも諦めずに立ち上がる。
そんな日々が続いたある日──
クラウスからの反撃がとうとう止まった。ようやく諦めたか…まだ仕方ない。ここで心を折らず、訓練を続けていける心の強さを身に付けて欲しい、そう思い頭に手を置いて慰めようとした、その瞬間。
「は!?」
私の天地がひっくり返った。
幼きクラウスに──投げ飛ばされたのだ。
地面に背中を叩きつけられ、空を見上げた俺の視界に、涙目で必死な顔をした息子の顔があった。
「父上! やりました!」
嬉しそうに笑う息子。
俺は──あまりの驚きに、しばらく言葉が出なかった。
息子は全く諦めていなかった。負け続ける中で、どうすれば反撃できるのか? 幼いながら必死に考え、真似をするだけでは無駄と悟り、俺の油断を誘ったのだ。…見事だった。
「執事長が息子に投げられたそうじゃないか」
「流石ですわ、アーロン様」
「クラウス君、才能あるわね」
それからしばらくの間、旦那様は勿論、最愛の妻、同僚たちに散々馬鹿にされたのは良い思い出である。
いかん、そんなことを思い出している場合ではない。幼きクラウスならまだしも、現在のクラウスに不覚を取る訳にはいかない。慌てて意識を戻す。
隣ではマリアとセバスチャンの組手も始まっている。マリアの明るい声が響く。
「あら、セバス君。避け方が上手になったわね♡」
そう楽しそうに言いながら、容赦ない攻撃を繰り出す妻。
私は息子の動きを改めて観察してみる。確かに、昨日までとは違う。
だが、悲しいかな所詮は付け焼き刃。
残念ながら息子と私の実力差は歴然だ。
私の攻撃を避け続けることはできても、反撃の隙を作ることはできない。
何度も何度も、クラウスは地面に叩きつけられる。
拳が腹に入る。足払いで転ばせる。組み付こうとするのを投げ飛ばす。
それでも立ち上がり向かってくるのは大したものである。ボロボロになりながらも、その目に宿る執念は消えない。
(まだ全く諦めていない。チャンスを伺っているのか?)
それでこそ我が息子、内心で評価する。
(面白い。こいつも一丁前の顔をするようになった)
表情を変えず拳を振るう。
クラウスが再び受け流す──その瞬間、クラウスのガードが下がり明らかな隙ができた。
大きすぎる隙。
まるで誘っているような、不自然な隙。
これは…罠? 狙いは私の二撃目のパンチに合わせる右のクロスカウンターだろうか。
(面白い、乗ってやろう)
あえて深く踏み込む。息子の狙いを読んだうえで、渾身の一撃を繰り出そうと──
その刹那。
足元から砂が舞い上がる。
「な!?」
突然視界が奪われる。マリアが初見殺しとして利用する、単純だが効果的な目潰しだ。ミスディレクションと併用することでさらに効果が増す。
「親父なら、あからさまな隙を見せれば敢えて乗ってくると思ったぜ?」
クラウスの声。生意気な…
そして──
クラウスの拳が私の頬に届く。
ほんの僅か。だがしかし、確かに届いた。
俺は目を見開く。
(汚い、情けない…卑怯な手段だ……)
口元が僅かに緩んだ。
(そうだ、それでいい)
勝つためなら手段を選ぶ必要はない。お嬢様を守るためなら、プライドなど不要なものだ。
ほぼ同時に、マリアの驚きの声が響く。
「きゃっ!?」
思わず溢れだそうになる殺気を何とか抑え込み振り向くと、マリアが僅かによろめいている。セバスチャンの拳がマリアの肩に触れていた。
セバスチャンも一撃入れたようだ。…我が天使に向かって…。
そして訓練場に静寂が訪れる。
クラウスとセバスチャンは、その場で膝をついている。全身から力が抜けている。
俺はゆっくりと息を吐いた。
「……情けない真似だが、約束は約束だ。不本意だがお前たちを認めてやろう」
重い声で告げる。
マリアが私の隣で息子たちに微笑む。
「よく頑張った息子よ。私はお前を誇りに思う、って言ってるわ」
俺の代わりに言葉を伝える妻。勝手に代弁しないでもらいたい。
「二人とも本当によく頑張ったわ」
クラウスとセバスチャンは、その場に完全に崩れ落ちた。全身から力が抜け、地面に倒れ込む。
俺はゆっくりと息子に近づき、見下ろす。
「息子よ」
低い声で呼びかける。
クラウスが顔を上げる。疲労と達成感が入り混じった表情。
「お前は成長した」
短く告げる。
「少しだけ……本当に僅かな、微々たるもので……はあるが」
背を向けながら続ける。
心の中では、息子の成長が嬉しくて仕方ないのだが、父の威厳を保つ為それは言えない。
「もしかしたら、ほんの少しだけ、お前は自慢の、、、、息子……かもしれない」
クラウスが目を見開く。こっちを見るな息子め。
「父上……」
何かを堪えるように震える息子の声。
仕方なく私は僅かに笑う。
「ふっ、さっきのように親父で良い」
短く告げ、完全に背を向ける。
「お嬢様を頼む。しっかり支えるように。私が旦那様を支えているように、お前はレティシア様をしっかり支えろ」
クラウスが力強く頷く音が聞こえる。
マリアが隣で微笑む。
「あなた、素直じゃないわね」
小さな声で囁く。
「……うるさい」
妻が小さく可愛らしく笑う。
「でも、嬉しいんでしょ?」
「……ふんっ」
まぁ、自慢の息子だ。誰にも自慢はしないが。
「クラウは立派になったわ」
「まだまだだ」
「そう言いながら、目尻が下がってるわよ」
「……………………」
妻が楽しそうに笑う。いくつになっても美しい。
俺は訓練場の端に立ち、空を見上げた。
夜が明け始め、東の空が僅かに明るくなってきた。
六日間の修行、完遂。




