第20話②
お父さんは、とても優しい人だった。
いつも髭を生やしていて、どこか能天気な人。
大きな手で頭を撫でてくれる人。
お母さんは、厳しい人だった。
娘の私にも敬語で、どこか冷たく見られがち。
けれど、その瞳からは愛情と優しさが伝わってきた。
そんな両親に囲まれて、私は幸せだった。
それが壊れたのは、私が5歳になった頃だ。
お父さんが、交通事故に巻き込まれて亡くなった。
私は三日三晩泣き続けて、それでも、子供ながらに前を向いて歩き出す勇気を出した。
けれど、お母さんは壊れてしまった。
優しさが伝わった母の瞳からは、憎悪しか感じなくなった。
父を失った悲しみを、自分を置いて先だった怒りを、全て私に向けてきた。
ある日、ついに暴力をふるわれた。
それを知った叔父さんが、私を母から引き離した。
その後も叔父さんは、私の世話をしながら、自分の姉である私の母の面倒も見ていた。
「あんな人放っておいたらいいんだ!」
私がそう言うと、私の頭を撫でながら叔父さんは言う。
「蓮にとっては酷い人でも、叔父さんにとっては、たった一人の姉さんなんだ」
そう言う時の叔父さんは、いつも寂しそうに笑っていた。
月日は流れ、私が母の事を気にしなくなり、小学生最後の年のゴールデンウィーク最終日、母が交通事故で亡くなった。
父と同じ結末だった。
葬儀を開いたけれど、集まったのは私と叔父さんだけだった。
私と離れた後も、母は病み続けて、叔父さん以外の全員と縁が切れていたそうだ。
母は、誰に囲まれるでもなく、静かに息を引き取ったそうだ。
母の亡骸を見ても、私の感情は動かなかった。
当然、涙も出なかった。
ふと叔父さんを見ると、叔父さんも涙を流していないことに、私は安堵した。
これは正常なんだと、思ったからだ。
そんな安心は、その日の夜に無くなった。
部屋の中で一人、泣き崩れる叔父さんを見たからだ。
叔父さんは、私の前では泣かないように、気丈に振舞っていただけだった。
その光景を見た時、自分が酷く冷たい人間のように思えた。
ガラスに写る自分の姿が、かつて自分を睨んだ母に似ていた。
母のようになりたくない。
あんな死に方はしたくない。
私は、生き方を変えた。
一人でもいいという暗い考えを捨てて、誰にでも好かれる人になろうと誓った。
この日から、私は王子という名の仮面を被った。
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「義兄さん、姉さん、今年も来たよ」
そう話しかけながら、蓮の叔父、早霧 仁はしゃがみこむ。
その姿を、少し離れたところから蓮は見ているだけだ。
「本当はお盆に来たいんだけど、仕事が忙しくて中々来れないんだ。許してくれよ」
仁の仕事は、メーカー会社の社長で、多忙な毎日を送っている。
そのため、蓮の両親の墓参りは、いつもゴールデンウィーク最終日の母の命日である。
「僕の事はいいよね、蓮、2人に顔を見せてあげな」
そう言われて、蓮は渋々お墓の前に行く。
優しかった2人の声も顔も、母の憎悪の籠った瞳で塗りつぶされ、もう思い出せない。
「ほら、蓮ももう高校2年生になったんだ。大きくなっただろ?」
まるで相手の声が聞こえてるかのように、仁はお墓に話しかけている。
そんな仁とは対照的に、蓮は黙って墓を見ている。
今でも、ここに来て感情が激しく動くことはない。
「そうだ、今年も花を持ってきたんだ。去年までは生花だったけど、今年は造花だから、長く綺麗に見られるよ」
そう言いながら、仁が取り出した花を見て、蓮は思わず呟く。
「……その花」
「ん?ああ、いつもの花屋さんが今日は閉めていてね。別の店で買ってきたんだ。そこの若い店員さんが好きな花らしくてね。姉さんも白が好きだったし、それで決めたんだよ」
その花は、真っ白で、可憐に咲いている。
まるで、蛍峰 茉白の瞳のように白い。
その花をどこで買ったのか、蓮は聞かなくても分かった。
「……一番好きな花なんだ」
分かっている事なのに、どこか寂しいと思ってしまう。
それがどうしてなのか、蓮には分からない。
「あ!そうだ!それと、こっちもだね」
何かを思い出したかのように、仁は造花の入っていた袋に手を入れ、取り出す。
仁の手には、もう一輪の花があった。
「……それは?」
「こっちはね、その若い店員さんがおまけしてくれたんだよ。自分が最近よく手に取る花だって、確か名前は……胡蝶蘭、だったかな」
その青い胡蝶蘭は、チャノキのような可憐に咲いていると言うより、凛々しく、美しく咲いている。
「これをくれた時その子が言ってたんだけど、」
『少し前に、仲良くなった友人に似てるんです。カッコイイけど、カッコよさの中に、見蕩れる美しさある。その友達も、普段はカッコイイのに、時より見せる美しさに見蕩れてしまうっていうか。とにかく、すげー綺麗なんですよ』
「ってね。あの感じ、彼の好きな子の話なのかもね〜」
「……ごめん、叔父さん!ちょっと用事出来た!」
「え!?ちょ、蓮!」
仁の話を聞いて、気づけば蓮は走り出していた。
何故だか分からないけれど、蓮は今、千紘に会いたいと思った。
蓮の中にあった寂しさは、いつの間にか消えている。
青い胡蝶蘭、花言葉は、『愛』と『尊敬』
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いつもなら、お墓の前で頭を空っぽにして、手を合わせてる時間、私は商店街を走っていた。
どの家も人が居ないのか、静かな商店街が、私の荒い息遣いを響かせる。
本来、車で移動する距離を走ってきた。
服は汗でベトベトで、足も痛くなってきた。
そして、目的の場所に辿り着く。
その男は、店の前で箒に顎をつきながら、いつもの呑気な顔で空を眺めていた。
その姿を見て、私はクスリと笑った。
「なーにサボってんの?」
「別にサボってたわけじゃ、って、どうしたその汗!」
話しかけると、千紘君は私が居ることに驚かず、私のびっしょりとかいた汗に驚いていた。
「あー……ちょっと走ってて」
「走ってて、っていう格好でもないけどな」
そんなに何気ないやり取りすら、楽しいと、幸せだと感じる。
(そっか、そうなんんだ)
私は気づく。
自分の中の、その感情に
「細かい事はいいじゃん!それより、何か飲み物くれない?」
「図々しい奴だな……麦茶しかねえぞ」
そう言って、千紘君が背中を見せたところで、私は彼に抱きついた。
「……え?……え!?」
彼は一瞬固まり、顔を真っ赤にして、驚きの声を上げる。
「……ごめんね。汗だくなのに」
「いや、それはいいけど……それとは別で良くねえ!離れろって!?」
「……ごめん、もうちょっと」
「いや、そういう訳には─!」
「お願い」
「うっ!……ちょっとだけだぞ」
「うん。ありがとう」
千紘君は観念して、私を振りほどくのをやめ、力を抜く。
抱きついた彼の背中は、隣から見るよりも大きく感じて、彼の心のように暖かい。
「……嬉しかったよ。あの花と並べてくれて」
私の小さな声は、千紘君の耳に届かない。
今はそれでいい。
いつか、あの白いチャノキの花よりも、あの青い胡蝶蘭を好きだ、と言ってくれるようになるその日までは。
(ううん、少し違うな)
いつか、言わせてみせる。
あの白く可憐な花よりも、青く凛々しいこの花が、愛おしい、と。