異動命令
それから更に十日ほど経ったある日、レンリは机の上に放りだした一枚の紙をじっと見つめていた。ミロクは朝からレイのところへ出掛けたので、彼女に「どうしたのか」と問う者はいない。
しばらくそのままでいると、慌ただしい足音が聞こえた。何事かとレンリが耳を澄ませると、部屋の戸を何度も強く叩かれる。レンリがそっと戸を押し開くと、涙目になったヒヨクが立っていた。今にも大声で泣き出しそうに見えたため、素早く部屋へと入れてやる。
「どどど、どうしよう、どうしよう。急に異動命令が出たんだけど。ぼく、何かやっちゃったのかな? どうしよう、レンリー」
人の白衣の裾を掴んで涙を零すヒヨクは、とても研究室の責任者を任されていた人物とは思えない。レンリはため息を吐きながら、机の上に放りだしてあった紙をヒヨクに見せた。
「安心しろ、とは言い難いが。私のところにも来た」
「え?」
瞬きをするヒヨクの目尻から、大粒の涙が零れる。
「他にも数名、異動命令が通知されている者がいる。それも、ミロクとレイに関わりのある者ばかりだ」
驚きが勝ったのか、ヒヨクの涙が止まった。
「そ、それって。わざとってこと?」
「だろうな。我々を二人から離すのが目的だろう」
「そそそ、そんなのダメだよっ。離れたら何されるか分からないじゃないかっ」
レンリは顔をしかめながら、手で両耳を塞いだ。常にどもるようにして喋るヒヨクだが、感情が高ぶると急に大声を出すことがある。
「そこは私も皆も承知している。だからと言って、違反するわけにもいかないだろう。相手は軍の上層部だ。処分されてしまえば、それこそ終わりだ」
「し、死ぬのは、やだ……けど。レイは、ぼくのなのに」
項垂れたヒヨクの手は、目に見て分かるほど震えている。レンリとしても、ミロクを残していくのは不安だが、命令書には『置いていけ』と書かれている。それも世界が決めたことと考えれば、従うより他に選択肢が無い。
「とりあえず、シエンには連絡を入れておこう。あいつも今は外遊で留守にしているから、どこまで助力してもらえるか分からんがな」
「そう、だね」
ヒヨクはまだ不安そうではあったが、出発日の当日にはちゃんと姿を現した。レンリはミロクに極力おとなしくしているよう伝えたが、中身が子供ということもあり、守るかどうかは分からない。
研究者十数人と不安を乗せた船は、スルガ港から出港し、南へ南へと進んでいるようだった。日常を部屋の中で過ごす者が多いせいか、船酔いを起こして船室で寝る者が半数以上出た。異動という名目だからか、一人一人に船室が用意されている。戦争のおかげで休業を余儀なくされた長距離運行用のフェリーを活用しているらしい。
ほとんどの人間が船室に籠り、話し相手がおらず暇を持て余したレンリは、一人船内を歩いていた。このまま食堂にでも行くか、甲板に上ってみるか。そう考えたところで、甲板から下りてくる人物と出くわした。実際に見たことは無いが、画面では見たことがある顔だ。
レンリは眉をひそめた。
「なぜ、戦神がここにいる?」
「その質問には、二つ答える必要があるなあ」
くせ毛をふわふわと風に遊ばせている優男は、右手の指を一本立てた。
「一つ。僕は、戦神のコピー元。正真正銘の人間です。ヒガン、といいます。お見知りおきを」
優男は「二つ」と言いながら、立てる指を一本増やす。
「シージャックをしに来ました」
「シージャックだと?」
レンリの眉間に皺が寄るが、ヒガンは柔らかい笑みをたたえたまま「そう」と肯定する。
「この船には、パーパの優秀な研究者。それも遺伝子学に明るい研究者が複数人、乗船しているようだね」
「あいにく私は薬学専門だがな」
「それも僕達には必要な要素だ」
ちっちっ、と立てた指を横に振るヒガンに対して、レンリの眉が片方だけ吊り上がる。それでもヒガンは、笑顔を崩さなかった。
「君達には、僕達の計画に是非とも参加してほしいんだ。別に犯罪を犯そうとか、国を滅ぼそうとか、悪意を持った計画ではないよ」
「こうなってしまった以上、参加された方があなたにもヒヨク博士にも良いと思います」
背後から声が聞こえ、レンリは振り返った。見知った顔に、目を見開く。初めてミロクがレイに会いに行った時、白い扉を開けた男だ。
「おまえは、ヒヨクのところに所属する者だな」
「はい。第二班の班長を務めさせていただいております、アハンカーラと申します。この計画に参加している者は、私以外にも数人いますよ。下手に暴れない方が、懸命な判断かと思いますが」
アハンカーラの後ろに、筋骨隆々の男が現れる。その顔を見て、レンリは更に目を丸くした。見知ったどころか、会話を交わしたことのある人物だった。時に最前線に立ち、時にシエンの護衛も務める男だ。
「シャオウ。おまえまで加担しているのか。このこと、シエンは知っているのか?」
「いや。この計画は、どこの国からも秘密裏に行われている。戦争やら権力闘争やらに飽き飽きした研究者達の集まりだ」
「戦争屋がよく言う」
レンリの呆れたといった物言いに、シャオウは「ははっ」と短く笑った。
「計画については、島に着いてから詳細をお話します。レンリ嬢。お手をどうぞ」
ヒガンが、レンリの前に右手を差し出す。レンリは、じっと差し出された手を見つめた。柔和な顔に反して、細かくささくれができた荒れた手だ。一分経っても引っ込めようとしないので、仕方なく手を男の手に重ねた。
男の手は、甲板へと導いていく。船の外は、風が強い。下ろしたままだったレンリの横髪が、一気に風にさらわれる。
「あの島か?」
視線の先に、緑豊かな島が浮かんでいる。
「ええ。『ナカツクニ』と祖父が名付けました。祖父は、そちらにいるミロクと同じように、この世界に突如現れたものです」
「なんだと?」
レンリは、ヒガンを見上げた。ヒガンも、レンリを見下ろしている。やはり、その顔は笑っていた。
「祖父は自分のことを『何者でもない存在の欠片』だと言っていました。無意識のうちに、世界に欠片が入り込んでしまうことがあると」
「無意識のうちに?」
レンリは意識的に入り込んだ存在だ。ミロクやヒガンの祖父は、同じ存在でありながらも非なるもの、ということになる。
「ええ。知識量の差は、個体によるようですが。これまで、何を言っているのか分かりませんでした。しかし、世界が紫色に染め上がり、シャオウ達にミロクというものの存在を聞いた時に理解しました。祖父の言っていたことは本当であり、こういった事例は度々起こると。大昔に信じられていた神々も、同様のことがあったのかもしれません」
「なるほどな」
天から降りてくる。産道ではないところから産まれてくる。そういった逸話は限りなくある。箔をつけるために背びれ尾びれを付けているのだろうが、レンリやミロクといった存在がいる以上、同じような事例が太古からあった可能性は十二分にある。おそらく、この『世界という名の箱庭』に限ったことでもないのだろう。
思念体は、自身の欠片が箱庭に落ちたことに気付いていない。更に、意識的に降りたレンリは極力世界に影響を与えないようにと考えるが、無意識のものは違うようだ。『世界という名の箱庭』が、それぞれに独自の道を歩いているのは、各々の特性というだけでなく、無意識のものの影響を受けているからかもしれない。
「大変参考になった。それで、その人は今どこに?」
「亡くなりました。それで、僕が計画を受け継いでいるんです」
「亡くなった、か」
無意識のものは、肉体が世界に残るらしい。精神は、世界の外へと帰っただろうか。人が輪廻と呼ぶものから、レンリ達は外れているのだから。




