出会い
ミロクは、薄い鉄板の隙間に指を入れた。そのまま持ち上げようとするが、軋む音がするだけで少しも動かない。舌打ちをして、指を放した。
「これ、どうやって開けりゃいいんだ?」
頭を乱暴に掻きながら、忌々しげに鉄板を見下ろす。若草色に塗装されているはずだが、砂にまみれて今や枯れ草色と言った方が正しいくらいだ。
「簡単に開けてるように見えたんだがな」
ミロクは腰をかがめると、隙間の中を覗き込んだ。暗くて、何も見えない。
今度は拳を作って軽く鉄板を叩いてみたが、やはり動かない。ただ、手が砂で汚れただけだ。
「何やってんだ、あんた?」
更に下から覗き込もうと身をかがめたところで、不意に声を掛けられた。鋭い声色だ。傍から見れば怪しまれても仕方がない、という自覚はある。
まず、背筋を伸ばした。それから、両手を肩の高さまで上げる。油が切れた機械のように、ゆっくりと声の主を振り返った。
「いや、ちょっと整備をと思って」
「嘘だろ」
鋭い目を向ける黒髪の少年は、ミロクの言葉を最後まで聞かずに切って捨てた。愛用のつなぎを着たミロクは格好だけ見れば整備士然としているが、動きが怪しすぎたのだろう。
「部品でも盗むつもりだったのか? だったら、容赦はしない」
少年はミロクを睨みつけたまま、腰を落として重心を下げる。体を前後に揺らし、いつでも飛び掛かれる体制を作った。
対して、ミロクも身構えた。少年の顔に、見覚えがある。ただし、本人とは限らないが。
双方共に無言のまま、睨みあうこと数秒。先に折れたのは、少年の方だった。
「睨んで悪かった。そんなに身構えないでくれ。泥棒じゃないんだな? だったら、あんたを害するつもりはない」
長く息を吐く少年に、ミロクは少しだけ体の力を抜いた。少年は、わずかに首を傾げる。
「で、いったい何をしてたんだ?」
「動かなくなったんだ」
問われた以上、答えなければ怪しまれてしまう。ミロクは息を吐くと、素直に話すことにした。
「壊れると、ここを開けて見るんだろ? だから、開けて見てみようと思ったんだが、分かんなかったんだよ。開け方が」
最後の方は、拗ねたような声色になった。
少年はと言えば、怪しむ様子から驚きへ、ついには呆れ顔へと表情を変化させた。
「開け方が分からないって。あんた、持ち主じゃないのか?」
「俺のじゃない。仕事用に借りてるだけだ」
「だったら尚更、大事に扱いなよ」
少年は大きく息を吐くと、ミロクに断りもなく運転席のドアを開けた。
「おい。何するんだ?」
「何って。開けるんだよ」
ハンドルの下を覗き込んだ少年は、「ああ、これだ」という言葉と共に何かを引っ張った。カコン、という軽い音がする。ミロクが苦戦していた鉄板が、少しだけ浮き上がった。
「嘘だろ。こんなに簡単に開くのか?」
「あんた、本当に知らなかったんだな。ついでだ。見てやるよ」
少年は運転席のドアを閉めると、車の前方へと回り込んだ。
「いや、いいよ。一応、見ておくかって思っただけで。人は呼びにやらせてるから」
焦って断るミロクに、少年は口を尖らせる。
「心配しなくても、これ以上壊しはしない。資格は持ってないけど」
少年は指を薄い鉄板にかけると、上へと押し上げた。エンジンルームを見下ろした途端に、眉間に皺が寄る。
「なんだ、これ? 中も砂だらけじゃないか。どれだけ整備してなかったんだよ」
「いやー。最近、忙しくてなー」
ミロクが目を泳がせたところで、「ミーロークー」と呼ぶ声がした。振り返ると、髪の長い少女が手を大きく振りながら近付いてくる。その後ろには、油で黒く汚れた作業着を来た壮年の男が付き従っている。彼の腰には、工具入れがぶら下がっていた。
「ダンさん、呼んできたよー」
「おう。ありがとな、レイ」
褪せた亜麻色の髪をかき混ぜるようにして撫でてやると、レイは満面の笑みを浮かべた。
対して、ダンの表情は渋い。
「動かなくなったって?」
「ああ」とミロクが短く答えると、ダンは少年を見た。少年は薄い鉄板を持ち上げたまま、ミロク達を見守っている。
「なんだ、君は? まあ、いい。ちょっと退いてくれ」
ダンが鉄板に手を掛けると、少年は素直に手を放して一歩下がった。ダンはエンジンルームを見ると、すぐに「なんだ、こりゃっ」と叫んだ。それから首だけを器用に捻って、虎のような目つきでミロクを睨む。
「だから、ちょくちょく整備に回せって言ってるだろっ」
「いやー。最近、忙しくてなー」
ミロクは、ダンから目を逸らした。
ダンはミロクの言動を無視して、鉄板に支え棒を引っ掻ける。車を揺すり、部品を軽く指で押し、細い棒を引き抜いてまじまじと見た。ため息と共に棒を元に戻し、支え棒を倒して鉄板を閉じる。
「油も足りてない。部品も緩みかけてる。今日は、もう乗るな」
「え? そいつは困るんだが」
「困るなら整備に回せっ。それに、誰も仕事に行くなとは言ってないっ」
慌てるミロクに、ダンは『見ろ』とばかりに来た道を指し示す。一台の黒い車が、ミロクが走った方がまだ速いのではと疑うような速度で近付いてくる。運転席に座る男の顔を見て、ミロクは目を丸くした。
「あれは、ルタか?」
ルタは目を見開き、口を真一文字に結んでいる。手はハンドルを硬く握り、緊張のためか両肩が上がってしまっている。どれも、常の彼には見られないものだ。
真っ直ぐな道だというのに、車は右へ左へふらふらと振られて危うい。それでも壊れた車の左側までたどり着くと、止まった。ブレーキを思いきり踏んだのだろう。ルタの体が前のめりになっている。
なぜかワイパーが三回動いた後、エンジンが止まった。「はあ、やれやれ」という言葉と共に、ルタが車から降りてくる。ミロクも背が低い方ではないが、ルタは更に頭一つ分高い。
「よお、ミロク」
へらりと笑うルタに、ミロクは顔をしかめた。
「おまえ、整備士の手伝いまでやってんのか?」
彼は、『リキッド制作責任者』という肩書を持つ科学者だ。おまけに、個人的にではあるが農業の研究もしていて、ミロクやその辺の連中以上に忙しく日々を送っている。
「いや、休憩がてら散歩してたら捕まったんだ。どこも人手不足だからね」
ルタが両手を上げて伸びをする。腰からボキッという音がした。
「しっかし、運転ってのは疲れるもんだね。ミロクは、よくやってるよ」
今度は頭を左右に動かす。すかさず、首からパキポキという音がした。
「慣れれば気晴らしにもなる。それにしても、すごい音だな。体が凝り固まってるんじゃないか?」
「そうかもね。ここのところ、部屋にいることが多くてね」
ルタは無精ひげを擦るが、彼のひげの無精は今に始まったことではない。黒く長い長髪はろくに手入れもされず、適当にまとめてあるだけ。白衣は皺が目立ち、清潔感などまるで無い。
もっとも、この島の科学者の半分はこのような状態だが。
「んー、君は? 見たことがあるような、ないような顔だけど」
首の後ろを揉みほぐしながら、ルタは少年を見る。ダンの工具をずっと見ていた少年は、顔を上げると途方に暮れたような表情を浮かべた。
「あの、俺は」
「やれやれ、ようやく見つけた。あちこち探したぞ」
不意に聞こえた女性の声に、その場に居合わせた全員が振り返る。「あちこち探した」と言った割に、声の主は息も上がっていなければ疲れた様子もない。まとった白衣も汚れておらず、気になるほどの皺もなかった。
「レンリ……てことは、こいつ、再利用者か?」
「いかにも」
ミロクの問いに、レンリがうなずく。彼女の首の動きにあわせて、腰まである一本の三つ編みが揺れた。
「昨晩、目が覚めたばかりだ。今朝、検診をすると通知がいっていたはずだが、抜け出しおって。おかげで我々の部署は、みな大騒ぎだ」
「調子なら悪くない」
「ああ、そうだろうな。ここまで歩いてこられたくらいだ」
憮然とする少年に、レンリは肩をすくめた。
「だが、おまえに必要なことは検診だけではない。住む場所も、役割も決めなければならないからな。分かったら、さっさと帰るぞ」
「レンリ。そのことなんだがな」
ルタが無精ひげを撫でながら口を開く。
「整備局に回してやってくれないか」
「整備局? なぜだ?」
小首を傾げるレンリに、ルタはダンが腰から提げる工具を指し示した。
「さっきから、ずっとこいつを見てる。興味があるんだろう?」
ルタの細い目が、少年を見る。図星を差された少年は、目を丸くした。「なるほど」と、レンリがうなずく。
「私に役割を決める権限は無いが、一応推薦はしておこう」
「そうしてもらえると、俺も助かる。よろしく頼むよ」
破顔するダンに、レンリの口角が上がった。
「期待はしないでくれ。なるべく良い話にもっていくよう努めてみるが、上も思惑があるはずだからな。さて、セハル。そろそろ行くぞ。ヒヨクが拗ねると、なかなかに面倒だからな」
「分かった」
セハルと呼ばれた少年は、先ほど憮然としていたのが嘘のように、素直にレンリの後を付いていく。彼の後ろ姿を、ミロクは眉を寄せて見つめた。その横で、レイは「またねー」と無邪気に両手を振っている。
セハルの姿が見えなくなっても、ミロクは視線をずらさない。そんな彼の肩に、ルタが手を置いた。
「とりあえず、レンリに任せよう。それより、仕事は良いのか?」
「良くねえっ」
ミロクは弾かれたようにダンを見た。ダンは、黒い車のトランクを開けている。
「今日のところは、こいつを貸してやる。さっさと荷物を移し替えて、仕事に行ってこい」
「分かった」
壊れた車のトランクを開けると、木箱を持ち上げた。詰め込まれた小瓶が触れ合い、カチャカチャと小さく音を立てている。中身はルタ達が制作したリキッドが入っていて、レイでは持ち上げられないほどの重さがある。
それでも、ルタの手伝いもあり、さほど時間をかけることなく荷物の移し替えは完了した。ミロクが礼を言うと、ルタは「気にするな」と笑った。
「おやっさん。車、よろしく頼む」
「おうおう。さっさと行ってこい」
ダンは追い払うように、手の甲をミロクに向けて振った。その横で、「気を付けてな」とルタが小さく手を振る。
ミロクは運転席に座ると、エンジンをかけた。助手席に座ったレイは窓を開けると、出した顔を見送る二人へと向ける。
「いってきまーす」
元気の良いレイの言葉と共に、車が動き始めた。