三
耳をつんざく音にドキドキしながら目を開いた由良は、横になっている自分の上に、気を失っている男が乗っかっているのを知った。
由良はなんとか半身を起こすと、巽の身体を横に退かす。その動きに意識を取り戻した巽は、緩慢な動作で身を起こす。
「ここはどこだ?」
首の後ろを押さえてぐるりと回す巽は、ついでに周りを見回しながら呟いた。雷に打たれた事など、微塵もこたえていない様子だ。
その場所といえば、由良の実家の参道に雰囲気が似ている。しかし、さっきまでとは違うことはわかった。雷が落ちたはずなのに、空は雲一無い晴天で、周囲に茂っている植物は、詳しい名前までは知らないが、全く別の種類の草木ばかりだ。
立ち上がりスカートの汚れを払った由良は、参道の奥、鳥居を越したさらに奥を指差した。
「あそこに神社らしき建物があります。誰か来る!」
神社の本殿から、中年の男女が五人ほど、二人に向かってやって来るのが見えた。全員巫女らしき色違いの袴姿で、能面のような無表情だった。その面差しは、皆どこか似通っていて、血脈の繋がりを感じさせる。
いつの間にか、和装の五人に囲まれた巽は、それぞれを睨み付けた。一緒に囲まれた由良は、たじたじとしている。
「ようこそいらっしゃいました。麒麟の神子様ですね。私がこの神社の宮司です。どうぞこちらへ」
五人の内の一人の男性が、もと来た道を指し示す。
「あ、あの!ここはどこですか?どうして、私が神子だって知っているのです?」
「ここは、朱雀神社の敷地。天孫降臨の地、高千穂峡の近くにある神社です。麒麟の神子様が今日ここにいらっしゃるのを、我らがご神体様はご存知でした」
「ご神体様?」
由良は、オウム返しをする。
「ちょっと待て。高千穂峡って、確か九州の宮崎にあったよな?」
巽が、素っ頓狂な声を出す。
「え、九州?そんな遠くまで?」
五人は何も言わず、静々と神社の本殿へ向かう。
「あの…」
「ご神体様がお待ちです。詳しくはかのお方様にお尋ね下さい」
由良の言葉を遮り、有無を言わせず建物の方へ導く。
由良は、心許ない気持ちで巽を見遣ると、彼も由良を見ていたのか、目があった。そして、頷く。
「とりあえず付いて行ってみよう。話はそれからだ」
「…はあ」
出掛かった文句を飲み込み、ため息ともつかない生返事をして、由良は五人の男女に従った。
拝殿の手前の石畳に着いた所で、本殿の奥から、袴姿の美人が現れた。髪はショートカットで、化粧っ気のない顔の割に、唇がやけに赤く艶めかしい。巫女姿なのかと思いきや、さらに黒い胸当てを身につけていることから、弓道袴なのだと気が付いた。
「ようこそ、麒麟の神子様。思いがけない登場の仕方で、我々一同驚いております」
「!お前、男か」
巽が驚き返す。見目はたおやかな女子に見えるが、声はきちんと変声期を迎えた男子のものだった。
「驚くのは、そこですか」
なんとも俗っぽいと文句ありげに巽を一瞥すると、ご神体と呼ばれた男子は、名乗りを上げた。
「僕の名前は、南条千隼と申します。現代の朱雀の神子をしており、歳は十七ですが、代々受け継いできた記憶が、僕の中で眠っております。年寄り臭いことを言ってしまったらごめんなさい」
千隼は、人をくったようなクスクス笑いを漏らす。
「朱雀…神子」
由良が、事態を飲み込めずに、呟く。
「君たちの名前が知りたいのですが、教えていただけますか?」
千隼の優しげな声に促されて、由良はハッと我にかえる。
「ご、ごめんなさい!私は中野由良です。同じ十七歳です」
「俺は、碓氷巽だ。お前が朱雀の神子である証拠を知りたい」
物怖じせず、きっぱりとした態度で、巽は言った。
「わかりました」
千隼は本殿の階段を降り、二人のそばに近寄って来ると、長めの前髪を掻き上げた。
千隼の額には、赤く丸い宝石のようなものが、埋め込まれていた。
「…え、これは、生まれた時からあったものですか?」
由良が、恐る恐る額の石を覗き込む。
「そうですよ。これは、朱雀の力を封印する、麒麟の力の一部です。神子様は、これを取り戻しにいらっしゃったのでしょう?」
さも当然のようにいわれて、由良は焦る。
「あ、あの、わかりません。そういうこと、一切。今日の午後から、お祖父様と一緒に祈祷の旅に出るとだけ、聞かされていて…」
「そうですか。なら、お教え致しましょう。あなたは、四神の神子から、勾玉を取り出せる、ただお一人の巫女なのですよ」
そう言われても、由良にはさっぱり意味がわからなかった。
「腑に落ちないご様子。では、僕の額の勾玉に触れてみてください」
千隼が片膝を付き、屈んで由良に額を差し出した。
「お待ち下さい!禊はおろか儀式さえ飛ばしてそのようなことを!」
そばに控えていた、五人の内の一人が、一歩前に出て、進言する。
「儀式なんていいよ。由良殿が神子である証拠は、これが一番手っ取り早いから」
千隼は軽い調子で言って、由良の右手を半ば強引に、額の石に触れさせた。
すると、千隼の額の石は、いとも簡単に由良の手の平に転がり込んで来た。石は、鮮やかな赤い勾玉であった。
「綺麗な石…」
由良が手の平の勾玉に見入っていると、突然、千隼がその場に蹲った。
「う、うう…う…」
「え!大丈夫ですか?」
由良は慌てて勾玉を握りしめ、千隼に左手を伸ばした。
「力が…!」
千隼が苦しげに呻く。
「危ない!」
巽が由良を抱えて、飛び退く。同時に、千隼を中心にして激しい火柱が立ち上り、周囲があっという間に熱気に包まれた。
「もっと下がった方がいい!」
巽に言われた由良は、膝がガクガクと震えて、巽に縋り付いたまま動けそうにない。それに気付いた巽は、すかさず由良を姫抱きにして、その場から数メートル離れた。
「なぜ…?」
「あ?」
「なぜ私を助けるの?」
由良は、心から疑問に思い、そんな場合ではないのに、つい口をついて出でしまった。危害を加えようとした巽が、助けてくれるとは思いもよらなかったのだ。
「俺の嫁を助けて何が悪い。お前には、必ず俺の子を産んでもらうからな!」
巽は、さも当然の様に言ってのけた。
「嫁?!」
由良は、驚き目を見開く。そして、火柱の炎が静まった時、そこに現れたものの姿に、二度驚く。
「鳥?!」
千隼がいたところには、倍くらいの体長の、翼を閉じた赤い孔雀のような鳥が一羽、たたずんでいた。一声、雉の様に高く鳴くと、大きな翼を広げて、羽ばたいた。
「朱雀様!」
「おお!これが本当のお姿か!なんと神々しい」
「なんですと?私には見えない!」
「ご神体様は何処へ?」
「くっ!わたしにもさっぱり…」
五人の禰宜達は、それぞれまちまちな反応を見せた。朱雀姿の千隼が見える者と見えない者とに、はっきりと分かれている。
「朱雀本体の登場か」
巽が、由良を下ろして背後に庇い、身構えている。ということは、巽も朱雀が見えているということだ。これは、夢などではなく、現実である事を由良は実感した。
しかし、朱雀は対峙していた由良と巽には目もくれず、一気に飛び上がると、上空を旋回し始めた。
そして、朱雀は炎を吐き出した。自分を奉ってくれているはずの、神社の本殿に向かって。
朱雀は、朱雀神社に向かって、攻撃を始めたのだ。
五人の禰宜達は、本殿が炎に包まれつつあるにもかかわらず、落ち着いた様子で成行きを見守っている。ある者は、挨拶の祝詞をあげ始める始末だ。
「皆さん水を!早く消火しないと!!」
由良が呼びかけても、誰もその言葉に反応しない。見る間に、本殿についた火が燃え広がろうとしている。
「千隼さん!聞こえているなら、もう攻撃はやめてください!ここは、あなたのお家でしょう」
由良は、果敢にも空を飛ぶ朱雀に呼びかけた。しかし、朱雀は興奮しているようで、全く見向きもしない。上昇と下降を繰り返しては、炎を吐き続けている。
「どうして…」
「あいつ、多分、力が溢れ出て、自分でも制御できないのかも知れない」
巽が由良の肩に手をかける。もっと下がれと言いたいらしい。
由良は、祝詞を上げる宮司の姿を見て、ふとあることに気付いた。
「待って!確か、千隼さんをご神体様と呼んでいる方がいらっしゃいましたよね?」
「ああ、それがどうした」
巽が頷く。
由良は、返事もせずに、炎の上がる本殿へと駆け出した。
「馬鹿!死ぬつもりか」
止めようとする巽の腕をすり抜け、本殿の階段を上り扉を開け、祭壇を物色する。
「あった!」
由良は叫び、正面に鎮座していた一抱えの鏡を手に再び庭に出た。そこで、鏡を思い切りよく、石畳に叩き付ける。
パリンと軽い音を立てて、鏡はあっけなく割れた。するとそこから、黒い影が塊となって具現化する。それは、朱雀に向かって咆哮を上げた。
「熊?」
一見、熊に見える影は、この地域周辺の災いを鏡に封じた姿なのだが、それを知るものは朱雀である千隼以外この場にはいなかった。
熊の爪の届かないギリギリのところに迫って、朱雀は炎を吹きかける。熊も応戦して、後ろ足二本立ちになって朱雀の尾を掠める一撃を放っている。
「頑張って、千隼さん!」
由良が叫ぶ。戦闘はそう長くは続かず、最終的に熊が火だるまになって消え去った。勝利した朱雀は、羽ばたき一つで、本殿の炎を全て消し去ってしまった。
そして、由良の側に降り立つと、その姿を人間へと戻した。
千隼は、全裸を晒しながらも、堂々と出で立つ。一つ変わったのは、髪が膝の辺りまで伸びていることだった。
「ありがとう、由良。君の咄嗟の判断と呼びかけで、僕は落ち着くことができた」
千隼が由良に声をかける。その時、禰宜の一人が慌てて着物を持ってきた。千隼はそれを受け取り、悠然と身に付ける。
「髪が邪魔だな。切っても、次にまた力を使えば伸びるだろうし…」
千隼が独り言のように呟いて、髪を掻き上げた。
「あ、私、ヘアゴムを常に手首に着けているんです。それで髪、結いましょうか?」
正確には、静電気除去リングなのだか、気休め程度にしか効いたことが無い。
由良の申し出に、千隼が心を許したような笑顔で頷く。
「ありがとう、頼むよ」
由良と巽は、神社の側に建つ屋敷の方へと案内された。立派な家屋で、玄関の広さから、集団で生活していることがうかがえた。千隼が、禰宜の一人に何事かを指示しつつ、奥の和室に二人を連れて行った。
千隼は、鏡台の上に置かれていたブラシを、由良に手渡した。そして、千隼は由良に背を向けて、鏡台の前の椅子に腰かける。
ブラシを手にした由良は、禰宜達の視線がなくなり、なんとなく落ち着いた。逆に巽は、居心地が悪そうに、二人のそばに控えている。
「僕のこと、気持ち悪くない?」
唐突に、千隼が口を開いた。由良は、千隼の長い髪に、恐れ気なくブラシをかけ始める。
「気持ち悪いなんて、そんなこと考えもしませんでした。むしろ、ほっとしたというか」
「ほっとした?なぜ」
「こんな遠くまで瞬間移動したのは、もしかしたら自分のせいかも知れなくて。それを思ったら、特別な力を持った人は、私だけじゃないのかなって…上手く言えなくてごめんなさい」
由良は、髪を三つの房に分け器用に編み込んでいく。編めなくなった先の方をヘアゴムで括った。千隼は立ち上がり、纏まった髪をサイドから前に持ってきて見て、一つ頷く。
「これですっきりしたよ。由良は器用だね」
「千隼さんの髪しなやかで、纏めやすかったですよ」
二人はらにっこりと笑い合った。
千隼が、今度は巽に向き合った。
「さて。これで、僕のことは分かっただろう。今度は君の番だ。君は、何の神子なんだい?」
その質問に、由良はハッとする。その考えには、及んでいなかった。
「俺は、神子じゃない。ただの人間だ」
「じゃあ、なぜ彼女と一緒にここまで飛んで来られた?君はどうしてそんなに神子の事情に詳しいんだ」
「それは…」
巽は、珍しく口籠る。すかさず由良が口添えした。
「この人、私を襲った強姦魔です!」
「何だって!?」
千隼は驚きの声を上げる。
「私を襲って子供を産ませる、みたいな事を言いました」
「それは本当なのか?」
千隼が巽を睨み付けた。巽は、ふいと横を向いて視線を外した。
「神子は子供をもうけることに慎重にならざるを得ない。何故なら、血の呪いがあるからだ。子が生まれると、命を落とすという呪いが。君はそれを知っているのか?」
「知っている」
巽は頷いた。二人の睨み合いはしばらく続いたが、千隼がぱっと由良を見る。
「もういい!由良、こんな危険な奴は、ここに置いて行こう。僕が飛翔の術を伝授するから、一度君の家へ戻ろう」
「え?飛翔?」
「大丈夫、簡単だから。まず、自宅の部屋を思い浮かべてから、僕の真似をして」
由良は、千隼の言われた通り、部屋を思いながらポーズを真似する。
すると、和室から、二人の姿が忽然と消えた。焦ったのは、巽だった。
「…え、嘘だろ?置いていかれた?」
巽の問いに、応えるものはない。
「馬鹿野郎!」
巽の声が、広い和室に空しく響いた。